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31話 心配

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「じゃあ、レントゲンを撮るから冬馬は廊下で待っていてちょうだい」
 冴子さんはそう言って冬馬先生をX線室から追い出した。
「ところで千尋さん、予防接種は順調に受けられてる?」
「え?」
「だから、お子さんの予防接種。今、六ヶ月でしょう?」
 冴子さんは手元の問診票に目を落とした。
 そういえば、小児科の問診票だから子供の生年月日や出生時の身長体重を書く欄があって、つい蓮の事を記入したんだった……。
「蓮君って……冬馬の子? ってわけじゃなさそうね」
「は、はい……私、実は未婚のシングルマザーなんです。今は実家に戻ってまして……」
「そうなの……?」
 冴子さんは一瞬複雑な表情を浮かべたものの、すぐに手際よく撮影を始めた。
「でも……二人は好きあっているのよね?」
 私はうなずく。 
 ううっ、いたたまれない。
 はたから見れば、私って大切な息子につく悪い虫そのものじゃない?
 だって先生は高スペックのイケメンでどんな女性もよりどりみどり。
 それに比べて私はとんだ問題児だもの。
 私自身はそれなりにいつも真剣に取り組んできたつもりだよ。でも……どう考えても自分の息子とは付き合って欲しくないタイプだよね。
 私だって親心は分かるようになったつもりだ。
 いつか、蓮が大きくなってこんな女性を連れてきたらショックを受けるかもしんない……。
 ダメだ。ずーんと落ち込んできたよ。
「私に……先生と一緒にいる資格なんてありませんよね」
 先生と両思いになれてすっかり舞い上がっていたけど……先生の将来や家族の事を考えたら、この恋は許されないだろう。
「え? ちょっと、やだ、やめてよ、そういう発言。私、二人がお付き合いしていてもかまわないのよ」
 冴子さんはガシッと私の両肩を掴んだ。
「別に、物分かりのいい母親を演じてるわけじゃないけど……そもそも、私はあの子の選択に口を出す権利がないの。それに、さっきの冬馬の顔、見たでしょ? 廊下で待っててと言っただけなのに、あんなに離れがたそうにあなたの事をみつめて……。千尋さんの事がかわいくて仕方がないのね。あなたとの交際に反対なんてしたら、今度こそ私、完全にあの子に嫌われるわ」
 冴子さんはこう言いながらX線室のドアを開けた。
「もう、大人なんだから二人の好きにしていいんじゃない? ね、冬馬」
 すぐに冬馬先生が入ってきて私を抱えあげてくれる。
「え?……そうですね。好きにさせて貰います」
 先生はそう言って不敵にほほ笑んだ。




 検査の結果、足の骨に異常はなかったもののしばらくは無理をしないようにと言われてしまった。
 肌色の湿布を貼られて包帯を巻かれたらかなりの大怪我に見える……。
 こ、こんな大げさなことになっちゃうとは。
 明日も仕事なのに、参ったな……。
「では、ご自宅までお送りします」
「あ、あの水上先生。夜分にすみませんでした。ありがとうございました」
 私が診察室の椅子から立ち上がろうと腰を浮かした瞬間、また冬馬先生に抱き上げられた。
「ちょっ、先生っ? だ、大丈夫ですよ。私、歩けますから」
 は、恥ずかしいんだけど。 
「遠慮なさらずに」
「遠慮じゃなくって……」
 先生はなんで平気なんだ?
 お母さんの前で恥ずかしくないの?
