消えた記憶、残る感触

空見原 禄乃

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知らない仕事

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朝日が窓から差し込み、陽介の顔を優しく照らした。目を開けると、初めは見慣れない天井に戸惑ったが、すぐに昨日の記憶が戻ってきた。健一のマンション。かつて自分も住んでいたという場所。

(あの夢は……なんだったんだろう……)

昨夜見た夢の断片が頭をよぎる。健一との親密なシーン。まるで夢ではなく本当の記憶のような、でも確信はない。それにもし本当だったとして……。

そこから思考を進めようとしかけた瞬間、軽いノックの音がして、ドアが開いた。

「おはよう。起きてたか」

健一が顔を覗かせた。既に身支度を整え、カジュアルながらもセンスの良い服装をしている。陽介は体を起こした。

「おはよう……」
「今日の予定だけど、お前のアトリエに行こうと思う。仕事場を見れば、何か思い出すかもしれない」
「アトリエ……」

陽介はその言葉を反芻した。

「僕はどんなデザイナーだったんだろう」

確かに学生時代はそういった職業を目指していた。そして、これまでの話を聞く限り、その夢はかなえたようだった。しかしまったくと言っていいほど実感はなかった。

「才能ある、型破りな……」

そこまで言って健一は言葉を区切った。

「でも説明するより、見た方が早いだろうな」

朝食を終え、二人は健一の車に乗り込んだ。東京の中心部へと向かう道中、陽介は窓の外を見ていた。

「健一は今、どんな仕事をしてるの?」
「インテリアデザイナーだよ。主に商業施設や一部の富裕層の個人邸を手がけてる」

健一は運転しながら答えた。

「最近は、どこのコンペも「サスティナブル」だな。そんな素材だったりコンセプトのデザインが評判だな」
「へえ……」
「お前のデザインとは方向性が違うけど、お互いに影響し合ってたんだ」

健一の口調には懐かしさが混じっていた。

「『服とインテリアは、人の生活を彩る両輪だ』ってよく言ってたよな」

陽介は健一の横顔を見た。話す彼の表情が生き生きとしている。自分との思い出を話す時の、特別な輝き。

「健一、正直に答えてほしいんだ」

陽介は真剣な表情で言った。

「僕たちの関係って……本当に友人、親友……だった、だけ?」

健一の手がハンドルを強く握りしめるのが見えた。車がわずかに蛇行する。

「どうして……そう思うんだ?」

健一の声が僅かに震えていた。

「夢を見たんだ。僕たちが……」

陽介は言葉を選びながら言った。

「とても親密な関係だったような」

健一は深く息を吐いた。一瞬、言葉を失ったように見えた。

「陽介……お前の記憶が自然に戻るのが一番いいんだ。俺からは何も言いたくない」
「でも……」
「信じてくれ。時間をかければ、全てわかる」

それ以上は何も言わなかったが、健一の反応で陽介の疑念はさらに強まった。何かを隠していることがあるのは明らかだった。
車は都内のオフィス街に入り、高層ビルの前で停まった。

「このビルの15階に、お前のアトリエがある」

エレベーターで上がりながら、陽介は緊張していた。自分の仕事場。でも、記憶にない場所。
15階に着くと、「SATO DESIGN」というロゴが入ったガラスドアがあった。

「自分のブランド……」

健一はセキュリティカードでドアを開けた。

「お前の会社のカードも持ってるんだ。お互いのスペースに行き来できるようにしてた。仕事で困ったときに、便利だったから」

中に入ると、広々としたスタジオが広がっていた。大きな窓からの自然光。白を基調としたモダンな空間。デザイン画が飾られた壁。作業台にはスケッチや生地サンプルが散らばっている。

「ここが……僕の場所」

陽介はゆっくりと歩き回った。手で生地に触れ、デザイン画を見つめる。指が自然と動き、布の質感を確かめる。体が覚えている動き。頭ではなく、指先が記憶している感覚。
そのとき、ドアが開き、若い女性が入ってきた。

