メビウス・ロード

武智亜弓

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48 ここじゃない、どこかで(後)

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 明石海峡大橋を借景にした、神戸市垂水区にある、左近さくら寿司。仙台生まれの初代親方は、和菓子屋を継がずに登戸の魚料理店で修行を積み、さくら寿司を開いた。第二次大戦で一時廃業の憂き目に遭ったが、二代目が駆け落ち同然に、妻の実家のある神戸に移った。
 初代から引き継いだ技術とセンスを磨いた二代目は、明石の鯛やタコ、淡路島のウニ、大阪泉州のシャコ、京丹後のトリガイや若狭のサバなど、コハダのような一部のネタを除いては、築地に劣らずうまい魚を手に入れやすい神戸が気に入り、ここ垂水に根を下ろしたのである。現在の三代目は、アマチュアバンドのヴォーカルをこなしつつ、神戸では数少ない本格江戸前寿司の真髄を披露して、目と舌の肥えた客を喜ばせている。五十過ぎには見えない、若々しくていなせな親方である。
 音塚閃太郎は、あの日のシークレット・ブルベを境に、カメラマンの道に見切りを付け、寿司職人として修行に本腰を入れると決意した。こんにゃくや豆腐で練習を重ね、ネタの柵を十五グラムで正確に切り付けることをマスターし、おからで練習した小手返しの握りも様になってきたので、ようやく親方から、付け場に立つ許しを得たのである。
「じゃ、瓶ビールね。キリンで。グラスは二つ。まず、何か造り盛り合わせを。でもさ、今の時期、マグロは痩せてるけど、大丈夫だよね。鯛は年中あるっていっても、本当は紅葉の時期が美味いしね。今日の白身は何なの、マコガレイ?」
 開店と同時に顔を見せた美津根崇広は、このような敷居の高そうな寿司屋に通い慣れている様子である。明石沖のチヌ昆布〆、宮津のカンパチ、南紀勝浦の赤身ヅケと中トロ、長崎のシンコ、宮津の生トリガイ、明石のタコ桜煮、淡路島由良のウニ、播州高砂の煮アナゴ、スフレのように淡く溶ける丹波地鶏のタマゴの十貫と、カンピョウ巻を流れるように注文しては、じつに旨そうに食べ切った。
 もし客がクレームを付けるようなら、自分が握り直さねばと、閃太郎が握る様子を、付け場の陰から心配そうに覗いていた三代目の藍本親方であるが、味にうるさそうな客が、黙って握りをほおばる様子を見て安心した。本当に旨いと思いながら食べている時、人は寡黙になるものである。
 丸瀬紗弥は、淡路島の、もう少し大衆的な寿司屋なら何度か行ったことがあるが、こんな緊張を強いられる店に連れてきたもらったところで、肝心の味がよく分からない。美津根がたまに、うーん、旨いなとつぶやくから、実際そうなんだろう。下手に注文して怒られるのも嫌なので、とりあえず美津根と同じ握りをいただく。 
 今日は、紗弥の就活がめでたく終わった日、結局美津根の会社に雇ってもらうことになった、お祝いである。美津根としても、ただブルベを一緒に走って情が移ったというわけではない。紗弥の負けず嫌いの根性と、素直な性格、初対面でも人見知りせずに、きちんと人と意見交換できるところなど、営業職としてぴったりだと判断したのである。
「でもさ、結局、奇跡って何か起こったのか?」
 相変わらず美津根は思ったことをストレートに尋ねる。変に気を遣わない、この感じがいい。下心のある男ほど、回りくどい媚び方をする。紗弥は閃太郎と目が合ったが、ここで何か話を盛っても仕方ない。
「はい。既に、ずっと、これからも。わたしの場合は、願い事っていっても、何か形になって目に見えるようなものじゃないんです。もともと、奇跡なんて、頑張ったご褒美にもらうようなものじゃない。まして、自分の意志で起こせるものでもないと思うんです」
