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30話 ヤバイ
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先生は長いまつげを少し伏せて私を見おろした。
どことなく艶っぽくて甘いまなざし。
……すごい、色っぽい……。
「千尋さん……」
ゆっくりと顔が近づいて唇が触れる。
「んっ……」
ほんの一瞬、触れただけのキスがあまりに優しくて私はうっとりと先生の顔を見つめた。
「無理やりあなたの唇を奪ったことは本当に申し訳ないと思っています。でも……そんなにとろけた瞳で見上げられたら愛されていると錯覚してもしょうがないでしょう? 何度でも言いますが、初めてあなたと口づけを交わした日からずっと、私はあなたに触れたくて仕方がなかった。……これからはもう、我慢しなくていいですよね」
さっきの優しいキスが嘘だったみたいに、今度は噛みつくように激しく唇をむさぼられる。
「あっ……ふぁっ……せ、せんせっ……あん、も、もうっ」
強く抱きしめられて逃げられない。
まるで荒波にもまれているように私は翻弄されるだけ。
ダメ、ダメだって。
も、……気持ちい……。
ゾクゾクする快感を抑えられない。
「あっ、せっ……せんせっ、ちょっと待って……!」
こ、こんなの私の心臓が持たない。
せ、せんせいっ、もうちょっと。
が、我慢してくださいっ!
ってゆーか、そもそも我慢なんて、ホントにしてたの!?
「ちょっ、ト、トーマ先生……痛いっ……」
「ああ、すみません、嬉しくてつい……」
先生は、きつく抱きしめていた腕を緩めた。
「じゃ、じゃなくて、あ、足が……!!」
「足!?」
そう!
つい、夢中になってしまって足の怪我を忘れてた!
「いた、いたたたた……!!」
「ち、千尋さんっ!? 大丈夫ですか!? す、すぐに病院に行きましょう!」
「で、でも、先生こんな時間じゃ……」
もう時計は十時をまわっている。
先生はスマホでどこかに電話をかけながら神妙な面持ちでうなずいた。
「大丈夫です。病院なら心当たりがありますから」
「いたた……」
先生に抱きかかえられて駐車場に向かい、何とか車に乗り込んだものの……痛いっ。
スポーツカーって乗りにくいったらないの。
ちょっと車高が低すぎるんじゃないかな?
母の軽自動車は、ほどよい高さでとにかく乗り降りが楽。
チャイルドシートにも赤ちゃんを乗せやすいから子育て世代に圧倒的に支持されている車種だ。
この高級車はそれより数倍、いや数十倍のお値段だろうと思うけど。
高級品だからって使いやすいとは限らないんだね……。
あ、でもこの車ムチャクチャかっこよくて、先生にはすごく似合っているんだよ、乗り心地は最高だし。
「千尋さん、大丈夫ですか? ったく、どうして母はこんな車を買ったのか……? あの人買ったはいいもののほとんど乗らないからって私に貸してくれたのですが……。あの人の考えていることは本当に謎です」
先生はそう言ってため息をついた。
先日、私を捨てたといったお母さんの話……で、思い出したけど!
「あ! そういえば私、冬馬先生に謝らないといけないことが……」
「え? な、なんです!?」
「私、この間、先生が少しだけお母さんの話をしてくれた日の夜に、どうしても先生の事が知りたくてお父さんに色々事情を聞いてしまったんです……勝手に、ごめんなさい」
「あ、ああ、そんなことですか……。別に隠している事ではありませんから、いいんですよ。あの日は私も少し感情的になり過ぎました。母が家を出る時、いずれ私を迎えに来ると言ってくれたもののその約束が果たされることはなく……。母は私を捨てたのだ、私の事なんて忘れてしまったんだ、といつまでも恨めしく思うなんて。いい大人が情けないですね。あの人にはあの人の事情があったのだろうと大人になった今は思えるのですが。結局男なんてみんなマザコンです」
マ、マザコンって……?
う、ん……でもそうかもしれないね。
冬馬先生はお母さんに愛されたかったんだ……。
「ところで千尋さん、所長と話したのは私の事だけですか? あの方、最近、何かを思い出してはすぐにニヤニヤして……。なにか喜ばせるようなことをおっしゃったのでは?」
「そ、そんなにご機嫌なんですか?」
「ええ、それはもう……気持ちが悪いったらありませんよ」
気持ち悪がられるほどご機嫌って、お父さんったら……。
私と話したことがそんなに嬉しかったんだろうか?
