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プロローグ
或いはガブリエルにさよなら(3)
しおりを挟む「いつでもご連絡ください」
電話番号の下三桁が、666だった。
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揶揄を受け、ルチアは木香薔薇が繁るアーチの向こうに視線を逃がした。
首から上に籠った熱も、一緒に飛んで行ってくれたならいいのに。
赤薔薇の生い茂る正門前に、薄汚れたカーキのジャンパーと、灰色のズボン姿の男が立っていた。
ステンドグラスのガブリエルを忌避しながら、ルチアがこの教会に隠れ住む原因そのものが。
血流が足元まで一気に降下する。
目を合わせてはいけない。
近付いてはいけない。
ここで暮らしていることを、あの男に悟られてはいけない。
すぐにでも警察を呼ぶべきだ。牧師に伝えなければならない。
母にも電話をして、当分付近へは来ないよう言い含めなくては。
後をつけられたら勤め先がばれてしまう。
生徒たちに知られれば噂が広まるのは一瞬だ。
もう学校にはいられない。
今は結婚式の最中で、この晴れの日に、誰がこんな話題を耳にしたいと思うだろう。
そうまで自分が憎いのか。
なんで、どうして、今日に限って──。
恐怖で散漫になった思考は絡まって渦巻いて、ルチアの心を内側から破壊する。
「お困りですか?」
あれが自分の父であると、今は誰よりソウビに知られたくなくて、黙っていた。
ソウビはそれ以上ルチアを問い詰めず、隣で手持ち無沙汰そうに腕を組んだ。
──ああ。きっと、興覚めだろう。
このまま咲かない薔薇と自分の影に溶けて消えてしまいたかった。
「傷付けないで」
頬と下唇に、ソウビの指が伸びてきた。
触れられる寸前、ルチアは後方に強く身を引いた。
我知らず噛み切った粘膜から血の味がした。
ルチアが拒んだ瞬間の菫色の星は何故だか必死で、少しだけ、濡れて光っていた。
彼の初めて見せた激しい感情と表情に、頭の先から杭で貫かれたように動けなくなる。
「……望みがあるのなら、あなたは俺に、頷くだけでいい」
ソウビがサングラスのブリッジを押し上げ、頭上で囁いた。
声は優しい。
見上げた美貌が涙で滲む。
彼が何者なのかも、何を考えているのかも分からない。
しかしルチアは──頷いた。
あの男から救い出してくれるならば悪魔でもいいと思った。
視界を覆っていた水の膜が、睫毛の先から珠になって滴り落ちる。
ついさっき出会ったというのに、彼には情けないところを見られてばかりだ。
ソウビはルチアを見下ろしたまま、「主はまさにご自分に似せて人を創り給うたな」と呟いた。
突然、猛烈な勢いで犬が吠え立てるのが聞こえた。
リードをつけた大きなゴールデンレトリーバーが二頭、父に向って咆哮している。
飼い主らしき人物の姿はない。
驚いてそちらに気を取られる父の傍から、ぎいぎいと金属の擦れる嫌な音がし始める。
教会を囲うレンガ塀の上で、ルージュ・ピエールドゥロンサールを誘引した鉄柵が傾いていた。
ルチアの前で、まるで目に見えない巨人の腕が草を毟るように、塀に埋められた基礎から千切り取られてひしゃげていく。
捻り上げられ一束に纏められた鉄塊は蔓薔薇を巻き込んだ巨大な鉾と化し、父目がけて突き下ろされる。
長い遠吠え。赤い飛沫が飛び散った。
コンクリートの破砕音。ルチアは思わず目を閉じて顔を背けた。
「大丈夫ですか」と女性が叫んだ。
恐る恐る様子を窺う。
声の主、二頭の飼い主と思われる女性が路傍に膝を着いていた。
腰を抜かした父に怪我はない。
彼女の手を振り払い、這いずりながら逃げ出していく。
大型犬たちは先ほどまでの剣幕が嘘かと思われるほど穏やかに、追いついた飼い主の傍らに控えていた。
鉄の槍に深々と貫かれ、割れ砕けたコンクリートの地面に、ルージュ・ピエールドゥロンサールの赤い花びらが血だまりのごとく広がっていた。
父を見送るソウビの口元には獰猛な笑みがある。
真珠色の犬歯がとても鋭い。
サングラスの隙間から覗ける横顔の瞳が、熾火の燻るような燐光を放っていた。
「あなた、は」
──私は一体、何に助けを請うてしまった?
「最後にもうひとつ」
硬直したルチアの長い毛先に伸びかけた指が空中で止まって、触れることなく彼のポケットへ戻っていった。
「ガブリエルとは、全然似ていない。──またね、ルチアちゃん」
ウェディングベルが鳴り響いた。
「あのっ、真瀬さん!」
ルチアは立ち去ろうとするソウビを呼び止めた。
振り返った瞬間の意外そうな表情に、気取ることを忘れた彼の生身を感じ、今度は明確に、心臓が強く脈を打つ。
夫婦の門出を祝う白い薔薇が風に舞う。
ルチアが昨日彼らのために摘んだ『トリニティ』の花びらだ。
四十五日周期で咲く四季咲き種は、六月になれば更に大きな花をつけるだろう。
「また、お会いできますか」
おぞましい魔力の一端を見せつけたこの男に鼓動が急くのは恐怖のためか、それとも。
せめて次の薔薇が咲く前に、その答えを知りたいと思った。
木香薔薇のアーチを背に、暫し無言で佇んでいたソウビが引き返してくる。
「え?」
その展開は予想していなかったので、ルチアは少し、狼狽えた。
長い脚が再び距離を詰めるのに時間はいらなかった。
彼は一瞬前まで確実に持っていなかった小さな紙を、ルチアに向かって差し出した。
黒地に銀のインクで名前と肩書、電話番号が印字された、名刺である。
──『悪魔 真瀬ソウビ♡』
ルチアの見ている前で、小さな光が尾を引いて、下の名前に少し歪な円を描いた。
「字は考えてなかった。決めておいて」
色眼鏡の向こうの瞳が真剣だった。
受け取ったルチアの両手を握りかけ、やはりソウビは、触れることをしなかった。
「いつでもご連絡ください」
今度こそ、黒い男は白薔薇の花弁に紛れて姿を消した。
ルチアは背後に祝福の歓声を聞きながら、呆然と、再び名刺に目を落とす。
電話番号の下三桁が、666だった。
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