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6話 我が家のルール
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「さ、小田桐、入って」
「う、うん、お邪魔します……」
『眞島』家の新居に少しドキドキしながら玄関でスニーカーを脱ぐ。
多分リフォームされているのだろう、古びた外観に反して中はけっこう綺麗そうだ。
「こっちがキッチンに続く扉……」
玄関から入ってすぐ右側にある扉を開けるとそこはダイニングキッチンだった。
キッチンには入らずに玄関からまっすぐ伸びる廊下を進む。
廊下の左側には洗面所、お風呂、トイレが並んでいて、突き当たりに扉があった。
大野君が扉を開ける。
ベランダに面した六畳ほどの洋室。
部屋の中はいくつか段ボールが積まれているだけでガランとしている。
「な、一部屋空いてるっていうのホントだったろ?」
「う、うん……」
部屋の右奥の壁には作り付けのクローゼット。
「この収納の向こうが俺の部屋。隣り合ってはいるけどイビキは聞こえないと思うから安心して」
そう言ってニコッと笑う。
「大野君、イビキかくの?」
「イヤだな、小田桐のイビキだよ」
大野君はいたずらっ子の様にペロッと舌を出して見せた。
「もうっ!」
「ハハハッ、ジョークだって」
大野君は笑いながら廊下に戻る。
もうっ、イビキなんて失礼な!
……でも、大野君のおかげで緊張なんて吹き飛んだよ。
「で、ここが俺の部屋ね」
ダイニングキッチンの奥にもさっきの洋室とそっくりな部屋があって大野君はそこを主に使っている様だった。
ベランダに面していて、左手前の壁にはクローゼット。
床にはカーペットを敷いて、ベッドとテレビボードと小さな丸テーブルが置かれている。
引っ越したばかりの部屋は少し段ボールが残っているものの随分片付いていた。
大野君はエアコンのスイッチを入れると話し出した。
「俺さぁ、もともと1LDKの物件を探していたんだけど、いいのが見つからずに不動産屋の勧めでここに決めたんだよね。平米数は同じくらいだって言われて」
「うん」
「不動産屋からはキッチンとつながっているこの部屋をリビングにして、あっちの部屋を寝室にすればいいですよって言われたんだけど……そもそも一人暮らしだとリビングと寝室を分ける必要がないっていう事に引っ越してから気が付いてさ……。テレビ見ててウトウトしたらそのまま眠りたいのに、わざわざ寝る為にあっちの部屋に行くのがめんどくさいっていうか、ぶっちゃけ、あの部屋、隣にあるクセにこの部屋から遠いんだよね……それであの部屋が余ってしまったってワケ」
大野君はそう話しながらキッチンに行くと薬缶を火にかけた。
「ま、とりあえずコーヒーでも飲もう……体、冷えてるだろ?」
「ありがとう……」
確かに真冬のバイクでの移動は凄く寒かった。けど……。
人目を気にせずにしがみついた大野君の背中が頼もしくて、温かくて……安心もしたんだ。
ホントは不安でいっぱいのはずの『家出』が大野君のおかげで『駆け落ち』になって……。
私は一人きりじゃない、大丈夫だ、きっとうまくいく、ってすごく心強かった。
「私ね……バイク好きだよ。とっても楽しかった」
「そっか……それはうれしいな。もう二度と乗りたくないって言われたらどうしようかと思った」
大野君は目を細めながらインスタントコーヒーを渡してくれた。
大野君の部屋の床に並んで座る。
濃い目に淹れられたコーヒーは少し苦くて大人の味がした……。
「じゃあ、小田桐、まずはルールを決めようぜ」
「ルール……?」
「そう、一緒に住むにあたって簡単なルールは必要だろ?」
そ、そっか……。
「あ、大野君。私、ここの家賃はちゃんと払うよ。……できれば『居候』じゃなくて『シェアハウス』という事で……お願いします」
私は大野君に向き直って頭を下げる。当座の資金はあるからそこはちゃんとしておきたい。
「シェアハウスね……そうだな、その方が小田桐がここにいやすいのなら、それでいいよ」
「ありがとう」
大野君はゆったりした動作でマグカップを小さな丸テーブルに置いてベッドに寄りかかる。
そして両手をあげて伸びをしながら言った。
「まあ……はたから見りゃ俺たち、『同棲』してるように見えちゃうだろうけどね……」
ど、どど、同棲って……!
