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1章
堕天使(ルシファー)墜落(1)
しおりを挟む「真瀬チューリップじゃあ恰好がつかないでしょ? 真瀬ひまわりとか」
「可愛いと思いますけど」
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『悪魔』来訪から二日。
定例日曜礼拝を終えて、ルチアは愛餐会の給仕に追われていた。
掃き出し窓に面した午前11時の明るいロビー。
教会員たちが軽食を摂りながら和やかに談話している。
ルチアにとっては気忙しいひとときだ。元来あれこれよく気が付く性質なので、ろくに座らずに動き回ってしまう。
各テーブルにお茶請けを足し、使用済みのティーセットを盆にまとめたときだった。
「見て、詩帆ちゃん。こちらはルチアさん。うちの教会で詩帆ちゃんの次にお若いのよ」
「中学校の先生してらっしゃるの。すごく働き者なのよ」
この日初めて礼拝に参加した女性とその幼い娘を囲んで、老齢の姉たちが口々に教える。
二日前の結婚式の日、来賓として銀嶺教会を訪れていた倉田親子だ。
式で行われた礼拝にいたく感動し、特に詩帆の方が、興味を持って来たがったのだという。
姉というのは、本人に特別な希望がない場合の女性信徒の敬称である。
皆自身の孫でも自慢するように誇らしげだった。
気恥ずかしさに加え、妙な罪悪感がある。
──大した人間ではない、私は。
なにせ悪魔に目を付けられてしまったのだ。
詩帆の母親が立ち上がり、先日の事故をルチアに詫びた。
式の後ルチアを探したが、姿が見えなかったと言った。
ソウビを追って庭に出ていたせいだ。
ルチアは目敏い姉たちに詮索される前に、「お気になさらないでください」といつもより少しだけ大きな声を出した。
「詩帆ちゃんに怪我がなくて、何よりです」
ソファに残されていた娘の詩帆が駆け寄ってくる。
「天使さま!」
ルチアは苦笑と共に首を横に振った。
しかし内心では、その悪意なき言葉の刃がいつもほど深く刺さらないことに驚いている。
──「ガブリエルとは、全然似ていない」
出会ったあの日のソウビの言葉が柔らかな防壁となって、ルチアの心を守っていた。
しかし、詩帆が腕を広げてじりじりと近付いてくるものだから、ルチアは思わず後退る。
人に触れられることに強い忌避感がある。
相手が子供であってもそれは変わらない。
時に目の前が暗くなるほどに、恐ろしい瞬間が、ある。
不意に窓の一面が陽光を遮って、硝子をノックする音がした。
座っていた人々、特に婦人たちが感嘆した。
朝の光の飛沫を浴びて尚黒く青く煌めく髪、白い蝶翅のように偏光する白い肌と黒いサングラス。
細身のダークスーツに身を包んだ真瀬ソウビが、窓の向こうに立っていた。
ソウビはルチアただひとりに向かって左手を上げ、指をひらひらさせて笑った。
❖ ❖ ❖
ルチアは玄関を出て、ロビーから死角になる牧師館前の花壇の方へ、ソウビを導いた。
ルシファーは、今日も咲かない。
「……電話をかけた覚えはありませんが」
「してください。お待ちしています」
「今日は、なぜここに?」
「困っていたようなので」
「それだけですか?」
「それ以上の理由は必要ないかと」
ソウビが小さくサングラスを下げた。
その細い瞳孔で、一体いつからルチアのことを見ていたのだろう。
いや。どれほど早く見積もっても、姿を現したのはルチアが詩帆から一歩後退ったその瞬間だった。
──やはり、人ではない。
些細な違和感が積み重なって確信を強めていく。
今は父を襲った際のおぞましさは微塵も感じられず、紫の蛇の瞳は、今日も美しくて、優しくて、寂しかった。
「……ありがとう」
ルチアのごく小さな呟きが、この悪魔に聞こえたかどうかは分からない。
