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42話 感謝
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いつも通りの仕事をこなしつつ取引業者の担当さんにお別れの挨拶をしたりしているうちに夕方になった。
蓮が産まれてからは時短勤務をさせて貰っているので四時過ぎには勤務終了だ。
いつもはこんな早い時間に事務所に戻ってくることのないチカさんが『良かった、間に合った!』と言いながら階段を駆け上がってきた。
随分息を切らしている。
そ、そんなに慌てなくても……。
「あれ? 横井さん?」
そんなチカさんに続いてシノコウの横井さんが事務所に入って来た。
今日、打ち合わせの予定だったっけ?
「さっき森君と現場で会って、今日が小田桐さんの最終出勤日だって聞いたから、ついて来てしまいました。今までお世話になったお礼を直接言いたいと思って」
横井さんはそういってニコリと人懐っこい笑顔を見せた。
うん、この方ホント、営業に向いてる。
初めて会った時から、なぜか昔からの知り合いのような不思議な感覚を覚えた横井さん。
私が働き始めてすぐに配置換えでフォレストの担当になったから、五歳も年上の人だけど勝手に同期の様に思っていた。
「横井さん……わざわざありがとうございます」
「いえいえ、小田桐さんには大変お世話になりましたし……どうぞ、これからもお元気で」
もう会う事もないのかと思うとなんだか寂しい。
「横井さんこそ……お元気で」
「じゃあ……せっかくなので小田桐さんからひと言挨拶してもらおうか」
そう社長に促されて私は立ち上がる。
「大丈夫?」
お姉さんがスッと私のそばに来て背中を支えてくれた。
「はい、痛みは随分ひいてきたので……」
いつもこうして救いの手を差し伸べてくれるお姉さん。
お姉ちゃん子だった私は、きっと姉の姿を重ねていた。
デスクに手をついたまま皆の顔をゆっくり見渡す。
森社長、奥さん、お姉さん、チカさん、横井さん。
「わ、わたしっ……」
言いたいことがあり過ぎて、うまく言葉が出てこない。
一年半前、父に無理矢理結婚させられるのが嫌で、何の計画性もなくタツキ君と偽装駆け落ちしてきた私を、フォレストは温かく迎え入れてくれた。
そして、甘やかされて育ってきて、何もできないただの学生だった私に、仕事の楽しさ、厳しさを教えてくれた。
もし、ここで働かせて貰えていなかったら、今の私の幸せはないだろう。
そう思えるくらい、社会人として、また人として育てて貰ったし、母になってからは支えて貰った。
ここにいる人たちは皆私の……私達親子の恩人だ。
「私っ、み、みなさんにっ……」
大切な人たちにちゃんとお礼を言いたいのに。
涙がどんどんあふれてくる。
机に着いた手の甲にボロボロと大粒の雫が落ちた。
「み、皆さんにっ、私がどれだけ……救われてきたかっ」
「千尋ちゃん……」
「今まで、ほ、本当にっ……ホントにっ」
私はしゃくりあげながらもなんとか言葉を紡ぐ。
ちゃんと想いを伝えたい。
「……ホントに、ありがとうございましたっ」
本当は言わなきゃいけないことが、もっともっと沢山ある。
私はここで、すごく濃密な時間を過ごさせて貰った。
社会人になり、母親になった。
そのすべてを支えてくれた人たちに、どんなに言葉を尽くしても足りない。
「千尋ちゃん……千尋ちゃんはいつまでも今のままでいてよ。絶対に蓮君と幸せになって」
チカさんが瞳いっぱいに涙を浮かべながらそう言ってくれる。
「うん……うん」
蓮を幸せにできるよう頑張る。
私はなんとか笑顔を作って頷いた。
「チカさん、わ、私、こんな素敵な事務所で、素晴らしい人たちに囲まれて働かせて貰えたこと、すごく感謝してるし……自慢に思ってる。毎日仕事に来るのが楽しかった。本当に、本当に今までお世話になりました」
「ではここでお仕事を頑張ってくれた千尋ちゃんに感謝の花束贈呈をしたいと思います」
お姉さんがそう言いながら花束を取りに窓辺に向かった。
「ね、ねえ、ちょっと、今すごい車が下に停まったんだけど」
お姉さんは花束を抱えたまま窓の下をのぞき込んだ。
すごい車って……?
