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プロローグ
或いはガブリエルにさよなら(2)
しおりを挟む「痛くありませんでしたか」
「乳首?」
「乳首ではないです」
「いいですよ、痛いの好きだから」
——————————————————————
ルチアは玄関から庭先に飛び出した。
そこに銀粉を纏った黒薔薇の姿はない。
あの人が去ってから既に五分は経過している。
式に出席したのでなければ、西村と同じ、時間制限付きの見学者だったのだろうか。
ならば尚のこと、この場に留まってはおかないだろう。
分かり切っていたはずなのに、ルチアは自分でも驚くほどに落胆していた。
──怪我なく帰ったのなら、それでいいに決まっているのに。
礼服の胸元を軽く摩った。
まだ逸る心音を宥めすかすまで、あの神聖な礼拝堂に戻ってはいけないような気がした。
神が創り賜うた世界中の緑を集め、光で溶いて滲ませた春の庭をうろうろと歩き回る。
叶えられるはずのない期待と、体内の雑音を持て余しながら。
黄色い木香薔薇のアーチの先、ルージュ・ピエールドゥロンサールの赤い花が覆う、鉄柵向こうの大通り。
翻って、自身が牧師と共に居住する牧師館近くの花壇にも目を遣る。
花壇には、この庭で唯一花をつけない『ルシファー』の株が植えられている。
昨冬、故あって銀嶺教会に居候を始めたルチアを慰めるために、専任牧師の青沼師が贈ってくれた新しい薔薇苗だ。
咲かせるのは悪魔的に難しいと評判の品種で、一番花の季節を迎えた今も、蕾は見られない。
その木の根元に、黒地に銀糸を織ったスーツの背が、蹲っていた。
「あ──」
四月の陽射しが肺に満ち、ルチアは傍へと駆け寄った。
花のない木立薔薇の陰で、先ほどルチアを助けたあの男は──。
「う、お、お、おええええ」
派手に嘔吐いていた。
「だ、大丈夫ですか!?」
細身とはいえ身長170センチを超えるルチアを抱え、受け身も取らずに床に叩きつけられて、ただで済むはずがないと思っていた。
喜びも束の間、最悪の想像に背筋が凍る。
「内臓に、衝撃があったのかも。今、救急車を呼びます」
「いやだい……大丈夫、いらない。ちょっと、セイが……」
「せ?」
「結婚式の日の礼拝堂、聖すぎてヤバい」
何を言っているのかよく分からないが、男は頑なに医療機関の受診を拒む。
ルチアは仕方なく、五分ほど広い背中を摩り続けた。打ち身で痣などできていないか気が気ではない。
「クソ、牧師……昨日どんだけがっつり祈ったんだよ……」
地獄の底から響くような悪態をついて、男は漸く、両膝の間に落としていた長い首を持ち上げた。
横顔はまだ透けるほど蒼い。
「どうもありがとう……。礼拝堂、苦手なんです。アレルギーみたいなもんですが、あんまし長くいられなくて……」
男はごく自然な動作でスーツと同ブランドのサングラスを外した。
内ポケットから取り出したと思しき眼鏡拭きで無残な涙の痕を拭う。
取り出す瞬間は、ルチアには目視できなかった。
艶まで分かる長い睫毛に縁取られた双眸が、ルチアを捉える。
紫色の虹彩の中心に、深淵が黒々と口を開けていた。
瞳孔が細く、縦に長い。
アダムとイヴを堕落へ誘った忌まわしき誘惑者の瞳。
或いは爪先で傷付けた菫の砂糖漬けだ。
なんておぞましく、美しく──寂しい。
「真瀬──、えー……」
男は不意に言葉を切った。
一度ぐるりと周囲を見渡して、再びルチアに視線を戻す。
ルチアはまだ、衝撃から返って来られずにいる。
「この庭の薔薇はあなたが?」
「そう、ですが」
何故そんなことを聞くのだろう。
