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プロローグ
或いはガブリエルにさよなら(1)
しおりを挟む「怪我はないんですが……あなたがさっきから爪立ててるそこ、乳首です」
「ごめんなさい!!」
「もっと立ててくれていいですけど」
——————————————————————
東京都銀嶺市郊外の一画に、大神ルチアの身を寄せるプロテスタント銀嶺教会がある。
宝石を両手で掬って撒いたような輝く色彩の庭を木香薔薇のアーチが渡り、その黄色い群花の下を抜けた先に見上げる赤煉瓦の建物だ。
遊色する朝の光が薄玻璃の若葉を透過して降り注ぐ、四月最初の金曜日。
教会に来客を告げるチャイムが鳴り渡った。
「うわあッ」
ルチアが玄関に顔を出すなり、チャイムの主は悲鳴を上げた。
三十中頃と思われる男性警官だ。
警官は口を開け、長い顔の下半分を更に伸ばして、「ぐっ、もーにん?」と絞り出した。
「……こんにちは。私は、日本人です」
ルチアはミッションスクールで選択式のイタリア語を教える非常勤講師である。
微笑んで応じつつ、この構文は先日新入生に教えたばかりだなと考える。
「ああっ、お、男の人」
「一応」とルチアは頷いた。
青い瞳と金の髪、白い肌と高い鼻梁。
イタリア人の母によく似た自分の容姿とも、二十四年の付き合いになる。女性と見紛われるのにも慣れたものだった。
背は高いが元来の線の細さと、高い位置で結った長髪のせいだろう。病気の子供たちのウィッグを作るヘアドネーションに提供するためだ。
警官は非礼を詫びて、訛りの強い口調で近くの交番に赴任した西村巡査と名乗った。
「大神です。教会に、何かご用でしたか」
「ええとぉ……」
西村は黒い礼服姿のルチアを頭から爪先までしつこく眺め渡す。
「結婚式です」
「ああ! これはおめでとうございます!」
「……私ではなく、教会員の」
「葬式か」と口にされる前に先手を打ったつもりが、彼の無神経さを抑え込むには一歩至らなかった。
ルチアの口角は右だけが自然に大きく吊り上がり、堪えきれない苦笑が漏れた。
「綺麗な建物ですねえ。見学だのってさせてもらえるですか?」
西村は初めての巡回ついでに挨拶回りをしていると言い、中を覗き込んできた。
ルチアは左手の腕時計に目を落とす。
午前九時四十五分だ。
「十時には式が始まりますから、それまでにはご退出頂くようになります。中央のヴァージンロードは、踏まないようにお願いします」
教会は求める者を拒まない。
ルチアが了承すると、西村は仰々しく敬礼して後に付き従った。
❖ ❖ ❖
「いやあ、びっくりした。外国のタレントさん出てきたかと思ったですよ」
「お上手ですね」と応じるだけで、ルチアは振り返らずに廊下を進む。
西村は「それほどでも」と的外れに照れた。
「結婚式かあ、いいなあ。相手もおりませんですけど。羨ましいですよ、ねえ大神さん?」
わははと笑う西村の声が、高い天井に木霊する。
ルチアは、今度は返事をしなかった。
勿論祝わしいし、この場所で互いの良き助け手となることを誓う二人に終生幸いがあればいいと思っている。
けれど、自分には縁のない話だ。
「でもあれですね。大神さん、教会だから、芸能人とかってより──」
「礼拝堂です。どうぞ、中ではお静かに」
ルチアは背中から無遠慮に浴びせかけられる言葉を遮って、両開きの扉を押し開けた。
中へ招き入れられた西村が感嘆の息を吐いた。
受胎告知と聖誕、磔刑、そして昇天。
全高六メートルに及ぶ巨大なステンドグラスが三枚、中央に敷かれた真っ白なヴァージンロードに虹の聖画を差し、左右の通路に飾られた白百合を極彩色に染め上げている。
「ああ、やっぱり。そっくりじゃないですか」
西村が真ん中のステンドグラスを指さした。
「天使さまですよ。芸能人でなくって」
青い瞳、白い肌と高い鼻梁。
淡い金髪を翼ある背に伸ばしたルチアと瓜二つの天使が、色硝子の中で処女マリアに懐胎を告げている。
西村の新参らしい反応に、周囲で和やかな笑いが起きた。それが銀嶺教会に集う者の共通認識だからだ。
「ガブリエルですよ」
誰かが西村に教える。ルチアは自分の革靴の先ばかり見ている。
笑みを含んだ声は、ルチアの耳を通して別人の嘲笑に変換された。
──「お前はガブリエルだよ」
式の参列者が長椅子に着き始める。
十時の鐘が鳴って、パイプオルガンが荘厳な前奏を響かせる。
演奏者の女性・福島晶香が、神聖な中央通路の手前で立ち尽くすルチアと西村を不審そうに見つめていた。
「大神さん? どうしました?」
「……時間です、申し訳ありませんが外へ」
西村の問いには答えず、ルチアはステンドグラスに背を向けて退出を促した。
こめかみがどくどくと脈打っている。
久しく誰に指摘されることもなかった強烈なコンプレックスが、トラウマが、赤い口をざっくり開けて沼の底から這い上がってくる。
──「ガブリエル。お前は」
ルチアはシャツの胸元を掴んだ。
いつも通り、俯いて視線を床に。