そ、それは勘弁してください……。
私達、今朝再会したばっかだよ。
そんな甘い関係じゃないはず……。
私がそっと大野君から距離を置こうとすると、
「そう警戒しないで……何もしないって言ったろ?……冗談だよ、冗談」
と笑った。
「大体小田桐、そんなにちっこくて昔の妹の服なんて着てるから……もう妹にしか見れないよ……」
妹? 妹かぁ……。
そ、そう言われるのも淋しいような……。
ホッとするような……。
ちょっぴり複雑な気分だ。
「で、ルールその1は……そうだな、許可なしに、お互いの部屋に入らない。やっぱ、これだろうな……。小田桐の部屋に勝手に入るようなことはしないから……安心して」
「……わかった」
大野君はコピー用紙にマジックで、
『我が家のルール、その1、勝手に部屋に入らない』
と書いた。
眞島家のルールじゃなくて我が家のって書くところが大野君らしい優しさだ……。
「じゃあ、ルールその2は……?」
「家事の分担について……かな? 基本的に自分の事は自分でするっていうのでどう?」
「え? あ、うん……でも、ゴメン。私……家事は全然できないと思う」
これまで全く家の事をやらずに生きてきた。
改めて自分が甘えていたことに気が付く。
「ああ、それは期待してないから大丈夫」
「ひ、ひどい」
「悪い悪い、別に意地悪で言ってるわけじゃなくて、小田桐に俺の分の洗濯とかまでさせる気はないよってこと。女だからって小田桐に全部押し付ける気はないよ」
「う、うん」
それはありがたいけど……。
「心配すんな、家事は俺がちゃんと教えてやる。すぐに出来るようになるさ。自立するために必要な事なんだから、しっかり覚えろよ」
私は何度もうなずく。
「うん、ありがとう、大野君。ホントにありがとう」
「明日からビシバシ鍛えてやるからな。覚悟しろ……ま、すべてお兄ちゃんに任せなさい」
大野君はそう言ってこぶしで胸を軽く二回叩いた。
「色々教えてください、お兄ちゃん……!」
「じゃあ、お兄ちゃんとしてひとつ大切なことを教えておくけど……小田桐はもう少し自分を大切にした方がいい、男の部屋なんか簡単に着いて行ったらダメだ。男なんて何を考えているか分からないんだから……少しは警戒しなさい」
「っ! トーマセンセ……! い、い、今すぐ掃除機を持ってきてくださいっ!!」
冬馬先生のマンションの広いリビングには質の良さそうなダイニングセットとリビングテーブル、ソファー、キャビネットなどが置かれている。そのどれもが書類の束に埋もれていた。
毎日寝に帰るだけって言っていたけど、きっと家でも四六時中仕事をしているのだろう。
荒れた部屋を見渡していると冬馬先生がどこでどのように過ごしているのか容易に想像できた。
どちらのテーブルにも開いたままのファイルがいくつも置きっぱなしだ。
食事中も視線は書類にくぎ付けなんだろう。
ソファーの座面には読みかけの本や新聞が散乱していてゆっくり座れるスペースはない。
ソファーの横には難しそうな本が平積みにされている。
おまけに背もたれには脱ぎ散らかした部屋着やワイシャツがこれでもかとかかっている。
……正直、よくここまで散らかしたもんだ。
なんて! 感心している場合じゃない!
まずはこの埃っぽい部屋を何とかしないと、話し合いどころじゃないよ。
さっきの恐怖なんてすっかり吹き飛んで、私はしばらく片付けと掃除に没頭した。
冬馬先生に確認しながら散乱した書類を一か所にまとめ、汚れものを洗濯機に突っ込んで、掃除機をかけると部屋は少しマシになった。
「いやー、千尋さん、ありがとう……本当に助かりました。しかし、あなたにこんな才能があったとは!」
冬馬先生は大げさに驚いて見せた。
確かに冬馬先生の知る駆け落ち前の私は家の手伝いすらしたことがなかったから驚くのも無理はない。
私がこうやって家事が出来るようになったのはすべて大野君のおかげだ。
私は、ふと大野君の事を思い出した。
『明日からビシバシ鍛えてやるからな。覚悟しろよ……ま、すべてお兄ちゃんに任せなさい』
そう言って胸を叩いて見せたっけ?
