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北の大地
北の大地
しおりを挟むその日妻が死んだ
そして同じ日 南波洋介 の心も死んだ…
夕方の砂浜の広がる海岸
周りに家もひと気もない
そこは北海道のとある寂しい海岸
洋介は車の中でうなされていた。
洋介はふと自分のベッドで目を覚ました。
隣のベッドに寝ているはずの妻の姿がない。
洋介は訳のわからない疲労感で重くなった上半身をゆっくりと起こし妻の名前を呼んだ。
美紗子
返事がない。
隣の部屋に入っても妻の姿がない。
リビングやキッチンにもいない。
洋介は急に得体の知れない不安感に襲われた。
美紗子!
トイレ、バス、クローゼットの中まで手当たり次第に開けた。
しかし静まり返った家の中に妻はいなかった。
玄関に行くと妻の靴は並べられたままだ。
洋介は外に出て妻の名前を呼んだ。
血の色を連想させるような真っ赤に染まる不気味な空がそこにはあった。
街は静まり返り何の音も聞こえてこない。
家の中に戻り洋介は妻を探し続けた。
美紗子!美紗子!
そして洋介はある場所で足を止めた…
簡易的に作られた机の上に置いてある妻の遺影…
洋介は遺影を見つめたまま茫然と立ち尽くした…
フッと洋介は目を開けた。
あの日を境に繰り返しみるようになった夢だ。
頰に涙の跡があるのに洋介は気がついた。
指で涙を拭った。
いつも同じだ…
俺はいつまで…
洋介は助手席のグローブボックスを開けようと手をかけようとした。
その時、不意に洋介の視界に白いワンピースを着た髪の長い女が砂浜から海に入っていくのが見えた。
砂浜には残された女の靴とバッグが見える。
まさか!
とっさに洋介は車から飛び出し女の後を追いかける。
おい!
女は洋介に全く気づく様子もなく沖の方へ歩き続ける。
服が濡れるのも構わず洋介は海の中に入って女を追いかけた。
必死に追うが女は更に沖に向かって歩いていく。
洋介はいくつもの波を掻き分けながら追いすがる。
ちょっとあんた!
もうすぐ足が地面につかなくなる。
正面からいくつも波に当たって女の先に進む速度が落ちたのが幸いした。
ようやく追いついた洋介は女の腕を取る。
戻れ!
洋介はその時きた波を被りしこたま海水を飲み込んでむせる。
腕を引っ張るが女も抵抗して中々岸に近づくことが出来ない。
戻れ!
近くで見ると若い女だった。
女は何かを叫びながら必死に抵抗した。
洋介の理解出来ない言葉の合間に
放して!
という日本語が聞き取れた。
死んじゃダメだ!
洋介は力一杯女の腕を引っ張った。
ようやく砂浜まで辿り着いた。女は何かを叫びながら泣き出していた。
洋介は息が上がるのを必死に落ち着かせて女の顔を見た。
頭から水を被っていたがとても整った美しい顔立ちだと感じた。
歳は二十代半ばに見えた。
二人とも全身ずぶ濡れになっていた。
夏とはいえ北海道の夕方の海の水は冷たい。
女は砂浜にへたり込んでまだ泣いていた。
ちょっとそこを動くなよ!
洋介は女から目を離さないように車の中からバスタオルとマッチを持ってきて周辺に打ち上げられていた流木を集めだした。
とりあえずバスタオルを女に差し出したが女は受け取ることもせず延々と泣き続けていた。
洋介は仕方なく女の肩にバスタオルをかけてあげた。
それから何とか流木に火が付くと焚き火とした。
周りはもう暗くなってきていたが炎に浮かび上がる女の顔は日本人にも見えたが何れにしても東洋人に間違えなさそうだった。
服が濡れたままじゃ風邪をひくよ…
洋介は女に話しかけたが、女に言葉が通じるかどうかは分かなかった。
洋介は何も問いかけようとはしなかった。
パチパチと燃える焚き火の音と波音だけが聞こえる唯一の音だった。
時折女の顔を見たがもう涙は流していなかった。
炎に紅く照らされた顔は美しさの中に深い悲しみを称え焚き火の一点だけを力のない瞳で見つめていた。
洋介も何も喋らず焚き火の炎を見つめていた。
どの位経っただろう、女が唐突に口を開いた。
どうして死なせてくれない?
膝を抱え女のこちらを見る目は先程までの力のない瞳ではなく眼光鋭く洋介に向けられた。
目的を遂げられず邪魔をされたという憎悪に満ちた感情が目の奥に宿っていた。
どうやら発音は少し違うが日本語が通じるようだ。
洋介は女と目を合わさず焚き火の炎を見ながら言った。
目の前で人が死んで、しかもそれを助けようとしなかったら俺は一生後悔して生きていかなきゃならない。
ちらっと女の顔をみたが納得した感じは無かった。
さらに洋介を睨みつけるように女は言った。
私が死んだってあなたには関係ないでしょう?