ソウビは何も言わずに、まるで処女の顎先を傾けるように繊細な仕草で、鈴なりに咲いた黄色い蔓薔薇を掬い上げる。
花芯に鼻先を埋める横顔は、額縁に収めてしまえばそのまま美術館に収蔵されるだろう。
「あまり香りがないな」
「春は水をよく吸いますから。秋になれば、もっと強く香ります」
「楽しみです」
彼が軽くキスを落とした薔薇の名が『リトルルチア』であることに気付き、いたたまれなくなって目を逸らした。
「……どうして」
──私を、選んだ。
言葉尻は木々のさざめきが攫っていく。
ルチアは所謂幼児洗礼を受けてクリスチャンになった。
本人の意思とは関係なく、代々信徒の家系に生まれた母の判断によるものだ。
確かに、元カトリックの修道女である母ほど信心深い者でない自覚はある。
不測の事態があれば主の意思を汲みあぐねて立ち止まるし、与えられるすべてをより良い未来へ至るための導きと受け入れるのは難しい。
それでも、幼い頃から余程の用事がなければ日曜日の礼拝には欠かさず出席し、自身に関わる人の幸福と安寧を、日々真剣に祈っている。
眠れない夜は聖書の御言葉に慰めを求めることだってある。
「悪魔につけ狙われるほど信心深くも、不信仰でもないつもりですが」
聖書の記述に則れば、悪魔の訪れは神が従僕の忠誠を試すための試練であるとか。
古今の物語によると、悪魔は非常に美味な、悪徳に満ちた魂と引き換えに、その主にどんな願いも叶えてくれる契約を持ち掛けるのだとか。
いずれの例も自分に当て嵌まるものではなさそうだ。
ソウビは悪びれもせず「そうでしょうとも」と言ってのけた。
それはそれで複雑である。
悪徳。
この胸に蟠る沼の底の怪物を、ルチアがひた隠しに努める醜さを見透かされているのか。
今のところ、ソウビがルチアの抱えた呪いのような過去に触れる様子はない。
──それどころか。
ルチアは二度頭を振った。
そうして心の隙間に入り込むことこそが策略なのかもしれない。
「……お引き取りください」
「また会いたいって言ってくれたのに」
「悪魔だなんて思わないから」
「まあしかし」とソウビは話を逸らした。
「四月のうちに会いに来ておいてよかった」
会いに来た、と言うからには、ルチアはやはりソウビ自らの意思で選び出されたらしい。
「なぜです?」
「真瀬チューリップじゃあ恰好がつかないでしょ? 真瀬ひまわりとか」
あんまり整いすぎた顔のため、冗談のつもりかどうかもよく分からない。
「可愛いと思いますけど」
確かに似合わないし、多少、呼びにくいが。
「薔薇が好きなんでしょ? ルチアは」
「花は概ね好きですよ。チューリップも」
大方予想はしていたが、真瀬ソウビも、所謂真名ではないのだろう。
ルチアが好む花だから、その名称を借り受けたのか。
理由が、意図が、分からない。
呑気ながら抜け目のない振る舞いで警戒心を解き、少しずつ懐柔するつもりだろうか。
気は抜けない。遠い場所から探りを入れる。
「……じゃあ、真瀬というのは?」
それにしても少し、遠すぎたか。
好奇心に勝てなかったとも言う。
「あなたなら、お分かりかと」
ルチアの知る『マナセ』は、聖書に書かれた古ヘブル語の「忘れさせる」ことを意味する言葉だった。
──何を忘れさせてくれようというのだ。
「なんてね。本当は誰かにもらったんです。遠い昔のことなので、相手の顔も、定かじゃないが」
ソウビは肩を竦めて笑った。
悪魔が忘れるほど遠い昔なんて、余程悠久の彼方だろう。
ルチアの胸で、細い鎖がちりと音を立てた。
──いや、これは。
棘か。
心臓近くの柔らかな場所を、小さな棘が貫いた。
「字は決まりましたか」
「え?」
「あなたのくれる名前が欲しい」
あれからまだ二日だ。
名前は大事なものだから。
そんなに、簡単に。
あなたのことを何も知らないのに。
それが押し売りの契約の証でないと証明してくれなければ。
