シュトリの指先 -Good bye,Gabriel-

海月透

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1章

堕天使(ルシファー)墜落(3)

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「マカロニグラタンは、好物です」


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 アヒルが押し出されそうなほど膨らんだ買い物袋を、想灯が下げている。
 主に一キロパックの里芋のせいだ。明日から当分煮物である。

「想灯、そこまでしてくれなくても」
「お構いなく。俺が抱えた方が安全です」
「私を女性か子供だと思っていませんか?」

「俺の行為とあなたの属性は関係ない」
 つまりは、ルチアがルチアであるというただ一点のために、手を貸していると。

 ──また、助けてもらっている。

 してもらうばかりでは不安になるのがルチアの性格で、今も拭えない悪魔に対する不信感の表れだ。
 けれど完全無欠としか言いようのない後ろ姿のどこにも、やはり欺瞞や悪意は見受けられない。
 ルチアは皺ひとつないスーツの背中を眺めながら、礼がてらバイクの後ろにどうぞと言うべきか迷い続けていた。
 相手が悪魔だからではなく、現れたときのように、恐らくは超常の力でもって移動した方が早いだろうと思ったためだ。

 ──教会に寄ってくれる気だろうけど、その後どこに行くのかも、分からないしな。

 自分は本当に彼のことを何も知らないのだ。 
 想灯の方は、どうなのだろう。ルチアをどれだけ知っているのだろう。
 この悔しさともどかしさは、何なのだろう。

「ルチア、くん」

 不意の呼びかけに思索を遮られ、ルチアは足を止めた。
 ルチアの足音が絶えたので、想灯も立ち止まり振り返った。

「ああ──いや、よかった。ここで、いつかは会えるんじゃないかと」

 土気色の肌に薄らと脂汗をかいた痩せぎすの男が、縋るようにルチアを見上げる。
 相手の顔を確認した途端、ルチアの項を氷塊が滑った。

「謝らせてください、ごめんなさい、本当に、申し訳ない」

 男は──畠山はたけやまは駆け寄って両手を組み合わせ、コンクリートに跪いて叫ぶ。
 白髪交じりの頭頂部を見下ろして、ルチアは何とも言えない気持ちになった。

 だって、彼は自分と同い年のはずなのに。
 遠巻きに不審の目を向けながら、関わるまいと人々が歩き去っていく。

「……あなたと話すことはありません。お引き取りください」
 同情に傾きそうになった意思を律して絞り出した声は、恐怖と怒りに震えていた。ルチアは
 怨嗟で歪んだ顔を背ける。

 怪物が。
 沼の底からせり上がる。
 畠山がルチアの胸を裂いて流し込んだ泥の中から。

 彼が植え付けた憎悪と、付随する罪の意識が顔を覗かせる。
 いや。罪を犯したのは彼の方なのに。
 その怪物はいつだって、畠山を許せないままのルチアを責め苛むのだ。

「お願いです、許すと言ってください。同じ主に仕える者になりました、あなたに謝るために。これは僕の誠意の証明なんです」

 尚も喚く男の、同じ紫でも想灯の瞳とは似ても似つかない色の爪先がルチアに伸びて、シルバーのサイクルジャケットを握り締める。ルチアの喉から引き攣れた空気が漏れた。

「離して‼」
「『天使さま』! 主の御名によって、どうか、許し──」

 畠山の言葉は尻切れ蜻蛉に終わり、濁った悲鳴に変わった。
 想灯が痩せ細った男の右手首を掴み上げたのだ。
 表情の一切が失せた怜悧な横顔には、男に対する興味の一滴も、一抹の慈悲もない。
 みしみしと骨の軋む嫌な音がして、畠山の苦悶の声が大きくなっていく。
 細身のスーツから想像もつかない怪力が、畠山を宙に持ち上げた。

「想灯! やめて!」
 我に返ってルチアは叫ぶ。白く大きな手が離れ、不自然に浮かび上がっていた畠山がアスファルトの上に投げ落とされた。

「もう、いいから。……帰りましょう」
 見て見ぬふりを決め込んで早足に駐車場へ急ぐ。振り返ったが最後、ルチアはきっと、地に伏して呻く畠山を助け起こしてしまう。
 緊張と強烈な不快感、そして鮮明に蘇る男との記憶が身体の中を荒れ狂って、気を抜けば胃酸を吐き戻してしまいそうだった。

 遠くなった店先、茫然自失の体で座り込む畠山が否応なしに目に映る。
 今はとにかく、ここを離れたい。バイクのグリップを握り締めた。
 想灯は眉ひとつ動かさず、シートに凭れて座るルチアを見下ろしている。
 崩れることを知らない美顔から凄まじい不機嫌が滲んで見えるのは、ルチアの願望の投影だろうか。
「……乗って」

 一瞬だけ、サングラス越しの想灯の瞳に迷いがあった。
 しかし、神々しいばかりの造形を再びどこからともなく取り出したヘルメットで覆い隠し、大人しくタンデムシートに跨る。
 背後からルチアの腹に伸びた大きな手が、今度こそ明確な躊躇を見せた。