…
確かに俺には関係ないかもしれないけど、あんたが死んだら哀しむ人がいるだろう?
命を粗末にしちゃダメだ。
そんな人いないわ!
…
…
それは君がそう思っているだけなんじゃないのかい?
それに俺はもう目の前で人が死んでいくのは嫌なんだ…
今の言葉に疑問が湧いたのか幾分女の視線は和らいだ。
また波と焚き火の音だけに戻った。
誰か死んだの?
女は感情の無い声で聞いてきた。
…ああ
そう答えたとき洋介の頭の中にフラッシュバックが起こった。
病室で息を引き取る妻の顔。
放心状態のまま葬儀の喪主として人からお悔みの声をかけられる場面。
火葬場の火葬炉に入れられる妻の棺。
…
自然と涙が頬を伝っていた。
女は少し驚いた表情で洋介の顔を見つめた。
…大切なひとが亡くなるってことは残された人間にとって耐え切れないことなんだよ…
洋介は燃える炎を見つめながらボソっと独り言のように呟いた。
女は自分のことで何か思い当たったことがあったようで一度暗くなった空を見上げてから膝に顔を埋めた。
洋介は流木の枝を火の中に無言のまま放り込んだ。
どうして死のうとしたとか私のこと聞かないの?
…
死にたくなるほど辛いことがあったんだろ?
しゃべりたくなったらしゃべればいいさ…
洋介は優しい声で言った。
空には星空が見える。
もう女の顔には先程までの劍が取れていた。
炎で幾分ずぶ濡れの服が乾いた感じがした。
これからどうするつもり?
女は伏し目がちに聞いてきた。
君はどうしたいんだい?
救急や警察呼んだ方がいいのかい?
女はブルブルと首を横に振った。
近くに知り合いとかいる?
また首を振る。
ところでどこの出身なんだい?
…中国
じゃあ大使館とか領事館みたいなとこ?
どこにも連絡しないでください…
女は答えた。
そう…
洋介はどうしてよいかわからなかったが、このままこの娘を置いていくわけにもいかずこう話しかけた。
俺さぁ、北海道に着いたばかりで今日はお昼も食べてないんだ。
お腹すいたからなんか温かいものでも食べに行かないか?
これから先のこととか色々考えるのその後にしよ?
女は怪訝そうな顔をしながらこちらを暫く見つめていたがゆっくり頷いた。
車に女を乗せて海岸線を10分くらい走ると小さな漁村に出た。
その間 女は虚ろな目で助手席から暗い海を見ていた。
道沿いにかなりの築年数と思われる二階建ての建物の一階にラーメンの暖簾と赤い提灯があるのがみてとれた。
あまりにボロいので本当にやっているか心配になったが灯りが外に漏れていた。
洋介は女をいざない店の引き戸を開けた。
少し間があってから店主の
いらっしゃい!
という大きな声がかかった。
店の中には客はおらずカウンター席数席と小上がりが2席とこじんまりとした小さな店だった。
年季の入った店ではあったが不潔な感じは無かった。
小上がりに座ってから暫くして店主が水を2つ手に持ってやってきた。
60代と思われるずんぐりした体型の元気のいいオヤジだった。
頭は禿げていてどこに目があるのかと思うほど細い目をしていた。
おや~こんな時間にお客さん海水浴かい?ガハハー
地元の人間じゃないね?
地元の人間は海水浴なんかしねーもの。ガハハー
それとも訳ありかい?
たまにいるんだよね。
他からやってきて入水しちゃうやつ。
遺体もたまにあがるんだこの辺の海。ガハハー
洋介はびっくりしたが、慌てて
いやいや、僕ら今日こっちにやってきて知らなくて海水浴していたんですよ、、
本当に…
適当な言い訳もすぐ思いつかず無茶な言い訳だと感じながらも言葉にした。
…
ガハハー冗談だよ冗談。
注文決まったら声かけてくれやー
うちのラーメンは地物の昆布から出汁をとっているから美味いよ!ガハハー
オヤジは笑うとさらに目が細くなった。
一旦店主はカウンターの奥に引き上げていった。
洋介は女と顔を見合わせたが女は本当に通報を怖れたのか緊張して顔が強張っているようだった。
何食べる?
話を切り替えて洋介は女に問いかけた。
メニューの日本語読める?
何でもいいわ…
女は蚊の鳴くような声で投げやりに応えた。
じゃあマスター、ラーメン2つで。
洋介はカウンター奥の店主に声をかけた。
あいよー!