「あの人、結構分かりやすいですよ」
「そ、そうなんですね……」
これからは父の事をもっと観察しよう。
父とは到底分かり合えないと子供の頃から不満ばかり抱いてきたけど、私も分かろうとしてなかった……。
あ、そうか!
お母さんはいつもお父さんの顔色をうかがってばかりだと思ってたけど、あれはよく見てたってことだったのか……。
「着きました」
車はスーッと小さな病院の駐車場に滑り込んだ。
ここは……?
クマをかたどったかわいらしい形の看板には『みなかみこどもクリニック』の文字。
あ、あれ? ここ、以前は整形外科だった気が。
そ、それにしても、小児科!?
「さあ、行きましょう」
先生はさっと車を降りると助手席にまわりドアを開けてくれた。
「あ、あの先生っ!?」
戸惑う私に構わず先生は私の腰に手をまわした。
小児科のドアのカギを開け、常夜灯のみの薄暗い室内に入って行く。
「千尋さん、スリッパをどうぞ」
先生の手を借りて靴を脱ぎ、スリッパを履いていたら電気がパッとついた。
小児科らしくピンクと水色を基調としたかわいらしい内装。
壁には数枚、幼い子供が描いたような絵が飾られていた。
「足を捻ったっていうのは、その方……?」
部屋の奥から現れたのは、背が高いショートカットの女性。
化粧っけが無くて若く見えるけど、アラフィフ……だろう。
切れ長の瞳が、冬馬先生に良く似ている。
「……冴子さん……私はお祖父さんに診察を頼んだのですが」
冬馬先生は少し表情を硬くした。
「あのね冬馬。うち、今は小児科なんだけど」
「でも、お祖父さんの専門は整形外科じゃありませんか」
「お父さんならもうとっくに寝る時間よ。だから私が……ま、いいわ。とりあえず診るから診察室に入って問診票に記入してちょうだい」
女性はそう言うとさっさと診察室のドアを開けた。
「せ、先生っ? 冴子さんって……?」
「ええ、私の……母です」
や、やっぱり。
ま、まさか、両思いになった直後に先生のお母さんと会う羽目になるなんて……!
わ、私どういう顔をしたらいの……?
ひととおり私の足の状態を確認した冴子さんは、問診票をチラッと確認してから切り出した。
「ねえ、もしかしてあなた、小田桐先生の所の千尋さん?」
「あ、そ、そうです。小田桐千尋です」
「そう、いつの間にか大人になって。あ、私は冬馬の産みの母の水上冴子です。あなたが子供の時に何度かあったことがあるんだけど……覚えてないわよね」
「す、すみません」
「ま、当然よ。あなた、まだ赤ちゃんだったもの。その時冬馬も一緒にいたんだけど」
「え? わ、私も?」
冬馬先生は驚いた様子で聞き返した。
私達、そんな前に出会ってたなんて、今まで知らなかった。
冬馬先生と初めて会ったのは私が中学生の頃だと思ってたもん。
「そうよ。私の離婚調停を担当してくれた弁護士が先代の所長でね……」
先代って、私のお祖父ちゃん?
冬馬先生の顔を見上げたら、先生は更に驚いた顔をしている。
「先代の所長と祖父は古くからの友人ですから……。しかし、離婚調停をしたという話は初耳です」
「そうでしょうね、親がごたごたしているところを子供には見せたくないものよ。四宮家の人たちがこれまであなたに話さなかったことは理解できるわ。でも……結構長く争ったのよ」
「え?」
「……あなたの親権」
「そ、そうだったのですか?」
「ええ。冬馬は四宮家にとって、いずれ四宮工建を継がせる大事な跡取り息子でしょ? 私があなたを連れて家を出ることは許されなかった。それに当時の私は医者とは言えまだ若くて時間も不規則な一介の勤務医に過ぎなくて……。私、かなり粘ったんだけど……負けちゃった」
冴子さんはそう言って立ち上がった。
「見た感じ骨に異常はなさそうね……でも、念のため。レントゲンを撮る準備をしてくるから少し待っていてちょうだい」
冴子さんが出て行き、私達は診察室に取り残された。
私の後ろに立っていた冬馬先生を仰ぎ見ると、考え込む様に顎に手を当てている。
「冬馬先生? さっきの話……」
「ええ……」
今聞いた話が真実なら、冴子さんは幼い先生を捨てたりしていないことになる。
「あ! 先生、この絵……!!」