 祐二に事前に相談してたら、メビウス・ロードに参加すること自体、笑われてしまったかもしれない。それだけの元気と根性があるんなら、何も心配ないよ、やっぱりお前は強いなって。きっと、そう言うよね。
「あ、閃太郎、さん。イクラあります?え、この時期は生イクラないんですね。じゃ、エビをお願いします」
 あの時、神殿の奥から、確かに何かエネルギーが出てるような気がした。でも、ただの気のせいかもしれない。隣の亜弓さんが並べていたリング、きらきら光って、キーンと澄んだ音が響いてた。あれは絶対気のせいじゃない。亜弓さん、どんなお願いごとをしたんだろう。あたしと一緒だったらいいな。
           *
 尾道からの渡し船で向島に渡る。料金は百円、日本一短い船旅という看板が掲げてある。向島からひとつ橋を渡ると因島。パッケージの絵がかわいいはっさく大福を補給食にいただくため、四人は島の坂を上った。柑橘類がたくさん栽培されているためか、アゲハチョウをよく見かける。
 亜弓は、陽子とハチケン、それに子どもたちを夫の田中選手に任せてきた君世と一緒に、しまなみ海道サイクリングに来ていた。瀬戸内海に浮かぶ六つの島を橋でつなぎ、四国の今治まで八十キロ。言わずと知れた、サイクリストの聖地である。道路脇のブルーラインに沿って走れば、迷うことはない。梅雨が明け、気温は高いけれど、風を裂いてゆく爽快さの方が勝り、ペースが上がる。陸地と水面の境目に沿って、どこまでも走っていたい。
 レモン栽培で有名な井口島。レモネードで喉を潤した後は、二羽の白鳥が羽を広げたような、世界最大級の斜張橋である多々羅大橋に向かう。中央の梁の下に鳴き龍の拍子木が置いてある。「ここで手を叩いてみてください。ふしぎなことが起こります」との説明が添えられている。
 ふしぎなこと大好きな君世が、さっそく拍子木を手に取って、打ち鳴らしてみる。カィーンと硬質な音が、橋の上方高く伸びる梁にいつまでも反響し、こだまが返ってくる。しばらく余韻を楽しんだが、「もっと不思議なことが起きてほしいよね」と言い残して、先に向かう。
 橋を降りれば大三島、サイクリスト聖地の碑で有名なしまなみ公園に着く。人形のサイクルスタンド、シクロツーリストが四体あるので、それぞれ自分のロードバイクを引っかけて写真を撮る。順番を待っているローディーがたくさんいるので、そそくさと場を譲る。
 煉瓦造りの洋風な塔の中に、フランスはノルマンディーで造られた、しあわせの鐘が下がっている。陽子とハチケンが手を重ねて鳴らした。亜弓がそばにいても、時々二人で目を見つめ合っているので、こちらが照れてしまう。
 大三島橋を渡れば塩で有名な伯方島であるが、コース的には三キロほどで伯方大島大橋に至り、そこを渡れば最後の大島である。激坂大好きのハチケンが、陽子を誘って高さ三百七メートルの亀老山展望公園に行くことになった。サイクリストの間では結構有名なヒルクライムルートだ。亜弓は、わざわざ遠回りして上るなど、できれば避けたかったが、君世も嬉しそうに行くと言うので、仕方なく付き合うことにした。予想通り、というか、予想以上にきつい。ウォータープルーフの日焼け止めも流れてしまうほど汗だくになる。
 よれよれになっててっぺんにたどり着くと、陽子が売店で日本一を自称する藻塩アイスを買って待ってくれていた。こりゃ売れるよね、と納得の美味しさ、冷たさ、塩加減である。
 自転車をサイクルラックに引っかけ、結構長い階段を上って展望台に至る。テラスのワイヤーにはカップルの名を書き込んだ南京錠がいくつか掛かっている。世界中のあちこちにあるが、ここも恋人達の聖地の一つらしい。さび付いて外れなくなるのも計算のうちなんだろうか。一時は千個以上掛かって、あまりの重さから危険防止のために撤去されたという。
