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1章
堕天使(ルシファー)墜落(4)
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「あなたが望むなら花の雨を降らせ、宝石で河を作る。
あらゆる醜い虫を子を産まない蝶に変え、暗闇を恐れるなら三日三晩空を照らしてあげる。
……父がお許しになる限りは」
—————————————————————
五月最初の日曜礼拝を二時間後に控えた銀嶺教会。
光の飛沫が大気中の水に反射してヴェールをなし、眩しすぎる庭を柔らかな色調に変えている。
ルチアが想灯と出会ってから一ヶ月が過ぎようとしていた。
一度も電話を鳴らさぬうちに、想灯の来訪は週に一度が二度になり、三日に一度が一日おきになった。
──というか、電話持ってるんだもんな。
過日の遭遇に思い馳せながら、ルチアは想灯と、開ききった薔薇の花殻を切り落としていた。
慣れた手つきで花首に鋏を入れる。
最近漸く、彼ら彼女らの求め訴えが分かるようになってきた──気がする。
気難しい花だと思う。
野生するに任せれば堅強だが人々のイメージする薔薇には少し遠い素朴な花となり、ただ只管に美しさを追求すれば耐病性を欠く。
品種改良を重ねられ一般流通している園芸種は、手をかけただけそれに応えてくれるものだが、ルシファーなどは後者に属する最たる花だ。
うまくいけば、中央だけが青紫に色付いた艶やかな白薔薇が見られるはずだった。
四月の終わりにやっとつけてくれた蕾は、開かずに腐り落ちてしまった。
──春の花は、見られないかな。
「蕾。残念でしたね」
傍で言う想灯もまた、暗い青色のスーツに今日もしっかり革のグローブを嵌めて、そつのない動きで浅い剪定を行っている。もう手指を傷付けないためだったのか。
「仕方がないです。自然のものですから」
ルチアは高そうな服が汚れるから手伝いはいらないと遠慮したが、「汚れてもかっこいいから大丈夫」と真顔で返されて、それ以上反論できなかった。
作業の手順に関して、ルチアが想灯に指導したことはひとつもない。
ヒトでないだけあって、想灯は相当長く生きているらしい。具体的な年数は怖くて聞けていないが、何につけても知識と経験は豊富なようだ。
「咲かせてあげられるよ」
想灯が視線でルシファーを指し示した。
それは多分、人外の力を行使することを言っているのだろう。
ルチアは軽く微笑んで首を横に振る。
「私が不自由させているのなら心苦しいですが、無理に咲いてもらうつもりもありません。気長に付き合います」
「そう言うと思ってた」
想灯もまた、手を休めずにルチアを見て笑った。
「あなたが望むなら花の雨を降らせ、宝石で河を作る」
想灯が語る声に朝陽が重なる。風が止み、鳥が囀ることをやめて庭がその他全ての音を失う。
いや。彼以外の何もかもを排除したのはルチアの耳か。
「あらゆる醜い虫を子を産まない蝶に変え、暗闇を恐れるなら三日三晩空を照らしてあげる」
父がお許しになる限りは、と想灯は言い添える。
許しを得られるかどうか、何を何故許されるのか、その指標は父なる神以外の誰にも分からない。
「悪魔に望むものは何もありません」
「ひとつも?」
「ええ。……でも、ありがとう」
想灯は意外であるとも、やはり分かっていたとも取れる見慣れた薄ら笑いで応えた。
口説き文句じみた甘い言葉のオンパレードに早鐘を打つ心臓を、深呼吸で黙らせる。
想灯の押しつけがましくない気遣いは、いつも優しくて心地良かった。
すぐ傍で手を差し伸べて、けして無理には掴まない。
ルチアがいつでも縋り付けるように待っている。
懐柔策であることを疑いながら、結局いつも甘えてしまう。
ルチアは恐れている。
その優しさの全てが悪徳の栄えのためであると肯定されることをだ。
「聞いてもいい?」
ルチアは鋏を置いて、散らばった花弁を箒で拾い集めながら問う。
「何なりと」
「悪魔が元は主に叛いた天使って、本当?」
「そういうパターンもあります」
──あなたはどうなのかが知りたいのに。
なぜ父の御許を離れることを選んだのか。
肩越しに盗み見たつもりが、わざと少し下げたサングラスの向こうの瞳と、ばっちりかち合ってしまった。
きらめく砂が流動する、黄昏色のインク瓶。
角度と光の加減によって深さを変える魔法のような色彩に、ルチアはいつまでも見惚れてしまう。
行儀が悪いと分かってはいるのだが、大抵は想灯の方が根負けして、笑いながらサングラスをかけ直す仕草をする。
近頃は彼が嫌がっているのでなく、照れて喜んでいるのだと分かってきた。
だって、想灯がわざわざ裸眼を見せる相手は、ルチアが知る限りルチアだけだ。
試されているのだろうか。
困ってしまう。
──悪魔に目を付けられて、嬉しいなんて、変だ。
菫星石の真ん中に、この世のあらゆる寂しいものを溶いて流した深淵が裂けて広がっている。
こんな目をした人を放っておくのなんて、無理な話だった。
何度も想灯と顔を合わせるうち、ルチアはその暗い場所を、どこか別のところで見たことがあるような気がしている。
何かと、或いは誰かと、重ねている?
