王宮メイドは元聖女

夜風 りん

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翼の標

ep5

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 アリシアはナハトの後を追いかけるようにして歩いていたが、不意に足を止めた。

 「行き止まりですよ…?」

 目の前には城壁がそそり立っており、いつの間にか奥深くまで到達していたことに気づかされて戸惑っていると、ナハトは緩々と首を横に振って目の前にあるコケに覆われた石のような物体に足を下ろした。

 すると、その岩を覆うようにして生えていた大樹がユサユサと揺れ、その岩が持ち上がって四本の足が生えたような錯覚と、そして、その岩が蠢くのが見えた。

 「久しいな、クルニス」

 ナハトがそう声をかけると、その岩のような物体がゆっくりと振り返り、ワニのような巨大な顔をこちらに向けて大きく口を開いて欠伸をした。


 『もう少し優しく起こしてくれないのかい?』


 「前と同じく急いでいる」

 ナハトがそう言うと、その巨大な生き物は眠たそうに瞬きをしながらのんびりと小首を傾げた。

 『人間とは、せっかちな生き物だね。――でもいいよ、小さき友よ。君の頼みならばいいとも』

 ナハトが軽やかにその背中に駆け上がると、飛燕が一瞬でナイフに替わり、そのナイフで木を切りつけた。
 そして、そこから溢れ出た樹液を指でとり、仮面を外して樹液を傷口に塗り込んだ。そんなナハトの様子を見ながらアリシアはその生き物――ラクラにお願いを告げる。

 「あの、私も花を摘んでもいいでしょうか?」

 『おや、可愛いお客人だ。小さき友のお連れさんかな? いやはや、小さき友が女性を連れてくるなんて、200年ぶりだ。あの時のレディも美しかったが、今回のレディもとても美しい。お目が高いね』

 ナハトが不機嫌そうにラクラを睨んだ。

 「皮肉か?」

 『そんなことはないよ。人はいつか死ぬ。――これは道理だからね。200年も生きていられる人間なんていない。それ以上生きているとしたら、それは人ではない。別の何かだ。…なんてね』

 「そう、かもな」

 アリシアは口の中で小さく呟いた。

 「200年…?」

 ラクラが振り返る。

 『そう、200年。小さき友は聖龍だからね。”無の聖龍”ギルストーレ・ファレノ・ノシュ・ダーヴィスは大昔、幼い私を助けてくれた。だから、今回の人生では恩返しができて嬉しいんだよ』

 ナハトが慌てたようにラクラを振り返った。


 「…ッ、バカ! 何を勝手に口走って…――」


 その瞬間、絶対零度ともいえるほどの空気の冷え込みが広がり、ほとばしるような寒気と、背筋が凍るほどの殺意を感じてアリシアが動きを止めた。
 ナハトも同じように動きを止め、ぎこちないしぐさでゆっくりと振り返る。


 「ほぅ…ギルストーレ。お前が私の領地を徘徊し、勝手をしてくれていたのか」


 いつになく感情のない冷たい声でその声は告げる。
 アリシアも振り返ると、そこには全身に殺意を滾らせた漆黒の龍が佇んでいた。

 龍の顔をしているが、大きな嘴を持つ口。その口にずらりと並んだ白い牙。前足と翼が一緒になったワイバーンタイプの龍であり、その前身が漆黒の羽毛で覆われている。翼も羽毛で覆われ、まるで堕天使の双翼のように見えた。
 その背には青い模様が散っているその龍は爛々と薄氷色の瞳を輝かせているが、そこに銀の虹彩が浮かんでおり、ほとばしる殺意の中に莫大な魔力を感じるほど、練り上げているのがわかる状態だった。

 「聖龍シリウス様…」

 アリシアがゴクンと生唾を飲むと、ナハトはラクラの背から降り立ち、アリシアを庇うように立った。

 「勝手にウロウロとしたことについては謝る。だが…縄張りを荒らしに来たわけじゃない」

 「ほぅ? 縄張り荒らしが目的ではない、と?」

 シリウスは身を乗り出してナハトを見据え、目を細めた。


 「――それにしても、お前。トチったな。その顔の傷…」


 怒りの気配が消え、シリウスが目を細めて動きを止めたのでナハトは瞼を伏せた。

 「ああ。ずっと昔、変態貴族に捕まってこのザマだ」

 「そうか。それより、お前。彼女にマーキングを残しただろう? 馬たちはそういうことに鈍いから気が付かないが、龍騎士の龍たちはずっとソワソワしているぞ」

 シリウスが呆れ顔をしたので、ナハトは得意げに不敵な笑みを浮かべ、アリシアを抱き寄せた。


 「何って、決まっているだろう? 俺は彼女を手に入れる。そう決めたからな」


 「…はい?」

 キョトンとしたアリシアに、ナハトはニヤリと笑ってみせた。


 「そういうことだから、。俺はあんたを手に入れて見せるから、覚悟しておけよ?」


 そう言ったナハトはアリシアを離してから樹液を小瓶に採ると、一緒に花を摘んで、また彼女の元に舞い戻ってその手にラクラの花を握らせ、仮面を付け直した顔で微笑みかけた。

 「な、なにを言っているんですか…」

 「本気じゃないと思っているんだろう?」

 ナハトはアリシアの顎を軽く持ち上げると、アリシアの表情が赤くなった。それを見て彼は満足そうに口元を緩め、身を乗り出した。
 仮面が額に触れてその冷たさが伝わるほど顔が近づき、そして、彼女の唇に軽く唇が重ねられた。


 「またな、アリス」


 ナハトはそう言って微笑むと、シリウスの方に何かを投げつけた。

 「ドヴォルジークがあんたを寂しがっていた。大学を出たら戻ってやったらどうだ?」

 「考えておくと伝えておいてくれ。――それと、責任を取らない男は許せない性質だから新月の夜は気を付けた方がいい」

 「おぉ、こわっ」

 ナハトがおどけたようにそう言うと、顔を真っ赤にしたまま固まっているアリシアを抱き上げてシリウスの元に運び、シリウスが巨大な前足で受け取った。

 「事前に話しておいてくれれば俺も出張る必要はなかったんだが」

 「銀龍は誰よりも臆病なんだよ」

 「…出会った人間が変態だった、それだけだろう?」

 シリウスはアリシアを背中に乗せてやると、顔を真っ赤にして放心状態の彼女を落とさないように気を付けて舞い上がった。
 それを見送ったナハトは仮面を外すと樹液でデロデロになっているそれを拭った。


 「飛燕、次に会う時は指輪を用意しなくちゃな?」


 ナイフから白い鳥の姿に戻った飛燕は遠い目をした。

 「…キスしたくらいで婚約なんてなるわけないじゃないか、ナハト」

 「冗談に決まっているだろう? 珍しく素直に宣言したんだから」

 「ナハトが樹液並みにデロデロに甘くなっているなんて珍しいね」

 「表現の仕方、酷くないか?」

 そう言いながらも、ナハトの声が弾んでいることに飛燕は敢えて突っ込まずにおいた。

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