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1 無実の悪役令嬢、婚約破棄される
しおりを挟む燦々と太陽の光が降り注ぐ王都グランフォード。白亜の城壁に囲まれたこの都は、中央の王宮を中心に同心円状に発展してきた。最も内側には高位貴族や宮廷関係者が住む広大な邸宅街があり、外縁に向かうほど商人や職人の家々がぎっしりと立ち並び、そしてさらに外へ行けば行くほど農村が広がっている。季節は春。木々の若葉が鮮やかに芽吹き、人々の活気が満ちあふれるこの季節は王都にとって一年で最も美しい時期とも言われていた。
そんな王都の中心に構えられたヨーク伯爵家の屋敷では、朝から使用人たちの慌ただしい声が響いている。今日も当主であるヨーク伯爵夫妻は、務めとして社交界の場へ出かける準備に追われていた。伯爵家の令嬢であり、この家の一人娘であるスカーレット・ヨークは、早朝から目を覚まして支度を整えたあと、愛用の書斎に籠もって古文書を読み耽っていた。
「これがこの国の歴史をまとめた年代記……王国に伝わる聖女伝説、そして古くは魔族との戦いがあった……」
スカーレットは分厚い本を捲りながら、頁に走る細かい文字を丹念に目で追っていく。長いまつげと、整った鼻梁、そして青みがかった灰色の瞳が印象的な美貌の持ち主である。栗色の髪はゆるくウェーブがかっており、普段はハーフアップにまとめているが、今日は誰にも会う予定がないと聞いていたため、家の中ではややラフなスタイルで過ごしていた。
彼女は王太子アルバート・グランディールの婚約者という立場にありながら、華やかな舞踏会やパーティーよりも学問や研究に没頭することを好む少し風変わりな令嬢であった。幼い頃から、ヨーク伯爵家は王家との関わりが深く、将来的にはスカーレットが王太子妃となることは既定路線と考えられてきた。実際、彼女は幼少期から礼儀作法や貴族の嗜みだけでなく、語学や歴史学、魔法理論に至るまで幅広い分野を学んでおり、その叡智と探究心は周囲からも高く評価されていた。
しかし、彼女本人にとっては“王太子妃”という立場よりも、「自分が納得のいくまで知りたいものを追究する」――それが人生における大きな喜びとなっていた。だからこそ、世間の好奇や期待をそれほど気にすることなく、書物に没頭することが多い。伯爵夫人である母親からは「もう少し女性らしい趣味を持ったらどうなの?」とたびたび小言を言われるものの、スカーレットは聞き流すこともしばしばであった。
その日も、スカーレットは古文書に記された王国創世記の記述に夢中になっていた。しかし、朝食の時間になったところで、いつになく慌ただしいノックの音が書斎の扉を揺らす。
「失礼いたします、スカーレット様。先ほど王宮から急ぎの使者が……」
そう告げたのは、屋敷に仕える侍女の一人であるメリッサだった。普段は落ち着いた物腰の彼女だが、このときばかりは顔色が青ざめている。
「王宮から? 何かあったのかしら」 「それが……今日、王太子殿下がこちらにお越しになるとのことで……。お昼頃には着かれるそうです」 「アルバート様が私のところに?」
スカーレットは本を閉じて立ち上がる。アルバートとは幼馴染の間柄だが、わざわざ王宮から使者をよこして、事前に訪問を告げるというのは少々仰々しい。いつもなら、明日が舞踏会だからエスコートを頼む……とか、何かしらイベントの前触れという明確な用事があるはずだ。だが、今回はそうした催し物の予定があった記憶はない。
「何か大事なお話があるのでしょうか……」 「さあ、わからないわ。でもお父様やお母様もいらっしゃるのなら、まずは私も正式にお迎えの準備をしないといけないわね」
書斎を出たスカーレットは、すぐに侍女の助けを借りて髪を整え、礼装へと着替えることにした。栗色の髪には真珠の髪飾りをあしらい、白を基調とした上品なドレスに袖を通す。伯爵令嬢として、また王太子妃候補として相応の装いを身につけねばならない。どこか胸騒ぎを覚えながらも、スカーレットは気丈に振る舞うよう、心を落ち着ける。