正体を思い出すことが少しだけ怖い。
だって、こんなにも身体の内側で荒れ狂う感情が、もし想灯ではない別の何かに、誰かに向けられたものだったら。
会う度震える胸の愛おしい疼きが偽物だったら、どうすればいいのか分からない。
「切り上げよう、ルチア。俺は平気だけど、今日は少し暑い」
「……うん」
鏡のような太陽が頭の上に昇っていた。
気温は既に二十度を上回っていそうだ。休みなく動き回っていたせいもあり、首筋は薄らと汗ばんでいる。
もうじき礼拝も始まる。その前にシャワーを浴びてしまおう。
想灯の方は妬ましいほどに涼しい顔をしていた。
ルチアは用具をまとめ、花壇の向かい、牧師館を背にした白いベンチに座った。想灯も遅れてやってきて、殆ど氷が溶けたピッチャーとグラスのセットを挟んで隣に腰掛ける。
想灯の長い指が、二つ並んだコップの一方の縁を撫でた。
「ルチア。これ、俺の?」
剪定作業を始めたとき、ルチアはひとりだった。いつものように、間もなく想灯が現れて手伝ってくれたのだ。
呼んだ覚えはないと繰り返しながら、用意したグラスは二人ぶん。
平静を装って「そうですよ」と答えた。
「触ってもいい?」
想灯の手が、俯いたまま支度を続けるルチアの背中に、ポニーテールの毛先に伸びた。
耳から頬へ、不自然な温度変化が根を広げていく。
きっと、とても赤いのだろう。
自分がこんなに紅潮しやすいことを知ったのは、想灯と出会ってからだ。
想灯が許可を待っている。
ルチアが答えるまで、じっと待っている。
「……聞かなくて、いいです」
想灯が吐息で笑うのが聞こえた。
古めかしい硝子のピッチャーからハーブウォーターを注ぎ入れる手が、少し震えた。
大理石の指が、ルチアの髪に、遠慮がちに優しく絡む。
母親譲りの金髪は、時にルチアの人生で足を引っ張る枷だった。
そうして彼の肌と合わされば、不思議と美しいものに見えた。
想灯が、掬い上げた髪の先に恭しく唇を落とした。
「あ、っ」
自らの一部にして最も遠い場所の先端から、頭皮を伝って腰椎へ降りてきた緊張と刺激。
漏れた声の甘さに驚いて、ルチアは左手で自分の口元を覆った。
想灯がすぐに手を放し、正面の花壇へ遠い眼差しを遣る。
「……ごめん。調子に乗りました」
繊細な指は髪を離れ、透明な水が満たすグラスへと移った。
──なにか言わないと。
あなたは悪くないのだ。
ただ、ルチアの身体が、とてもふしだらに反応しただけ。
──嫌じゃないって、言わないと。
「あのっ」
勢い込んで顔を上げた。
想灯はグラスを持ったまま、小さな水面に目を落とし、微動だにせず固まっている。
「……想灯?」
ルチアが下から覗き込むと同時に深く長い息を吐いて、想灯は一気に、その中身を飲み干した。
あらゆる醜い虫を子を産まない蝶に変え、暗闇を恐れるなら三日三晩空を照らしてあげる。
……父がお許しになる限りは」
—————————————————————
五月最初の日曜礼拝を二時間後に控えた銀嶺教会。
光の飛沫が大気中の水に反射してヴェールをなし、眩しすぎる庭を柔らかな色調に変えている。
ルチアが想灯と出会ってから一ヶ月が過ぎようとしていた。
一度も電話を鳴らさぬうちに、想灯の来訪は週に一度が二度になり、三日に一度が一日おきになった。
──というか、電話持ってるんだもんな。
過日の遭遇に思い馳せながら、ルチアは想灯と、開ききった薔薇の花殻を切り落としていた。
慣れた手つきで花首に鋏を入れる。
最近漸く、彼ら彼女らの求め訴えが分かるようになってきた──気がする。
気難しい花だと思う。
野生するに任せれば堅強だが人々のイメージする薔薇には少し遠い素朴な花となり、ただ只管に美しさを追求すれば耐病性を欠く。
品種改良を重ねられ一般流通している園芸種は、手をかけただけそれに応えてくれるものだが、ルシファーなどは後者に属する最たる花だ。