「あ!佐藤さん!」

彼女は驚いた表情で立ち止まった。

「復帰されたんですね!」
「あ、水原さん」

健一が彼女との間に入り、にこやかに笑った。

「こちらは陽介のアシスタントの水原美咲さんだ」
「はじめまして……じゃあないんですよね?」

陽介は少し戸惑いながら挨拶した。
女性も同じように困惑した表情で健一を見た。

健一は小さく首を振り、「陽介は記憶を失っているんだ。事故のせいで過去5年間のことが……」と説明した。
「え……?それじゃあ、私のことも……?」
「すみません、覚えていないんです」
「そう……ですか」

彼女は寂しそうな表情を見せたが、すぐに笑顔を作った。

「またゼロから覚えていただきますね。私、水原美咲です。佐藤さんのアシスタントを2年前からしています。よろしくお願いします!」
「こちらこそ」
「彼女はお前の右腕だ」

健一が笑顔で言った。

「彼女がいなかったら、このブランドは成り立たなかっただろうな」

水原さんは照れたように笑った。

「そんな……佐藤さんの才能あってこそです」
「今、どんなプロジェクトが進行中……何ですか?」
「ああ、次のコレクションの準備ですね。一昨日サンプル品がとどきましたよ」

水原さんは奥の部屋に向かいながら言った。

「見てみますか?」

二人は彼女に続いた。奥の部屋には、数着の洋服が並んでいた。モダンでありながらも、どこか和のテイストを感じさせるデザイン。

「これが……僕のデザイン?」

陽介は洋服に近づいた。

「はい」

水原さんが誇らしげに言った。

「『現代に生きる侍』をテーマにした新コレクションです」

陽介は服に触れた。生地の質感、縫製の精密さ。全てが洗練されていた。自分がデザインしたとは思えない高いレベルの、少なくとも「今の自分」では作成できない作品がそこにはあった。

「すごい……」
「着てみるか?」

健一が提案した。

「自分のデザインを身に着けるのは、デザイナーの特権だろう」

陽介は頷き、水原さんが選んだジャケットとパンツを着た。鏡の前に立つと、そこには見知らぬデザイナーの姿があった。スタイリッシュで自信に満ちた男性。

「似合ってる」

健一が後ろから言った。その視線に熱を感じる。

「やっぱりお前は、自分のために最高の服を作る才能がある」

健一の褒め言葉に、陽介は胸が温かくなるのを感じた。彼の視線が自分の体を撫でるように感じる。昨日見た夢のせいかもしれないが、それは単なる友人の視線ではない気がした。

「あの……」

水原さんが声をかけた。

「パリコレのオファーについては、どうされますか?」
「パリコレ?」

陽介は驚いて振り返った。
健一が説明した。

「事故の直前、パリコレクションへの招待が来たんだ。お前のブランドが国際的に認められ始めている証拠だよ」
「そんな……」
「期限は来月末です」

水原さんが言った。

「もし難しければ、来シーズンに回すことも……」
「いや……」

陽介は自分の作品をもう一度見た。

「挑戦したい」

その言葉は、自然と口から出た。デザイナーとしての本能が、記憶喪失を超えて顔を出したかのように。

健一の顔に笑みが広がり、水原さんも嬉しそうに頷いた。

「では、準備を進めておきます!」

彼女が資料を取りに行っている間、健一は陽介に近づいた。

「不安か?」
「ああ……でも、なぜか挑戦したいって思った」

陽介は自分の胸に手を当てた。

「記憶はなくても、この感覚は残ってるみたいだ」

健一は優しく微笑んだ。

「お前の本質は変わっていない」

その瞬間、健一の手が陽介の肩に触れた。シンプルな仕草だったが、その接触に陽介の体が反応するのを感じた。温かさが体中に広がる。電流のように走る心地よい感覚。

(また、この感覚……友人に触れられただけでこんな反応をするものだろうか?)