診察室の壁に飾られた沢山の絵の中に一つだけ額に入れられたものがあった。
きっと、すごく大切にされてきたのだろう。
木製の額は埃一つかぶっていない。
「これ……この絵は……私、が……?」
画用紙にクレヨンでかかれた絵は古びて少し色あせている。
左上にはたどたどしい文字で『ぼくのゆめ』とある。
描かれているのは、まるで高層ビルの様に細長い建物に青い車。
その横で笑顔の『まま』と『とうま』と書かれた母子が手をつないでいる。
「これ『とうま』ってトーマ先生だよね。で、こっちの『まま』が……」
『まま』のこの短い髪。
「……ええ、冴子さんです」
幼い頃に先生が描いた絵を、今もこんなに大切にしているなんて……。
冴子さんは先生の事を忘れてなんかなかった。
だって、この絵に描かれたのっぽのビルは、今先生がお母さんから借りて住んでいる高層マンションにそっくりだし、車はあの青いスポーツカーそのものだ。
「まさか、そんな……」
冴子さんは幼い冬馬先生の夢を叶えてあげたくて乗りもしないスポーツカーを買ったんだ……。
「わ、私はこんな絵を描いたこと自体忘れていたのに……」
先生の綺麗な瞳が潤んでいる。
ああ、先生。
不器用なのは男の人だけじゃないね。
男も女も。
みんな、みんな不器用だ。
大人も子供もみんな。
なんて不器用で、愛おしい生き物なんだろう……。
私は椅子に座ったまま先生の腰に抱き着いた。
どうしても、今先生を抱きしめてあげたかったから。
先生、良かったね。
ホントに良かったね。
「千尋さん……」
先生もかがむようにして抱き返してくれる。
「良かったね……」
「準備できたけど……あら、お邪魔だった?」
診察室のドアが開く音が聞こえて思い出した。
そ、そうだ、ここ病院だった!
ちょ、ちょっと先生、離れてください!
焦る私に構わず、先生は私を抱き上げた。
うわっ!
びっくりして思わず先生の首に腕をまわす。
「車イスもあるけど?」
「いいえ、このまま抱いてゆきます」
先生のお母さんの目の前でお姫様抱っこって……。
も、もう、恥ずかしいを通り越してヤバイ。
先生はホントにヤバイ男だ……。
どことなく艶っぽくて甘いまなざし。
……すごい、色っぽい……。
「千尋さん……」
ゆっくりと顔が近づいて唇が触れる。
「んっ……」
ほんの一瞬、触れただけのキスがあまりに優しくて私はうっとりと先生の顔を見つめた。
「無理やりあなたの唇を奪ったことは本当に申し訳ないと思っています。でも……そんなにとろけた瞳で見上げられたら愛されていると錯覚してもしょうがないでしょう? 何度でも言いますが、初めてあなたと口づけを交わした日からずっと、私はあなたに触れたくて仕方がなかった。……これからはもう、我慢しなくていいですよね」
さっきの優しいキスが嘘だったみたいに、今度は噛みつくように激しく唇をむさぼられる。
「あっ……ふぁっ……せ、せんせっ……あん、も、もうっ」
強く抱きしめられて逃げられない。
まるで荒波にもまれているように私は翻弄されるだけ。
ダメ、ダメだって。
も、……気持ちい……。
ゾクゾクする快感を抑えられない。
「あっ、せっ……せんせっ、ちょっと待って……!」
こ、こんなの私の心臓が持たない。
せ、せんせいっ、もうちょっと。
が、我慢してくださいっ!
ってゆーか、そもそも我慢なんて、ホントにしてたの!?
「ちょっ、ト、トーマ先生……痛いっ……」
「ああ、すみません、嬉しくてつい……」
先生は、きつく抱きしめていた腕を緩めた。
「じゃ、じゃなくて、あ、足が……!!」
「足!?」
そう!
つい、夢中になってしまって足の怪我を忘れてた!
「いた、いたたたた……!!」
「ち、千尋さんっ!? 大丈夫ですか!? す、すぐに病院に行きましょう!」
「で、でも、先生こんな時間じゃ……」
もう時計は十時をまわっている。
先生はスマホでどこかに電話をかけながら神妙な面持ちでうなずいた。
「大丈夫です。病院なら心当たりがありますから」
「いたた……」
先生に抱きかかえられて駐車場に向かい、何とか車に乗り込んだものの……痛いっ。
スポーツカーって乗りにくいったらないの。
ちょっと車高が低すぎるんじゃないかな?
