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幼馴染 浅野智子
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太陽はまだ沈んでおらず、空はまだ夕焼け色にもなっていない。これなら学校に戻ってから家に帰ってもまだ暗くなっていないだろう。スマホで時計を確認すると五時半を過ぎたところだった。
先生に促されるまま私は助手席に乗り込む。後から運転席に乗った先生はエンジンをかけると出発する前に一つだけと前置きをして話し始めた。
「浅野さんのお母さんから話を聞いた印象なのですが、浅野さんは学校という集団に属さなくても生きていけるほど強い人なのかもしれませんね」
確かに先生の言うとおり智子は強いと思う。学校での嫌がらせなんて気にもとめずに自らの能力で仕事を始めているのだから。しかし、なぜ先生は今その話をしたのだろうか?
「大学時代、私は環境学を専攻していて難分解性ポリマーの堆積や分解、エネルギーの循環などを主に勉強していました。その中でも難分解性ポリマーの研究は環境学を語るうえで欠かせないのですが……。詳しく知りたくなったら後日また私を尋ねてください。それでなぜこんな話をしたかというと」
生田先生はそこまで話したところで一旦息を整えた。私に詳しく知りたくなる瞬間が訪れるかどうかは分からないけれど、先生が今話したいことはそこには無いようだ。
「難分解性ポリマー……プラスチックと思ってもらって構いませんが、それらが分解されにくいのは何故だと思いますか?」
「えっと……」
突然の問いかけに私は少し答えるのに時間がかかった。
「頑丈だから?」
よく分からなかったので適当に答える。理科の先生なのだからもっと専門的な回答を求めていたのかもしれないが、私にそのような知識はない。しかし、先生は満足げに頷くと答えを話し始めた。
「おおむね正解です。厳密には分子が安定しているとか、強度が高いなんて言い方が良いかもしれません。そこで私は浅野さんがこの難分解性プリマ―のような存在かもしれないと思ったのです」
「智子が難分解性ポリマーみたい……?」
「はい。分解のされやすさというのは、酸化や還元などが起こりやすい……つまり他の物質と繋がりやすいとも言えます。そうした化学反応を経ることで自然界に溶け込み、循環することができます」
「つまり……クラスが自然ってことですか?」
クラスメイトと繋がりを持たない智子がプラスチックのようだということだろうか。クラスに溶け込めないということだろうか。それではあまりに酷い言い方なのではないのか。そう思ったところで先生は続けた。
「自然界に溶け込めることが必ずしも環境に良いとは限りません。全ての物が環境の循環に取り込まれる必要は無いのです。安定していて、強度が高くて頑丈……そんなものが必要なときもあります。例えば沈没船。例えば古代の遺跡。それらは分解されて環境中に戻ることは難しくても、海にすむ生物や洞穴に住む生物にとって大切な生存環境となり得る人工物です。必要とされることがあるのです」
「智子は学校じゃない場所で必要とされるから良い……そう言いたいのですか?」
少し語気を強めてしまった私を見て、生田先生は首を横に振って否定した。その様子から私はさらに混乱をする。しかし、先生は落ち着いた様子で説明を続けた。
「環境の循環の輪の外に出てしまった難分解性ポリマーが消えることなく確かに存在するように、学校という環境の外に出てしまった浅野さんも消えることなく確かに存在しています。だから細川さんも学校を気にせず、沈没船や遺跡を必要とする生物のように、浅野さんを大切にすれば良いのです。ただ、そう伝えたかっただけです。細川さんの涙の跡を見て、最後の別れじゃないのだと……どうしても伝えたかっただけです」
生田先生にそう言われて私はバックミラーで自分の顔を確認する。涙の跡がついているというわけではないが、目が充血して腫れぼったく、つい先ほど涙を流していましたと言わんがばかりだった。
「そういうのは……黙って気付かない振りをするのがエチケットだと思います」
「それはすみませんでした。ですが、これから学校に着くまでは運転に集中しますので細川さんの顔を見ることもありません。だから安心してください」
「……そういうことじゃないってば」
小さく先生に聞こえないように呟くと、エンジンの音にかき消されて車が発進する。生田先生は自分で言ったとおり、学校に着くまで一言も話さずに車を走らせた。その間、私は外の景色を眺めながら先生の言葉を何度も何度も反芻していた。学校という環境の外に出てしまった智子も消えるわけではない。気にせず会いに行けばいい。その通りだ。智子だっていつでも遊びに来て良いと言っていた。何も深く悩む必要なんて無いんだ。そう思うと、私は自然とスマホで智子に連絡を取っていた。
『明日の学校終わったら、遊びに行って良い?』
メッセージを送って一分もせずに智子から返信が届く。
『おっけー』
ただそれだけの淡白な返事が普段どおりで、私は胸に溜まっていたモヤモヤが一気に晴れたかのような気持ちになったのだった。
先生に促されるまま私は助手席に乗り込む。後から運転席に乗った先生はエンジンをかけると出発する前に一つだけと前置きをして話し始めた。
「浅野さんのお母さんから話を聞いた印象なのですが、浅野さんは学校という集団に属さなくても生きていけるほど強い人なのかもしれませんね」
確かに先生の言うとおり智子は強いと思う。学校での嫌がらせなんて気にもとめずに自らの能力で仕事を始めているのだから。しかし、なぜ先生は今その話をしたのだろうか?
