婚約破棄破棄されたので流行らない喫茶店をはじめました

しおしお

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第2章

9話名を伏せる

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名を伏せる

 船の甲板には、一定の揺れが続いていた。
 足元がわずかに傾くたび、身体は自然とその動きに慣れていく。航海が始まってから、すでにしばらくの時間が経っていた。

 雪乃は立ったまま、手にしていたカップを静かに下ろした。
 視線を上げると、すぐ傍に控えている二人の姿が目に入る。

 弥生と忍。
 いつもと変わらず、一定の距離を保ち、主の動きを見逃さぬよう注意を払っている。

 弥生が、わずかにためらうような間を置いてから口を開いた。

「雪姫様……」

 その呼びかけは、これまで何度も繰り返されてきたものだった。
 王城でも、外出の際でも、変わることのなかった呼称。

 雪乃は、すぐには振り向かなかった。
 一度、呼びかけを受け止めるように間を置き、それから静かに二人へ向き直る。

「弥生、忍」

 名を呼ぶ声は落ち着いていた。
 感情を強く乗せることもなく、しかしはっきりとしている。

「今日からは、“雪乃”よ」

 短い言葉だった。
 だが、その一言には、迷いがなかった。

 弥生は一瞬、言葉を失ったように見えた。
 忍もまた、わずかに視線を伏せる。

「旅先で“雪姫様”なんて呼ばれたら、目立って仕方ないわ」

 雪乃は理由を付け足す。
 命令というより、当然の判断を告げるような口調だった。

 弥生は、数拍の沈黙の後、ゆっくりと頭を下げた。

「……かしこまりました。雪乃様」

 声は少しだけ硬い。
 長く身についた呼び方を改めることへの戸惑いが、わずかに滲んでいた。

 忍も続いて一礼する。

「了解しました、雪乃様」

 簡潔な返答だった。
 余分な言葉はなく、意思だけが明確に示されている。

 二人が頭を下げる様子を見て、雪乃は小さく息を吐いた。
 それは安堵とも、確認ともつかない、短い息だった。

「ありがとう」

 そう言ってから、雪乃は視線を外す。
 それ以上、この話題を引き延ばすつもりはないようだった。

 弥生と忍も、すぐには言葉を続けなかった。
 新しい呼称を口に出すことなく、それぞれが胸の中で反復しているような沈黙だった。

 名が変わったわけではない。
 ただ、呼ばれ方が変わっただけだ。

 それでも、その違いは小さくなかった。
 雪姫という肩書きは、この船の上では使われない。
 ここにいるのは、ただ「雪乃」という名の人物である。

 船は変わらず進んでいる。
 その揺れの中で、立場と呼称だけが、静かに置き換えられた。
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