うまくいけば、中央だけが青紫に色付いた艶やかな白薔薇が見られるはずだった。
四月の終わりにやっとつけてくれた蕾は、開かずに腐り落ちてしまった。
──春の花は、見られないかな。
「蕾。残念でしたね」
傍で言う想灯もまた、暗い青色のスーツに今日もしっかり革のグローブを嵌めて、そつのない動きで浅い剪定を行っている。もう手指を傷付けないためだったのか。
「仕方がないです。自然のものですから」
ルチアは高そうな服が汚れるから手伝いはいらないと遠慮したが、「汚れてもかっこいいから大丈夫」と真顔で返されて、それ以上反論できなかった。
作業の手順に関して、ルチアが想灯に指導したことはひとつもない。
ヒトでないだけあって、想灯は相当長く生きているらしい。具体的な年数は怖くて聞けていないが、何につけても知識と経験は豊富なようだ。
「咲かせてあげられるよ」
想灯が視線でルシファーを指し示した。
それは多分、人外の力を行使することを言っているのだろう。
ルチアは軽く微笑んで首を横に振る。
「私が不自由させているのなら心苦しいですが、無理に咲いてもらうつもりもありません。気長に付き合います」
「そう言うと思ってた」
想灯もまた、手を休めずにルチアを見て笑った。
「あなたが望むなら花の雨を降らせ、宝石で河を作る」
想灯が語る声に朝陽が重なる。風が止み、鳥が囀ることをやめて庭がその他全ての音を失う。
いや。彼以外の何もかもを排除したのはルチアの耳か。
「あらゆる醜い虫を子を産まない蝶に変え、暗闇を恐れるなら三日三晩空を照らしてあげる」
父がお許しになる限りは、と想灯は言い添える。
許しを得られるかどうか、何を何故許されるのか、その指標は父なる神以外の誰にも分からない。
「悪魔に望むものは何もありません」
「ひとつも?」
「ええ。……でも、ありがとう」
想灯は意外であるとも、やはり分かっていたとも取れる見慣れた薄ら笑いで応えた。
口説き文句じみた甘い言葉のオンパレードに早鐘を打つ心臓を、深呼吸で黙らせる。
想灯の押しつけがましくない気遣いは、いつも優しくて心地良かった。
すぐ傍で手を差し伸べて、けして無理には掴まない。
ルチアがいつでも縋り付けるように待っている。
懐柔策であることを疑いながら、結局いつも甘えてしまう。
ルチアは恐れている。
その優しさの全てが悪徳の栄えのためであると肯定されることをだ。
「聞いてもいい?」
ルチアは鋏を置いて、散らばった花弁を箒で拾い集めながら問う。
「何なりと」
「悪魔が元は主に叛いた天使って、本当?」
「そういうパターンもあります」
──あなたはどうなのかが知りたいのに。
なぜ父の御許を離れることを選んだのか。
肩越しに盗み見たつもりが、わざと少し下げたサングラスの向こうの瞳と、ばっちりかち合ってしまった。
きらめく砂が流動する、黄昏色のインク瓶。
角度と光の加減によって深さを変える魔法のような色彩に、ルチアはいつまでも見惚れてしまう。
行儀が悪いと分かってはいるのだが、大抵は想灯の方が根負けして、笑いながらサングラスをかけ直す仕草をする。
近頃は彼が嫌がっているのでなく、照れて喜んでいるのだと分かってきた。
だって、想灯がわざわざ裸眼を見せる相手は、ルチアが知る限りルチアだけだ。
試されているのだろうか。
困ってしまう。
──悪魔に目を付けられて、嬉しいなんて、変だ。
菫星石の真ん中に、この世のあらゆる寂しいものを溶いて流した深淵が裂けて広がっている。
こんな目をした人を放っておくのなんて、無理な話だった。
何度も想灯と顔を合わせるうち、ルチアはその暗い場所を、どこか別のところで見たことがあるような気がしている。
何かと、或いは誰かと、重ねている?
