6 / 17
第5話 迷宮と化す無限魔導図書館
しおりを挟む
第5話 迷宮と化す無限魔導図書館
無限魔導図書館の朝は、いつも静かで荘厳だ。
高い天井から吊るされた魔導灯は柔らかな光を落とし、
古い羊皮紙とインクの匂いが、空気の層を幾重にも重ねていく。
──はずだった。
「司書殿、まだなのか? こちらは研究期限が迫っておるのだぞ!」
「私はもう一時間待っているんだが……」
その日の朝は、静寂とは程遠い怒声から始まった。
受付前には、ずらりと長蛇の列。
魔術師、学者、宮廷研究員、その見習いたちまで混ざって、
ざっと見積もっても三十人は並んでいる。
だが、その列の先頭にいる“新司書”は――
大あくびを、なんとか指先で押さえ込んでいた。
「ん~~……ふあ……っ、んぐ……」
聖女サヴィ・ルミナスは、口元を必死に押さえながら、
眠気と戦う顔のまま、だるそうに視線を上げる。
「もう、次から次へと質問してこないでよねぇ……。
私は王太子妃になる予定なんだから、こんな大量の本の場所なんて知らなくても問題ないでしょ?」
さらり、とんでもない一言が口から滑り落ちた。
その瞬間、列の中ほどから、はっきりとした“殺気”が立ち上る。
「……問題しかないわ!」
中年の女魔術師Aが、ぴき、とこめかみに青筋を浮かべた。
「案内もできん司書など見たことがない!」
隣の壮年の魔術師Bも、外套の裾を握りしめている。
苛立ちと焦りと不安がごちゃまぜになった空気が、
受付前に、もわっとした魔力の熱を生んでいた。
ソラーラが司書をしていたころには、こんな光景は一度もなかった。
朝一番、彼女はすでに書架の動きを更新し終え、
待機列ができる前に、常連たちの必要書類をある程度揃えてしまっていたほどだ。
「ええと、何の本を探していたの? ……あ、やっぱり分かんないわ~。棚が多すぎてムリ!」
サヴィは両手を挙げて、投げやりな笑顔を浮かべた。
ぱっと見の愛らしさだけで言えば、
「まあまあ、仕方ないわね」と許してしまいそうになる容姿だが――
今この場にいるのは、締切と戦う魔術師たちである。
優雅な微笑みより“目当ての本一冊”のほうが何百倍も大事な人種だ。
「……っ!」
列の数名が、同時に顔をゆがめた。
「もうよい! 自分で探す!」
魔術師Aが、ぷつんと何かが切れた声で叫ぶ。
「そうだ! 司書が当てにならんのなら、我らで勝手に探すまでだ!」
「自分の研究分野の棚ぐらい、感覚で覚えている!」
怒号まじりの言葉とともに、三人の魔術師が
制止も聞かず、ずかずかと書庫の奥へと踏み込んでいった。
サヴィは、ふんと鼻を鳴らし、椅子の背にもたれかかる。
「勝手に探せば~? 私、もう王太子妃なんだから、
こういう細かい仕事は向いてないのよね」
それを聞いた列の後ろのほうで、誰かが小声でつぶやいた。
「今の、殿下の前で言ってみてほしい……」
「いや、むしろソラーラ嬢の前で……」
怨嗟と諦めの混ざったため息が、あちこちから漏れる。
――その瞬間。
ズズズズズ……ッ。
図書館全体が、低くうなるような嫌な音を立てた。
床を伝って揺れが走り、
棚の奥で魔力が渦巻く感覚が、敏感な魔術師たちの肌を刺す。
「今の振動……?」
「魔力の流れが乱れた?」
数人が眉をひそめる。
だが、カウンターの内側でそれを聞いたサヴィは、
あくびをもう一度こらえることに全力で、
図書館の“異変”には、これっぽっちも意識が向いていなかった。
「ね、ねえサヴィ司書様、今──」
「気のせいじゃない? ここ、古い建物なんでしょ? きっと、きしんでるだけよ」
サヴィは爪の形を気にしながら、適当にそう言って流した。
彼女は知らない。
今の“きしみ”が、
無限魔導図書館からの【警告】そのものだということを。
◆
そのころ、書庫の奥。
「関係法術の書は、この列にあったはずなのに……?」
昨日もこの図書館に来ていた魔術師Cが、顔をしかめて棚を睨みつけていた。
彼の頭の中では、自分用の「棚の位置図」ができあがっている。
それによれば、この列には「法術・契約関連」の本が並んでいるはずなのだが――
今日、そこに並んでいる背表紙は、見覚えのないものばかりだった。
「“高等錬金レシピ・第二版”……?
