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36話 安心感
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葵先生のマンションにはすぐに着いた。
「ちょっと散らかってますが、ドウゾドウゾ」
さっき出会ったばかりの私達親子を笑顔で招き入れてくれる。
「お邪魔します」
「じゃ、お言葉に甘えて」
私達に続こうとした俊哉さんを葵先生は慌てた様子で押しとどめた。
「さ、佐藤先生はチョット待っててください。とりあえず少しだけ片づける時間を下さい!」
「広いね……」
俊哉さんはリビングのソファーに座ってそうつぶやいた。
葵先生の家は一人暮らしにしては広めの1LDKだ。
「あ、お布団予備があるから敷きますね。蓮君を寝かせてあげてください。この間のゴールデンウィークに母が寝ただけなので綺麗だと思います……」
そう言ってリビングの隣の和室に布団を敷いてくれる。
なんて、いい人なんだろう。
さっきまで抱えていた不安な気持ちが和らいでくる。
夜の街角と違って、ここはなんて温かいの。
葵先生の優しさが身に染みる。
「ありがとうございます……葵先生」
お礼を告げたら葵先生は笑顔を返してくれた。
和室に移動して蓮にミルクを飲ませていたらコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「はー、温まるー」
「葵先生、ごめんね。突然おしかけて」
「いいですよ、お気になさらず。ところで……蓮君って佐藤先生のお子さんですか?」
葵先生の問いに俊哉さんはコーヒーを吹き出しそうになった。
蓮が俊哉さんの子供って、そんなの勘違いもいいところだ。
私のせいで二人が喧嘩しちゃったらどうしよう?
そう思って焦って様子をうかがうけど……葵先生の表情は穏やかで、本気でそう疑っているわけではないみたい。
たしかに、さっき俊哉さんは私の事を覚えてなかったんだから、父親っていうのは無理があるよね。
でも、私達の仲を彼女にどう説明すればいいんだろう?
俊哉さんだって今カノに元カノの話はさすがにしづらいよね……。
そう心配したけど、俊哉さんは躊躇しなかった。
「ちいちゃんは学生時代にお付き合いしていた人の妹です……」
葵先生は一瞬その大きな瞳を見開いただけで何も言わなかった。
「蓮……寝ました」
気まずい思いを抱えながら和室からリビングに戻ったらラグの上のクッションをすすめられた。
葵先生の隣に座る。
「ちいちゃん、コーヒー飲みますか?」
「ありがとうございます」
「あ、座っててください、すぐに持ってきますから」
立ち上がろうとする私を葵先生は軽く制止する。
「熱いので気を付けてくださいね」
そして湯気の立つマグカップを私に手渡すと俊哉さんをチラッと見た。
俊哉さんは頷いて口を開いた。
「ちいちゃん……久しぶりだね、八……いや九年ぶりかな?」
私はコクンとうなずく。
そっか、もう、そんなにたつんだ。
初めて出会った時まだ子供だった私も、今やあの頃の俊哉さんや姉と同じ歳頃だ。
「お姉さんに似てきたね」
似てる……のかな?
自分では分からないけど、そう言われて、なんて答えればいいのか分からない。
姉は冬馬先生と浮気して俊哉さんを裏切った。
あの頃の二人にどういう事情があったのか?
子供だった私には分からない。
ただ、俊哉さんの辛そうな表情だけは覚えている。
俊哉さん、お姉ちゃんの事は思い出したくないんじゃないかな?
冬馬先生のことも……ふいに、先生の顔が脳裏に浮かんで苦しくなる。
先生、私、先生の事が大好きだったのに。
大好きな先生から離れ、頼りに思っていたタツキ君も姿を消してしまった。
どうしてこんな事になっちゃったんだろう?
これから私はどうしたらいいの?
