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坂の向こう側
坂の向こう側
しおりを挟む途中でお昼を食べ車は森林が多いワインディングロードに入って行った。
やがて大きな湖に到着した。
駐車場には何台かの車が停まっていた。
観光地としてさほど開発されていないのか人の手があまり入っていない自然の中にある美しい湖だった。
先には山の稜線も見える。
二人は湖の周辺の遊歩道を散歩することにした。
緑の色の濃い木々が湖の周りを囲んでいた。
小鳥の囀る声が聞こえてくる。
水はどこまでも碧く爽やかな風がさざ波を立てていた。
綺麗…
愛蘭は呟いた。
二人は湖の方を見ながら並んで歩いた。
まるで水辺に咲く黄色い水仙の花のように愛蘭の着ている黄色い洋服が緑の中とても映えて見える。
愛蘭は立ち止まった
私、初めて南波さんに会ったあの海に行く前に独りで阿寒湖に行きました。
うん…。
あの日に私は死ぬつもりでした…
だから最期に私の好きな小説の中に出てくるあの湖に行きたかったんです。
それから海で死のうと…
うん…。
あの日、私にとってあの湖はとても寂しかった…
人は多くいたしお店や旅館もいっぱいあったのに…
何も感じなかった…
まるで氷の上を歩いているように寒かった…
愛蘭は湖に顔を向けながら遠い目で話した。
…うん。
でもここでは違うの。
綺麗な自然に心から感動出来る。
私生きているんだって実感できる。
…それに今日は独りじゃないから…
…ああ…
俺も今日は独りじゃない。
二人は顔を見合わせるとニコッと笑い頷いた。
車に戻り洋介はミニバンの後部ハッチを開きトランクから組み立て式のアルミテーブルと椅子を取り出し組み立てた。
車での旅の際にはいつも持ち歩いているものだ。
テーブルの上にスマホと手のひらサイズの小さなモバイルスピーカーを設置した。
二人は椅子に腰掛け湖を眺めた。
洋介は音楽を流した。
好きな80年代を中心とした洋楽だ。
洋介には最近のアイドルが集団で歌ったり踊ったりする音楽が全然分からなかった。
みんな同じ顔に見えて誰が誰だか区別すらつかなかった。
以前そういう音楽大好きの会社の後輩から
先輩そんなんじゃ乗り遅れますよー
と揶揄われたが洋介はそんなものに乗りたいとも思わなかった。
愛蘭には古くさく感じるのだろうか…
しかし洋介には愛蘭は満更でもない様子に見えた。
時間が経つと空は茜色に染まり始めた。
夕焼けしたオレンジ色の太陽も山並みに隠れつつある。
赤色、オレンジ、金色、パープル、紺色、そして漆黒、様々な色がグラデーションをなして浮かぶ雲を照らしていた。
その雲は湖面に映り一層荘厳な雰囲気を醸し出していた。
大自然の光と闇が溶け合う刻々と変化する黄昏どきの神秘的な光景を二人は飽くことなく見つめていた。
やがてスピーカーからルイアームストロングの
What awonderful World
が流れたとき
愛蘭はこの曲聞いたことあると呟いた。
洋介の大好きな曲だ。
妻も好きだった。
この素晴らしい光景に彼の唄声が溶け込んでいった。
気がついたらもう他の車は一台も残っていなかった。
しまった…
長居し過ぎた。
今からどこかに移動するにしても宿が取れるか?
この場所は街からあまりにも離れすぎていた。
慌てる洋介をよそ目に愛蘭はケロった言った。
車で寝ればいいじゃない?
全くこの娘には毎回驚かさ
れる。
私、車の中で寝た経験ないから面白そうだし。
洋介はいやそういうことではなくて…と思った。
だって車中泊出来る準備はあるんでしょ?
そりゃあるけどね…
トイレも駐車場の端にあるのが目に入った。
じゃあ愛蘭さんが嫌じゃなかったら…
洋介は答えた。
どうして嫌なの?