“契約文書に用いる毒インク特集”……いや、これはかろうじて関連しているか……」
隣で、一緒に来ていた若い魔術師Dが、首をかしげる。
「昨日ここには“召喚術体系”の棚がありましたよね……?
なんで今日は“毒草学”の本ばかりなんですか?」
言われてみれば、視界に入る本の多くに、
物騒なイラストが描かれている。茎、葉、トゲ、牙のような根。
じわっと背筋に冷たいものが走った。
「確かに、おかしい。
棚の分類が、丸ごと入れ替わっておる……」
魔術師Cは、理解した瞬間、冷や汗をにじませた。
無限魔導図書館は、新しい本が自然発生したり、寄贈されたりするたび、内部構造が少しずつ変化する。
本来ならその変化を、司書が魔力で制御し、「利用者が歩ける形」に整えているのだ。
しかし今、司書は事実上“不在”だ。
ソラーラ・カムリという唯一の制御役を失った図書館は、
ゆっくりと、しかし確実に“野生化”しつつあった。
ギギ……ギギギギ……。
棚が、音を立てて動く。
列になっていた書架のうち一本が、
じわり、と横にスライドし、別の通路を塞いだ。
「お、おい……今、棚が動かなかったか?」
「ま、まさか……」
彼らの会話を嘲笑うように、さらに別の棚が動く。
ギギギギギ……ッ。
通り抜けられたはずの通路が、
一瞬のうちに“行き止まりの壁”へと変わった。
「こ、これでは探しようがない……!」
魔術師Cは、そろりと後ずさる。
その背中にも、別の棚の気配がぴたりと張り付いてくる。
「い、いったん戻りませんか? なんだか嫌な感じがします」
若い魔術師Dが、喉を鳴らしながら提案した。
「そうだな。研究どころではないわ……ひとまず入口の方向へ戻──」
そこまで言ったところで、魔術師Cは言葉を止めた。
視線の先にあるべきものが、ない。
「……おかしい。入口はこの直線通路の先のはず……だったのに……」
あるはずの扉は、なかった。
見えるのは、見知らぬ書棚の壁だけ。
“そこに扉があった”という記憶だけが、虚しく空間にぶら下がっている。
「な、ない……? 出口が……ない……?」
若い魔術師Dの声が、明らかに震えた。
「お、落ちつけ。別の通路から戻れば──」
言い終える前に、また棚が動く。
ギギギギギ……ッ!
さきほどまで開いていた側道が塞がれ、
別の方向に、新しい通路がにゅっと生えてくる。
照明代わりの魔導灯が、薄く滲む。
魔力の風が逆流するような、不快な音が耳の奥に響いた。
「や、やばい……ここ、本当に迷宮化してるんじゃ……!?