「ああ、青いスポーツカーでしょ? きっと、千尋ちゃんのハイスペックな婚約者が迎えにきたんだよ、って……あれ?」
お姉さんに続いて窓辺に向かったチカさんが振り返る。
「黒塗りのすごく高そうな車が停まってる……」
く、黒塗りの車?
それって、まさか……。
事務所の入り口のそばに立っていた横井さんが階段をのぼって来た足音に気が付いてドアを開けた。
そこには冬馬先生と、
「お、お父さん!?」
父が立っていた。
父は軽く一礼して事務所に入り、森社長の前まで進むと深々と頭を下げた。
「小田桐千尋の父です。この度は娘が大変お世話になりました。皆さんにも孫の蓮共々、本当に良くして頂いたそうで。本来ならもっと早くご挨拶に伺うべきだったのですが……お礼が遅くなり大変申し訳ありません」
「……お父さん……」
思いがけず現れた父の姿に私は戸惑いを隠せない。
まさか今日、こんな風に父が私のために頭を下げに来てくれるなんて思ってもみなかった。
父はいつも忙しくしていて、参観日はもちろん学校の入学式や卒業式ですら一度も来てくれたことがない。
父は私に興味がないのかと淋しく思ったこともあったけど、最近ではそんな関係にもすっかり慣れてしまっていた。
そのくせ、たまに会うと『ああしろ、こうしろ』と頭ごなしに命令されるのが嫌でたまらなかった。
今思えば、父なりに私の将来を案じて言ってくれていたのかも知れないけど、当時の私には理解できなかったのだ。
ただ、私の人生は私のもの、父に支配されてたまるかと反発心だけが育っていった。
でも……私決していい子じゃなかったから、きっと私が知らないところで父はこうしていつも頭を下げてくれていたのかも知れない。
高三の冬に受験を控えた女友達とカラオケに行って友達の両親を怒らせちゃったこともあったっけ?
あのときだって、きっと……。
「小田桐さん、どうぞ頭をあげてください」
森社長は父の肩にそっと手を置いた。
「お嬢さんには本当に良く働いて頂いて、ウチも助かったんですよ。それに蓮君が産まれてからは孫が一人増えたような、幸せな気分を味あわせて貰いました」
社長……。
森家の皆さんは私達親子を家族同然に迎えてくれた。
「本当に……ありがたいことです。なんとお礼を言ったらよいのか」
「……とりあえず座りませんか? 色々積もる話もありますし」
奥さんはいつも優しく温かかった。
「……ありがとうございます」
社長夫妻に促され、父はソファに浅く腰かけた。
向かいには社長夫妻が座る。
お姉さんがすぐにお茶の用意をしに行った。
「千尋さん、私達は先に下に降りましょうか?」
冬馬先生がすぐそばに来ていて私の腰に手をまわした。
「先生……」
その綺麗な顔を見上げる。
先生は優しくほほ笑んだ。
「ほら、私に掴まって」
「う、うん」
私は先生に促されるままに、事務所を出て外階段を降りた。
チカさんが私の荷物を 横井さんが花束を持ってついてきてくれた。
事務所の一階は資材置き場を兼ねたトラックの駐車スペースになっている。
今は車も出払っていてがらんとしていた。
打ちっぱなしのコンクリートの壁際には手作りのベンチと灰皿が置いてあり、職人さん達の喫煙スペースになっていた。
「千尋ちゃん、とりあえずベンチに座って」
「痛みはありませんか?」
冬馬先生に支えられながらベンチに腰かけて私は小さく息を吐いた。
痛みはかなりひいたものの足をかばって歩いているから短距離の移動ですら疲れてしまう。
「小田桐さん、私は何か飲み物を買ってきますね」
横井さんは、花束をベンチに置くとすぐにきびすを返し表通りを挟んだところにある自販機に足早に向かった。