突如として問いに変わってしまったその続きの方が聞きたくて、戸惑いながらも素直に頷いた。
「やっぱり。花は育てる人に似ます」
「……牧師と、一緒に」
「左様で。薔薇がお好き?」
「ええ……」
「何よりです」
細められたその瞳は、舐めたらきっと甘かろう。
常ならば有り得ない倒錯的な発想を呼び起こす蠱惑と官能。
ルチアは彼が右に倒した首筋に這う血道の美しさに怯えている。
だって、引き裂いたらそこに、サファイアの鉱脈があるのではないのか。
同時に、頬の上に異様な熱が集まってくる。
心と身体の不和に戸惑いながら、ルチアの瞳はやはり彼の目に吸い寄せられていく。
「真瀬、ソウビと申します」
辿り着いた先は自己紹介だった。
迂遠である。
しかし、これほど薔薇の名が相応しい男も他にないだろうと思った。
ソウビは高そうなスーツが汚れるのも厭わず、片膝を立てて草の上に座った。
ルチアはその隣にしゃがみ込んでいる。
春に置き去りにされたルシファーの陰に隠れ、暫しふたり、そうして見つめ合っていた。
ソウビがおかしそうに笑い、先に目線を外した。サングラスをかけ直す。
「ごめんなさい」
人の外見的特徴を凝視するなどあってはならないことだ。
ルチアも地面に目を落とした。
「顔を上げて」
柔和な声で言うソウビが気分を害した風はない。
「大神……ルチアです」
どこか観念した気分で名を名乗る。
「知っています」
彼は確かに先ほどルチアを呼んだ。
「……どこかでお会いしましたか?」
とはいえ互いに、一度見ればそう簡単には忘れられない容姿である。
礼拝堂で、晶香がルチアの名を呼ぶのを聞いていただろうか。
ソウビは答えずに、唇でルチアがかつて見たどの三日月より完璧な弧を描いた。
「式を抜け出して、わざわざ俺を探しに?」
反対に質問されてしまった。
問いの形を取っているが、口調は確信に近いものに感じられた。
「具合が悪そうに見えたので……、怪我をさせてしまったのではないかと」
嘘はついていないのに、何となくばつが悪い。
「痛くありませんでしたか」
「乳首?」
「乳首ではないです」
「いいですよ、痛いの好きだから」
水晶塊を思わせる喉仏が動いて、ソウビは低く掠れた笑い声を上げた。
悪い冗談にしか聞こえないのに、そこには確かに自嘲が含まれている。
胸の奥がちりと鳴った。
まるで知らないうちに細く切れない鎖で絡め取られたようなその音が、ソウビに出会って以来ずっと、ルチアの中に居着いている。
「音」
「……え」
「音、しなかったでしょ」
──聞こえてしまったのかと思った。
「大丈夫」とソウビは微笑んだ。
これ以上鎖が鳴らないように、ルチアはネクタイの上から肋の隙間に爪を立てた。
礼拝堂の出来事を回想する。
眩暈の後、腕を引かれて、一瞬の浮遊感。
目を開けるとこの人が背中から倒れていて、ルチアは彼を押し倒す形で彼に──。
この日のために信徒の皆でワックスをかけた木製の床だ。
びたんとかばちんとか言いそうなものなのに、派手な打音は記憶にない。
礼服の下で、何故だか産毛が逆立った。
ソウビが立ち上がる。
ルチアは追従し、腕時計を確かめる。
気付けば随分長く引き留めてしまっていた。
正式なキリスト教の結婚式には披露宴がないので、式自体は一時間もあれば終了する。
残るは退場後のフラワーシャワーくらいか。
衝動に任せて殆どエスケープしてしまった。
「それよりも」
言いながら、ソウビが覗き込むように鼻先を近付けてきた。
その肌の肌理に絶句する。
「あちらのオッサンはお知り合い? あなたが俺を見つめるくらい、熱烈にこちらを窺っているが」
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