消えた記憶、残る感触

空見原 禄乃

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残された痕跡

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退院から3日後、陽介は健一のマンションで新しい生活を始めていた。

高級マンションの14階。エレベーターを降りて部屋の前に立った時、健一は少し緊張した様子を見せた。

「実は……これは元々二人で選んだマンションなんだ」
「え?」
「いや、その……」

健一は言葉を選ぶように続けた。

「大学卒業後、お互い実家を出て自立したくて、友人としてルームシェアしてたんだ。お前が独立してからも、俺はここに住み続けてる」
「そうだったんだ……」

健一がドアを開けると、洗練されたインテリアの部屋が現れた。シンプルでモダン、でも温かみのある空間。大きな窓からは東京の街並みが一望できる。

「すごい部屋だね」

陽介は素直に感嘆の声を上げた。

「さすがデザイナー同士で選んだだけあるよな。お前のセンスと俺のセンスが融合した結果だ」

健一が誇らしげに言った。
陽介はゆっくりと部屋の中を歩いた。リビングの壁には、モノクロの写真が飾られている。二人で写っているものが多い。大学の卒業式、旅行先らしき場所、仕事中の様子。どの写真でも、二人は互いに寄り添っている。

「本当に仲が良かったんだな……」

健一は少し距離を置いて立っていた。

「ああ……特別な友人だった」

その「特別」という言葉に、陽介は何かを感じた。言葉の裏に隠されている何か。

「で、俺の部屋はどこ?」
「こっちだ」

健一は廊下を進み、二つのドアを指さした。

「右がお前の部屋で、左が俺の部屋だ」

陽介は自分の部屋のドアを開けた。シンプルで洗練された部屋。大きなベッド、作業用のデスク、壁にはデザイン画やファッション誌の切り抜きが飾られている。

「前はここに一緒に住んでたけど、独立してからは……」

健一は言葉を濁した。

「独立?」
「ああ、お前は約2年前に自分のブランドを立ち上げて、別の場所に引っ越したんだ。でも、このマンションは手放さなかった。お前が『いつでも戻れる場所があるといい』って言ってたから」

(なぜそんなことを……?)

陽介は部屋をゆっくり見回した。ベッドサイドテーブルの上には、小さな観葉植物が置かれている。

「これ……」
「俺が世話してた。お前が大事にしてた植物だから

健一が静かに言った。
陽介は植物の葉に触れた。柔らかな緑の葉。何かを思い出しそうで思い出せない。

クローゼットには、いくつかのシャツやパンツが掛かっていた。全て自分好みのスタイル。手に取ると、サイズも完璧だった。
嫌が応にもここに自分が住んでいたことがわかる。

「シャワー浴びるか?」

健一が提案した。

「長い入院生活だったから、さっぱりしたいだろう」
「そうだね」

バスルームに入ると、そこにも二人の痕跡があった。二つの歯ブラシスタンド、二人分のタオル。

シャワーを浴びながら、陽介は考え込んだ。

(俺は、そして健一……)

温かいお湯が体を包み込む。ふと、背中に誰かの手が触れるような錯覚を覚えた。振り向くと誰もいない。ただの感覚の記憶。でもその感触はとても鮮明で、陽介の体が反応するのを感じた。背筋に沿って走る心地よい震え。

(これは記憶?それとも単なる妄想?)

シャワーを終え、髪を乾かした後、健一が用意してくれた部屋着に着替えた。鏡に映った自分の体を見て、陽介は少し驚いた。知っているはずなのに、どこか見慣れない。胸や腹部にある小さな傷。それらは忘れている過去5年間で得たものなのだろう。

「大丈夫か?」

廊下から健一の声がした。

「ああ……今行く」

タオルを首にかけたまま、バスルームを出ると、健一と廊下ですれ違った。一瞬、彼の視線が陽介の体に留まったように感じた。その視線に、陽介の体が熱くなった。

「晩御飯、作ってるから」

健一は少し慌てたように言った。

「お前の好物、作ったぞ」
「ありがとう」

リビングに戻ると、健一がキッチンで料理をしていた。彼の背中を見つめていると、なぜか胸がざわつく。

「何作ってるの?」
「お前の好物。ナスとひき肉のトマトパスタ」
「え、それ好きなんだ?」

健一は動きを止め、振り返った。

「……好きじゃなかったか?いつも『健一のトマトパスタが一番だ』って言ってたけど」

陽介は首を傾げた。

「わからない……でも、いい匂いがする」

(なぜか胸がざわつく……)