その後ろ姿を冬馬先生はなにか言いたげに見つめていた……。
「いやー、それにしてもさ、まさか千尋ちゃんのお父さんが現れるなんてね! 僕驚いちゃったよ」
チカさん……そうだよね。
「私も知らなかったから……ホント、びっくりした」
「僕さ、千尋ちゃんがこんなに大変な目にあっている元凶は、あのお父さんにあるんだから、会ったら文句の一つでも言ってやりたいと思っていたんだ。でも……どうやらもう、その必要はないみたいだね」
チカさんはそう言ってにっこりとほほ笑んだ。
「……うん、そうだね。もう、大丈夫だよ。私ね……自分が親になって少しだけお父さんの気持ちが分かるようになったよ」
あの成人式の日は、とにかく父のもとから逃げ出したい、もし連れ戻しに来ても絶対に帰らないと決めて家を出た。
でも色々外で経験を積んで家に戻った今、ずっとすれ違ってきた父との距離が少しずつ近づいている気がするんだ。
それに、あんなに恐れていた父の事をもう、怖いと思わなくなってきてる。
それは確実に冬馬先生のおかげだ。
私は傍らに立つ先生を見上げた。
先生……。
先生が私と父のこじれた関係をどんどんほどいてゆく。
今日だって父をここまで連れて来てくれた。
いつも、あんなに忙しくしている父が、こんな平日の夕方にここまでやって来るなんて。
「先生? どうやってお父さんを連れてきたの?……今日は珍しくヒマだった、とか?」
私の問いに先生は眉をひそめた。
「暇ですって? とんでもない……千尋さん? もしかして私があなたを迎えに来るついでに所長を連れてきた、なんて思ってませんか?」
う、うん。
え? ち、違うの?
「所長が私の思惑通りに動くような人じゃないって事は千尋さんの方がよくご存じでしょう?」
まるで私をからかうようにそう言うと先生は一瞬真剣な表情を見せた。
「すべては、あなたのためです」
「私の……ため?」
「ええ、今日私が千尋さんの送迎をすることになったのは本当に思いがけないことでしたが、所長がこちらにご挨拶に伺う事は以前から決めていらしたのです。ご自宅に戻ってきた千尋さんの成長ぶりを見たら、どれだけここの皆さんが親身になってあなた方親子に接してくれたのか分かりますよ。あなたはとても……大人になって戻ってきた。所長はきっと直接、感謝の気持ちを伝えたいと思われたのでしょう。その為に先週からスケジュールを調整していたんです」
じゃあ、このあいだの日曜日に仕事して、しばらく仕事が詰まっていて忙しいって言ってたのも……せんぶ、全部私のためだったんだ……!
「スケジュールの調整は結構大変でしたよ。何しろ忙しい人ですからね」
お父さんっ……!
今日、こうして私のためにお礼を言いに来てくれた事、素直にありがたいと思う。
私、もう二十一才だし、母親にもなったし、大人になったつもりでいた。
でも、お父さんは私の事、ちゃんと『娘』だって思ってくれていたんだね。
ずっと、ずっと胸にわだかまっていたものがとけてゆく。
父の考えていることが理解できない、私達は、永遠に分かり合えないんだと思いこんでいた。
だけど……そうじゃなかったんだ。
私たちは今からでも分かりあうことが出来る。
今、この胸に湧いてきた父への感謝の気持ちを、一生忘れずにいたいと思う。
私達はもう一度、家族になれるのかも知れない。
「せ、先生っ……」
温かい雫が頬をつたう。
先生はそっと私の頬に手を添え、優しく涙をぬぐってくれた。
先生、せんせい。本当に大好き。
父の不器用な愛情の示し方に、気づかせてくれたのは先生だ。
その時、遠くからなじみのある音が聞こえてきた。
……!?