ああ、もう分からない。
「ちいちゃん……何から聞けばいいのかな?……今はどこに住んでいるの? 結婚したのかな?」
俊哉さんの質問に上手く答えられなくて、私は思わず泣き出してしまった。
「か、駆け落ちぃ!?」
「う、うん、あ、あの、お父さんのせいで……」
「あのお父さんが交際を反対するって事は、ちいちゃんには悪いけど相手の人はあまりいい人ではないの? ちゃんと働かないとか」
「え? あ、ああ、まあ……」
まさか、駆け落ちは偽装で、ホントは俊哉さんのかつての恋敵、冬馬先生のことが好きなんだとはとても言えずに私はうなずいた。それにタツキ君は私達を守るために蓮との親子関係を隠してくれているのだから父親の素性は簡単には明かせない。
「じゃあ、結婚は? 蓮君の父親はその駆け落ち相手なんだよね」
「えっと、その、そうなんだけど……籍は入れてなくて……あの、ね」
ま、参ったな……。
俊哉さんと葵先生の質問に曖昧にこたえているうちに、結局『働きもしないダメな男を好きになってしまった私は父親に交際を反対されて駆け落ちしたあげく、妊娠中に捨てられ未婚の母になった』ということに……。
うわ、なんかタツキ君がものすごく悪者になってしまった。
タツキ君、ホントごめん!!
葵先生は優しく隣で私の肩を抱いてくれている。
「なるほど……ちいちゃん、大変でしたね。それで今日は……この辺りで彼を見たという人がいて、長崎から急遽電車に飛び乗ってやってきた、というわけですね?」
「後先考えずに、来れば彼に会えるって思って来ちゃったんです……」
とにかくタツキ君の事が心配でたまらなかった。でも、こんな無鉄砲な事をするなんて……私は大バカだ。
蓮の事は私が守らないといけないのに。
あんなに寒い雨の中にまだ小さい蓮を連れて行ったなんて……母親、失格だ。
私、少しは大人になったって思ってた。
一人で蓮を産み育てて何でもできるって思いあがってた。
だけど…‥‥全然だめだ。
だめ、なんだ私。
「ちいちゃん、愛美に連絡しようか?」
お姉ちゃんに……?
正直、お姉ちゃんに会いたい。
会って安心したい。
でも……今は会えないよ。
勝手に家を飛び出して心配かけておきながらこんな事になって、どんな顔して会えばいいの?
私、全然成長してない。
こんな中途半端な姿、お姉ちゃんには見せられない。
私は首を横に振った。
「佐藤先生、今夜はもう遅いですし、ちいちゃんはここに泊まってもらってかまいませんよ」
「葵先生……ご迷惑じゃ……?」
私は力なく葵先生を見た。
「ちいちゃん、弱っている時は誰かを頼っていいんだよ。佐藤先生の知り合いだし、もう私の知り合いでもあるの。家に招いて一緒にコーヒーを飲んだらもう友達でしょ?」
葵先生は慈愛に満ちた顔で小さく呟いたかと思うと、途端にハッとした表情を浮かべこう言った。
「いえいえ、むしろ大歓迎です。そのかわり……蓮君が機嫌のいい時に抱っこさせてくださいね。ちいちゃん。あ、体が冷えちゃったからお風呂の用意をしてきます」
そしてさっと立ち上がると洗面所に消えて行った。
葵先生って、なんて、なんていい人なんだろう。
「俊哉さん……」
「ん?」
俊哉さんはコーヒーを飲みながらソファーの背もたれに寄りかかった。
「葵先生って素敵な人ですね」
「……うん、そうだね。彼女はとても……素敵な人だ」
そう答える俊哉さんの頬がほんのり赤みを帯びている。
「俊哉さん……顔、赤いよ」
「ええっ!? いや、こ、これは酔ってるから! ったくちいちゃん、年上をからかうんじゃないよ」
またコーヒーを吹き出しそうになった俊哉さんにそうたしなめられたけど……。
きっと、顔が赤いのは酔っているからだけじゃないよね?