 展望台からは、長さ四キロに及ぶ世界初の三連吊り橋、来島海峡大橋がよく見える。海流が速く、八幡渦といわれる渦潮も眺めることができる。ここを渡れば、もう四国だ。風に吹かれながら、海と空をいつまでも見ていたい。恋人達の聖地か、要らないよね、鍵なんて。感慨に浸っていた亜弓の横で、ちょっと空気の読めない絹代が、いきなり先日のシークレット・ブルベの反省を語り出した。
「なんかね、あれから色々考えたの。今度はちゃんと、御朱印を入れるジップロックを持っていくことと、岩樟神社の神主さんには事前に御朱印の予約を入れておく。それで、オーブなんだけど、ベルのリング程度じゃ、やっぱり小さすぎる気がするのよね。
 アワイチの陽気を溜めるのに、アルミのフロントホイール、もちろん黒じゃなくて、シルバーの。ビワイチの陰の気を溜めるには、カーボンのディープホイール。これが良いと思うの。練った太極の気を詰め込むのはツールボトル、それもできれば純金製、無理なら金メッキのを用意する。それで、最初から最後まで三人で完走することが必須条件ね。これで今度こそ完璧。
 来年になれば、うちも下の子が保育園に入るし、夜はおばあちゃんを頼むから、次の夏至にはわたしが走るわ。願い事は何にしようかな。メンバーはね、わたしと夫は確定として、あと一人はどうしよう。真理ちゃんはスペインに行っちゃうし。陽ちゃんとハチケンさんは、今さら願い事なんてないよね。あー、あと一人、亜弓ちゃん、来年もう一度走らない?今度こそ、間違いないから」
 来島海峡大橋を渡りきれば、ロードバイクのヘルメットをかぶった、愛媛のゆるキャラ「みきゃん」のパネルが出迎える。皆で記念撮影をしてから、今夜の宿となる、今治の温泉旅館へと向かう。お昼に海鮮丼を食べたけど、もうお腹がすいてきた。温泉も楽しみだ。
 しまなみ海道、来るまではとっても遠いと思ってたけど、実際に来てみて走ったら、あっという間だった。人生も似たようなものかもしれない。亜弓は、あの日と同じように、陽子の背中を追いながら、あふれる思いに身を委ねていた。
 祐二、人前じゃなるべく泣かないようにしてるんだけど、やっぱり涙は乾かないよ、今でも。あなたのことを想うたび、胸が締め付けられて息が苦しくなる。毎日何回も何十回も、うつむいたり、空を見上げたり、後ろを振り返っては、祐二の姿が見えないこの世界にため息が漏れる。癒されようのない、このかなしみだけど、薄まらなくてもいい。もう二度とぜったい、忘れたりしないからね、約束するよ。
 さよならは言わない。わたしは、かなしみを丸ごと抱えたままで歩き出すよ。だって、ここにじっと佇んでいても、迎えになんて来てくれないでしょ。これからどっちに行けばいいのか、標識もないし、よく分からないけど、それを祐二に尋ねても、好きなようにしたらって、きっと投げたように言うんだろうね。そのくせ、わたしが歩き出したら、黙って付いてくるんでしょ。あの、雨の日の箱根のように。
 自分の足で前に進むことが、どれだけしんどくて、どれだけ楽しいことか、自由っていうのは、全部自分に返ってくる。ロードバイクで走ることは、この世界を生きること、そのものなんだね。たとえ世界を変えることができなくても、立ち止まっても、道に迷って後戻りしても、まだ走れる道が、いつもわたしの足元から延びている。
「君世さん、今度一緒に走るなら、阿蘇の外輪山に行きませんか?祐二といつか行きたいねって言ってて、まだ行けてないんです。あの辺りもきっと伝説とか、あるんでしょ」
 亜弓がふと見上げると、刻々と色を深めていく薄い雲の陰から、流れ星が飛んだ。願い事を思いつく間もなく、西の空に消えた。
 祐二、ここじゃないどこかなんかに、行かなくていいんだよ。わたしは、いつだって、ここにいるから。
                    (本編、完。サイドストーリーに続く)
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