婚約破棄は歓迎ですが司書解任は困ります――そう言っていた私ですが、図書館の地下で自堕落天国が完成しましたので、どうか放置してくださいませ』

しおしお

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第5話 迷宮と化す無限魔導図書館

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第5話 迷宮と化す無限魔導図書館

 

 無限魔導図書館の朝は、いつも静かで荘厳だ。

 高い天井から吊るされた魔導灯は柔らかな光を落とし、
 古い羊皮紙とインクの匂いが、空気の層を幾重にも重ねていく。

 ──はずだった。

「司書殿、まだなのか? こちらは研究期限が迫っておるのだぞ!」

「私はもう一時間待っているんだが……」

 その日の朝は、静寂とは程遠い怒声から始まった。

 受付前には、ずらりと長蛇の列。
 魔術師、学者、宮廷研究員、その見習いたちまで混ざって、
 ざっと見積もっても三十人は並んでいる。

 だが、その列の先頭にいる“新司書”は――

 大あくびを、なんとか指先で押さえ込んでいた。

「ん~~……ふあ……っ、んぐ……」

 聖女サヴィ・ルミナスは、口元を必死に押さえながら、
 眠気と戦う顔のまま、だるそうに視線を上げる。

「もう、次から次へと質問してこないでよねぇ……。
 私は王太子妃になる予定なんだから、こんな大量の本の場所なんて知らなくても問題ないでしょ?」

 さらり、とんでもない一言が口から滑り落ちた。

 その瞬間、列の中ほどから、はっきりとした“殺気”が立ち上る。

「……問題しかないわ!」

 中年の女魔術師Aが、ぴき、とこめかみに青筋を浮かべた。

「案内もできん司書など見たことがない!」

 隣の壮年の魔術師Bも、外套の裾を握りしめている。

 苛立ちと焦りと不安がごちゃまぜになった空気が、
 受付前に、もわっとした魔力の熱を生んでいた。

 ソラーラが司書をしていたころには、こんな光景は一度もなかった。

 朝一番、彼女はすでに書架の動きを更新し終え、
 待機列ができる前に、常連たちの必要書類をある程度揃えてしまっていたほどだ。

「ええと、何の本を探していたの? ……あ、やっぱり分かんないわ~。棚が多すぎてムリ!」

 サヴィは両手を挙げて、投げやりな笑顔を浮かべた。

 ぱっと見の愛らしさだけで言えば、
 「まあまあ、仕方ないわね」と許してしまいそうになる容姿だが――

 今この場にいるのは、締切と戦う魔術師たちである。
 優雅な微笑みより“目当ての本一冊”のほうが何百倍も大事な人種だ。

「……っ!」

 列の数名が、同時に顔をゆがめた。

「もうよい! 自分で探す!」

 魔術師Aが、ぷつんと何かが切れた声で叫ぶ。

「そうだ! 司書が当てにならんのなら、我らで勝手に探すまでだ!」

「自分の研究分野の棚ぐらい、感覚で覚えている!」

 怒号まじりの言葉とともに、三人の魔術師が
 制止も聞かず、ずかずかと書庫の奥へと踏み込んでいった。

 サヴィは、ふんと鼻を鳴らし、椅子の背にもたれかかる。

「勝手に探せば~? 私、もう王太子妃なんだから、
 こういう細かい仕事は向いてないのよね」

 それを聞いた列の後ろのほうで、誰かが小声でつぶやいた。

「今の、殿下の前で言ってみてほしい……」

「いや、むしろソラーラ嬢の前で……」

 怨嗟と諦めの混ざったため息が、あちこちから漏れる。

 ――その瞬間。

 ズズズズズ……ッ。

 図書館全体が、低くうなるような嫌な音を立てた。

 床を伝って揺れが走り、
 棚の奥で魔力が渦巻く感覚が、敏感な魔術師たちの肌を刺す。

「今の振動……?」

「魔力の流れが乱れた?」

 数人が眉をひそめる。

 だが、カウンターの内側でそれを聞いたサヴィは、
 あくびをもう一度こらえることに全力で、
 図書館の“異変”には、これっぽっちも意識が向いていなかった。

「ね、ねえサヴィ司書様、今──」

「気のせいじゃない? ここ、古い建物なんでしょ? きっと、きしんでるだけよ」

 サヴィは爪の形を気にしながら、適当にそう言って流した。

 彼女は知らない。

 今の“きしみ”が、
 無限魔導図書館からの【警告】そのものだということを。

 ◆

 そのころ、書庫の奥。

「関係法術の書は、この列にあったはずなのに……?」

 昨日もこの図書館に来ていた魔術師Cが、顔をしかめて棚を睨みつけていた。

 彼の頭の中では、自分用の「棚の位置図」ができあがっている。
 それによれば、この列には「法術・契約関連」の本が並んでいるはずなのだが――

 今日、そこに並んでいる背表紙は、見覚えのないものばかりだった。

「“高等錬金レシピ・第二版”……?
 “契約文書に用いる毒インク特集”……いや、これはかろうじて関連しているか……」

 隣で、一緒に来ていた若い魔術師Dが、首をかしげる。

「昨日ここには“召喚術体系”の棚がありましたよね……?
 なんで今日は“毒草学”の本ばかりなんですか?」

 言われてみれば、視界に入る本の多くに、
 物騒なイラストが描かれている。茎、葉、トゲ、牙のような根。

 じわっと背筋に冷たいものが走った。

「確かに、おかしい。
 棚の分類が、丸ごと入れ替わっておる……」

 魔術師Cは、理解した瞬間、冷や汗をにじませた。

 無限魔導図書館は、新しい本が自然発生したり、寄贈されたりするたび、内部構造が少しずつ変化する。
 本来ならその変化を、司書が魔力で制御し、「利用者が歩ける形」に整えているのだ。

 しかし今、司書は事実上“不在”だ。

 ソラーラ・カムリという唯一の制御役を失った図書館は、
 ゆっくりと、しかし確実に“野生化”しつつあった。

 ギギ……ギギギギ……。

 棚が、音を立てて動く。

 列になっていた書架のうち一本が、
 じわり、と横にスライドし、別の通路を塞いだ。

「お、おい……今、棚が動かなかったか?」

「ま、まさか……」

 彼らの会話を嘲笑うように、さらに別の棚が動く。

 ギギギギギ……ッ。

 通り抜けられたはずの通路が、
 一瞬のうちに“行き止まりの壁”へと変わった。

「こ、これでは探しようがない……!」

 魔術師Cは、そろりと後ずさる。
 その背中にも、別の棚の気配がぴたりと張り付いてくる。

「い、いったん戻りませんか? なんだか嫌な感じがします」

 若い魔術師Dが、喉を鳴らしながら提案した。

「そうだな。研究どころではないわ……ひとまず入口の方向へ戻──」

 そこまで言ったところで、魔術師Cは言葉を止めた。

 視線の先にあるべきものが、ない。

「……おかしい。入口はこの直線通路の先のはず……だったのに……」

 あるはずの扉は、なかった。

 見えるのは、見知らぬ書棚の壁だけ。
 “そこに扉があった”という記憶だけが、虚しく空間にぶら下がっている。

「な、ない……? 出口が……ない……?」

 若い魔術師Dの声が、明らかに震えた。

「お、落ちつけ。別の通路から戻れば──」

 言い終える前に、また棚が動く。

 ギギギギギ……ッ!

 さきほどまで開いていた側道が塞がれ、
 別の方向に、新しい通路がにゅっと生えてくる。

 照明代わりの魔導灯が、薄く滲む。
 魔力の風が逆流するような、不快な音が耳の奥に響いた。

「や、やばい……ここ、本当に迷宮化してるんじゃ……!?
 司書の制御なしでは危険だって聞いたぞ!」

 若い魔術師の言葉に、老魔術師Cは唇を噛む。

「ソラーラ嬢がいなくなってから、書架の動きが不安定だとは聞いておったが……
 まさか、ここまで深刻とは……!」

 本棚の壁がじわじわと近づいてくる。

 狭い通路から、さらに狭い通路へ。
 知らず知らずのうちに、彼らは奥へ奥へと追いやられていく。

「ま、待て、通路が……!」

「やめろ……やめてくれ……!」

 叫び声が書架の動きに飲み込まれ、
 残響のように、しばらく棚の隙間で微かに揺れた。

 ――しばらくして。

 そのエリアから、人の気配は完全に消えた。

 ◆

 その頃、受付前。

 残っていた魔術師たちは、落ち着かない様子で周囲を見回していた。

「そろそろ戻ってきてもいい頃だが……」

「三人ともそこそこ腕の立つ方々だぞ。
 いくらなんでも、こんなに時間はかからんはず……」

「ま、まさか迷っているのでは……?」

「無限魔導図書館は、司書の魔力制御あってこそ“図書館”として機能する……。
 それを行えるのは、ソラーラ嬢だけだったはず……!」

 ざわり、と不安が走る。

 列の中ほどで待っていた見習い魔術師の一人が、
 青ざめた顔でぽつりと漏らした。

「先生、昨日言ってましたよね……。
 『無限魔導図書館は、油断すると“飲み込まれる”』って……」

「冗談のつもりだったのだがな……」

 冗談で済まない空気になりつつある。

 そんな中、サヴィだけは――

 受付カウンターの椅子に座り、
 小さなナイフで自分の爪を器用に整えていた。

「ふふん、皆せっかちなんだから~。
 迷ってるなら自力で戻ればいいのにね?」

 つやつやに整えられていく自身の爪先を、うっとり眺める。

 無限に動き続ける書架の音も、
 どこかで微かに響いた悲鳴のような声も、
 彼女の耳には都合よく届いていない。

 魔術師たちの視線が、一斉にサヴィへと注がれる。

「サヴィ司書様。今からでも、ソラーラ嬢に戻ってもらうよう殿下に──」

「だーめ!」

 サヴィは、びしっと人差し指を立てた。

「殿下は、もう決めたんだから。
 “真の聖女サヴィ”が司書を務めるって。
 それに、ソラーラ様は殿下に婚約破棄されたのよ? 戻ってくるわけないじゃない」

 きっぱりと言い切るその顔は、妙に自信に満ちている。

 魔術師たちは、顔を見合わせ、そろって項垂れた。

(……いや、むしろ“戻ってきてほしい”と心から思っているのは、我々なのだが)

(王太子殿下の決定が、この国の知のインフラを崩壊させつつある……)

 彼らの嘆きは、まだ誰の耳にも届かない。

 ――この油断と無理解と短慮の積み重ねが、
 後に国全体を巻き込む騒動の火種になるとは。

 サヴィは、もちろん、知る由もない。

 そして今、この瞬間も。

 書架の奥深く――
 “迷宮と化した無限魔導図書館”のどこかで、
 数人の魔術師たちが、静かに消息を絶ちつつあった。

 後に人々はそれをこう呼ぶことになる。

 「魔導師行方不明事件」──その、ごく初期の始まりであった。
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