午前中には両親であるヨーク伯爵夫妻も屋敷に戻ってきた。王太子自らが訪ねてくることの重大さを察し、すぐに邸内の掃除や装飾などを点検し始める。急な来訪ではあるが、伯爵家に汚点は許されない。スカーレットは両親の指示に従いながら、玄関ホールの大きな窓から外を覗き見ては、アルバートの馬車が来るのを待ちわびていた。
やがて、正午を少し回った頃だろうか。大通りから土埃を巻き上げながら、王家の紋章が入った黒塗りの馬車が姿を現す。近衛兵を何人も伴い、堂々とした行列をなして邸の正門へと進んできた。その様子を見た使用人の一人が声を張り上げる。
「王太子殿下のお着きでございます!」
その声を合図に、スカーレットをはじめヨーク伯爵夫妻、そして使用人たちは迎賓の姿勢をとる。スカーレットは控えめに一礼して馬車を出迎えた。扉が開き、まずは近衛兵が降り立ち、そして最後に青い瞳を持つ端正な顔立ちの青年が姿を現す。金髪を短く整え、王家の紋章が入った礼服を身につけた王太子アルバート・グランディール――スカーレットの幼馴染であり、婚約者である人物だ。
「アルバート様、本日はようこそお越しくださいました」
スカーレットが微笑みをたたえて言うと、アルバートは軽く頷く。しかし、その瞳はどこか冷ややかで、いつものような柔和な笑みは見えない。幼い頃から互いに面識があるとはいえ、ここまで険のある表情を向けられるのは初めてかもしれない。スカーレットの胸に、言い知れぬ不安が走った。
「……スカーレット、父上と母上はいらっしゃるか?」 「ええ、館の奥の応接室でお待ちしております。ご案内しますわ」
アルバートとその随行の騎士数名を案内し、広々とした応接室へと足を運ぶ。円卓の中央には美しい花が飾られ、高級感あふれるソファと暖炉がしつらえられた部屋だ。ヨーク伯爵夫妻もすでにその場で待機しており、息を呑んで王太子の言葉を待ち構えていた。
アルバートは部屋へ入るなり、形式的な挨拶をそこそこに切り出す。
「伯爵殿、伯爵夫人。そしてスカーレット……本日は突然押しかけるようで申し訳ない。しかし、どうしても早急に伝えねばならぬことがある。許してほしい」
その言葉に、伯爵夫妻は顔を見合わせる。いつもなら、もう少し和やかに言葉を交わすはずだが、アルバートの態度はやけに硬い。まるで、これから大きな裁断を下すかのような雰囲気に満ちていた。
「もちろん、殿下のお言葉であれば、我々はただ拝聴するのみです。どのようなことでもお話しください」
伯爵が低い声で促すと、アルバートはまっすぐスカーレットを見据える。そして、息を深く吸い込んでから告げた。
「スカーレット、君に問いたい。このところ、平民出身のアメリア嬢――あの聖女と噂されている女性に、嫌がらせをしていたというのは事実なのか?」
一瞬、スカーレットの思考が止まる。“平民出身のアメリア嬢”――確かに最近、王都の貴族界隈で「奇跡の聖女」ともてはやされている女性の名前を聞いたことがある。だが、スカーレットは彼女と面識を持ったことさえないはずだった。ましてや、嫌がらせなど身に覚えがない。
「……私がアメリア嬢に嫌がらせを? そんな事実は一度たりともございませんわ」
スカーレットは冷静に否定する。しかし、アルバートの表情は険しさを増す一方だ。まるで自分のほうが正しいと信じ込んでいるかのように、彼女の言葉を受け流すように続ける。
「先日、王宮の侍女たちが目撃証言をしている。アメリア嬢が宮殿に招かれた際、彼女を遠ざけたり、部屋に閉じ込めたり、礼儀を欠く言動をとったり……あまつさえ、彼女に茶会の席で薬を盛ろうとしたという話もある。どうなんだ?」
「馬鹿げています! 私とアメリア嬢は直接お会いしたことすらございません。証拠もないのに、どうしてそのような噂を……」
さすがのスカーレットも声を荒らげてしまう。これまでも貴族社会では嫉妬や誤解から根も葉もない噂が立つことはあった。しかし、今回はまるで計画的に彼女を陥れようとする悪意を感じる。しかも、王太子であるアルバートまでもが、その噂を頑なに信じきっている。