司書の制御なしでは危険だって聞いたぞ!」
若い魔術師の言葉に、老魔術師Cは唇を噛む。
「ソラーラ嬢がいなくなってから、書架の動きが不安定だとは聞いておったが……
まさか、ここまで深刻とは……!」
本棚の壁がじわじわと近づいてくる。
狭い通路から、さらに狭い通路へ。
知らず知らずのうちに、彼らは奥へ奥へと追いやられていく。
「ま、待て、通路が……!」
「やめろ……やめてくれ……!」
叫び声が書架の動きに飲み込まれ、
残響のように、しばらく棚の隙間で微かに揺れた。
――しばらくして。
そのエリアから、人の気配は完全に消えた。
◆
その頃、受付前。
残っていた魔術師たちは、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「そろそろ戻ってきてもいい頃だが……」
「三人ともそこそこ腕の立つ方々だぞ。
いくらなんでも、こんなに時間はかからんはず……」
「ま、まさか迷っているのでは……?」
「無限魔導図書館は、司書の魔力制御あってこそ“図書館”として機能する……。
それを行えるのは、ソラーラ嬢だけだったはず……!」
ざわり、と不安が走る。
列の中ほどで待っていた見習い魔術師の一人が、
青ざめた顔でぽつりと漏らした。
「先生、昨日言ってましたよね……。
『無限魔導図書館は、油断すると“飲み込まれる”』って……」
「冗談のつもりだったのだがな……」
冗談で済まない空気になりつつある。
そんな中、サヴィだけは――
受付カウンターの椅子に座り、
小さなナイフで自分の爪を器用に整えていた。
「ふふん、皆せっかちなんだから~。
迷ってるなら自力で戻ればいいのにね?」
つやつやに整えられていく自身の爪先を、うっとり眺める。
無限に動き続ける書架の音も、
どこかで微かに響いた悲鳴のような声も、
彼女の耳には都合よく届いていない。
魔術師たちの視線が、一斉にサヴィへと注がれる。
「サヴィ司書様。今からでも、ソラーラ嬢に戻ってもらうよう殿下に──」
「だーめ!」
サヴィは、びしっと人差し指を立てた。
「殿下は、もう決めたんだから。
“真の聖女サヴィ”が司書を務めるって。
それに、ソラーラ様は殿下に婚約破棄されたのよ? 戻ってくるわけないじゃない」
きっぱりと言い切るその顔は、妙に自信に満ちている。
魔術師たちは、顔を見合わせ、そろって項垂れた。
(……いや、むしろ“戻ってきてほしい”と心から思っているのは、我々なのだが)
(王太子殿下の決定が、この国の知のインフラを崩壊させつつある……)
彼らの嘆きは、まだ誰の耳にも届かない。
――この油断と無理解と短慮の積み重ねが、
後に国全体を巻き込む騒動の火種になるとは。
サヴィは、もちろん、知る由もない。
そして今、この瞬間も。
書架の奥深く――
“迷宮と化した無限魔導図書館”のどこかで、
数人の魔術師たちが、静かに消息を絶ちつつあった。
後に人々はそれをこう呼ぶことになる。
「魔導師行方不明事件」──その、ごく初期の始まりであった。
無限魔導図書館の朝は、いつも静かで荘厳だ。
高い天井から吊るされた魔導灯は柔らかな光を落とし、
古い羊皮紙とインクの匂いが、空気の層を幾重にも重ねていく。
──はずだった。
「司書殿、まだなのか? こちらは研究期限が迫っておるのだぞ!」
「私はもう一時間待っているんだが……」
その日の朝は、静寂とは程遠い怒声から始まった。
受付前には、ずらりと長蛇の列。
魔術師、学者、宮廷研究員、その見習いたちまで混ざって、
ざっと見積もっても三十人は並んでいる。
だが、その列の先頭にいる“新司書”は――
大あくびを、なんとか指先で押さえ込んでいた。