 私は真っ赤になっているであろう顔を見られたくなくて冴子さんの方をチラッと伺った。
 冴子さんは面白いものでも見たかのようにニヤニヤとしている。
「冬馬はすすんで抱き上げているんでしょ?」
「そうですね、役得です」
 も、もうイヤだ。
「千尋さん、是非お子さんの検診や予防接種にも来てちょうだいね……冬馬はあんまり千尋さんをいじめて嫌われない様に」
「それは……難しいですね」
「へぇー、あなたにも難しいことがあるのね」
 冴子さんは、
「初めて知ったわ」
 と冬馬先生とよく似た笑顔で呟いた。



『今、病院を出ました。今から、帰ります』
 冬馬先生の車に乗り込んですぐに、母にメールを送信する。
 さっき病院に来る途中に、怪我をしたから冬馬先生に病院に連れて行って貰う、とだけ伝えていた。
 もう、蓮はとっくに寝ている時間だ。
 ぐずらずにいてくれたらいいんだけど……。
 そう思っていたら『自宅』から電話がかかってきた。
「お母さん?」
「……俺だ」
「え? お父さん!?」
 なんと電話は父からだった。
「千尋、怪我をしたって。事故か? 無事なのか?」
 その心配そうな声音に胸が苦しくなる。
「え? あ、うん、大丈夫。私の不注意で足を捻っただけだから……」
「……そうか」
 明らかにホッとした様子が電話越しでも伝わってくる。
「心配かけてごめんね」
「いや……無事ならいい。冬馬に代われ」
「あ、うん……先生、父です」
 先生は運転中だからスピーカーホンにする。
「所長、もうすぐそちらに着きますよ」
「冬馬、どうしてお前が千尋といっしょにいるんだ!? 今夜千尋は学生時代の女友達と会っているんじゃなかったのか? それに、怪我をしたなんて、お前が付いていながらどういう事だ!?」
 父はさっきとは打って変わって厳しい口調で先生を問い詰めた。
「千尋さんが友人と別れてから足を怪我された場所が、私の家の近所だったから病院にお連れしただけですよ。幸い骨に異常はありませんでした」
「千尋に何かあったのかと心配しただろうが」
「ご心配は無用です」
「そうか、それならいい」
「……ったく、私に言わなくても。お嬢さんと直接お話しされては?」
 先生はそう言いつつ私を横目で見てニヤリと笑う。
 私、全部聞いちゃってますけど……。
「……これ以上うるさく言って嫌われたくない」
「そうでしょうね」
 先生がそう返すと電話が切れた。
「もう、うるさいったらありませんね。父親があんなに心配性だと千尋さんも苦労するはずです」
 そうだね、私もずっとそう思ってきた。
 でも。
「さっきね、水上先生も父と同じことを言ったの。……嫌われたくないから先生のすることには口を出さないっていう様な事を……でも、きっと本心はすごく心配してる。そうだよね。子供の事を気にかけない親なんていないよね……」
「ええ、そうなんでしょうね。……私達、そのことに気が付くのにずいぶん時間がかかってしまいましたね。実は、母とは久しぶりに会ったんです。でも、普通に会話が出来て驚きました。きっと千尋さんのおかげです。あなたがいてくれたから……」
 冬馬先生はそう言って私の手をとった。
「先生……」
 指先を絡めるようになぞられる。
「この指に早く……クリームを塗って差し上げたいものです」
「っせんせっ、そういう触れ方は……」
 やめて欲しい。
 先生の家でかわした激しいキスを思い出しちゃう。 
 キス……してほしくなっちゃうよ。
「いい表情かおですね、千尋さん。もう、すっかり大人の顔だ……そそられます」
 そういう冬馬先生は悪い大人の顔をしてる。
 もう私の家の目の前だっていうのに私にそういう顔をさせるのは意地悪以外の何ものでもないでしょう。
「もう……先生、キライ」
 私はプンッと顔をそむけた。
 でも、つないだ手は振りほどけない。 
「き、嫌いって……本当に?」
……ホントなわけないじゃん。
 車が家に着いたので先生は私の手を離してバックで駐車する。
「ねぇ、本当に……? 私、千尋さんの事をいじめ過ぎましたか?」
 いつも自信満々な先生が不安げにちょっぴり眉を寄せているのがかわいくって私はプッと吹き出した。
 先生、冴子さんに言われた事、めっちゃ気にしてる!