「王太子殿下、どうか冷静に。娘はそんなことをする子ではありません!」
見かねたヨーク伯爵夫人が割って入る。夫である伯爵も同調するように強い口調で訴えた。
「殿下、スカーレットはまだ若いながらも、これまで王族や貴族の方々に対して礼儀を欠いたことは一度もありません。しかも、平民の方を傷つけるなど、到底考えられないことです。どうか真実をお確かめください」
しかし、アルバートは伯爵夫妻の言葉にも耳を貸さず、むしろ苛立ちを露わにするようにテーブルを拳で軽く叩いた。その音が応接室に乾いた響きをもたらす。
「僕だって疑いたくはない。だが、王宮の侍女たちは口を揃えて『スカーレット様がアメリア様に暴言を吐いていた』と証言しているんだ。どれほど君たちが否定しようとも、証言者は複数いる。僕としては事態を重く見ざるを得ない」
スカーレットは息を詰まらせた。まるで、何者かが周到に仕掛けた罠にはめられたかのような感覚を覚える。複数の侍女たちが“同じ証言”をしているというのなら、そこに裏で糸を引く者がいる可能性は非常に高い。だが、アルバートはそれを疑うことなく、スカーレットこそが加害者だと決めつけている。
「お言葉ですが、アルバート様、なぜそんなにも私を疑われるのですか? 私があなたの婚約者であることをお忘れになったとしか思えません」
スカーレットの瞳には痛切な光が宿る。だが、アルバートは顔を背けるように視線を外し、低い声で告げる。
「この数週間、王宮にはアメリア嬢を慕う声が絶えない。彼女は数々の奇跡を起こす力を持っているのだ。例えば、枯れかけた庭の花を見事に咲かせたり、病に伏せっていた兵士を回復させたり……。皆が彼女こそが“本物の聖女”ではないかと口々に噂している。そして、そんな彼女が君にひどい仕打ちを受けたと泣いて訴えたんだ」
「泣いて……?」
スカーレットは耳を疑う。会ったこともないはずの女性が、自分にいじめられたと泣いて訴える? 何故そんな捏造がまかり通っているのか。しかし、アルバートの眼差しからは迷いが感じられない。どこか“彼はアメリア嬢を守ろうとしている”――いや、守るだけではなく、完全に肩入れしていることが見て取れる。
「聞けば、アメリア嬢は辛い境遇の中で育ったらしい。平民として苦労した人生を送りながらも、人助けをしたいという一心で日々祈りを捧げているそうだ。それを王宮に招いたら、まるで奇跡のように様々な良いことが起こり始めたんだ。だからこそ、余計に彼女を大切にしたいと皆が思うようになっている。そんな彼女に悪事を働く人間がいるのなら、僕は見過ごせない。たとえそれが、君であっても」
アルバートの言葉が突き刺さる。スカーレットは必死に自分の胸の高鳴りを抑えながら言い返した。
「私はそんなこと、断じてしていません! そもそも、どうして彼女が私を名指しで訴えるんです? 私は彼女に会ったことがないんですから」 「それは……彼女が言うには、『スカーレット・ヨーク様から嫌がらせを受けた』と――」 「だから、それが捏造だと申し上げているんです! この場で彼女を呼び出し、直接対峙すればすぐにわかることではありませんか?」
スカーレットの言う通り、真に嫌がらせを受けたのであれば、被害者加害者の両者を同席させ、事情を確認するのが筋だ。しかし、アルバートはあろうことか首を横に振る。
「アメリア嬢は心優しい女性だ。君と同席すれば、またひどい目に遭うかもしれないと怯えている」 「そこまで……? 本当に私をそんな危険人物だと?」 「……残念だが、そうなのだ」
その瞬間、応接室の空気が凍りつくように沈む。ヨーク伯爵も伯爵夫人も、慄然とした面持ちでアルバートを見つめる。スカーレットの心の中には、怒りと悲しみ、そして裏切られたという絶望感が渦巻いていた。
「殿下。私どもは、まだ何も調査もせずに娘を断罪するのはあまりに早計だと存じます。どうか、一度徹底的に調べていただけませんでしょうか? 娘は潔白です。必ず潔白だと証明してみせます」
ヨーク伯爵が頭を下げる。だが、アルバートはまるで用意していたかのように言葉を続けた。
