シュトリの指先 -Good bye,Gabriel-

海月透

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1章

堕天使(ルシファー)墜落(2)

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「悪魔バレは、まだしてないっぽい」

「というかあなた、教会でそんなに自由にしていられるんですか」

「敷地に立ち入るくらいなら、主もお許しくださるようで」


—————————————————————


 翌水曜日、ルチアの勤める私立銀嶺第一女子中学校。

 ルチアは普段、選択科目の中でも特に希望者の少ないイタリア語会話を受け持っている。 
 週に数日の非常勤なので給与はさほどよくないが、生徒もやる気のある少数精鋭で、授業の進行に遅滞がない。
 しかし、今日は自身の受け持ちのコマではなく、音楽の授業でゲスト講師を務めた。
 ミッション校において避けて通れないオラトリオの発音指南である。
 生徒たちはルチアの容姿に色めき立って落ち着かず、四十五分の授業中、音楽教師の咳払いは両手に余った。

 ルチアはルチアで、止まらない溜息を押し殺すことに必死だった。
 想灯の顔ばかり頭を過る。

 窓の外に現れたときの佇まい。
 リトルルチアに鼻先を埋める横顔。
 名前に当てた字を受け取ったときの表情。
 薔薇の棘を吸い出す、あの唇と長い舌。

 そして──「あなたが欲しい」
 その真剣な声色も。

 終業後、クラスでも特に活発な少女たちが我先にとルチアの元に集まってくる。
 日頃直接的な関わりのない生徒を担当した際にお約束の質問攻めが始まる。
 私立には転勤がなく、彼女たちの母親の代から勤めている老教師も多い。
 年若い長髪の男性教師というのは珍しいのだ。
 中には仕事のためひとつに結った髪を無遠慮に掴んで三つ編みを作ろうとする生徒もいるので、こんな日はいつもより高い位置でシニヨンにしている。

「ルチアせんせーって、クリスチャンなんですか?」
「そうですよ」
「教会に住んでるってほんと?」
「それは……ごめんなさい。ちょっと、複雑な事情があって言えないの。許してね」
「えー?」
「でも分かる。住んでそう。天使っぽいし!」

 箸が転んでもおかしい年頃の生徒たちが揃って笑い声を上げる。
 ルチアの抱える暗い沼が、ごぶりと嫌な音を立てたが──。

「……また来週。気を付けてお帰り」
 あの日ルチアを天使と罵った記憶の怪物はそれ以上浮かぶことなく、再び深くへ沈んでいった。

「……似ていない」

 ──大丈夫、ガブリエルじゃない。誰が勝手にそうと呼んでも。

 唇の内側で繰り返し、廊下を歩いているうちに、背中が軽くなってくる。
 病んだ翼をすっかり捥ぎ取られたような清々しい気分だ。
 思考の軌道修正を図る。
 今日の夕飯は何を作ろうか。
 以前使ったマカロニの残りがあっただろうか。
 少し前に冷凍した鶏肉と、随分前に開封した小麦粉は、まだ大丈夫だろうか。

 想灯は今頃何をしているのだろうか。
 また近く、会えるだろうか。

 呼べばいつでも来てくれるという銀文字の電話番号にかける勇気はない。

 ──だって、用があるわけじゃない。

 何より。

 真瀬想灯は、悪魔である。


 ❖ ❖ ❖
 
 銀嶺教会から一番近いスーパーの駐車場で、ルチアは自身のバイクを停めた。

 ヘルメットを膝の上に抱えれば、ポニーテールに結い直した髪が背中に滑り落ちる。
 仕事鞄に手を入れて、また溜息が漏れた。

「どうされました」
「忘れ物を……」
 いつも持ち歩いている買い物用のエコバッグだ。
 昨日の夜に洗濯して干したきり、替えを持つのを忘れてしまった。
 集中力に欠けている。
 
 ──それもこれも、この甘い声が耳を離れないせいで。

「こちらですか?」

 牧師お気に入りの、広げればアヒルが袋の中から手羽先と顔を突き出したデザインになる件のエコバッグ。
 普段バッグは折りたたまれて、扁平なアヒルの尻に収納されている。