「ホントはね、先生の事……大好きだよ」
「千尋さん……!」
 先生が私をギューッと抱きしめる。
……幸せ……!!
 コン!! コンコン!!   
 ん? 
「うわぁぁっ!!」
 窓ガラスを叩く音で振り返ったら父が鬼の形相で立っていた。
 ま、まずい。
 私は恐る恐る助手席のドアを開ける。
「お前ら、人が心配して待ってるのに、こんなところでいちゃつきやがって!」
 ひ、ひぃぃぃっ。
「ご、ごめんなさいっ!」
 私はすぐに謝ったけど、先生は不満そうにしている。
「……いいところだったのに、邪魔するなんて……」
「いいから、早く車から降りろ」 
「はいはい」
 先生は車を降りて助手席側にまわると父と口論を始めた。
「では、私が千尋さんを抱いていきますので。所長は玄関のドアを開けてください」
「お前には任せられん。千尋は俺が連れて行く」
「いや、所長には無理でしょう。また腰をやられますよ」
「俺を年寄り扱いするな」
「でも、先日もギックリ腰に」
「うるさい」
 やっぱり父と先生はいいコンビだ。
 見ていて飽きない。
 でも、早く家に入りたいし……。
 私は二人を無視して立ち上がった。
 うーん、玄関まで片足でケンケンしてく?
 そう思ったけど。
「イタッ」
 少し動かしただけでも結構響く。
 痛み止めの効果がきれかけているようだ。
「おい、大丈夫か?」
 父がさっと私の体を支えてくれた。
「う、うん。ありがとう。でも……けっこう痛いかも?」
「おい、冬馬、早く家に運んでやれ」
「ええ、千尋さん、行きましょう」
 先生が私を抱き合げ、父は玄関のドアを開けてくれた。
 そして靴を脱がしてくれる。
 こんな風に父に靴を脱がしてもらうのは幼稚園の時以来かも知れない。
 恥ずかしいような嬉しいような。
 胸が温かくって、締め付けられてなんとも複雑な気分……!



「では、千尋さんおやすみなさい」
「おやすみなさい」
「夜中にトイレに行きたくなったら遠慮せずに起こしてくださいね」
「は、はい……」   
 リビングの横の客間に並べられた布団に横になって思う。
 な、なんで先生が隣に寝ているんだ!?
「あ、そうそう……忘れてました」
 閉じたまぶたに影が落ちて目を開けたら先生の綺麗な顔が目の前に……。
「おやすみのごあいさつです」
 柔らかい唇でついばむように私の頬に数回触れたのち、先生は私のおでこに自分のおでこをこつんと当てた。
 近すぎて顔が良く見えない。
 お互いの息がかかるほどの距離。
「せん、せい……」
 頬にくれるキスだけじゃもう足りない。
「ちゃ、ちゃんと、口に……してほしい」
「っ、千尋さん……!」
 先生の首に腕を回し、その形のいい唇に自分の唇を押し付けた。
……先生が好き。
 私のつたない口づけに先生も優しく応えてくれる。
「はぁっ……あ、先生……どうして?」
 でも先生はすぐにキスをやめて私を布団の上から抱きしめた。
「今夜はここまで……これ以上すると自分を止める自信がありません……」
 そ、そっか……。
 じゃ、じゃあしょうがない。
「でも……おねだりしてくれたのは嬉しかったですよ。千尋さんからキスしてくれたのも」
 せ、先生ったら……。
 先生は自分の布団には戻らずに私の布団の上でゴロンと横になった。
「もう、日付が変わりますね……あなたを早く寝かしてあげたいのですが……よければ今夜、最後まで聞かせてくれませんか?」
「……最後?」
「ええ……眞島さんが家を出てから千尋さんがこの家に戻るまでのすべてを」
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