「すでに、僕は父上――国王陛下にこの件を報告している。陛下は“大事になる前に、真偽を確かめる必要がある”と仰せだ。しかしながら、侍女たちや近衛兵からの証言が揃っている以上、スカーレットの行いを不問に付すことはできない。よって、まずはスカーレットを“婚約者”という立場から外し、事件の全容を調査させてもらう」
「婚約者から、外す……? そんな、急に……」
スカーレットの声は震え、普段の冷静さが崩れ始める。アルバートはため息をつくように視線を落とし、そして断言した。
「スカーレット。君とはもう、婚約を破棄する。今後、僕の妃になる資格はないと見なす。……これは正式な決定だ」
あまりにも突然の婚約破棄通告。スカーレットだけでなく、伯爵夫妻も言葉を失う。まるで地震のように足元が揺らぎ、すべてが崩れ落ちていく感覚に襲われる。長年、王太子妃として育てられ、厳しくも誇り高く生きてきた娘の将来が、一瞬にして失われようとしているのだ。
「アルバート様、どうか撤回を! 娘に罪がないと証明されれば、再び婚約を戻すというのは……」 「いや、僕は決めた。この決定は覆らない。何があろうとも、僕はアメリア嬢を傷つける人間を許せない」
王太子としての威厳を纏うアルバートに、伯爵家は成す術がなかった。婚約破棄をするだけでなく、スカーレットには“捏造された嫌がらせ”の容疑がかけられている。これでは社交界や王城勤めの貴族たちがどう反応するか想像に難くない。ヨーク伯爵家にとっては、到底受け入れられない仕打ちだった。
「……スカーレット。君から弁明があるのなら聞こう。しかし、複数の侍女たちの証言がある以上、僕にはそれを信じきれないかもしれない。それでも構わないか?」
アルバートは最後の情けとばかりに尋ねるが、スカーレットはすでに心を深く傷つけられていた。愛情をもって信頼していた相手に、こんなにも一方的に罵られ、裏切られるなど想像すらしていなかったのだ。
「私には、申し上げることはもう何もございません。私は潔白です。ただそれだけ……」
声は震えているが、涙は零さない。何とか自尊心を保とうとするスカーレットの姿に、アルバートはほんの一瞬、寂しげな表情を浮かべた。しかし、次の瞬間には彼は顔を背け、言い放つ。
「……わかった。ならば、王宮での調査が行われるまで、君は邸に籠もっていてくれ。父上からも念のため、王都から離れないようにと指示を受けている。伯爵殿、どうか協力していただきたい」
「……承知しました、殿下」
ヨーク伯爵は悔しげに唇を噛みながらも、王太子の命令に従わざるを得ない。こうして、王太子との婚約が一方的に破棄され、スカーレットは身に覚えのない嫌疑をかけられることになったのだった。
王宮からの追い打ち
アルバートが去ったあと、ヨーク伯爵家は一転して重苦しい沈黙に包まれた。使用人たちも皆、どう声をかけて良いかわからず、遠巻きに様子をうかがっている。
伯爵夫人は悲痛な面持ちでスカーレットを抱きしめようとするが、スカーレットはその手を振りほどくように一歩下がる。
「お母様……ごめんなさい。私が何もしていないのに、こんなことになって……」 「スカーレット、謝るのは私たちのほうよ。あなたが無実だとわかっているのに、何もしてあげられなくて……」
ヨーク伯爵は重々しい声で言う。
「娘よ、まずは徹底的に調べよう。誰がこんな風評を流しているのか、必ず突き止めてやる。アルバート殿下にだって、事の真相を知れば婚約を破棄したことを後悔させてみせる……」
しかし、その決意をへし折るような出来事がすぐに起こった。翌日には王宮から正式な書状が届き、そこには国王陛下の名でこう記されていた。
「ヨーク伯爵家の令嬢スカーレットは、王太子妃としてふさわしくない行いをした容疑で調査中であるゆえ、王都から遠ざけ、邸内にて軟禁に処すこととする」
まさかの“軟禁処分”である。事実上、スカーレットが罪を認めるまで外出を制限し、社交界へも顔を出させないという通告に等しい。この通告を受け、伯爵家の名誉は失墜寸前に追いやられた。
「私たちまでが危うい……どうにかならぬか……。いくらなんでも、まだ容疑の段階だというのに。まるで王太子殿下の意思を全面的に支えるために、国王陛下まで動いているようだ」