 洗いたての尻──無論アヒルの──を目の前に差し出す非の打ち所がない造形の手指を目にした瞬間、後部座席に向かってヘルメットを振り抜きそうになった。
 口から吐き出しかけた心臓を、無理に飲み込んで振り返る。

 想灯が車体の後部に軽く凭れて立っている。
 スーツの上にネイビーのパール塗装が施されたフルフェイスヘルメットを被って。
 メタリックに反射するシールドを跳ね上げた下で、蛇の瞳がルチアのことを見た。

「Ciao。驚かせましたか」
 ルチアの教えるまでもない完璧な発音だった。

「……えっ。乗ってたの?」
 だとしたら全く気配を感じなかった。
 流石にぞっとして、腕の感触などなかったはずの自身の下腹の辺りを摩る。

「まさか。似合うので」
 高級スーツには不釣り合いな装いにも関わらず、確かに妙に様になっていた。

 ──いや。そうか。有り得ない。

 この人はけして、許可なく自分に触らない。

 差し出されたアヒルの尻を受け取った。
 その頃には、想灯が被っていたヘルメットはいずこかへ消えてしまっていた。
 入れ替わりに現れたサングラスがすぐに美しい瞳を隠してしまったことを、ルチアは残念に思っている。

「電話をかけた覚えはありません」
 そんな思惑はおくびにも出さず、唇をとがらせて三日前と同じ台詞を口にした。
 しなければ会いに来ないとは一言も聞かなかったけれど。

 シートを降り、知人の誰がいるとも分からない駐車場から逃げ込むように店舗を目指して歩きだす。
 想灯が連れ添って横に並んだ。

「……困ります」
 ルチアと想灯が揃っていると人目を引きすぎる。
 こちらを振り向かないのは縁石の上で昼寝するサビ猫くらいのものだった。
 早々に買い物を済ませてしまうのがいいだろう。

 試しに少し早足で引き離してみても、持て余すほどに長い想灯の脚は難なくルチアに追いついてしまう。

 ルチアは信仰者たる自分の体面を守ろうとしている。彼と親しく過ごすことは、それ自体が背信行為であるように思われた。
 洗礼を受けたのはルチアの意志ではなかったが、牧師を初め、教会で幼い頃からずっと自分のことを助け、見守ってくれる人々をルチアは信じている。
 あの人たちの信じる神は、少なくとも悪ではないはずだ。ルチアの信仰とはそういうものだ。

 だから、困っている。
 だって想灯はもう四度もルチアを助けてくれた。

「今日は、お宅の牧師のお遣いですよ」
「青沼牧師の?」

「ええ」
 想灯は、ルチアの手の中にあるアヒルの尻をつついた。

「あ──、……そうか。ごめんなさい」
 まだ一言も礼を口にしていなかったことに思い至り、反省と共に見上げる。
「……ありがとう」

「どういたしまして」
 想灯は前を向いたまま薄い笑みを浮かべたが、ルチアは彼がその直前に見せた、面食らった表情を見逃していなかった。

 度を越して麗しい姿形よりも、彼が時折晒す人間めいた感情の方に、どうしてか胸に刺さったままの棘がちりちりと鳴る。

「ルチアが困っているだろうと、あのジジイこれ見よがしに溜息をつくもので」

 教会からバイクで十分足らずの場所なのだから、ルチアが取りに戻れば済む話なのに。

「牧師に体よく使われて……」
「ねー」

 目を閉じて小首を傾げる想灯は、不満げどころか楽しそうである。

「……先生に何もしていないでしょうね」

「あのジジイにそんな隙はない」
 まるでルチアが隙だらけであると言わんばかりだが、もしそれが信仰の厚さを意味しているのなら、仕方のないことかもしれない。

「……あなたは、大丈夫だったんですか?」
 どう考えても自分が心配することではない。悪魔が祈りの霊威によって退散せしめられるならば、喜ぶべきだ。 

「悪魔バレは、まだしてないっぽい」
「というかあなた、教会でそんなに自由にしていられるんですか」

「敷地に立ち入るくらいなら、主もお許しくださるようで」
 それが礼拝堂になると、途端に吐いたり発熱したり腹を下したりするそうだ。

「……そう」
 何のことはないと聞いて、どうしてルチアはこんなにも安心しているのだろう。

 今日は何故教会に、と尋ねるのはやめておいた。
 自分に会いに来たと言われても、実は他に目的があるのだと言われても困ってしまう。

「心配してくれるの?」
「嬉しそうにしないで」

 頭上でサングラスの向こうが露骨に光った。

 ──「あなたが欲しい」

 フラッシュバックのように思い出しては、棘のある場所からまたじわじわと、温かく、少しだけ苦しい感覚が広がっていく。ルチアはその理由がまだ分からないでいた。
 理解してはいけないとも思う。