「ん~~……ふあ……っ、んぐ……」
聖女サヴィ・ルミナスは、口元を必死に押さえながら、
眠気と戦う顔のまま、だるそうに視線を上げる。
「もう、次から次へと質問してこないでよねぇ……。
私は王太子妃になる予定なんだから、こんな大量の本の場所なんて知らなくても問題ないでしょ?」
さらり、とんでもない一言が口から滑り落ちた。
その瞬間、列の中ほどから、はっきりとした“殺気”が立ち上る。
「……問題しかないわ!」
中年の女魔術師Aが、ぴき、とこめかみに青筋を浮かべた。
「案内もできん司書など見たことがない!」
隣の壮年の魔術師Bも、外套の裾を握りしめている。
苛立ちと焦りと不安がごちゃまぜになった空気が、
受付前に、もわっとした魔力の熱を生んでいた。
ソラーラが司書をしていたころには、こんな光景は一度もなかった。
朝一番、彼女はすでに書架の動きを更新し終え、
待機列ができる前に、常連たちの必要書類をある程度揃えてしまっていたほどだ。
「ええと、何の本を探していたの? ……あ、やっぱり分かんないわ~。棚が多すぎてムリ!」
サヴィは両手を挙げて、投げやりな笑顔を浮かべた。
ぱっと見の愛らしさだけで言えば、
「まあまあ、仕方ないわね」と許してしまいそうになる容姿だが――
今この場にいるのは、締切と戦う魔術師たちである。
優雅な微笑みより“目当ての本一冊”のほうが何百倍も大事な人種だ。
「……っ!」
列の数名が、同時に顔をゆがめた。
「もうよい! 自分で探す!」
魔術師Aが、ぷつんと何かが切れた声で叫ぶ。
「そうだ! 司書が当てにならんのなら、我らで勝手に探すまでだ!」
「自分の研究分野の棚ぐらい、感覚で覚えている!」
怒号まじりの言葉とともに、三人の魔術師が
制止も聞かず、ずかずかと書庫の奥へと踏み込んでいった。
サヴィは、ふんと鼻を鳴らし、椅子の背にもたれかかる。
「勝手に探せば~? 私、もう王太子妃なんだから、
こういう細かい仕事は向いてないのよね」
それを聞いた列の後ろのほうで、誰かが小声でつぶやいた。
「今の、殿下の前で言ってみてほしい……」
「いや、むしろソラーラ嬢の前で……」
怨嗟と諦めの混ざったため息が、あちこちから漏れる。
――その瞬間。
ズズズズズ……ッ。
図書館全体が、低くうなるような嫌な音を立てた。
床を伝って揺れが走り、
棚の奥で魔力が渦巻く感覚が、敏感な魔術師たちの肌を刺す。
「今の振動……?」
「魔力の流れが乱れた?」
数人が眉をひそめる。
だが、カウンターの内側でそれを聞いたサヴィは、
あくびをもう一度こらえることに全力で、
図書館の“異変”には、これっぽっちも意識が向いていなかった。
「ね、ねえサヴィ司書様、今──」
「気のせいじゃない? ここ、古い建物なんでしょ? きっと、きしんでるだけよ」
サヴィは爪の形を気にしながら、適当にそう言って流した。
彼女は知らない。
今の“きしみ”が、
無限魔導図書館からの【警告】そのものだということを。
◆
そのころ、書庫の奥。
「関係法術の書は、この列にあったはずなのに……?」
昨日もこの図書館に来ていた魔術師Cが、顔をしかめて棚を睨みつけていた。
彼の頭の中では、自分用の「棚の位置図」ができあがっている。
それによれば、この列には「法術・契約関連」の本が並んでいるはずなのだが――
今日、そこに並んでいる背表紙は、見覚えのないものばかりだった。
「“高等錬金レシピ・第二版”……?
“契約文書に用いる毒インク特集”……いや、これはかろうじて関連しているか……」
隣で、一緒に来ていた若い魔術師Dが、首をかしげる。
「昨日ここには“召喚術体系”の棚がありましたよね……?