伯爵は頭を抱え、夫人もまた泣き崩れる。スカーレットは自らの部屋に篭もり、何がどうなってしまったのか整理しきれないまま時を過ごした。
そして、一週間ほどが経った頃だろうか。伯爵家にはさらに追い打ちをかけるように、衝撃的な噂が広まる。王太子殿下が“平民の聖女”アメリアを特別に宮殿に滞在させ、彼女を日夜大切に扱っているというのだ。まるでスカーレットの存在など最初からなかったかのように、アルバートはアメリアを庇護し、彼女とともに公務に出たりもしているらしい。
「あのアメリア嬢は、本当にそんなに素晴らしい人なの……?」
自室の窓から外を眺めながら、スカーレットは呟く。彼女にとっては名も知らない相手だったはずなのに、いつのまにか自分の“婚約者”の心まで奪ってしまったかのようだ。悔しさよりも虚無感が強く、涙さえ出ない。
伯爵夫妻は必死に手を尽くした。社交界の知人友人に声をかけ、なんとかスカーレットの疑惑を晴らす証拠や証言を集めようと奔走する。しかし、あろうことか多くの貴族たちはヨーク伯爵家を敬遠し始めた。王太子から睨まれている家とは関わりたくないという打算が、彼らを卑劣な沈黙へと導いているのだ。
こうして、ヨーク伯爵家は瞬く間に孤立していった。まるで周囲が意図的に彼らを切り離しているかのように、用事があれば手紙だけで済まされ、直接会ってくれる者は極端に減る。スカーレットの無実を訴える場すら奪われ、軟禁状態の彼女は外へ出ることも許されない。
使用人たちの裏切り
さらに事態を悪化させたのは、屋敷に仕える使用人たちの中にも、王宮の噂を鵜呑みにしてスカーレットを嫌悪する者が現れ始めたことだった。表立って非難するわけではないが、陰口や態度で明らかに距離をとる人間が増えている。
例えば、食堂では伯爵夫妻とスカーレットが食事をしていても、給仕係が妙にそっけなかったり、会話を聞き耳立てる者がいたり。ときには廊下で下女同士が「悪役令嬢」という言葉をヒソヒソと囁いているのを耳にすることさえあった。
「私が“悪役令嬢”……。そう呼ばれているのね」
スカーレットは自嘲の笑みを浮かべる。婚約を破棄された上に、平民出身の聖女をいじめたとして罪人扱いされているのだから、そう呼ばれるのも仕方がないのかもしれない。だが、それを認めるわけにはいかない。自分は何もしていないのだから。
そんな中、唯一の救いは、侍女のメリッサをはじめ、昔からスカーレットに仕える数名の老練な使用人たちが「お嬢様の潔白を信じます」と言ってくれることだった。彼らは誠実で、周囲の噂に惑わされることなく、変わらず日々の仕事を全うしている。スカーレットはその姿勢に何度も救われ、どうにか精神の均衡を保っていられた。
さらに追い討ちをかける告発
時が経つに連れ、スカーレットへの風当たりはますます強くなっていった。それはある日の午後、王宮からヨーク伯爵家に再び使者がやってきたときのこと。使者は伯爵家の応接室へ通され、スカーレットと伯爵夫妻の前で新たな“疑惑”を突きつけてきた。
「ヨーク伯爵家の令嬢が、アメリア様の茶に毒を盛ろうとしたという新たな証言が出ております。このままでは、令嬢を正式に裁判にかける必要があるかもしれません」
「裁判……ですって……?」
スカーレットの顔から血の気が失せる。冤罪どころの話ではない。下手をすれば“殺人未遂”という国家反逆にも近い重罪として扱われかねない。彼女が何もしなくても、周りの“証言”だけで罪が重くなっていくのだ。
「そんな馬鹿な! 娘にはまったく身に覚えがない! 誰がそんな出鱈目を言っているのだ!」
伯爵は怒りを露わにするが、使者は淡々と答える。
「王宮にて茶会を担当している侍女頭が、そのように証言しております。アメリア様もご自身の体調に異変を感じ、一時は生死の境を彷徨ったと……。事実か否か、真相究明のためにも裁判を行う可能性が高いと、国王陛下が仰せでございます」
スカーレットは唇を強く噛み、震える声で反論する。