洋介は俺みたいなおじさんと二人で車で寝るなんて若い女性が嫌なんじゃないかと思って言ったことなのに愛蘭は全然気にしている様子もなく遠足のときの子供のようにはしゃいでいた。
昨日俺の裸を見ちゃったからもう恥ずかしい気持ちなどないのかと思った。
それとも俺のこと男しての認識ないのか?
洋介の気持ちは複雑だった。
車中泊用にカップ麺は車に常備しているので今晩の夕飯にすることにした。
灯のランプを点けキャンプ用のガスボンベとヤカンを取り出し洋介は手際よくお湯を沸かし始めた。
愛蘭は興味津々に洋介の作業を見ていた。
カップ麺にお湯を注ぎ数分待って食べられる状態になった。
外で食べるラーメンは格別美味しかった。
愛蘭も初めてのことに満足して完食した。
群青色の空に輝く星が近く感じた。
旅に出るときは予め洋介の車は車中泊出来るよう後部座席を全部倒しエアマットと布団を敷いて寝られるように準備してある。
寝るだけなら大人二人脚を伸ばしても充分なスペースがあった。
またカーテンを使えば全ての窓を隠すことが出来た。
二人は車内で交互に軽装に着替えた。
じゃあ寝ようか…
洋介はドギマギしながら灯りを消した。
ひとつの布団の中お互い背中を合わせて外側を向いて横になった。
愛蘭は背中に伝わる温もりに懐かしい感覚を覚えた。
そう…それは愛蘭がまだ小さかったころ夜が怖かった。
独りで寝るのが怖くなるといつも母親のベッドにもぐりこんで母親に甘えた…
その温もりを思い出し幸せな気持ちになった…
洋介は気持ちは高揚したが次第にうつらうつらしてきた。
明日は宮島だね。
私厳島神社初めて行くから楽しみ。
美紗子の笑顔が見えた。
この車でいろんなところを美紗子と旅をした。
この車で一緒に眠った。
美紗子との記憶の欠片がこの車には残っていた。
洋介は夢と現実の狭間薄い意識の中寝返りをした。
ふと目が覚め目をゆっくりと開けた。
最初焦点が合わなかったが次第にハッキリしてきた。
う…
愛蘭が目前でこちらを見つめていた。
僅かな距離しかない。
愛蘭は目線をそらすことなく言った。
襲わないの?
…何⁈
洋介は突然のことで意味が分からなかった。
私 日本の男性はスケベだって聞いたよ。
な、何を言っているの?
だから襲うのかと思って。
洋介は自分がスケベだと思わているのかと少し心外に思った。
無表情でじっと見つめる愛蘭の視線を躱して洋介は天井を見上げて言った。
ば、馬鹿な、男にもよるけど女性を力尽くで何とかしようなんてそんなことは卑怯者の男のすることだよ。
…
愛蘭は洋介の言った力尽くで女性をなんとかしようとする男…という言葉で一瞬天祐を思い出した。
じゃあ聞くけど中国の男はみんなこういうとき襲うのかい?
大体襲うんじゃないかな…
まあ人によるけど。
洋介は横目で愛蘭を見たがまだずっとこっちを見つめていた。
わかった。
南波さんのこと信用する。
そう言うと愛蘭は素っ気なく寝返りをうって外側を向いてしまった。
…
洋介は心臓がバクバクしていた。
今のはなんだったんだ…
襲わないの?
洋介は愛蘭の言った言葉を頭の中で反芻していた。
襲わないの?は逆の意味で襲って欲しい?
いや、むしろ襲うべき?
いやいや、そんなことは絶対ないない。
いや、いや、いや、これはきっと中国式の社交辞令なんだ。
そんなことを考えて悶悶としているうち朝方になるまで洋介は眠れないでいた。
愛蘭はスヤスヤ眠っていた。
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