「チ、チカさんっ、こ、この音って……!!」
「うん、間違いないね」
聞き慣れたバイクの音が近づいて来る。
「タツキ君っ……!?」
蓮が産まれてからは時短勤務をさせて貰っているので四時過ぎには勤務終了だ。
いつもはこんな早い時間に事務所に戻ってくることのないチカさんが『良かった、間に合った!』と言いながら階段を駆け上がってきた。
随分息を切らしている。
そ、そんなに慌てなくても……。
「あれ? 横井さん?」
そんなチカさんに続いてシノコウの横井さんが事務所に入って来た。
今日、打ち合わせの予定だったっけ?
「さっき森君と現場で会って、今日が小田桐さんの最終出勤日だって聞いたから、ついて来てしまいました。今までお世話になったお礼を直接言いたいと思って」
横井さんはそういってニコリと人懐っこい笑顔を見せた。
うん、この方ホント、営業に向いてる。
初めて会った時から、なぜか昔からの知り合いのような不思議な感覚を覚えた横井さん。
私が働き始めてすぐに配置換えでフォレストの担当になったから、五歳も年上の人だけど勝手に同期の様に思っていた。
「横井さん……わざわざありがとうございます」
「いえいえ、小田桐さんには大変お世話になりましたし……どうぞ、これからもお元気で」
もう会う事もないのかと思うとなんだか寂しい。
「横井さんこそ……お元気で」
「じゃあ……せっかくなので小田桐さんからひと言挨拶してもらおうか」
そう社長に促されて私は立ち上がる。
「大丈夫?」
お姉さんがスッと私のそばに来て背中を支えてくれた。
「はい、痛みは随分ひいてきたので……」
いつもこうして救いの手を差し伸べてくれるお姉さん。
お姉ちゃん子だった私は、きっと姉の姿を重ねていた。
デスクに手をついたまま皆の顔をゆっくり見渡す。
森社長、奥さん、お姉さん、チカさん、横井さん。
「わ、わたしっ……」
言いたいことがあり過ぎて、うまく言葉が出てこない。
一年半前、父に無理矢理結婚させられるのが嫌で、何の計画性もなくタツキ君と偽装駆け落ちしてきた私を、フォレストは温かく迎え入れてくれた。
そして、甘やかされて育ってきて、何もできないただの学生だった私に、仕事の楽しさ、厳しさを教えてくれた。
もし、ここで働かせて貰えていなかったら、今の私の幸せはないだろう。
そう思えるくらい、社会人として、また人として育てて貰ったし、母になってからは支えて貰った。
ここにいる人たちは皆私の……私達親子の恩人だ。
「私っ、み、みなさんにっ……」
大切な人たちにちゃんとお礼を言いたいのに。
涙がどんどんあふれてくる。
机に着いた手の甲にボロボロと大粒の雫が落ちた。
「み、皆さんにっ、私がどれだけ……救われてきたかっ」
「千尋ちゃん……」
「今まで、ほ、本当にっ……ホントにっ」
私はしゃくりあげながらもなんとか言葉を紡ぐ。
ちゃんと想いを伝えたい。
「……ホントに、ありがとうございましたっ」
本当は言わなきゃいけないことが、もっともっと沢山ある。
私はここで、すごく濃密な時間を過ごさせて貰った。
社会人になり、母親になった。
そのすべてを支えてくれた人たちに、どんなに言葉を尽くしても足りない。
「千尋ちゃん……千尋ちゃんはいつまでも今のままでいてよ。絶対に蓮君と幸せになって」
チカさんが瞳いっぱいに涙を浮かべながらそう言ってくれる。
「うん……うん」
蓮を幸せにできるよう頑張る。
私はなんとか笑顔を作って頷いた。
「チカさん、わ、私、こんな素敵な事務所で、素晴らしい人たちに囲まれて働かせて貰えたこと、すごく感謝してるし……自慢に思ってる。毎日仕事に来るのが楽しかった。本当に、本当に今までお世話になりました」
「ではここでお仕事を頑張ってくれた千尋ちゃんに感謝の花束贈呈をしたいと思います」
お姉さんがそう言いながら花束を取りに窓辺に向かった。
「ね、ねえ、ちょっと、今すごい車が下に停まったんだけど」
お姉さんは花束を抱えたまま窓の下をのぞき込んだ。
すごい車って……?