「それは……鍛えられたので……」
そう呟いて掃除機を片付けようとしゃがんだら急に後ろから冬馬先生に抱きしめられた。
「あなたの中に誰かの影が見えるのは気分が悪いですね」
「ちょっ、トーマ先生っ……!」
ふいにさっきのキスの感触がよみがえってきて心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。
「先生……はなして……」
先生の腕は私をしっかりと捕まえていてとても逃げられそうにない。
「は……センセ……」
全身が心臓になったみたいに自分の鼓動を強く感じて苦しいくらいだ。
呼吸が荒くなり肩が大きく上下する。
『男の部屋なんか簡単に着いて行ったらダメだ。男なんて何を考えているか分からないんだから……少しは警戒しなさい』
また、大野君の言葉を思い出した。
「……ひろさん、千尋さん」
「……はっ、はいっ」
耳元で低い声で呼びかけられてビクンッと反応してしまう。
「また……誰かの事を考えていましたね……私といる時に他の人の事を考えるのはルール違反ですよ……」
そう息を吹きかけるように囁かれる。
「んん……そ、そんなルール……。や、破ったらどうなるんですか……?」
冬馬先生は私を抱きしめる腕を緩めると立ち上がった。
私が息を切らしてその場から動けずにいると立ち上がれるよう手を貸してくれる。
「先生……?」
手をつないだまま互いにじっと見つめあう。
私を見下ろす冬馬先生の切れ長の瞳が色を帯びている事に戸惑って私はうつむいた。
冬馬先生の顔を直視できない。
美しすぎる……。
「千尋さん……私たちは偽りとは言え婚約者なのですから、早くこの距離に慣れてくださらないと」
冬馬先生に顎を持ち上げられ私は先生の顔を見上げた。
「私といる時は、私の事だけを見ること……もし、ルールを破ったその時は……私の事を、イヤというほど思い出させて差し上げます」
「う、うん、お邪魔します……」
『眞島』家の新居に少しドキドキしながら玄関でスニーカーを脱ぐ。
多分リフォームされているのだろう、古びた外観に反して中はけっこう綺麗そうだ。
「こっちがキッチンに続く扉……」
玄関から入ってすぐ右側にある扉を開けるとそこはダイニングキッチンだった。
キッチンには入らずに玄関からまっすぐ伸びる廊下を進む。
廊下の左側には洗面所、お風呂、トイレが並んでいて、突き当たりに扉があった。
大野君が扉を開ける。
ベランダに面した六畳ほどの洋室。
部屋の中はいくつか段ボールが積まれているだけでガランとしている。
「な、一部屋空いてるっていうのホントだったろ?」
「う、うん……」
部屋の右奥の壁には作り付けのクローゼット。
「この収納の向こうが俺の部屋。隣り合ってはいるけどイビキは聞こえないと思うから安心して」
そう言ってニコッと笑う。
「大野君、イビキかくの?」
「イヤだな、小田桐のイビキだよ」
大野君はいたずらっ子の様にペロッと舌を出して見せた。
「もうっ!」
「ハハハッ、ジョークだって」
大野君は笑いながら廊下に戻る。
もうっ、イビキなんて失礼な!