だって葵先生の事を話す俊哉さんの表情がものすごく優しかったんだもの。
「っていうか、私さっきから勝手にちいちゃんって呼んでました。ゴメンナサイ!」
リビングに戻ってくるなり葵先生は私に頭を下げた。
「ううん、ちいちゃんって呼んでもらえて嬉しいです、葵先生」
「じゃあ、私の事も葵ちゃんって呼んで下さい……オネガイシマス」
葵ちゃん。
私もそう呼んでいいの?
すごく嬉しい。
「あ! 葵ちゃん、ごめんなさい。自己紹介もまだでしたよね。私、小田桐千尋といいます」
「千尋、ちゃん……ああ、だから『ちいちゃん』なんだ」
「そう。でも今でも私の事をそう呼ぶのは俊哉さんぐらいだけど……」
私たちのそんなやり取りを俊哉さんはほほ笑ましそうに見ていた。
「佐藤先生、私達今から順番にお風呂に入ります」
「はい」
「先生は帰ってください、今夜はちいちゃんと蓮君と三人で寝るので」
さっきまでニコニコと私達を見ていた俊哉さんだったけど、葵ちゃんのつれない言葉にがっくりとうなだれた。
葵ちゃんって、結構……ツンデレ?
ツンデレなの?
「はい、マグカップ貰いますね」
俊哉さんの手からカップを奪い追い立てるように玄関へ。
こ、こんな遅くに恋人を追い返しちゃうんだ。
「電車がなくてもタクシー、駅前で拾えますから。あ、明日また来てくださいね。来るときにオムツとかミルクを頼みたいので電話貰えると助かります」
葵ちゃんはさっさと俊哉さんを追い出した。
ご、ごめん、俊哉さん。
私達親子のせいで寒空の下に放り出されちゃって。
「さ、じゃあ、ちいちゃん、お風呂どうぞ! ゆっくり温まってきてくださいね」
「はぁぁ」
あったかい。
私は湯船で大きく伸びをした。
小さな傘で蓮を守ろうとして私の背中はずっと雨に濡れていた。
冷え切った体が温まるのと同じ速度で心も温まってゆく。
ああ、誰かが用意してくれたお風呂につかるのも随分久しぶり……。
葵ちゃんの優しさに泣けてくるよ。
順番に入浴をすませると私たちは和室で三人川の字で眠ることに。
「じゃあ、電気消しますね、おやすみなさい、ちいちゃん。あ、もし蓮君が起きたら遠慮なく私も起こしてくださいね! そして是非抱っこさせて下さい!」
「うん、ありがとうございます、葵ちゃん。おやすみなさい」
蓮の規則正しい寝息を聞きながら瞳を閉じる。
なんだろう、この不思議な感覚は。
葵ちゃんとはさっき出会ったばかりで、この家だって初めてお邪魔したのに……まるで実家に戻ったような気分だ。
私、蓮を産んでから今日までずっと不安だった。
チカさんやお姉さん、沢山の人が私達を助けてくれたけど家ではいつも蓮と二人。
何かあった時にあの子を守ることが出来るのは私だけ。
少しも気を抜けなかった。
でも、今夜は一人じゃない。
一人じゃないんだ。
私、意地をはってたと思う。
一人で立派に蓮を育てて見せるって強がってた。
だけど……こんなにも一人でいることを怖がっていたなんて、今まで気が付かなかった。
やっぱり人は一人では生きていけない。
一人は……嫌だよ。
家族に会いたい。
お母さんに会いたい。
お姉ちゃんにも、今ならお父さんの顔を見たいとさえ思う。
皆に会いたいよ。
会って、私と蓮のこと、ただ抱きしめて欲しい。
隣の布団から葵ちゃんの寝息が聞こえてきた。
葵ちゃんの存在が頼もしい。
誰かと眠る夜がこんなに心安らぐなんて。
私はこの夜、言いようのない安心感に包まれてぐっすり眠った。
多分、あんなにぐっすり寝たのは蓮が産まれてから初めての事だと思う。
この夜は蓮もとてもいい子で、朝まで一度も目を覚まさなかった。