「ああ、青いスポーツカーでしょ? きっと、千尋ちゃんのハイスペックな婚約者が迎えにきたんだよ、って……あれ?」
お姉さんに続いて窓辺に向かったチカさんが振り返る。
「黒塗りのすごく高そうな車が停まってる……」
く、黒塗りの車?
それって、まさか……。
事務所の入り口のそばに立っていた横井さんが階段をのぼって来た足音に気が付いてドアを開けた。
そこには冬馬先生と、
「お、お父さん!?」
父が立っていた。
父は軽く一礼して事務所に入り、森社長の前まで進むと深々と頭を下げた。
「小田桐千尋の父です。この度は娘が大変お世話になりました。皆さんにも孫の蓮共々、本当に良くして頂いたそうで。本来ならもっと早くご挨拶に伺うべきだったのですが……お礼が遅くなり大変申し訳ありません」
「……お父さん……」
思いがけず現れた父の姿に私は戸惑いを隠せない。
まさか今日、こんな風に父が私のために頭を下げに来てくれるなんて思ってもみなかった。
父はいつも忙しくしていて、参観日はもちろん学校の入学式や卒業式ですら一度も来てくれたことがない。
父は私に興味がないのかと淋しく思ったこともあったけど、最近ではそんな関係にもすっかり慣れてしまっていた。
そのくせ、たまに会うと『ああしろ、こうしろ』と頭ごなしに命令されるのが嫌でたまらなかった。
今思えば、父なりに私の将来を案じて言ってくれていたのかも知れないけど、当時の私には理解できなかったのだ。
ただ、私の人生は私のもの、父に支配されてたまるかと反発心だけが育っていった。
でも……私決していい子じゃなかったから、きっと私が知らないところで父はこうしていつも頭を下げてくれていたのかも知れない。
高三の冬に受験を控えた女友達とカラオケに行って友達の両親を怒らせちゃったこともあったっけ?
あのときだって、きっと……。
「小田桐さん、どうぞ頭をあげてください」
森社長は父の肩にそっと手を置いた。
「お嬢さんには本当に良く働いて頂いて、ウチも助かったんですよ。それに蓮君が産まれてからは孫が一人増えたような、幸せな気分を味あわせて貰いました」
社長……。
森家の皆さんは私達親子を家族同然に迎えてくれた。
「本当に……ありがたいことです。なんとお礼を言ったらよいのか」
「……とりあえず座りませんか? 色々積もる話もありますし」
奥さんはいつも優しく温かかった。
「……ありがとうございます」
社長夫妻に促され、父はソファに浅く腰かけた。
向かいには社長夫妻が座る。
お姉さんがすぐにお茶の用意をしに行った。
「千尋さん、私達は先に下に降りましょうか?」
冬馬先生がすぐそばに来ていて私の腰に手をまわした。
「先生……」
その綺麗な顔を見上げる。
先生は優しくほほ笑んだ。
「ほら、私に掴まって」
「う、うん」
私は先生に促されるままに、事務所を出て外階段を降りた。
チカさんが私の荷物を 横井さんが花束を持ってついてきてくれた。
事務所の一階は資材置き場を兼ねたトラックの駐車スペースになっている。
今は車も出払っていてがらんとしていた。
打ちっぱなしのコンクリートの壁際には手作りのベンチと灰皿が置いてあり、職人さん達の喫煙スペースになっていた。
「千尋ちゃん、とりあえずベンチに座って」
「痛みはありませんか?」
冬馬先生に支えられながらベンチに腰かけて私は小さく息を吐いた。
痛みはかなりひいたものの足をかばって歩いているから短距離の移動ですら疲れてしまう。
「小田桐さん、私は何か飲み物を買ってきますね」
横井さんは、花束をベンチに置くとすぐにきびすを返し表通りを挟んだところにある自販機に足早に向かった。
その後ろ姿を冬馬先生はなにか言いたげに見つめていた……。
