37 / 45
私 細川卯月
6
しおりを挟む
どうにか絞り出した言葉はその一言だけだった。何の解決も何の変化も生み出さない言葉。しかし、そこで生田先生が口を開いた。
「私は卯月さんとご両親が互いの気持ちについてあまり話をしていないのではないかと思ったのですが……」
生田先生の言葉を聞いてお父さんとお母さんが顔を合わせる。そう言われてみれば私も感情的な思いを伝えたり、逆に聞いたりした記憶がほとんどない。それは最近の話だけでなく昔からのような気もする。
「人の気持ちを聞く際ですが、一方的に聞くことというのは難しいものです。一方的に話すことも同じく。聞きたいのであればある程度は話すべきですし、話したいのであればある程度は聞くべきなのです。何かを得続けることはできず、また与え続けることもできない――。これは科学に携わる人間ならば誰しもが持っている考え方です。私の専攻していた環境学でも循環型社会といって、資源やエネルギーを自然に返すことで自然から資源やエネルギーを得るときの負荷を減らすという考え方があります。人の関係でも同じなのです」
生田先生はいつものように持ち前の科学の知識を説明しつつ私たちがどうあるべきかを教えてくれた。相手の気持ちを知りたければ自分の気持ちを伝えなくてはならない――。なるほど確かにそうかもしれない。
「人の気持ちも循環するものです。もしよろしければ、まだ若くて余裕を持つことのできない卯月さんより先にご両親から卯月さんへの気持ちをお話してくださればと思います。お二人が別れるに至って旦那様に対しての気持ちと奥様に対しての気持ちはもう話されたのかもしれませんが、お母さんから卯月さんへの気持ちとお父さんから卯月さんへの気持ちは、あまり話されてはいないのかと思いますので」
生田先生は車の中で私が言ったことを覚えてくれていて、そのことを両親から聞いてくれようとしているのだろう。愛が無くなったのなら私のこともいらなくなったのでは――。とっさに出ていた言葉だったけれど、全く思ってもいなかったというわけではない。
「そう言われましても……。何を話せば良いのか……」
「離婚される理由は何かあったのだと思います。長年連れ添った夫婦ではなくなるのですから。ではこれから卯月さんはご両親のどちらかと家族として暮らし、どちらかとは家族ではなくなってしまうということですよね。そのときにもし卯月さんが自分の娘ではなくなってしまうと思うと」
「俺たちが別れても卯月は俺の娘です。それは変わりません」
生田先生の話の途中で割り込んだのは今まで黙り込んでいたお父さんだった。その言葉に私は心臓を掴まれたように驚いた。お父さんの強い言い方に驚いた。しかし少したって胸の奥から何か暖かいものが込み上げてくる。
「そうです。卯月は私たちの関係が変わってもずっと大切な娘です」
お父さんの台詞に続くようにしてお母さんも身を乗り出してそう言った。離婚の話が出てから二人は一度だって私に自分と一緒に暮らすように言ったことはない。――自分で選びなさい。その言葉を何度も何度も言われ続けていた。だからなんとなく二人にとって私は大して大事な存在じゃないんだと思っていた。大事じゃないから自分と一緒にいて欲しいと言わなかったんだと思っていた。
「お二人はこれからも卯月さんと一緒に暮らしたいと……そう思われているのですか?」
「当たり前じゃないですか」
生田先生の問いに即答するお母さん。隣でお父さんも口には出さないが分かるように首を縦に振っている。ああ、二人とも私のことを大切に思ってくれていたんだ……。今まで実感がなかったものが一気に溢れてくる。胸に込み上げてくる暖かいもの……嬉しいという感情。これから離婚するんだという状況になって初めてお父さんとお母さんの気持ちを聞くことができたような気さえする。
「昔ね……お父さんとお母さんが仲良かったときにね……」
私がそうぽつりぽつりと話し始めると三人は黙って私の声に耳を傾けてくれた。
「三人でよく一緒に寝ててね……。私に産まれてきてくれてありがとうって。それでね。私のことが愛の結晶とか言ってくれてね……。だから離婚するって聞いたとき、愛が無くなったんだって……。私が産まれてきた意味ももうないんだって……」
そう……そう思っていた。本当にそう思っていた。生田先生にも言うのとお父さんとお母さんに直接言うことは全然違う。生田先生に言ったところで優しく慰めてくれるだけ。それだけでも今の私には十分な支えになってくれるのでありがたい限りなのだけど、言ってしまえば解決も進展もしない。お父さんとお母さんに言うというのは、答えが出てしまうということ。私の存在が不要だと言われればそれが答えだし、必要と言われればそれが答えだ。グレーは存在せず、黒か白で答えが出てしまう。本当に怖い問いかけのはずだった。
しかし、ずっと不安になっていたこの言葉を口にできたのはその前にお父さんとお母さんがしっかりと言葉に出してくれたことがあったからだ。
「卯月。ちょっとこっち来なさい」
「私は卯月さんとご両親が互いの気持ちについてあまり話をしていないのではないかと思ったのですが……」
生田先生の言葉を聞いてお父さんとお母さんが顔を合わせる。そう言われてみれば私も感情的な思いを伝えたり、逆に聞いたりした記憶がほとんどない。それは最近の話だけでなく昔からのような気もする。