頭蓋の中で反響する声が止むまで、自分を見下ろすあの天使と、目を合わせなければいい。
握り締められているかのように心臓が痛み、鼓動が逸る。
肺が酸素を受け付けず、呼吸が浅くなる。
礼拝堂を離れなければ。
結婚式だ。
ここで自分が倒れることで、新郎新婦の今日という日を疵物にするなんて、あってはならない。
「天使さまだ!」
入口から駆け込んできた黒いワンピースの少女が、勢いよくルチアの腰に抱き着いた。
二つに結った髪が楽しげに大きく揺れた。
──「お前は、ソドムの天使だ」
「詩帆!」
「ルチアさん!」
参列者の女性が我が子の名を叫び、晶香がルチアを呼んで立ち上がる。
パイプオルガンの演奏が途絶えた。
人々が異常に気付き、どよめきが広がる。
詩帆は辛うじて西村の手で引き留められたが、ルチアは自分の身体を支えきれず、純白の絨毯に背中から倒れ込む。
ヴァージンロードに踏み込んではいけない。
ここは夫婦となる者が新たな人生へ進むための花道だ。
昨日のうちに、皆で用意した大切な場所、なのに。
ルチアはきつく目を閉じ、お赦しください、と神に祈った。
瞼の裏であの日の怪物が嗤っている。
こうして無様に礼拝堂に倒れ伏した自分に跨って、彼らは──。
しかし、硬くなった身体を襲うはずの衝撃は前方からルチアを引き寄せた靭な感触が取って代わった。
「……大丈夫?」
どこか虚ろなのに深く低い声が、ルチアの下から問いかける。
乱れて顔にかかる前髪を長い指が梳き、そのあまりの冷たさに肩が跳ねた。
「ごめん」
素早い謝罪と共に、指先も、腰を抱いていた腕も、ルチアから離れていく。
恐る恐る取り戻した視界に映る、銀糸が光る黒いスーツの肩。
緩く巻いた長い襟足。
思考の靄が晴れていく。自分は誰かに抱き締められ、その人を押し倒す形で、絨毯とは反対の床に倒れたのだ。
「……私こそ、ごめんなさ──」
ルチアは片手を見知らぬ人の胸に着き、慌てて上半身を起こした。
そして、言葉を失い、息を吞む。
下敷きにしたのは全身を黒色のハイブランドで固めた若い男だった。
ステンドグラスの虹をすべて吸い込んで青藤色の燐光を放つ黒い髪、瞳を隠した漆黒のサングラス。
左耳でダイヤモンドのピアスがぎらぎらと煌めいている。
一歩間違えば深夜の歓楽街を闊歩するチンピラの装いなのだが、それを下品と言わせないのは本人から漂う並みならぬ風格と、色眼鏡で覆っても分かる端正な顔立ちのせいだ。
その落ち着きようのためルチアより五つか六つ年嵩に見えるものの、人間離れした美貌は目算する感覚を大いに鈍らせる。
清貧を重んじるプロテスタント教会の床で仰向けに寝転がる姿は、まさに映画の一幕のようだった。
「あ、りがとう、ございます。お怪我は……」
ルチアは目下の造形に魅入られている。
最低限の礼をつぎはぎするのがやっとだった。
「いいえ。そちらも、ご無事で何よりで」
「おかげさまで……」
人がルチアを天使と呼ぶなら、彼の方はまるで──。
「怪我はないんですが……あなたがさっきから爪立ててるそこ、乳首です」
「ごめんなさい‼」
往年の名作がごとき光景を台無しにする応酬で我に返ったルチアは、抜けてしまった腰を引きずって床の上へ座り込む。
十年振りに襲うかと思われた嫌な発作は、驚きと入れ替わりに気配を消していた。
「もっと立ててくれていいですけど」
男は何やら呟きながら立ち上がり、180センチはあろうかという長身を屈め、ルチアに右手を差し出した。
心臓はまだ激しく鼓動している。
しかし、先ほどまでとは種類が違う。
混乱と困惑と、ルチアの知らない音を立てていた。
再び暫し呆然と見上げた後、遠慮がちに、辛抱強く待ってくれていたその手を取った。
男の肌は、やはり不安になるほど冷たかった。
会衆の注目は、ルチアが立ち上がるのを確認するとゆるやかに引いていく。
「またね、ルチアちゃん」
最後に耳元で囁かれた自分の名は秘め事の響きを持って、何だかとても、甘美でいけないもののように聞こえた。
黒衣の男は礼拝堂を去り、西村も、母親の元に詩帆を送り届けて退出した。
──来賓ではなかった?
日曜礼拝でルチアが見かけたこともない人物だ。
あの人はいつからそこにいたのだろう。
あれほど目立つ容姿の人間が駆け寄るまでもない場所に控えていたのなら、見逃すことは考えにくい。
再開されるパイプオルガンの演奏。
万雷の拍手で迎えられた新郎が、誰も踏みつけていない新雪のような道をゆっくりと進んでいく。
ルチアも最後列の長椅子で手を打ち鳴らすが、真っ白なタキシードよりも、黒いスーツの背中がいつまでも気にかかっている。
去り際に、彼は少しよろめいていたように見えた。
祭壇へ辿り着いた新郎を追って、エスコートと共にドレス姿の花嫁が入場する。
皆が讃美歌を歌うために立ち上がる。
──やっぱり、怪我をさせたのかも。
胸の内で言い訳を述べるルチアを、ステンドグラスのガブリエルだけが見下ろしていた。
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