「お前の味覚だけは変わってないといいな」

健一は微笑み、再び料理に集中した。
陽介は健一の背中を見つめていた。料理をする姿が妙に様になっている。慣れた手つきで野菜を切り、調味料を加え、パスタを茹でる。その光景が、どこか懐かしい。

パスタが完成し、テーブルに並べられた。ワインボトルも開けられている。

「病み上がりにアルコールはどうかと思ったが、俺たちの記念のワインだ。肉体的には問題ないだろうし、医師は少量なら大丈夫だと言っていた」

健一はグラスにワインを注いだ。

「乾杯しよう、退院おめでとう」

二人はグラスを合わせた。

「これからも……よろしく」

陽介はワインを一口飲んだ。濃厚な味わいが口の中に広がる。この味も、どこか記憶の片隅に残っていた。

パスタを口に運ぶと、懐かしい味がした。

「おいしい……」

自然と言葉が漏れた。
健一の顔が明るくなった。

「良かった。体は覚えてるみたいだな」

(体が覚えている……)

食事の後、二人はソファに座ってコーヒーを飲んだ。窓の外では、東京の夜景が輝いていた。

「健一、聞きたいことがあるんだ」

陽介は真剣な表情でコーヒーカップを置いた。

「なんだ?」
「僕のこと、全部教えてほしい。この5年間、どんな人間だったのか」

健一は少し考え込むように目を伏せた。

「お前は……才能あるデザイナーだった。大学卒業後、すぐに有名ブランドにスカウトされた。常識にとらわれないデザインが評価されて、若手の注目株だった」
「でも、2年前に独立した?」
「ああ。『自分の名前を冠したブランドを作りたい』って言って。そして実際、成功してる」
「家族との関係は?さっき父親と複雑って言ってたけど」

健一の表情が曇った。

「お前の父親は……伝統的な価値観の人だ。息子には安定した人生を望んでた。デザイナーになることにも反対してたし……」

健一は言葉を切った。

「他にも何か……?」

陽介が追及すると、健一は軽く首を振った。

「まあ、いろいろあったんだ。でも、今日は疲れてるだろう?今日は早めに休もう」

陽介は何か聞き出せなかったことがあるのを感じたが、今は追及しないことにした。

「そうだね、ありがとう」

寝室に向かう前、健一は陽介の肩に軽く手を置いた。

「何か必要なことがあれば、いつでも呼んでくれ。隣の部屋だから」

その手の温もりが、陽介の体に電流のように走った。肩から背中へと、奇妙な心地よさが広がる。

「ああ……おやすみ」
「おやすみ」

部屋に戻り、ベッドに横になった陽介。天井を見つめながら、今日のことを振り返る。健一との関係、このマンション、残された痕跡。全てが「友人関係」として説明されているのに、どこか違和感がある。

(健一は何か隠している……そして、父)

目を閉じると、断片的な映像が浮かんだ。健一の笑顔、肩に触れる手、耳元でささやく声。そして、驚くべきことに—唇の感触。はっきりとした記憶ではなく、感覚の断片。でも確かに感じる。

真夜中、陽介は夢を見ていた。

健一と二人でこの部屋にいる。笑い声、触れ合う手。そして、ベッドに倒れ込む二人。熱い吐息と、互いを求める手。暗闇の中で絡み合う体。

「陽介……」

耳元でささやかれる自分の名前。背中を滑る手の感触。唇が首筋を這う感覚。

陽介は汗をかきながら目を覚ました。心臓が早鐘を打っている。

(なんだ、今の夢は……)

体が熱い。特に唇が、そして下半身も。まるで誰かに触れられたかのように。明らかに性的な反応を示していることに、陽介は混乱した。
窓から月明かりが差し込んでいる。陽介は深く息を吐き、再び目を閉じた。
答えは出ないまま、陽介は不安と期待が入り混じった感情を抱えたまま、再び眠りに落ちた。

月明かりだけが、彼の混乱した心を静かに照らしていた。

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