『公爵令嬢には、見えざるものが見える。話せる。殴れる。 話が通じないなら、へなへなぱーんち!』

しおしお

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第8話 居場所が消える

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第8話 居場所が消える

出立の前夜。
アヴァンシアの部屋は、驚くほど静かだった。

荷造りは、すでに終わっている。
トランクは一つ。
中身は必要最低限。

「……本当に、少ないものですね」

ぽつりと呟くと、
窓辺から声が返ってきた。

『物が少ないんじゃない』

家を守る者の声は、穏やかだった。

『この家が、
あなたを引き留めなかっただけ』

「……そうですね」

部屋を見回す。
幼いころから過ごした場所。
笑ったことも、泣いたこともある。

けれど――
ここに「戻りたい」と思わせる何かは、
もう残っていなかった。

その時、
扉がノックされた。

「アヴァンシア」

父の声。

入室を許可すると、
父は一歩だけ中に入り、
部屋を見回した。

「準備は、できているようだな」

「はい」

父は、少し言葉を探すように黙り、
やがて言った。

「……向こうの家は、
悪くない」

「承知しております」

「しばらく、
ここには戻らない方がいい」

それは、忠告でも配慮でもない。
宣告だった。

「……分かりました」

父は、ほっとしたように息を吐いた。

「お前のためだ」

その言葉に、
アヴァンシアは微笑んだ。

「はい。
父上の仰る通りです」

――嘘は、ついていない。

父はそれ以上何も言わず、
扉を閉めて去っていった。

『……あの人』

『悪い人じゃないのにね』

「ええ」

アヴァンシアは、ベッドに腰を下ろす。

「ただ、
私を守る方法を、
間違えただけ」

そう。
殴るべき相手ではない。

理解できないものから、
距離を取る。
それだけの選択。

夜更け。

屋敷が眠りにつく頃、
アヴァンシアは静かに立ち上がった。

「……行きましょう」

『もう?』

「ええ。
朝を待つ必要はありません」

『……それも、そうね』

廊下を歩く。
足音は、一つ分。

けれど、
その周囲には、
確かな気配が寄り添っている。

玄関ホール。

かつて、
「いってらっしゃい」と
声をかけられた場所。

今は、誰もいない。

「……さようなら」

そう言って、
扉に手をかけた瞬間。

――ふわり。

温かい気配が、
背中を包んだ。

『ありがとう』

『ここを、
守ってくれて』

それは、
この家そのものの声だった。

アヴァンシアは、
一瞬だけ目を閉じる。

「……こちらこそ」

扉を開ける。

夜の空気が、
静かに流れ込む。

その瞬間、
彼女ははっきりと悟った。

――居場所は、
与えられるものではない。
選ぶものだ。

この家は、
もう選ばなかった。

そして、
彼女もまた、
ここを選ばない。

トランクを引き、
一歩、外へ。

振り返らない。

その背後で、
見えざる家族たちが、
静かに続いた。

こうして――
公爵令嬢アヴァンシアは、
生まれ育った屋敷を去った。

それが、
婚約という名の追放の、
本当の始まりだった。


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