黒い硝子の向こうの瞳が、先ほどまでの妖美さとは違った邪気の無い期待に満ちている。
何だか毒気を抜かれてしまい、用意していたどんな言い訳も声にならなかった。
「……想う、灯」
本当は、二日間彼のくれた間抜けな黒い名刺ばかり眺めていた。
ノートを開いて、本を捲って、美しい字を拾っては書き付けた。
名付けには責任が伴う。たとえ気まぐれに決めた偽名であれ、本人が飽きるまではその名で過ごすつもりなのだろう。
いつか真瀬の姓を与えた誰かと同じく、ルチアのことを忘れてしまったとしても。
生まれつきの生真面目さは、ルチアに投げやりな態度を許さなかった。
あまり人名として一般的ではない字だ。けれど華やかな字面は、よく似合うと思った。
おもう、ともしび。
ソウビが──想灯が、小さく繰り返す。
「……ありがとう」
まるで子供がずっと欲しがっていた玩具を遂に与えられたときのように、夜空の星に手が届いた瞬間のように、はにかんだ口角が上がって、白い歯が見えた。
柄の悪いサングラスの向こうで菫の花が二輪、銀の朝露に滲んで揺れた。
ルチアは、キリスト教において悪魔とは、主の御許を離れて堕落した元天使を指すことを思い出した。
それがもし魂を売り渡す契約に印をすることであっても悔いはないと思わせるほど美しく、寂しくて、胸に刺さった野蛮な棘が、甘く疼いて堪らない。
誘惑なのか。これこそが。
「どうして、ここにいるの」
何を目当てに自分の元へやってきたのかと尋ねてみた。
想灯はルチアの手を取りかけてやめ、ごまかしのようにリトルルチアの花首を撫でた。
ルチアは気付いている。
この人はルチアが望まない限り、けして身体に触らない。
そして僅か一瞬、自身が黄色の花に対して、苛烈な嫉妬を燃やしたことにも。
想灯がサングラスを外し、真っ直ぐルチアを捉える。
「あなたが欲しい」
愛の告白めいた台詞と、彼が思いがけず見せる薄ら笑いを削ぎ落した真剣な表情に、ルチアはどうしようもなく掻き乱されてしまう。
「……どういう、意味です?」
胸の内側から、棘の刺さったところから、警戒心を差し置いて熱感が伝播していく。
そんな局面でないことなんて承知しているのに。
望みは何だ。
やはりこの魂か。甘美な堕落への誘いか。
僅かばかりの信仰を、奪って何の足しになる。
ルチアが後退しかけたとき、何かに気付いた様子で、想灯が微かに息を漏らした。
リトルルチアが悪魔を拒んだ。
棘が、肌を傷付けたのだろう。
「見せてください」
ルチアは反射的に、傍へ引き返した。
「大丈夫」
想灯が喉で低く笑う声が、ルチアの腰の深い部分に重く、甘く響いた。
自分の身に何が起きたのか分からず、差し出しかけていた手を引っ込めて固まる。
──なに、今の。
その隙に、想灯は自らの患部を口に含んだ。
ベルベットの唇が白い指先を咥えて強く吸い上げる。
鮮やかすぎるコントラストに呼吸が止まった。
感覚を研ぎ澄ませて伏した長い睫毛がゆるゆると花開く瞬間、先ほどと同じ刺激が、今度はびりびりと背中まで駆け上がってきた。
「取れた」
想灯が濡れた舌先を突き出して見せる。
「……どうしたの?」
淡々と尋ねる声には、多少の怪訝さが交じっている。
ルチアが両手で顔を覆っているせいだ。
それでも目が離せなくて、結局指の隙間から覗き見ている。
なんて、なんて──耽美で、淫らな。
想灯はどうもしていない。
どうかしているのはルチアの方だ。
「……ごめんなさい!!」
ルチアはあらん限りの全速力で、その場から逃げ出した。
胸の棘を、彼にそうして吸い出されるところを、想像した。
ルチアには聞こえなかったが、想灯は暫し静かにその背を見送った後、「……しくじったな」と呟いて、頭の後ろに手をやった。
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