正体を思い出すことが少しだけ怖い。
だって、こんなにも身体の内側で荒れ狂う感情が、もし想灯ではない別の何かに、誰かに向けられたものだったら。
会う度震える胸の愛おしい疼きが偽物だったら、どうすればいいのか分からない。
「切り上げよう、ルチア。俺は平気だけど、今日は少し暑い」
「……うん」
鏡のような太陽が頭の上に昇っていた。
気温は既に二十度を上回っていそうだ。休みなく動き回っていたせいもあり、首筋は薄らと汗ばんでいる。
もうじき礼拝も始まる。その前にシャワーを浴びてしまおう。
想灯の方は妬ましいほどに涼しい顔をしていた。
ルチアは用具をまとめ、花壇の向かい、牧師館を背にした白いベンチに座った。想灯も遅れてやってきて、殆ど氷が溶けたピッチャーとグラスのセットを挟んで隣に腰掛ける。
想灯の長い指が、二つ並んだコップの一方の縁を撫でた。
「ルチア。これ、俺の?」
剪定作業を始めたとき、ルチアはひとりだった。いつものように、間もなく想灯が現れて手伝ってくれたのだ。
呼んだ覚えはないと繰り返しながら、用意したグラスは二人ぶん。
平静を装って「そうですよ」と答えた。
「触ってもいい?」
想灯の手が、俯いたまま支度を続けるルチアの背中に、ポニーテールの毛先に伸びた。
耳から頬へ、不自然な温度変化が根を広げていく。
きっと、とても赤いのだろう。
自分がこんなに紅潮しやすいことを知ったのは、想灯と出会ってからだ。
想灯が許可を待っている。
ルチアが答えるまで、じっと待っている。
「……聞かなくて、いいです」
想灯が吐息で笑うのが聞こえた。
古めかしい硝子のピッチャーからハーブウォーターを注ぎ入れる手が、少し震えた。
大理石の指が、ルチアの髪に、遠慮がちに優しく絡む。
母親譲りの金髪は、時にルチアの人生で足を引っ張る枷だった。
そうして彼の肌と合わされば、不思議と美しいものに見えた。
想灯が、掬い上げた髪の先に恭しく唇を落とした。
「あ、っ」
自らの一部にして最も遠い場所の先端から、頭皮を伝って腰椎へ降りてきた緊張と刺激。
漏れた声の甘さに驚いて、ルチアは左手で自分の口元を覆った。
想灯がすぐに手を放し、正面の花壇へ遠い眼差しを遣る。
「……ごめん。調子に乗りました」
繊細な指は髪を離れ、透明な水が満たすグラスへと移った。
──なにか言わないと。
あなたは悪くないのだ。
ただ、ルチアの身体が、とてもふしだらに反応しただけ。
──嫌じゃないって、言わないと。
「あのっ」
勢い込んで顔を上げた。
想灯はグラスを持ったまま、小さな水面に目を落とし、微動だにせず固まっている。
「……想灯?」
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