「ちょっと散らかってますが、ドウゾドウゾ」
さっき出会ったばかりの私達親子を笑顔で招き入れてくれる。
「お邪魔します」
「じゃ、お言葉に甘えて」
私達に続こうとした俊哉さんを葵先生は慌てた様子で押しとどめた。
「さ、佐藤先生はチョット待っててください。とりあえず少しだけ片づける時間を下さい!」
「広いね……」
俊哉さんはリビングのソファーに座ってそうつぶやいた。
葵先生の家は一人暮らしにしては広めの1LDKだ。
「あ、お布団予備があるから敷きますね。蓮君を寝かせてあげてください。この間のゴールデンウィークに母が寝ただけなので綺麗だと思います……」
そう言ってリビングの隣の和室に布団を敷いてくれる。
なんて、いい人なんだろう。
さっきまで抱えていた不安な気持ちが和らいでくる。
夜の街角と違って、ここはなんて温かいの。
葵先生の優しさが身に染みる。
「ありがとうございます……葵先生」
お礼を告げたら葵先生は笑顔を返してくれた。
和室に移動して蓮にミルクを飲ませていたらコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「はー、温まるー」
「葵先生、ごめんね。突然おしかけて」
「いいですよ、お気になさらず。ところで……蓮君って佐藤先生のお子さんですか?」
葵先生の問いに俊哉さんはコーヒーを吹き出しそうになった。
蓮が俊哉さんの子供って、そんなの勘違いもいいところだ。
私のせいで二人が喧嘩しちゃったらどうしよう?
そう思って焦って様子をうかがうけど……葵先生の表情は穏やかで、本気でそう疑っているわけではないみたい。
たしかに、さっき俊哉さんは私の事を覚えてなかったんだから、父親っていうのは無理があるよね。
でも、私達の仲を彼女にどう説明すればいいんだろう?
俊哉さんだって今カノに元カノの話はさすがにしづらいよね……。
そう心配したけど、俊哉さんは躊躇しなかった。
「ちいちゃんは学生時代にお付き合いしていた人の妹です……」
葵先生は一瞬その大きな瞳を見開いただけで何も言わなかった。
「蓮……寝ました」
気まずい思いを抱えながら和室からリビングに戻ったらラグの上のクッションをすすめられた。
葵先生の隣に座る。
「ちいちゃん、コーヒー飲みますか?」
「ありがとうございます」
「あ、座っててください、すぐに持ってきますから」
立ち上がろうとする私を葵先生は軽く制止する。
「熱いので気を付けてくださいね」
そして湯気の立つマグカップを私に手渡すと俊哉さんをチラッと見た。
俊哉さんは頷いて口を開いた。
「ちいちゃん……久しぶりだね、八……いや九年ぶりかな?」
私はコクンとうなずく。
そっか、もう、そんなにたつんだ。
初めて出会った時まだ子供だった私も、今やあの頃の俊哉さんや姉と同じ歳頃だ。
「お姉さんに似てきたね」
似てる……のかな?
自分では分からないけど、そう言われて、なんて答えればいいのか分からない。
姉は冬馬先生と浮気して俊哉さんを裏切った。
あの頃の二人にどういう事情があったのか?
子供だった私には分からない。
ただ、俊哉さんの辛そうな表情だけは覚えている。
俊哉さん、お姉ちゃんの事は思い出したくないんじゃないかな?
冬馬先生のことも……ふいに、先生の顔が脳裏に浮かんで苦しくなる。
先生、私、先生の事が大好きだったのに。
大好きな先生から離れ、頼りに思っていたタツキ君も姿を消してしまった。
どうしてこんな事になっちゃったんだろう?
これから私はどうしたらいいの?