「いやー、それにしてもさ、まさか千尋ちゃんのお父さんが現れるなんてね! 僕驚いちゃったよ」
チカさん……そうだよね。
「私も知らなかったから……ホント、びっくりした」
「僕さ、千尋ちゃんがこんなに大変な目にあっている元凶は、あのお父さんにあるんだから、会ったら文句の一つでも言ってやりたいと思っていたんだ。でも……どうやらもう、その必要はないみたいだね」
チカさんはそう言ってにっこりとほほ笑んだ。
「……うん、そうだね。もう、大丈夫だよ。私ね……自分が親になって少しだけお父さんの気持ちが分かるようになったよ」
あの成人式の日は、とにかく父のもとから逃げ出したい、もし連れ戻しに来ても絶対に帰らないと決めて家を出た。
でも色々外で経験を積んで家に戻った今、ずっとすれ違ってきた父との距離が少しずつ近づいている気がするんだ。
それに、あんなに恐れていた父の事をもう、怖いと思わなくなってきてる。
それは確実に冬馬先生のおかげだ。
私は傍らに立つ先生を見上げた。
先生……。
先生が私と父のこじれた関係をどんどんほどいてゆく。
今日だって父をここまで連れて来てくれた。
いつも、あんなに忙しくしている父が、こんな平日の夕方にここまでやって来るなんて。
「先生? どうやってお父さんを連れてきたの?……今日は珍しくヒマだった、とか?」
私の問いに先生は眉をひそめた。
「暇ですって? とんでもない……千尋さん? もしかして私があなたを迎えに来るついでに所長を連れてきた、なんて思ってませんか?」
う、うん。
え? ち、違うの?
「所長が私の思惑通りに動くような人じゃないって事は千尋さんの方がよくご存じでしょう?」
まるで私をからかうようにそう言うと先生は一瞬真剣な表情を見せた。
「すべては、あなたのためです」
「私の……ため?」
「ええ、今日私が千尋さんの送迎をすることになったのは本当に思いがけないことでしたが、所長がこちらにご挨拶に伺う事は以前から決めていらしたのです。ご自宅に戻ってきた千尋さんの成長ぶりを見たら、どれだけここの皆さんが親身になってあなた方親子に接してくれたのか分かりますよ。あなたはとても……大人になって戻ってきた。所長はきっと直接、感謝の気持ちを伝えたいと思われたのでしょう。その為に先週からスケジュールを調整していたんです」
じゃあ、このあいだの日曜日に仕事して、しばらく仕事が詰まっていて忙しいって言ってたのも……せんぶ、全部私のためだったんだ……!
「スケジュールの調整は結構大変でしたよ。何しろ忙しい人ですからね」
お父さんっ……!
今日、こうして私のためにお礼を言いに来てくれた事、素直にありがたいと思う。
私、もう二十一才だし、母親にもなったし、大人になったつもりでいた。
でも、お父さんは私の事、ちゃんと『娘』だって思ってくれていたんだね。
ずっと、ずっと胸にわだかまっていたものがとけてゆく。
父の考えていることが理解できない、私達は、永遠に分かり合えないんだと思いこんでいた。
だけど……そうじゃなかったんだ。
私たちは今からでも分かりあうことが出来る。
今、この胸に湧いてきた父への感謝の気持ちを、一生忘れずにいたいと思う。
私達はもう一度、家族になれるのかも知れない。
「せ、先生っ……」
温かい雫が頬をつたう。
先生はそっと私の頬に手を添え、優しく涙をぬぐってくれた。
先生、せんせい。本当に大好き。
父の不器用な愛情の示し方に、気づかせてくれたのは先生だ。
その時、遠くからなじみのある音が聞こえてきた。
……!?
「チ、チカさんっ、こ、この音って……!!」
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