水原さんが戻ってきて、三人はパリコレの準備について話し合った。既存のデザインをベースに、いくつかの新作を追加する計画。

「では、私はこれで」

水原さんが帰り支度をした。

「明日も働かれますか?」

陽介は健一を見た。

「まだ完全回復してないから、最初は週に2、3回から始めよう。無理は禁物だ」
「そうですね。何かあれば、いつでも連絡してください。スケジュールは調整します」

彼女が去った後、陽介と健一だけが残された。
健一は一つ大きな呼吸をし、陽介をスタジオの奥にあるソファに案内した。

「ここでよくアイデアを練ってたんだ」

二人は向かい合ってソファに座った。

「信じられないよ……僕がこんなデザイナーになってるなんて」

陽介は言った。

「大学時代は、正直半信半疑の夢だったのに」
「お前の才能は本物だった」

健一は真剣な表情で言った。

「俺はずっとそれを信じてた」
「健一……」

陽介は少し考えてから続けた。2人の間に不思議な空気が流れる。沈黙で耳が痛いのに、なぜか暖かい、「今の自分」にとっては人生で一度も感じたことのない初めての空間だった。

「僕たち、本当に親友だったの?何か……もっと深い関係だったんじゃないかって、時々感じるんだ」

健一の表情が凍りついた。

「車の中でもそんなこと言ってたよな。どうして……そう思うんだ?」

声が少し震えていた。

「わからない……」

陽介は正直に答えた。

「体が覚えているような感覚がある。昨夜も夢を見た。二人が……」

陽介は言葉を切った。「キスしてる夢」とは言えなかった。ましてやそれ以上に親密な夢だったことを口にする勇気はなかった。
健一は深く息を吐き、立ち上がった。

「陽介……」

健一は窓際に立ち、外を見た。

「さっきも言った通り、お前の記憶が戻るまで、あまり過去のことは話したくないんだ。医師も『自然に思い出すのが良い』と言ってた」
「でも……」
「ゆっくり行こうぜ」

健一は振り返り、優しい笑顔を見せた。

「今はまず、デザイナーとしての感覚を取り戻すことに集中した方がいい」

陽介は納得いかない表情をしたが、それ以上は追及しなかった。

「わかった……」
「お腹空いたんじゃないか?近くにいいレストランがある。行こう」

健一は空気を換えるように明るく言った。
二人はスタジオを後にした。エレベーターに乗る時、狭い空間で二人の体が近づいた。その瞬間、陽介の心臓が早く鼓動するのを感じた。健一の体温と香りを感じ、体が熱くなる。
レストランでの食事中、陽介は何度か健一を観察していた。彼の仕草、笑い方、話し方。全てが妙に親密に感じられる。特に、健一が料理を薦める時の「これ、お前好きだったよな」という言葉。

「陽介」

健一が突然真剣な表情になった。

「もし……記憶が戻らなくても、新しい記憶を作ればいいと思う」
「新しい記憶……」
「ああ。過去に囚われず、これからの日々を大切にしよう」

その言葉には、どこか切なさがあった。まるで、過去の二人には戻れないと諦めているような。

「健一」

陽介は決意を込めて言った。

「僕は必ず記憶を取り戻すよ。そして、僕たちが本当はどんな関係だったのかも」

健一の目に一瞬、驚きと期待が浮かんだように見えた。だが、すぐに平静な表情に戻った。

「ああ……まぁ、そのほうが、いや、なんでもない」

帰り道、車の中は静かだった。二人の間に流れる沈黙には、言葉にできない感情が満ちていた。

マンションに戻ると、健一は「少し仕事をする」と言って自室に引きこもった。陽介は一人リビングに残され、今日見たデザイン画を思い返していた。
指が勝手に動く。スケッチブックを手に取り、描き始めた。何を描くのかも意識せずに、線が紙の上を走る。

気がつけば、そこには健一の姿が描かれていた。窓際に立つ彼の後ろ姿。そしてその隣には、彼を抱きしめる自分の姿。二人の体は密着し、互いを求めるように描かれている。

(やっぱり……僕たちは……)

陽介は描いたスケッチを見つめた。体が覚えている感覚。それは単なる友情ではなかった。もっと深く、もっと熱い何か。

雨が窓を打ち始めた。東京の夜景が雨に霞む。陽介はスケッチブックを閉じ、窓に寄りかかった。
記憶は失われても、体に刻まれた感情は消えない。その事実が、彼の中で確信に変わりつつあった。

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