只人であれば幸福だったか

継津 互

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 支配する者は同時に、被支配者によって支配される。健全な支配関係とはそういうものであると、誰かは言った。猟犬の例で言うならば、飼い主は猟犬がその牙の鋭さを損なわないよう、それのことを気にかけ、世話をしてやらねばならない。支配者の負うべき「責任」——被支配者による支配。

「……なにをしている」

 瞼がすっと開く。

「貴方がどこまで人間なのか考えていた」

 狩人は手をはなさないままで言う。

他人ひとはあまりそうやって触るものじゃないぞ」

 狩人は手をはなす。

「あなたは時々距離がおかしい」
「すまない」

 蝙蝠が翼を打つ音が聞こえる。廊下から聞こえるそれは、気配を消しながら往く使用人らの足音のようだ。古き時代を本の中からそのまま移植してきかのように、室内は全き静寂に満ちている。

「そういう趣味でもあるのか」

 そういう趣味、の指すところはあの聖霊の言うと同じだ。

「いや、ない」

 しかし、本当にないと言い切れるものだろうか?これまで好いたのがたまたま異性だったというだけで、自分が同性には惹かれないとどうすれば言い切れる?

 狩人はその返答に、迷いながらも「おそらく」と加える。
 僭主は笑う。それは嘲笑に似る。

「わたしが女の姿をしていたなら、あなたは抱いていたか?」
「なぜ」
「今のあなたは、完全に寝込みを襲いに来たように見える」

 言われて狩人は自身の行動を振り返る。確かに、僭主の言う通りだった。では、もし女であったらという仮定については?答えは否だった。彼に触れたいと思ったのは、人が彫像に触れたいと思うが如く、人が花に触れたいと思うが如く、美しいものを己が触覚で確かめたいと思ったからだ。彼が女であったとしても、それは変わらないだろう。狩人はそれをそのまま伝える。

 残酷な認識だった。長くそれらを獲物としてきた狩人は、無意識のうちに吸血鬼を人でなく物の方へと分別しているのだ。

「ではもしわたしが人間であったら?」

 それを察して僭主は言う。狩人は考える。もしここに寝ているものが人間であったなら。

「そもそも部屋に入らないだろう」
 
 それもそうだ。狩人は僭主へ宿代を払いに来たのだから。

「そうか」 

 僭主は長息する。

「それで、あなたの考えではわたしはどこまで人間だった」

 僭主はゆっくりと半身を起こした。その顔にかかる髪を緩慢な動作で払う。

「さあ。貴方のするその呼吸が、必要でやっていることなのか、模倣なのかもわからなかった。構造にしたってそうだ、開いて見なくてはわからない」
「知るためならば、あなたはわたしの腹を割く気か」
「まさか。そんな事をしたら貴方は死んでしまうだろう」
 
 先刻聞いたばかりの飼い慣らすか殺すかという言葉が、僭主の中で引っかかっていた。僭主にとってそれは飼い慣らされるか死ぬかという酷い二択だ。
 言いさえしなければ、絆されてやることもできたかもしれないのに。聞いてしまったあとでは狩人の一挙手一投足、すべてが打算のもとにあるように見えてしまう。

 狩人は支払いのため身を寄せる。刹那、僭主はその肩をつかみ、シーツの上へと引き倒す。

「なんの真似だ」

 狩人の声には警戒がにじむ。しかしそれだけだ。抵抗もろくにしない。喉笛をさらしたまま、大人しく押さえつけられている。

 それは信頼か?僭主への?それとも自分への?

「殺されるとは思わないのか」

 僭主は質問する。狩人は表情を変えずに言う。

「殺すつもりならとっくにやっていただろう」

 次の瞬間反転する。何が、位置がだ。いつの間に上下が入れ替わっている。混乱する僭主、彼は天蓋を仰いでいる。

「は……」
「殺されるとは思わなかったのか」

 反応ができなかっただけだ。

「あなたがこういう戯れをする人だとは思わなかった」

 戯れか、そう狩人は呟く。

 狩人は僭主の上を退く。花の香が離れる。

「おれはいま武器こそ持っていないが、貴方の首を折るくらいならできるだろう」
「……本気で殺しにかかっていたのか」
「いいや。だがおれを信用するべきではないと言いたかった」

 抵抗しなかったことについて言っているのだろう。 

「あなたは自分でそんなことを言うのか」
「おれだからこそ言うんだ」

 しばし沈黙が流れる。

「左腕でいいな」

 狩人のその言葉で、訪問の本来の目的がはじまった。


 比較的柔らかな腕の内側の皮膚に、牙が突き立てられる。薄膜をやぶるようにして開けられた穴からじわりと染み出すのは赤黒い生命の熱。僭主はそれを零さぬよう、傷口全体を覆うように食み、ゆっくりと丁寧に吸い上げる。

 僭主が血を吸う間、狩人は完全に手持ち無沙汰だった。昨日まではこの吸血鬼の食事の様子を眺めて過ごしていたのだが、あまり見ないで欲しいと言われてしまったものだから両目も瞑るか虚空を見るかだ。

 相変わらず廊下を往く蝙蝠らは忙しなかった。しかし、彼らは正しかったと言えよう。


「あれか」

 刑場の足音が近づいてきていた。銀のロザリオ。それは吸血鬼狩りとは違う教皇庁の昼の軍。


 狩人は心がざわつくのを感じていた。嵐の前触れを感じ取った時のような不快感だった。だが同時に、その先に晴れ間も見られるような、不思議な感覚だ。
 ざらざらと波立った心を落ち着けようとしてか、狩人はその指で僭主の髪を梳く。しかし当の本人は僭主に示されるまで自分のしていたことに気づかなかった。それは無意識での行動だった。


「あなたがなにを望んでこんなことをするのか、わたしには理解できない」

 血を吸いおわり、口元を拭いながら僭主は言う。

「宿代という説明では不十分か」
「それでは釣り合わないだろう」
「なら」

 がさりと布団が音を立てる。またも遅れて理解する。僭主は再び天蓋を仰いでいた。




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