「人の気持ちを聞く際ですが、一方的に聞くことというのは難しいものです。一方的に話すことも同じく。聞きたいのであればある程度は話すべきですし、話したいのであればある程度は聞くべきなのです。何かを得続けることはできず、また与え続けることもできない――。これは科学に携わる人間ならば誰しもが持っている考え方です。私の専攻していた環境学でも循環型社会といって、資源やエネルギーを自然に返すことで自然から資源やエネルギーを得るときの負荷を減らすという考え方があります。人の関係でも同じなのです」
生田先生はいつものように持ち前の科学の知識を説明しつつ私たちがどうあるべきかを教えてくれた。相手の気持ちを知りたければ自分の気持ちを伝えなくてはならない――。なるほど確かにそうかもしれない。
「人の気持ちも循環するものです。もしよろしければ、まだ若くて余裕を持つことのできない卯月さんより先にご両親から卯月さんへの気持ちをお話してくださればと思います。お二人が別れるに至って旦那様に対しての気持ちと奥様に対しての気持ちはもう話されたのかもしれませんが、お母さんから卯月さんへの気持ちとお父さんから卯月さんへの気持ちは、あまり話されてはいないのかと思いますので」
生田先生は車の中で私が言ったことを覚えてくれていて、そのことを両親から聞いてくれようとしているのだろう。愛が無くなったのなら私のこともいらなくなったのでは――。とっさに出ていた言葉だったけれど、全く思ってもいなかったというわけではない。
「そう言われましても……。何を話せば良いのか……」
「離婚される理由は何かあったのだと思います。長年連れ添った夫婦ではなくなるのですから。ではこれから卯月さんはご両親のどちらかと家族として暮らし、どちらかとは家族ではなくなってしまうということですよね。そのときにもし卯月さんが自分の娘ではなくなってしまうと思うと」
「俺たちが別れても卯月は俺の娘です。それは変わりません」
生田先生の話の途中で割り込んだのは今まで黙り込んでいたお父さんだった。その言葉に私は心臓を掴まれたように驚いた。お父さんの強い言い方に驚いた。しかし少したって胸の奥から何か暖かいものが込み上げてくる。
「そうです。卯月は私たちの関係が変わってもずっと大切な娘です」
お父さんの台詞に続くようにしてお母さんも身を乗り出してそう言った。離婚の話が出てから二人は一度だって私に自分と一緒に暮らすように言ったことはない。――自分で選びなさい。その言葉を何度も何度も言われ続けていた。だからなんとなく二人にとって私は大して大事な存在じゃないんだと思っていた。大事じゃないから自分と一緒にいて欲しいと言わなかったんだと思っていた。
「お二人はこれからも卯月さんと一緒に暮らしたいと……そう思われているのですか?」
「当たり前じゃないですか」
生田先生の問いに即答するお母さん。隣でお父さんも口には出さないが分かるように首を縦に振っている。ああ、二人とも私のことを大切に思ってくれていたんだ……。今まで実感がなかったものが一気に溢れてくる。胸に込み上げてくる暖かいもの……嬉しいという感情。これから離婚するんだという状況になって初めてお父さんとお母さんの気持ちを聞くことができたような気さえする。
「昔ね……お父さんとお母さんが仲良かったときにね……」
私がそうぽつりぽつりと話し始めると三人は黙って私の声に耳を傾けてくれた。
「三人でよく一緒に寝ててね……。私に産まれてきてくれてありがとうって。それでね。私のことが愛の結晶とか言ってくれてね……。だから離婚するって聞いたとき、愛が無くなったんだって……。私が産まれてきた意味ももうないんだって……」
そう……そう思っていた。本当にそう思っていた。生田先生にも言うのとお父さんとお母さんに直接言うことは全然違う。生田先生に言ったところで優しく慰めてくれるだけ。それだけでも今の私には十分な支えになってくれるのでありがたい限りなのだけど、言ってしまえば解決も進展もしない。お父さんとお母さんに言うというのは、答えが出てしまうということ。私の存在が不要だと言われればそれが答えだし、必要と言われればそれが答えだ。グレーは存在せず、黒か白で答えが出てしまう。本当に怖い問いかけのはずだった。
しかし、ずっと不安になっていたこの言葉を口にできたのはその前にお父さんとお母さんがしっかりと言葉に出してくれたことがあったからだ。
「卯月。ちょっとこっち来なさい」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】知られてはいけない
ひなこ
ホラー
中学一年の女子・遠野莉々亜(とおの・りりあ)は、黒い封筒を開けたせいで仮想空間の学校へ閉じ込められる。
他にも中一から中三の男女十五人が同じように誘拐されて、現実世界に帰る一人になるために戦わなければならない。
登録させられた「あなたの大切なものは?」を、互いにバトルで当てあって相手の票を集めるデスゲーム。
勝ち残りと友情を天秤にかけて、ゲームは進んでいく。
一つ年上の男子・加川準(かがわ・じゅん)は敵か味方か?莉々亜は果たして、元の世界へ帰ることができるのか?
心理戦が飛び交う、四日間の戦いの物語。
(第二回きずな児童書大賞で奨励賞を受賞しました)
愛しているなら拘束してほしい
守 秀斗
恋愛
会社員の美夜本理奈子(24才)。ある日、仕事が終わって会社の玄関まで行くと大雨が降っている。びしょ濡れになるのが嫌なので、地下の狭い通路を使って、隣の駅ビルまで行くことにした。すると、途中の部屋でいかがわしい行為をしている二人の男女を見てしまうのだが……。
屈辱と愛情
守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる