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第0章:塔の上の姫
しおりを挟むエルディア王国の王都〈リュミエール〉。碁盤目状に伸びる石畳の大通りと赤煉瓦の屋根が朝日にきらめくその中心に、ひときわ白く輝く尖塔がある。白銀の塔――王族の威信を示す宮廷の心臓部であり、王女アリシア・ルクレールが生まれてから十八年間、一度も外へ降りたことのない檻でもあった。
夜明け前、塔の最上階にある円形の私室では、まだ蝋燭が揺れている。窓辺に置かれた象牙の肘掛け椅子に、アリシアは背筋を伸ばして座っていた。長い亜麻色の髪を緩やかに三つ編みにし、部屋着の上から薄手のショールを羽織っている。外は春の訪れを告げる微かな風、だが石造りの塔の内部は常に冷え、肌を刺す。
壁際の大時計が六つの鐘を打った。侍女のベアトリスが、音と同時に静かに扉を開ける。
「姫様、お目覚めでございますか」
「ええ。……おはよう、ベアトリス」
アリシアは微笑んだが、その頬は夜通しの読書で蒼白だった。机の上には外交儀礼の手引きや聖典の注解書が山のように積まれ、横には昨夜飲み干したカモミールティーのカップが冷えきっている。
「本日は午前に大聖堂への参拝、昼には南方諸侯の使節団との昼餐、夕刻には舞踏会の稽古がございます」
「わかっています。……でもその前に、少しだけ外の空気を吸いたいの」
アリシアは立ち上がり、ベランダへ続く硝子扉を押し開けた。塔の上から見下ろす王都は、まるで絵画のように整然としている。だが彼女の胸に広がるのは、解き放たれぬ鳥の羽ばたきの痛みだった。
(私はこの景色の向こう側を、知らないまま大人になってしまった……)
視線を遠くにやると、王都を囲む外壁の外側に、まだ朝霧の残る農村地帯が霞んで見えた。そこで生きる人々の息遣いを、彼女は想像するしかない。
朝食後、彼女は侍従に付き添われ大聖堂へ向かった。白大理石の回廊を歩く間、祭服の神官が一列に並び、王女を迎える。アリシアは祈りの言葉を淀みなく唱え、聖水で指先を清めた。神官長は満足げに頷き、儀式は滞りなく終了した。
だが祭壇前にひざまずく瞬間、アリシアの胸にふと疑問がよぎった。
(祈りとは、ただ形式をなぞることなの? 神は本当に、塔の中の私の声だけを求めているの?)
その疑念を表に出すことは許されない。王女は象徴であり、象徴は揺らいではならないからだ。
昼餐の席では、南方からの使節が香辛料と絹織物の貿易拡大を求めていた。アリシアは教本通りの礼節で応じ、笑顔を崩さずに交渉をまとめる。だが彼らの言葉の裏にちらつく民草の労苦や、交易路を護る兵士の命までは、議題に上がることはない。
夕刻、舞踏会の稽古が終わると、ようやく自由時間が訪れた。塔の図書室で歴代王の治世記録を読みふけっていると、扉の隙間からそっと影が差し込む。ベアトリスが周囲の目を盗み、一枚の封筒を差し出した。
「姫様……こちらを」
羊皮紙ではなく粗末な再生紙。封蝋もなく、宛名すら滲んでいる。アリシアは眉をひそめつつも受け取り、封を切った。
『王女様。どうか、どうかこの手紙をお読みください。私たちの村では、去年から娘たちが次々といなくなっています。夜明け前、黒い馬車が現れ、少女をさらっていくのです。領主様に訴えても「証拠がない」と追い返され、衛兵隊は門前払いでした。誰も助けてくれません。けれど、王女様なら、きっと耳を傾けてくださると信じています――エリナ』
震える筆跡。擦れたインク。文字の隙間から、絶望と祈りが滲み出ていた。
「これは……」
アリシアは思わず椅子から立ち上がった。胸の奥に、熱い何かがじわりと湧き上がる。怒りか、悲しみか、それとも初めて触れた民の“生”の匂いへの衝撃か。
「ベアトリス、この手紙はどうして私の手に?」
「王宮の洗濯係に託されたそうです。規則では焼却されるはずでしたが……私の古い友人が“姫様なら”と」
「ありがとう。……私、確かめに行くわ」
ベアトリスは静かに息を呑み、それから小さく頷いた。
「お覚悟は、ございますのね」
◆ ◆ ◆
翌朝、アリシアは父王レオンハルト三世の執務室を訪れた。厚い扉の向こうで、王と宰相が地図を広げ軍備の議論をしていた。アリシアが手紙を差し出すと、王の眉がわずかに動く。
「そのような噂は聞き及んでおらぬ。地方の治安維持は領主の責務だ」
「けれど領主は動かず、娘たちは今も行方知れずです。私が直接、村へ赴き調査したいのです」
「王女が無辜の民のために動きたいという心は立派だ。だが、王女とは王国の顔。危険に身を晒すわけにはいかぬ」
「塔の中にいるだけでは、民の痛みはわかりません!」
思わず声を荒げた。宰相がぎょっとし、王は重く目を閉じた。
「……アリシア。お前は王国の光だ。光は高みにあってこそ、民を照らす。泥に足を取られてはならぬ」
優しい叱責。けれどそれは、アリシアには絹で包んだ鎖にしか聞こえなかった。
夜。塔の私室にユリウスとガイア、ベアトリスを呼び、アリシアは手紙を示した。
「私は行く。父上を説得できなくても」
ユリウスは銀縁眼鏡を外し、静かに磨きながら言った。
「姫様の決意が本物なら、私が道を整えましょう。表向きは商家の巡回視察。偽造書類の手配はすぐに」
「おう、護衛は俺に任せろ。王都の外じゃ山賊も魔獣も出る。姫様には指一本触れさせねえ」
ガイアが拳を鳴らす。
「お弁当と着替えは私が。あと、旅の途中でお茶会を開けるようにティーセットも持ち込みますわ」
ベアトリスが張り切る横で、窓辺の影が揺れた。黒装束の青年――シグレが跪く。
「影は姫の剣、姫の盾。旅の一歩先で道を拓きましょう」
四人の視線を受け、アリシアは深く息を吸い込んだ。
「ありがとう。私はもう、塔の飾りではいられない」
◆ ◆ ◆
準備は三日で整った。ユリウスが用意した偽装身分は〈ルクレ商会の令嬢アリア〉。王家の紋章を刻まぬ旅装に着替えたアリシアは、鏡の中の自分に小さく驚いた。絹のドレスではなく生成りの上衣、膝丈のスカート、丈夫な革靴。髪はベアトリスが緩くまとめ、旅人らしい布帽子を被せる。
「似合っていますわ、アリア様」
「ふふ……新しい私、ね」
深夜、王宮の裏門。交代の兵が居眠りを始めた隙に、古い荷馬車が影のように滑り込む。御者台には帽子を深くかぶったユリウス。荷台にはベアトリスとアリシアが身を潜め、ガイアが外周警戒に立つ。シグレの姿は見えないが、闇の中を並走しているはずだった。
月が雲間に隠れた瞬間、馬車はゆっくりと動き出した。石畳の振動が車輪を通じて伝わり、アリシアの心臓が高鳴る。
(これで、私は自由だ……いや、責任を背負って旅立つのだ)
塔の頂きに灯る常夜灯が遠ざかる。白銀の塔は、闇の海に浮かぶ孤島のように静かだった。
「さよなら、私の檻。必ず、真実を持って帰ってくるわ」
彼女は拳を握り、胸に誓った。
◆ ◆ ◆
同じ頃、王都を望む丘の上に、一人の男が立っていた。夜風に揺れる黒マント、手には古びた鉄仮面。
「……やはり姫は動かれたか」
彼は仮面を懐にしまい、栗毛の馬に跨がる。その横顔は若々しくも、どこか哀しげだった。
「ならば、私も行こう。――アリシア殿下」
月明かりの下、馬が蹄を鳴らし駆け出す。その行き先は、王女の馬車と同じ道の果て。
白銀の塔の姫は今、夜明け前の世界へ踏み出した。
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