「私は、王宮の茶会に出席しておりません! 参加した記憶がないどころか、そもそもお呼びがかかっていないのですから。あり得ない話です」 「しかし、それを否定する証拠が何もないのです。今のところ、あなたが王宮の茶会に立ち入らなかったという確固たる証言もない。王太子殿下の婚約者という立場ならば、茶会の準備に関わる機会があったと考えるのは自然なことでしょう」
使者の言葉に、スカーレットはもはや怒りよりも呆れを通り越して茫然とするしかなかった。嘘や捏造が次々と出てきては、それが“複数の証言”という形で裏打ちされていく。まるで周囲のすべてが、自分を追い詰めるために結託しているかのようだ。
追放へのカウントダウン
こうした事態を前に、スカーレットが王都に留まること自体が危険だと判断する動きが、伯爵家の内外で加速した。ヨーク伯爵夫妻も王宮を敵に回すわけにはいかず、だが娘を守るにはどうすれば良いのかわからない。すると、ある日突然、伯爵は苦悩の表情を浮かべて娘にこう告げた。
「スカーレット……。残念だが、当分の間、王都を離れていてくれ。私もお母様も、お前を守る手立てがないのだ」
その言葉に、スカーレットは自室のベッドの上で座り込んだまま、放心したように視線を宙へ漂わせた。婚約破棄だけでなく、今や裁判沙汰にまで発展しようとしている。もし王宮の思惑通り、自分が有罪とみなされれば、伯爵家は終わりである。伯爵と伯爵夫人も連座し、家名を剥奪されるかもしれない。
「お父様とお母様まで巻き込みたくありません……でも、私が無実だと証明する術がない以上、どうしようもないのですね」
「苦渋の決断だ。だが、こうするしかないんだ。お前が自ら王都を出ることで、騒動が大きくなるのを防ぎたい。しばらくは辺境の親戚筋にでも身を寄せれば、王宮もそこまでは追及しづらいだろう」
「わかりました。ですが、お父様たちは……」
「私たちは伯爵家に残る。お前がいない間に、必ず真相を突き止めてみせる。……お前をこんな目に遭わせて、本当にすまない」
伯爵は涙を浮かべながら頭を下げる。スカーレットも両親を責められるはずがなかった。愛してくれる家族に、これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。だからこそ、彼女は自ら決断する。
「……私、行きます。辺境でもどこでも。お父様、お母様が安全でいてくれるなら、それで構わないです」
こうして、スカーレット・ヨークは実質的に王都追放となる運命を受け入れた。連れて行く使用人は最低限。荷物も必要最低限でまとめられ、すぐに馬車の用意が進められる。王太子アルバートから正式に婚約破棄されたという事実は、すでに社交界の誰もが知るところとなり、まるで“ヨーク家の恥”を隠すように急かされながらの出立であった。
最悪の幕切れ
出発の日、スカーレットは玄関先で両親に別れを告げる。屋敷の外には、王都を囲むように伸びる石畳の道がどこまでも続いている。馬車には最低限の荷物しか積まれていない。スカーレットの侍女メリッサも同行を申し出てくれたが、伯爵夫人は「メリッサまで道連れにするわけにはいかない」と強く拒んだ。そのため、スカーレットはほぼ一人で馬車に乗り込むことになったのである。
「お母様……本当に私一人で行きます。安心してください」 「スカーレット、辛いだろうけれど……どうか元気でいて。必ず私たちが真相を暴いてみせるから……」
伯爵夫人の瞳には涙が滲んでいる。スカーレットはその手をそっと握りしめ、弱々しく微笑んだ。
「私、負けませんから。きっといつか、王太子殿下にも真実がわかる日が来るはずです。そのときには、私自身の手で“この身の潔白”を証明してみせます」
最後まで凛とした態度を保ち、スカーレットは馬車に乗り込む。そして御者の合図とともに馬車は揺れ、ヨーク伯爵家を出発した。静まり返った敷地内には、使用人たちの複雑な視線が注がれている。半数以上は好奇の目で、残りは憐れみの目で。だが、誰一人としてスカーレットを止めようとする者はいなかった。彼女はすでに“悪役令嬢”として、伯爵家に泥を塗った厄介者――そんな烙印を押されていたのだから。