「大学時代、私は環境学を専攻していて難分解性ポリマーの堆積や分解、エネルギーの循環などを主に勉強していました。その中でも難分解性ポリマーの研究は環境学を語るうえで欠かせないのですが……。詳しく知りたくなったら後日また私を尋ねてください。それでなぜこんな話をしたかというと」
生田先生はそこまで話したところで一旦息を整えた。私に詳しく知りたくなる瞬間が訪れるかどうかは分からないけれど、先生が今話したいことはそこには無いようだ。
「難分解性ポリマー……プラスチックと思ってもらって構いませんが、それらが分解されにくいのは何故だと思いますか?」
「えっと……」
突然の問いかけに私は少し答えるのに時間がかかった。
「頑丈だから?」
よく分からなかったので適当に答える。理科の先生なのだからもっと専門的な回答を求めていたのかもしれないが、私にそのような知識はない。しかし、先生は満足げに頷くと答えを話し始めた。
「おおむね正解です。厳密には分子が安定しているとか、強度が高いなんて言い方が良いかもしれません。そこで私は浅野さんがこの難分解性プリマ―のような存在かもしれないと思ったのです」
「智子が難分解性ポリマーみたい……?」
「はい。分解のされやすさというのは、酸化や還元などが起こりやすい……つまり他の物質と繋がりやすいとも言えます。そうした化学反応を経ることで自然界に溶け込み、循環することができます」
「つまり……クラスが自然ってことですか?」
クラスメイトと繋がりを持たない智子がプラスチックのようだということだろうか。クラスに溶け込めないということだろうか。それではあまりに酷い言い方なのではないのか。そう思ったところで先生は続けた。
「自然界に溶け込めることが必ずしも環境に良いとは限りません。全ての物が環境の循環に取り込まれる必要は無いのです。安定していて、強度が高くて頑丈……そんなものが必要なときもあります。例えば沈没船。例えば古代の遺跡。それらは分解されて環境中に戻ることは難しくても、海にすむ生物や洞穴に住む生物にとって大切な生存環境となり得る人工物です。必要とされることがあるのです」
「智子は学校じゃない場所で必要とされるから良い……そう言いたいのですか?」
少し語気を強めてしまった私を見て、生田先生は首を横に振って否定した。その様子から私はさらに混乱をする。しかし、先生は落ち着いた様子で説明を続けた。
「環境の循環の輪の外に出てしまった難分解性ポリマーが消えることなく確かに存在するように、学校という環境の外に出てしまった浅野さんも消えることなく確かに存在しています。だから細川さんも学校を気にせず、沈没船や遺跡を必要とする生物のように、浅野さんを大切にすれば良いのです。ただ、そう伝えたかっただけです。細川さんの涙の跡を見て、最後の別れじゃないのだと……どうしても伝えたかっただけです」
生田先生にそう言われて私はバックミラーで自分の顔を確認する。涙の跡がついているというわけではないが、目が充血して腫れぼったく、つい先ほど涙を流していましたと言わんがばかりだった。
「そういうのは……黙って気付かない振りをするのがエチケットだと思います」
「それはすみませんでした。ですが、これから学校に着くまでは運転に集中しますので細川さんの顔を見ることもありません。だから安心してください」
「……そういうことじゃないってば」
小さく先生に聞こえないように呟くと、エンジンの音にかき消されて車が発進する。生田先生は自分で言ったとおり、学校に着くまで一言も話さずに車を走らせた。その間、私は外の景色を眺めながら先生の言葉を何度も何度も反芻していた。学校という環境の外に出てしまった智子も消えるわけではない。気にせず会いに行けばいい。その通りだ。智子だっていつでも遊びに来て良いと言っていた。何も深く悩む必要なんて無いんだ。そう思うと、私は自然とスマホで智子に連絡を取っていた。
『明日の学校終わったら、遊びに行って良い?』
メッセージを送って一分もせずに智子から返信が届く。
『おっけー』
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