ああ、もう分からない。
「ちいちゃん……何から聞けばいいのかな?……今はどこに住んでいるの? 結婚したのかな?」
俊哉さんの質問に上手く答えられなくて、私は思わず泣き出してしまった。
「か、駆け落ちぃ!?」
「う、うん、あ、あの、お父さんのせいで……」
「あのお父さんが交際を反対するって事は、ちいちゃんには悪いけど相手の人はあまりいい人ではないの? ちゃんと働かないとか」
「え? あ、ああ、まあ……」
まさか、駆け落ちは偽装で、ホントは俊哉さんのかつての恋敵、冬馬先生のことが好きなんだとはとても言えずに私はうなずいた。それにタツキ君は私達を守るために蓮との親子関係を隠してくれているのだから父親の素性は簡単には明かせない。
「じゃあ、結婚は? 蓮君の父親はその駆け落ち相手なんだよね」
「えっと、その、そうなんだけど……籍は入れてなくて……あの、ね」
ま、参ったな……。
俊哉さんと葵先生の質問に曖昧にこたえているうちに、結局『働きもしないダメな男を好きになってしまった私は父親に交際を反対されて駆け落ちしたあげく、妊娠中に捨てられ未婚の母になった』ということに……。
うわ、なんかタツキ君がものすごく悪者になってしまった。
タツキ君、ホントごめん!!
葵先生は優しく隣で私の肩を抱いてくれている。
「なるほど……ちいちゃん、大変でしたね。それで今日は……この辺りで彼を見たという人がいて、長崎から急遽電車に飛び乗ってやってきた、というわけですね?」
「後先考えずに、来れば彼に会えるって思って来ちゃったんです……」
とにかくタツキ君の事が心配でたまらなかった。でも、こんな無鉄砲な事をするなんて……私は大バカだ。
蓮の事は私が守らないといけないのに。
あんなに寒い雨の中にまだ小さい蓮を連れて行ったなんて……母親、失格だ。
私、少しは大人になったって思ってた。
一人で蓮を産み育てて何でもできるって思いあがってた。
だけど…‥‥全然だめだ。
だめ、なんだ私。
「ちいちゃん、愛美に連絡しようか?」
お姉ちゃんに……?
正直、お姉ちゃんに会いたい。
会って安心したい。
でも……今は会えないよ。
勝手に家を飛び出して心配かけておきながらこんな事になって、どんな顔して会えばいいの?
私、全然成長してない。
こんな中途半端な姿、お姉ちゃんには見せられない。
私は首を横に振った。
「佐藤先生、今夜はもう遅いですし、ちいちゃんはここに泊まってもらってかまいませんよ」
「葵先生……ご迷惑じゃ……?」
私は力なく葵先生を見た。
「ちいちゃん、弱っている時は誰かを頼っていいんだよ。佐藤先生の知り合いだし、もう私の知り合いでもあるの。家に招いて一緒にコーヒーを飲んだらもう友達でしょ?」
葵先生は慈愛に満ちた顔で小さく呟いたかと思うと、途端にハッとした表情を浮かべこう言った。
「いえいえ、むしろ大歓迎です。そのかわり……蓮君が機嫌のいい時に抱っこさせてくださいね。ちいちゃん。あ、体が冷えちゃったからお風呂の用意をしてきます」
そしてさっと立ち上がると洗面所に消えて行った。
葵先生って、なんて、なんていい人なんだろう。
「俊哉さん……」
「ん?」
俊哉さんはコーヒーを飲みながらソファーの背もたれに寄りかかった。
「葵先生って素敵な人ですね」
「……うん、そうだね。彼女はとても……素敵な人だ」
そう答える俊哉さんの頬がほんのり赤みを帯びている。
「俊哉さん……顔、赤いよ」
「ええっ!? いや、こ、これは酔ってるから! ったくちいちゃん、年上をからかうんじゃないよ」
またコーヒーを吹き出しそうになった俊哉さんにそうたしなめられたけど……。
きっと、顔が赤いのは酔っているからだけじゃないよね?