店主の大きな返事が返ってきた。
ラーメンを待つあいだ特に女は話すこともなくただ俯いていた。
その間 店の中でついているラジオから北海道日本ハムファイターズと西武ライオンズ戦のナイターの実況が流れていた。
やがてラーメンを店主が持って現れた。
醤油ラーメンでチャーシューとワカメ、コーンにメンマが乗ったシンプルだが美味そうなラーメンだった。
なんだいお兄さんたち喧嘩の真っ最中かい?
ムッツリしちゃって
喧嘩したら男から謝れば丸く収まるもんさ、ウチもそーだもの ガハハー
豪快な笑い声を残しカウンター奥に去っていった。
さ、冷めないうちに食べよ
体冷えただろ?
洋介は女に促したが女は食べようとしなかった。
洋介は割り箸を割って女に差し出した。
今出来ることは今しようよ。
いろいろ難しいことは後回しでさ。
それにあのオヤジに俺たち不審者に疑われても嫌だろ?
それを聞いて女はようやく箸を受けとってくれた。
洋介も箸を割ってラーメンを食べはじめた。
うん、確かにうまい。
なかなか美味しいラーメンだよ。
食べてごらん。
女はゆっくり食べだした。
どう?口に会う?
女は虚ろな目で首をコクっと縦に振った。
洋介が食べ終わっても女のラーメンは半分も進んでいなかった。
やがて女は食べるのを止めてしまった。
きっとこの娘には抱えきれないほどの悩みがあるんだろう。
洋介は思った。
やがて呼びもしないのに店主が近づいてきて小上がりの端に腰掛けてきた。
なんだウチのラーメン美味くなかったかい?
女の残されたラーメンを見て言った。
洋介は
いえ、ちょっと冷えてお腹の調子が悪いみたいで…
とっさに取り繕った。
馬鹿だね~こんなに水が冷たい海で海水浴するなんて
腹もいたくなるさ、ガハハー
女は俯いて聞いていた。
本当に店主が海水浴の話を信じているか信用出来ない感じだった。
洋介は話題を変えるため店主に訪ねた。
この辺に泊まれるところはありませんか?
なんだおいラブホテルなんて洒落たものここら辺にはないぞおい ガハハー
いちいち大きな声で笑うオヤジだ。
洋介は慌てて
いやそういうんじゃなくて普通のビジネスホテルでいいんですけど…
ああ、ビジネスホテルなら俺の知り合いがやっているところが近くにあるからこれから空いているか聞いてやるよ。
助かります、お願いします。
洋介は頭を下げた。
電話をするため店主は腰を上げた。
あ、あのシングルふた部屋なんですけど…
洋介は慌てて言った。
なんで?
い、いや…
分かったよふた部屋な!
お兄さん早く謝っちまいな!
お姉さんきれいな顔してるのに顔が怖いぜ ガハハー
は、はい…
洋介は仕方なく返事を返した。
店主は早速電話でふた部屋予約してくれた。
この店主 口は悪いし声は大きいが良い人のようだ。
ありがとうございます。
洋介は2人分のラーメンの代金を支払い店を出ることにした。
ホテルの場所をメモに書いた紙を店主から預かり店を出る手前でも店主は
早く仲直りしな!ガハハー
と大きい声を背中にかけてきた。
さすがに洋介は苦笑したが女は硬い表情のままだった。
車で3分も走るとそのホテルはあった。海沿いの古いビジネスホテルだった。
フロントに着いてラーメン屋の名前を告げるとすぐ分かってもらえた。
家族経営らしく初老の婦人が親切に対応してくれた。
キーを預かり2階の部屋に向かった。
女の荷物が肩掛けのショルダーバッグだけだったので洋介は違う用途の客と間違われたらとヒヤヒヤしたが特にそんなこともなくすんなり部屋に向かうことが出来た。
並びの部屋のドアの前で洋介は女にキーを差し出した。
女は何かを言いかけたが洋介は言葉を被せて女の声を遮った。
今日はいろんなことがあったら疲れただろ?
とにかくもう今日は遅いし今夜はゆっくり休みなよ。
明日のことはまた明日考えよう。
女を一人にすることに少し心配はあったが洋介にはこの他の選択肢は思い浮かばなかった。
少し間があってから女は
…はい…
と小さな声で答えた。
洋介は女が部屋に入るのを見届けてから自分の部屋に入った。
ハア~
洋介は大きな溜息を着いた。
なんか今日は疲れたな…
心の中で呟いた。
熱いシャワーを浴びてベッドに横になった。
目を瞑ると女の怒りとそれでいてどこか悲しげな顔が瞼に浮かんだ。
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