王都の門を出るとき、ふと遠くの空を見上げる。雲間から差し込む太陽の光は眩しく、春の日差しが優しく彼女を包み込むかのようだ。――だが、その温もりはどこか虚しく感じられる。これから先、どこへ行けばいいのか、どんな扱いを受けるのか想像もつかない。辺境へ向かう道は長く険しく、スカーレットの心には深い孤独が巣食っていた。
アルバートへの愛情が完全に消えたわけではない。幼少期の記憶が蘇る。二人で城の庭を駆け回り、いつか一緒に国を支える日を夢見たこともあった。けれど、今のアルバートは違う。平民出身の聖女・アメリアが現れた途端に、まるで魅了されたように彼女を信じ、スカーレットを悪人扱いして婚約破棄を言い渡した。もはや幼い頃の彼ではないのだ。幼馴染の優しさを思い出すたび、胸が締め付けられそうになる。
「きっと、私は……もう二度とあの場所には戻れないのかもしれないわね」
スカーレットは瞳を閉じ、深く息を吐き出した。馬車は淡々と道を進む。後方には、美しく整備された王都の街並みが徐々に遠ざかっていく。商人や旅人たちが行き交う大通りを抜け、さらに鄙びた村落を通り越し、どこまでも進む。伯爵家は何とか辺境の親類筋に連絡を取り、スカーレットをかくまってもらう算段をつけてくれていたが、そこへ着くまでにいくつもの関所を越えなければならない。
これまで貴族令嬢として守られた環境で暮らしてきた彼女にとって、その旅路は過酷に違いない。馬車の揺れだけでも、王都の外ではこんなにも道が荒れているのかと驚くほどだった。だが、心の痛みに比べれば、道中の不便などささいなことかもしれない。
「いったい、誰が私を陥れようとしているんだろう……?」
そう考えずにはいられない。もしアメリアという女性が本当に奇跡を起こせる聖女だとしたら、わざわざスカーレットを悪者に仕立てる必要はないだろう。何者かが裏で動いている――そう直感していた。王太子の妃の座を奪いたいのか、ヨーク伯爵家を陥れたいのか。いずれにせよ、かなりの権力や財力を持つ者が関わっていなければ、ここまで大掛かりな捏造は難しい。
しかし、その真相を究明する権限も手段も、今のスカーレットにはない。婚約を破棄され、王都を追われた彼女は、ただ静かに馬車に揺られるのみ。悔しさと虚しさが心を蝕んでいく。終わりの見えない旅路と、先行きの見えない未来。かつて王太子妃として輝かしい道を嘱望された令嬢が、今や世間から“悪役”と蔑まれ、名誉を失い、すべてを奪われてしまったのだ。
「でも、私は負けない。いつか必ず、この真実を暴いてみせる」
スカーレットは心の中で強く誓った。たとえこの先に待ち受けるのが絶望ばかりだとしても、彼女は諦めない。自分の誇りのため、そしてヨーク伯爵家のために。今は小さく消えかけているが、確かに胸の奥で宿る“正義”の炎を信じて――。
こうして、スカーレット・ヨークの波乱に満ちた物語が幕を開ける。王都を追い出された“悪役令嬢”が、この先どんな運命に導かれるのかは、まだ誰も知る由がない。だが、婚約破棄という残酷な現実に打ちのめされた彼女の瞳は、すでに悲しみだけではなく、一筋の決意を帯び始めていた。
なぜなら、どんなに過酷な逆境であろうとも――自分が信じる「真実」と「自尊心」を忘れない限り、人は再び立ち上がることができると、スカーレットは知っているからだ。
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マジかーーーっ!!!
前世は腐女子であるが会社では働く女性向けの商品開発に携わっていた私は【夢色の恋人達】というBLゲームの、悪役と位置づけられている王太子妃のベルフィーネに転生していたのよーーーっ!!!
思い付きで書いたので、ガバガバ設定+矛盾がある+ご都合主義。
世界観、建築物や衣装等は古代ギリシャ・ローマ神話、古代バビロニアをベースにしたファンタジー、ベルフィーネの一人称は『私』と書いて『わたくし』です。
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