母の軽自動車は、ほどよい高さでとにかく乗り降りが楽。
チャイルドシートにも赤ちゃんを乗せやすいから子育て世代に圧倒的に支持されている車種だ。
この高級車はそれより数倍、いや数十倍のお値段だろうと思うけど。
高級品だからって使いやすいとは限らないんだね……。
あ、でもこの車ムチャクチャかっこよくて、先生にはすごく似合っているんだよ、乗り心地は最高だし。
「千尋さん、大丈夫ですか? ったく、どうして母はこんな車を買ったのか……? あの人買ったはいいもののほとんど乗らないからって私に貸してくれたのですが……。あの人の考えていることは本当に謎です」
先生はそう言ってため息をついた。
先日、私を捨てたといったお母さんの話……で、思い出したけど!
「あ! そういえば私、冬馬先生に謝らないといけないことが……」
「え? な、なんです!?」
「私、この間、先生が少しだけお母さんの話をしてくれた日の夜に、どうしても先生の事が知りたくてお父さんに色々事情を聞いてしまったんです……勝手に、ごめんなさい」
「あ、ああ、そんなことですか……。別に隠している事ではありませんから、いいんですよ。あの日は私も少し感情的になり過ぎました。母が家を出る時、いずれ私を迎えに来ると言ってくれたもののその約束が果たされることはなく……。母は私を捨てたのだ、私の事なんて忘れてしまったんだ、といつまでも恨めしく思うなんて。いい大人が情けないですね。あの人にはあの人の事情があったのだろうと大人になった今は思えるのですが。結局男なんてみんなマザコンです」
マ、マザコンって……?
う、ん……でもそうかもしれないね。
冬馬先生はお母さんに愛されたかったんだ……。
「ところで千尋さん、所長と話したのは私の事だけですか? あの方、最近、何かを思い出してはすぐにニヤニヤして……。なにか喜ばせるようなことをおっしゃったのでは?」
「そ、そんなにご機嫌なんですか?」
「ええ、それはもう……気持ちが悪いったらありませんよ」
気持ち悪がられるほどご機嫌って、お父さんったら……。
私と話したことがそんなに嬉しかったんだろうか?
「あの人、結構分かりやすいですよ」
「そ、そうなんですね……」
これからは父の事をもっと観察しよう。
父とは到底分かり合えないと子供の頃から不満ばかり抱いてきたけど、私も分かろうとしてなかった……。
あ、そうか!
お母さんはいつもお父さんの顔色をうかがってばかりだと思ってたけど、あれはよく見てたってことだったのか……。
「着きました」
車はスーッと小さな病院の駐車場に滑り込んだ。
ここは……?
クマをかたどったかわいらしい形の看板には『みなかみこどもクリニック』の文字。
あ、あれ? ここ、以前は整形外科だった気が。
そ、それにしても、小児科!?
「さあ、行きましょう」
先生はさっと車を降りると助手席にまわりドアを開けてくれた。
「あ、あの先生っ!?」
戸惑う私に構わず先生は私の腰に手をまわした。
小児科のドアのカギを開け、常夜灯のみの薄暗い室内に入って行く。
「千尋さん、スリッパをどうぞ」
先生の手を借りて靴を脱ぎ、スリッパを履いていたら電気がパッとついた。
小児科らしくピンクと水色を基調としたかわいらしい内装。
壁には数枚、幼い子供が描いたような絵が飾られていた。
「足を捻ったっていうのは、その方……?」
部屋の奥から現れたのは、背が高いショートカットの女性。
化粧っけが無くて若く見えるけど、アラフィフ……だろう。
切れ長の瞳が、冬馬先生に良く似ている。
「……冴子さん……私はお祖父さんに診察を頼んだのですが」
冬馬先生は少し表情を硬くした。
「あのね冬馬。うち、今は小児科なんだけど」
「でも、お祖父さんの専門は整形外科じゃありませんか」
「お父さんならもうとっくに寝る時間よ。だから私が……ま、いいわ。とりあえず診るから診察室に入って問診票に記入してちょうだい」
女性はそう言うとさっさと診察室のドアを開けた。
「せ、先生っ? 冴子さんって……?」
「ええ、私の……母です」
や、やっぱり。
ま、まさか、両思いになった直後に先生のお母さんと会う羽目になるなんて……!
わ、私どういう顔をしたらいの……?