 真瀬想灯は、悪魔である。
 聖書曰く、悪魔とは堕ちた天使であり、悪意ある霊たちを統括する親玉のことだ。 
 細かな解釈は地域や時代、会派によって千差万別だが、その解釈というのだって、こうして目の前に現れたが最後どれも塵芥に帰してしまう。

 言葉を交わしている限り、想灯はただの少し妖しくて親切で、神出鬼没な若者だ。


 結局同じペースでスーパーの入口に辿り着いた。想灯はルチアが買い物カートに伸ばした手を制し、自ら押して店内へ進み入る。
 あまりの似合わなさに暫し唖然としたが、仕方なく、ルチアは陳列棚の真横を歩く想灯の隣をついていく。

「先週は、申し訳なかった。あなたを驚かせることも、怯えさせることも、本意ではない」
 想灯がルチアを振り向かずに言った。

「突然後ろに現れたら、あなたでなくとも驚きます。……そのチーズ取ってください」
 ルチアの望む商品だけが、想灯の手で整然と籠に並べられていく。
 食卓の買い物は仕事の帰りにひとりですることが多いため、不思議な気持ちになった。

「ルチア、マッシュルーム探してるって言った?」
「言いましたけど」
「さっき通り過ぎた」
「さっき言ってよ」

「そうだよね」
 思わずといった様子で想灯が噴き出し、つられてルチアも笑った。
 ふたりで売り場へ引き返してみると、並んでいたのはマッシュルームではなく大容量のうずら卵の水煮で、ルチアは膝から崩れ落ちそうになった。

「悪魔でも、こんな間違え方するんだ……」
「ツボ浅いね、ルチア」
「通ってないなと思ったもん……、キノコ売り場……」
 少し、嬉しいのかもしれない。

「……わざとじゃないです」
「もういいです。笑ってるし」
 再び歩き出すが、ルチアの肩はそれから随分長く震えていた。時折想灯にも伝染し、結局店内を半周する頃まで繰り返し思い出し笑いをした。

「……あの。私の方こそ、失礼な真似をしました」
「いや。悪魔も間違えます、神よりは」

「そうじゃなくって……日曜日」
 せっかく手を差し伸べてくれた人を置き去りにしていなくなった。戻った時には、想灯は既にいなかった。

 なぜ逃げ出したのかと想灯は聞かない。
 彼は知っているのかもしれないし、もしかしたら、ルチアを困らせることを知って、黙っているのかもしれない。
 或いは、そこに自らが傷付く可能性を見ているのだろうか。

「あなたは、何も悪くないんです」
「悪魔なのに?」

「行為と属性は別ではありませんか?」
 少なくとも日曜の逃走については、完全にルチアの方に問題があった。
 聖域で垂れ流される暴力的なまでの色気に耐えきれなかった。

 はっきり言って免疫がない。
 広く浅い友人関係ならともかく、恋人も、性的な事柄のような重要事項を相談し合える相手もいない。
 ルチア自身が、誰かとそんな距離感に至ることを極端に避けてきた。

 ひどい罪悪感と嫌悪がある。
 同じ年頃の人々が口にする猥褻な冗談以上に、淫らな邪心を抱く自分自身に。

「正しい人だな、あなたは」
 想灯が呆れの滲んだ優しい声で、真っ白な喉仏を震わせた。

 ルチアは泳いだ視線の先にあった使用未定の里芋を、さもこれを探していたのだと言わんばかりに鷲掴みにしてカートに入れた。人ならざる美貌は人の判断力を簡単に破壊する。

「そういえば、夕飯の献立は?」

「……マカロニグラタンです」
 ルチアの回答と、さして安くもない里芋の一キロ袋に、想灯は首を傾げた。
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