だって葵先生の事を話す俊哉さんの表情がものすごく優しかったんだもの。
「っていうか、私さっきから勝手にちいちゃんって呼んでました。ゴメンナサイ!」
リビングに戻ってくるなり葵先生は私に頭を下げた。
「ううん、ちいちゃんって呼んでもらえて嬉しいです、葵先生」
「じゃあ、私の事も葵ちゃんって呼んで下さい……オネガイシマス」
葵ちゃん。
私もそう呼んでいいの?
すごく嬉しい。
「あ! 葵ちゃん、ごめんなさい。自己紹介もまだでしたよね。私、小田桐千尋といいます」
「千尋、ちゃん……ああ、だから『ちいちゃん』なんだ」
「そう。でも今でも私の事をそう呼ぶのは俊哉さんぐらいだけど……」
私たちのそんなやり取りを俊哉さんはほほ笑ましそうに見ていた。
「佐藤先生、私達今から順番にお風呂に入ります」
「はい」
「先生は帰ってください、今夜はちいちゃんと蓮君と三人で寝るので」
さっきまでニコニコと私達を見ていた俊哉さんだったけど、葵ちゃんのつれない言葉にがっくりとうなだれた。
葵ちゃんって、結構……ツンデレ?
ツンデレなの?
「はい、マグカップ貰いますね」
俊哉さんの手からカップを奪い追い立てるように玄関へ。
こ、こんな遅くに恋人を追い返しちゃうんだ。
「電車がなくてもタクシー、駅前で拾えますから。あ、明日また来てくださいね。来るときにオムツとかミルクを頼みたいので電話貰えると助かります」
葵ちゃんはさっさと俊哉さんを追い出した。
ご、ごめん、俊哉さん。
私達親子のせいで寒空の下に放り出されちゃって。
「さ、じゃあ、ちいちゃん、お風呂どうぞ! ゆっくり温まってきてくださいね」
「はぁぁ」
あったかい。
私は湯船で大きく伸びをした。
小さな傘で蓮を守ろうとして私の背中はずっと雨に濡れていた。
冷え切った体が温まるのと同じ速度で心も温まってゆく。
ああ、誰かが用意してくれたお風呂につかるのも随分久しぶり……。
葵ちゃんの優しさに泣けてくるよ。
順番に入浴をすませると私たちは和室で三人川の字で眠ることに。
「じゃあ、電気消しますね、おやすみなさい、ちいちゃん。あ、もし蓮君が起きたら遠慮なく私も起こしてくださいね! そして是非抱っこさせて下さい!」
「うん、ありがとうございます、葵ちゃん。おやすみなさい」
蓮の規則正しい寝息を聞きながら瞳を閉じる。
なんだろう、この不思議な感覚は。
葵ちゃんとはさっき出会ったばかりで、この家だって初めてお邪魔したのに……まるで実家に戻ったような気分だ。
私、蓮を産んでから今日までずっと不安だった。
チカさんやお姉さん、沢山の人が私達を助けてくれたけど家ではいつも蓮と二人。
何かあった時にあの子を守ることが出来るのは私だけ。
少しも気を抜けなかった。
でも、今夜は一人じゃない。
一人じゃないんだ。
私、意地をはってたと思う。
一人で立派に蓮を育てて見せるって強がってた。
だけど……こんなにも一人でいることを怖がっていたなんて、今まで気が付かなかった。
やっぱり人は一人では生きていけない。
一人は……嫌だよ。
家族に会いたい。
お母さんに会いたい。
お姉ちゃんにも、今ならお父さんの顔を見たいとさえ思う。
皆に会いたいよ。
会って、私と蓮のこと、ただ抱きしめて欲しい。
隣の布団から葵ちゃんの寝息が聞こえてきた。
葵ちゃんの存在が頼もしい。
誰かと眠る夜がこんなに心安らぐなんて。
私はこの夜、言いようのない安心感に包まれてぐっすり眠った。
多分、あんなにぐっすり寝たのは蓮が産まれてから初めての事だと思う。
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