なんで今日は“毒草学”の本ばかりなんですか?」
言われてみれば、視界に入る本の多くに、
物騒なイラストが描かれている。茎、葉、トゲ、牙のような根。
じわっと背筋に冷たいものが走った。
「確かに、おかしい。
棚の分類が、丸ごと入れ替わっておる……」
魔術師Cは、理解した瞬間、冷や汗をにじませた。
無限魔導図書館は、新しい本が自然発生したり、寄贈されたりするたび、内部構造が少しずつ変化する。
本来ならその変化を、司書が魔力で制御し、「利用者が歩ける形」に整えているのだ。
しかし今、司書は事実上“不在”だ。
ソラーラ・カムリという唯一の制御役を失った図書館は、
ゆっくりと、しかし確実に“野生化”しつつあった。
ギギ……ギギギギ……。
棚が、音を立てて動く。
列になっていた書架のうち一本が、
じわり、と横にスライドし、別の通路を塞いだ。
「お、おい……今、棚が動かなかったか?」
「ま、まさか……」
彼らの会話を嘲笑うように、さらに別の棚が動く。
ギギギギギ……ッ。
通り抜けられたはずの通路が、
一瞬のうちに“行き止まりの壁”へと変わった。
「こ、これでは探しようがない……!」
魔術師Cは、そろりと後ずさる。
その背中にも、別の棚の気配がぴたりと張り付いてくる。
「い、いったん戻りませんか? なんだか嫌な感じがします」
若い魔術師Dが、喉を鳴らしながら提案した。
「そうだな。研究どころではないわ……ひとまず入口の方向へ戻──」
そこまで言ったところで、魔術師Cは言葉を止めた。
視線の先にあるべきものが、ない。
「……おかしい。入口はこの直線通路の先のはず……だったのに……」
あるはずの扉は、なかった。
見えるのは、見知らぬ書棚の壁だけ。
“そこに扉があった”という記憶だけが、虚しく空間にぶら下がっている。
「な、ない……? 出口が……ない……?」
若い魔術師Dの声が、明らかに震えた。
「お、落ちつけ。別の通路から戻れば──」
言い終える前に、また棚が動く。
ギギギギギ……ッ!
さきほどまで開いていた側道が塞がれ、
別の方向に、新しい通路がにゅっと生えてくる。
照明代わりの魔導灯が、薄く滲む。
魔力の風が逆流するような、不快な音が耳の奥に響いた。
「や、やばい……ここ、本当に迷宮化してるんじゃ……!?
司書の制御なしでは危険だって聞いたぞ!」
若い魔術師の言葉に、老魔術師Cは唇を噛む。
「ソラーラ嬢がいなくなってから、書架の動きが不安定だとは聞いておったが……
まさか、ここまで深刻とは……!」
本棚の壁がじわじわと近づいてくる。
狭い通路から、さらに狭い通路へ。
知らず知らずのうちに、彼らは奥へ奥へと追いやられていく。
「ま、待て、通路が……!」
「やめろ……やめてくれ……!」
叫び声が書架の動きに飲み込まれ、
残響のように、しばらく棚の隙間で微かに揺れた。
――しばらくして。
そのエリアから、人の気配は完全に消えた。
◆
その頃、受付前。
残っていた魔術師たちは、落ち着かない様子で周囲を見回していた。
「そろそろ戻ってきてもいい頃だが……」
「三人ともそこそこ腕の立つ方々だぞ。
いくらなんでも、こんなに時間はかからんはず……」
「ま、まさか迷っているのでは……?」
「無限魔導図書館は、司書の魔力制御あってこそ“図書館”として機能する……。
それを行えるのは、ソラーラ嬢だけだったはず……!」
ざわり、と不安が走る。
列の中ほどで待っていた見習い魔術師の一人が、
青ざめた顔でぽつりと漏らした。
「先生、昨日言ってましたよね……。
『無限魔導図書館は、油断すると“飲み込まれる”』って……」
「冗談のつもりだったのだがな……」