「構いません」
 その気遣いが普段以上に有難くて、強張っていた心身が緩んでいく。
「嫌ですか」と聞くと、想灯の腕は恐る恐るといった風に下腹に回った。

「……滅相もない」
「じゃあ、ちゃんと掴まってください」

 今にも崩れ落ちそうな身体を支えられているようで、ルチアは安堵感さえ覚えている。
 もしこの関係が一時のまやかしであれ、自分を労わってくれる誰かが傍にいることは、今のルチアにとってこれ以上ない幸運だった。
 もう彼に情けない姿は見せまいという思いも、ルチアのつむじを吊り上げる。
 警察がやってくる気配はないが──そのときは包み隠さず話をしようと心に決め、銀嶺教会を目指して走り出した。

「難儀な相手にばかり付き纏われているようだ」

 想灯が耳元で囁いて、ルチアは運転中だと自分を戒める。

「俺も含めてね」

 そんなことはない、とは答えられなかった。
 二度目の赤信号で停止する頃には、激しい動悸も落ち着いていた。

「聞かないんですね」
 走行音と風の音が止んだ隙間で、想灯に問いかける。
 父のことも、畠山のことも、彼らとルチアの関係も、悪魔にとっては些末事だろうか?
 理由は分からないが、ルチアという一人の人間に拘泥し、名前を求め、守るような素振りで傍に居続けている限り、まるで興味がないとも考え難いのだが。

「一応のこと申し上げますが、何かを知っているために、黙っているわけでもない」

 悪魔といえども人の心は読めないらしい。
 ルチアがただ「ありがとう」と答えると、想灯の小さな笑い声が項をくすぐった。
 胸に刺さった棘が呼吸する。 
 こんなにも優しく笑う人が、本当に主に叛いた堕天使なのだろうか。



❖ ❖ ❖

 ルージュ・ピエールドゥロンサールの覆う塀と、木香薔薇のアーチが見えてきた。
 先日想灯が千切り取った柵の辺りには『補修中 キケン』の札がかけられている。
 工事の打ち合わせにはルチアも立ち会ったが、何が起きたらこんな壊れ方をするのかと担当者が訝っていた。

 門を潜り抜け、緩く短い坂道を乗り上げる。
 想灯はどこへ帰るのだろう。
 ルチアばかりがあれこれと探るのはフェアでない。
 沸き起こる幾つもの問いを胸の内に押しとどめ、結局、日常を取り戻すための当たり障りのない世間話に終始する。

「悪魔は食事をとるんですか?」
「食べますよ、なんでも。好みはありますが」
「ええと……、マカロニグラタンは?」

 想灯は一足先に後部座席から降り、ルチアは雨に当たらない牧師館の屋根の下に停車しながら言う。

 ヘルメットを消したサングラス越しの目元は苦笑じみていた。
「そうしてすぐに心を許すから」と想灯は視線をすぐ傍の花壇に遣り、あとは散るばかりに咲き誇るリトルルチアへ近付いて手を伸ばした。いつの間にかその両手に黒い革の手袋が嵌まっていた。

「よくない虫まで集まってくる」
 瞳と同じほどに柔らかな甘い声だ。想灯はルチアに向かって、軽く握り込んだ手を広げる。
 中から暗緑色に照るコガネムシが這い出してきた。とても大きい。

「ああ……、早いですね。最近、暖かかったから」
 コガネムシは薔薇の花を食害する。成虫が活発に飛び回るのは主に七月近くなってからだが、彼らは人より余程気候に敏感だ。

 想灯はルチアの目の前で、手首に向かって這うその虫を呆気なく握り潰した。
 薄いものが砕ける音を立て、拳の隙間から飴のような欠片が風に乗ってあてもなく舞い飛んでいく。
 もう一度開いて見せる手の内側に、命の痕跡は残っていない。
「どう、して」

「ルチアの大事な花が傷む」
 想灯は畠山の腕を掴み上げたときと同じ目をしていた。
 ルチアを見るのとはまるで違っている。

 ぞっとするほど冷厳で酷薄。
 眼前で失われる生命に関心も感慨も持っていないのだ。
 きっと奪うのが自分であっても、そうでなくても。相手が虫でも、それ以外でも。
 確かに、ルチアも害虫を見つければ捕まえて遠い場所へ放し、しつこく戻ってくるようならば捕殺する。強い罪の意識を持って。

 ──だとしても。

「……この花を愛すると決めたのは私です。あなたが殺す必要はありません」
 もしそのために主の被造物を数多殺めた廉で地獄に落ちるなら、自分だけでいいと思っている。
 これは花の世話を任されたときに貫くと決めたルチアの信念だが、二度と彼にそんな顔をさせたくないのが本心だった。

 もし想灯が、何らかの理由の元主に叛き、堕落した天使であるというのなら。
 恐ろしい以上に、悲しい。

 ルチアは初めて自分から想灯の手を取って、両手で柔く包み込んだ。
 ルチアより大きい、革手袋越しの手のひら。
 指の一節一節がとても長く、完璧な均衡を保って造形されている。まさに主なる神にしか成し得ない芸術品だ。

「これ以上、主の前に罪を重ねては、いけません」

 想灯は薄く口を開けた。いつもより暗く深い裂け目の奥で光が揺れる。
 暫し無言の時。
 あまり自分から他人の身体に触れたままでいるのもきまりが悪く、ルチアはその手を解放し、「ごめんなさい」と呟いた。知った風な口をきいたことも含めて。

 黙り込んだ想灯が、まだシートに跨ったままでいるルチアの前にしゃがみ込む。先ほどまでと打って変わったまるきり迷子の子供の表情で、上目遣いにこちらを見上げた。

「マカロニグラタンは、好物です」

 ルチアは店を出て以来やっと、小さく声を立てて笑った。
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