ひととおり私の足の状態を確認した冴子さんは、問診票をチラッと確認してから切り出した。
「ねえ、もしかしてあなた、小田桐先生の所の千尋さん?」
「あ、そ、そうです。小田桐千尋です」
「そう、いつの間にか大人になって。あ、私は冬馬の産みの母の水上冴子です。あなたが子供の時に何度かあったことがあるんだけど……覚えてないわよね」
「す、すみません」
「ま、当然よ。あなた、まだ赤ちゃんだったもの。その時冬馬も一緒にいたんだけど」
「え? わ、私も?」
冬馬先生は驚いた様子で聞き返した。
私達、そんな前に出会ってたなんて、今まで知らなかった。
冬馬先生と初めて会ったのは私が中学生の頃だと思ってたもん。
「そうよ。私の離婚調停を担当してくれた弁護士が先代の所長でね……」
先代って、私のお祖父ちゃん?
冬馬先生の顔を見上げたら、先生は更に驚いた顔をしている。
「先代の所長と祖父は古くからの友人ですから……。しかし、離婚調停をしたという話は初耳です」
「そうでしょうね、親がごたごたしているところを子供には見せたくないものよ。四宮家の人たちがこれまであなたに話さなかったことは理解できるわ。でも……結構長く争ったのよ」
「え?」
「……あなたの親権」
「そ、そうだったのですか?」
「ええ。冬馬は四宮家にとって、いずれ四宮工建を継がせる大事な跡取り息子でしょ? 私があなたを連れて家を出ることは許されなかった。それに当時の私は医者とは言えまだ若くて時間も不規則な一介の勤務医に過ぎなくて……。私、かなり粘ったんだけど……負けちゃった」
冴子さんはそう言って立ち上がった。
「見た感じ骨に異常はなさそうね……でも、念のため。レントゲンを撮る準備をしてくるから少し待っていてちょうだい」
冴子さんが出て行き、私達は診察室に取り残された。
私の後ろに立っていた冬馬先生を仰ぎ見ると、考え込む様に顎に手を当てている。
「冬馬先生? さっきの話……」
「ええ……」
今聞いた話が真実なら、冴子さんは幼い先生を捨てたりしていないことになる。
「あ! 先生、この絵……!!」
診察室の壁に飾られた沢山の絵の中に一つだけ額に入れられたものがあった。
きっと、すごく大切にされてきたのだろう。
木製の額は埃一つかぶっていない。
「これ……この絵は……私、が……?」
画用紙にクレヨンでかかれた絵は古びて少し色あせている。
左上にはたどたどしい文字で『ぼくのゆめ』とある。
描かれているのは、まるで高層ビルの様に細長い建物に青い車。
その横で笑顔の『まま』と『とうま』と書かれた母子が手をつないでいる。
「これ『とうま』ってトーマ先生だよね。で、こっちの『まま』が……」
『まま』のこの短い髪。
「……ええ、冴子さんです」
幼い頃に先生が描いた絵を、今もこんなに大切にしているなんて……。
冴子さんは先生の事を忘れてなんかなかった。
だって、この絵に描かれたのっぽのビルは、今先生がお母さんから借りて住んでいる高層マンションにそっくりだし、車はあの青いスポーツカーそのものだ。
「まさか、そんな……」
冴子さんは幼い冬馬先生の夢を叶えてあげたくて乗りもしないスポーツカーを買ったんだ……。
「わ、私はこんな絵を描いたこと自体忘れていたのに……」
先生の綺麗な瞳が潤んでいる。
ああ、先生。
不器用なのは男の人だけじゃないね。
男も女も。
みんな、みんな不器用だ。
大人も子供もみんな。
なんて不器用で、愛おしい生き物なんだろう……。
私は椅子に座ったまま先生の腰に抱き着いた。
どうしても、今先生を抱きしめてあげたかったから。
先生、良かったね。
ホントに良かったね。
「千尋さん……」
先生もかがむようにして抱き返してくれる。
「良かったね……」
「準備できたけど……あら、お邪魔だった?」
診察室のドアが開く音が聞こえて思い出した。
そ、そうだ、ここ病院だった!
ちょ、ちょっと先生、離れてください!
焦る私に構わず、先生は私を抱き上げた。
うわっ!
びっくりして思わず先生の首に腕をまわす。
「車イスもあるけど?」
「いいえ、このまま抱いてゆきます」
先生のお母さんの目の前でお姫様抱っこって……。
も、もう、恥ずかしいを通り越してヤバイ。
先生はホントにヤバイ男だ……。
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