冗談で済まない空気になりつつある。
そんな中、サヴィだけは――
受付カウンターの椅子に座り、
小さなナイフで自分の爪を器用に整えていた。
「ふふん、皆せっかちなんだから~。
迷ってるなら自力で戻ればいいのにね?」
つやつやに整えられていく自身の爪先を、うっとり眺める。
無限に動き続ける書架の音も、
どこかで微かに響いた悲鳴のような声も、
彼女の耳には都合よく届いていない。
魔術師たちの視線が、一斉にサヴィへと注がれる。
「サヴィ司書様。今からでも、ソラーラ嬢に戻ってもらうよう殿下に──」
「だーめ!」
サヴィは、びしっと人差し指を立てた。
「殿下は、もう決めたんだから。
“真の聖女サヴィ”が司書を務めるって。
それに、ソラーラ様は殿下に婚約破棄されたのよ? 戻ってくるわけないじゃない」
きっぱりと言い切るその顔は、妙に自信に満ちている。
魔術師たちは、顔を見合わせ、そろって項垂れた。
(……いや、むしろ“戻ってきてほしい”と心から思っているのは、我々なのだが)
(王太子殿下の決定が、この国の知のインフラを崩壊させつつある……)
彼らの嘆きは、まだ誰の耳にも届かない。
――この油断と無理解と短慮の積み重ねが、
後に国全体を巻き込む騒動の火種になるとは。
サヴィは、もちろん、知る由もない。
そして今、この瞬間も。
書架の奥深く――
“迷宮と化した無限魔導図書館”のどこかで、
数人の魔術師たちが、静かに消息を絶ちつつあった。
後に人々はそれをこう呼ぶことになる。
「魔導師行方不明事件」──その、ごく初期の始まりであった。
16
あなたにおすすめの小説
魔力ゼロと捨てられた私を、王子がなぜか離してくれません ――無自覚聖女の王宮生活――
ムラサメ
恋愛
伯爵家で使用人同然に扱われてきた少女、エリナ。
魔力も才能もないとされ、義妹アリシアの影で静かに生きていた。
ある日、王国第一王子カイルの視察で運命が動き出す。
誰も気づかなかった“違和感”に、彼だけが目を留めて――。
「不吉な黒」と捨てられた令嬢、漆黒の竜を「痛いの飛んでいけー!」で完治させてしまう
ムラサメ
恋愛
漆黒の髪と瞳。ただそれだけの理由で「不吉なゴミ」と虐げられてきた公爵令嬢ミア。
死の森に捨てられた彼女が出会ったのは、呪いに侵され、最期を待つ最強の黒竜と、その相棒である隣国の竜騎士ゼノだった。
しかし、ミアが無邪気に放った「おまじない」は、伝説の浄化魔法となって世界を塗り替える。
向こう見ずな天才騎士に拾われたミアは、隣国で「女神」として崇められ、徹底的に甘やかされることに。
一方、浄化の源を失った王国は、みるみるうちに泥沼へと沈んでいき……?
婚約破棄されたので田舎で猫と暮らします
たくわん
恋愛
社交界の華と謳われた伯爵令嬢セレスティアは、王太子から「完璧すぎて息が詰まる」と婚約破棄を告げられる。傷心のまま逃げるように向かったのは、亡き祖母が遺した田舎の小さな屋敷だった。
荒れ果てた屋敷、慣れない一人暮らし、そして庭に住みついた五匹の野良猫たち。途方に暮れるセレスティアの隣には、無愛想で人嫌いな青年医師・ノアが暮らしていた。
「この猫に構うな。人間嫌いだから」
冷たく突き放すノアだが、捨て猫を保護し、傷ついた動物を治療する彼の本当の姿を知るうちに、セレスティアの心は少しずつ惹かれていく。
猫の世話を通じて近づく二人。やがて明かされるノアの過去と、王都から届く縁談の催促。「完璧な令嬢」を脱ぎ捨てた先に待つ、本当の自分と本当の恋——。
【完結済】政略結婚予定の婚約者同士である私たちの間に、愛なんてあるはずがありません!……よね?