……でも、大野君のおかげで緊張なんて吹き飛んだよ。
「で、ここが俺の部屋ね」
ダイニングキッチンの奥にもさっきの洋室とそっくりな部屋があって大野君はそこを主に使っている様だった。
ベランダに面していて、左手前の壁にはクローゼット。
床にはカーペットを敷いて、ベッドとテレビボードと小さな丸テーブルが置かれている。
引っ越したばかりの部屋は少し段ボールが残っているものの随分片付いていた。
大野君はエアコンのスイッチを入れると話し出した。
「俺さぁ、もともと1LDKの物件を探していたんだけど、いいのが見つからずに不動産屋の勧めでここに決めたんだよね。平米数は同じくらいだって言われて」
「うん」
「不動産屋からはキッチンとつながっているこの部屋をリビングにして、あっちの部屋を寝室にすればいいですよって言われたんだけど……そもそも一人暮らしだとリビングと寝室を分ける必要がないっていう事に引っ越してから気が付いてさ……。テレビ見ててウトウトしたらそのまま眠りたいのに、わざわざ寝る為にあっちの部屋に行くのがめんどくさいっていうか、ぶっちゃけ、あの部屋、隣にあるクセにこの部屋から遠いんだよね……それであの部屋が余ってしまったってワケ」
大野君はそう話しながらキッチンに行くと薬缶を火にかけた。
「ま、とりあえずコーヒーでも飲もう……体、冷えてるだろ?」
「ありがとう……」
確かに真冬のバイクでの移動は凄く寒かった。けど……。
人目を気にせずにしがみついた大野君の背中が頼もしくて、温かくて……安心もしたんだ。
ホントは不安でいっぱいのはずの『家出』が大野君のおかげで『駆け落ち』になって……。
私は一人きりじゃない、大丈夫だ、きっとうまくいく、ってすごく心強かった。
「私ね……バイク好きだよ。とっても楽しかった」
「そっか……それはうれしいな。もう二度と乗りたくないって言われたらどうしようかと思った」
大野君は目を細めながらインスタントコーヒーを渡してくれた。
大野君の部屋の床に並んで座る。
濃い目に淹れられたコーヒーは少し苦くて大人の味がした……。
「じゃあ、小田桐、まずはルールを決めようぜ」
「ルール……?」
「そう、一緒に住むにあたって簡単なルールは必要だろ?」
そ、そっか……。
「あ、大野君。私、ここの家賃はちゃんと払うよ。……できれば『居候』じゃなくて『シェアハウス』という事で……お願いします」
私は大野君に向き直って頭を下げる。当座の資金はあるからそこはちゃんとしておきたい。
「シェアハウスね……そうだな、その方が小田桐がここにいやすいのなら、それでいいよ」
「ありがとう」
大野君はゆったりした動作でマグカップを小さな丸テーブルに置いてベッドに寄りかかる。
そして両手をあげて伸びをしながら言った。
「まあ……はたから見りゃ俺たち、『同棲』してるように見えちゃうだろうけどね……」
ど、どど、同棲って……!
そ、それは勘弁してください……。
私達、今朝再会したばっかだよ。
そんな甘い関係じゃないはず……。
私がそっと大野君から距離を置こうとすると、
「そう警戒しないで……何もしないって言ったろ?……冗談だよ、冗談」
と笑った。
「大体小田桐、そんなにちっこくて昔の妹の服なんて着てるから……もう妹にしか見れないよ……」
妹? 妹かぁ……。
そ、そう言われるのも淋しいような……。
ホッとするような……。
ちょっぴり複雑な気分だ。
「で、ルールその1は……そうだな、許可なしに、お互いの部屋に入らない。やっぱ、これだろうな……。小田桐の部屋に勝手に入るようなことはしないから……安心して」
「……わかった」
大野君はコピー用紙にマジックで、
『我が家のルール、その1、勝手に部屋に入らない』
と書いた。
眞島家のルールじゃなくて我が家のって書くところが大野君らしい優しさだ……。
「じゃあ、ルールその2は……?」
「家事の分担について……かな? 基本的に自分の事は自分でするっていうのでどう?」
「え? あ、うん……でも、ゴメン。私……家事は全然できないと思う」
これまで全く家の事をやらずに生きてきた。
改めて自分が甘えていたことに気が付く。
「ああ、それは期待してないから大丈夫」
「ひ、ひどい」
「悪い悪い、別に意地悪で言ってるわけじゃなくて、小田桐に俺の分の洗濯とかまでさせる気はないよってこと。女だからって小田桐に全部押し付ける気はないよ」
「う、うん」
それはありがたいけど……。
「心配すんな、家事は俺がちゃんと教えてやる。すぐに出来るようになるさ。自立するために必要な事なんだから、しっかり覚えろよ」
私は何度もうなずく。
「うん、ありがとう、大野君。ホントにありがとう」
「明日からビシバシ鍛えてやるからな。覚悟しろ……ま、すべてお兄ちゃんに任せなさい」
大野君はそう言ってこぶしで胸を軽く二回叩いた。
「色々教えてください、お兄ちゃん……!」
「じゃあ、お兄ちゃんとしてひとつ大切なことを教えておくけど……小田桐はもう少し自分を大切にした方がいい、男の部屋なんか簡単に着いて行ったらダメだ。男なんて何を考えているか分からないんだから……少しは警戒しなさい」
「っ! トーマセンセ……! い、い、今すぐ掃除機を持ってきてくださいっ!!」
冬馬先生のマンションの広いリビングには質の良さそうなダイニングセットとリビングテーブル、ソファー、キャビネットなどが置かれている。そのどれもが書類の束に埋もれていた。
毎日寝に帰るだけって言っていたけど、きっと家でも四六時中仕事をしているのだろう。
荒れた部屋を見渡していると冬馬先生がどこでどのように過ごしているのか容易に想像できた。
どちらのテーブルにも開いたままのファイルがいくつも置きっぱなしだ。
食事中も視線は書類にくぎ付けなんだろう。
ソファーの座面には読みかけの本や新聞が散乱していてゆっくり座れるスペースはない。
ソファーの横には難しそうな本が平積みにされている。
おまけに背もたれには脱ぎ散らかした部屋着やワイシャツがこれでもかとかかっている。
……正直、よくここまで散らかしたもんだ。
なんて! 感心している場合じゃない!
まずはこの埃っぽい部屋を何とかしないと、話し合いどころじゃないよ。
さっきの恐怖なんてすっかり吹き飛んで、私はしばらく片付けと掃除に没頭した。
冬馬先生に確認しながら散乱した書類を一か所にまとめ、汚れものを洗濯機に突っ込んで、掃除機をかけると部屋は少しマシになった。
「いやー、千尋さん、ありがとう……本当に助かりました。しかし、あなたにこんな才能があったとは!」
冬馬先生は大げさに驚いて見せた。
確かに冬馬先生の知る駆け落ち前の私は家の手伝いすらしたことがなかったから驚くのも無理はない。
私がこうやって家事が出来るようになったのはすべて大野君のおかげだ。
私は、ふと大野君の事を思い出した。
『明日からビシバシ鍛えてやるからな。覚悟しろよ……ま、すべてお兄ちゃんに任せなさい』
そう言って胸を叩いて見せたっけ?
「それは……鍛えられたので……」
そう呟いて掃除機を片付けようとしゃがんだら急に後ろから冬馬先生に抱きしめられた。
「あなたの中に誰かの影が見えるのは気分が悪いですね」
「ちょっ、トーマ先生っ……!」
ふいにさっきのキスの感触がよみがえってきて心臓がドキドキと早鐘を打ち始めた。
「先生……はなして……」
先生の腕は私をしっかりと捕まえていてとても逃げられそうにない。
「は……センセ……」
全身が心臓になったみたいに自分の鼓動を強く感じて苦しいくらいだ。
呼吸が荒くなり肩が大きく上下する。
『男の部屋なんか簡単に着いて行ったらダメだ。男なんて何を考えているか分からないんだから……少しは警戒しなさい』
また、大野君の言葉を思い出した。
「……ひろさん、千尋さん」
「……はっ、はいっ」
耳元で低い声で呼びかけられてビクンッと反応してしまう。
「また……誰かの事を考えていましたね……私といる時に他の人の事を考えるのはルール違反ですよ……」
そう息を吹きかけるように囁かれる。
「んん……そ、そんなルール……。や、破ったらどうなるんですか……?」
冬馬先生は私を抱きしめる腕を緩めると立ち上がった。
私が息を切らしてその場から動けずにいると立ち上がれるよう手を貸してくれる。
「先生……?」
手をつないだまま互いにじっと見つめあう。
私を見下ろす冬馬先生の切れ長の瞳が色を帯びている事に戸惑って私はうつむいた。
冬馬先生の顔を直視できない。
美しすぎる……。
「千尋さん……私たちは偽りとは言え婚約者なのですから、早くこの距離に慣れてくださらないと」
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