鳴宮野々花@書籍4作品発売中
恋愛
「どうせ互いに望まぬ政略結婚だ。結婚までは好きな男のことを自由に想い続けていればいい」「……あらそう。分かったわ」婚約が決まって以来初めて会った王立学園の入学式の日、私グレース・エイヴリー侯爵令嬢の婚約者となったレイモンド・ベイツ公爵令息は軽く笑ってあっさりとそう言った。仲良くやっていきたい気持ちはあったけど、なぜだか私は昔からレイモンドには嫌われていた。
そっちがそのつもりならまぁ仕方ない、と割り切る私。だけど学園生活を過ごすうちに少しずつ二人の関係が変わりはじめ……
※※ファンタジーなご都合主義の世界観でお送りする学園もののお話です。史実に照らし合わせたりすると「??」となりますので、どうぞ広い心でお読みくださいませ。
※※大したざまぁはない予定です。気持ちがすれ違ってしまっている二人のラブストーリーです。
※この作品は小説家になろうにも投稿しています。
選ばれなかった令嬢は、何も選ばずにすべてを手に入れる
ふわふわ
恋愛
婚約破棄された令嬢は、泣き叫ぶことも、復讐を誓うこともなかった。
ただ――何も選ばないことを選んだだけ。
王太子の婚約者という立場。
期待される役割。
戻るべき場所と、果たすべき義務。
そのすべてから静かに距離を置いた彼女は、
誰にも縋らず、誰も恨まず、
「選ばれない」まま生きる道を歩き始める。
すると不思議なことに、
彼女が手放した席は流れ始め、
戻らなかった場所は道となり、
選ばなかった未来は、彼女の背中を押していく――。
これは、
誰かに選ばれることで価値を証明しない、
静かで、確かな“ざまぁ”の物語。
何も選ばなかった令嬢が、
いつの間にかすべてを手に入れていた理由を、
あなたは最後まで見届けることになる。
――選ばないことで、生きている。
虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました
たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。
婚約破棄?結構ですわ。公爵令嬢は今日も優雅に生きております
鍛高譚
恋愛
婚約破棄された直後、階段から転げ落ちて前世の記憶が蘇った公爵令嬢レイラ・フォン・アーデルハイド。
彼女の前世は、ブラック企業で心身をすり減らして働いていたOLだった。――けれど、今は違う!
「復讐? 見返す? そんな面倒くさいこと、やってられませんわ」
「婚約破棄? そんなの大したことじゃありません。むしろ、自由になって最高ですわ!」
貴族の婚姻は家同士の結びつき――つまりビジネス。恋愛感情など二の次なのだから、破談になったところで何のダメージもなし。
それよりも、レイラにはやりたいことがたくさんある。ぶどう園の品種改良、ワインの販路拡大、新商品の開発、そして優雅なティータイム!
そう、彼女はただ「貴族令嬢としての特権をフル活用して、人生を楽しむ」ことを決めたのだ。
ところが、彼女の自由気ままな行動が、なぜか周囲をざわつかせていく。
婚約破棄した王太子はなぜか複雑な顔をし、貴族たちは彼女の事業に注目し始める。
そして、彼女が手がけた最高級ワインはプレミア化し、ついには王室から直々に取引の申し出が……!?
「はぁ……復讐しないのに、勝手に“ざまぁ”になってしまいましたわ」
復讐も愛憎劇も不要!
ただひたすらに自分の幸せを追求するだけの公爵令嬢が、気づけば最強の貴族になっていた!?
優雅で自由気ままな貴族ライフ、ここに開幕!
悪役令嬢は手加減無しに復讐する
田舎の沼
恋愛
公爵令嬢イザベラ・フォックストーンは、王太子アレクサンドルの婚約者として完璧な人生を送っていたはずだった。しかし、華やかな誕生日パーティーで突然の婚約破棄を宣告される。
理由は、聖女の力を持つ男爵令嬢エマ・リンドンへの愛。イザベラは「嫉妬深く陰険な悪役令嬢」として糾弾され、名誉を失う。
婚約破棄をされたことで彼女の心の中で何かが弾けた。彼女の心に燃え上がるのは、容赦のない復讐の炎。フォックストーン家の膨大なネットワークと経済力を武器に、裏切り者たちを次々と追い詰めていく。アレクサンドルとエマの秘密を暴き、貴族社会を揺るがす陰謀を巡らせ、手加減なしの報復を繰り広げる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる