『有能すぎる王太子秘書官、馬鹿がいいと言われ婚約破棄されましたが、国を賢者にして去ります』

第26話 裏切りの準備

第26話　裏切りの準備

　静かな準備ほど、恐ろしいものはない。

　帝国宰相府の地下書庫。
　一般の官僚は立ち入りを許されない区画で、
　イーグル・タロンは一人、鍵付きの書棚を開いていた。

（……そろそろ、潮時だ）

　彼が取り出したのは、
　数冊の古い外交記録。

　ヒュンダイ・ダイナスティ帝国と、
　ローゼリア王国――
　そして、さらにその背後にある“第三国”の名。

（アヴェンタドールは、
　気づき始めている）

　ならば。

（こちらも、
　先に布石を打つ）

　彼は、紙片を一枚抜き取った。

　そこに記されているのは、
　皇帝の婚約が偽装である可能性を
　“示唆する”情報。

　事実ではない。
　だが、完全な虚偽でもない。

（噂は、
　刃よりも便利だ）

　――同じ頃。

　アヴェンタドールは、
　別の場所で、別の準備を進めていた。

「この件、
　正式なルートを通さずに処理してください」

　彼女が指示した相手は、
　皇帝直属の影の監査官。

「対象は？」

「帝国内部です」

　一瞬の沈黙。

「……名前は？」

「まだ、不要ですわ」

　アヴェンタドールは、静かに言った。

「“動き”だけ、
　記録してください」

　誰が。
　いつ。
　どの情報に、
　触れたか。

　それだけでいい。

（尻尾は、
　必ず出ます）

　――夜。

　帝都の上流階級が集まる、小さな晩餐会。

　表向きは、
　皇帝婚約を祝う非公式の集い。

　イーグルは、
　何食わぬ顔で、
　数人の外交官と言葉を交わしていた。

「帝国と王国の関係は、
　今後どうなるのでしょうな」

「さて」

　イーグルは、曖昧に微笑む。

「婚約とは、
　必ずしも“永続”を意味しません」

　その一言が、
　酒とともに、
　静かに広がっていく。

（……十分だ）

　同じ会場の端。

　アヴェンタドールは、
　その様子を遠くから見ていた。

（今の言葉……）

（“偶然”ではありませんわね）

　だが、
　すぐには動かない。

（焦るのは、
　罠にかかる側）

　彼女は、
　あえて別の話題を振る。

「最近、
　帝都の物流が改善しましたね」

　周囲の貴族が、
　感心したように頷く。

「ええ、
　婚約者様のお力ですな」

「いえ」

　アヴェンタドールは、
　控えめに微笑んだ。

「帝国の仕組みが、
　優れているだけです」

　その言葉は、
　忠誠にも聞こえ、
　距離にも聞こえた。

　――数日後。

　影の監査官から、
　短い報告が届く。

> 非公式文書、三件。
噂の発信源、同一。

“皇帝婚約の真偽”に関する示唆。



　アヴェンタドールは、
　目を伏せた。

（……来ましたわ）

　同時に。

　イーグルの元にも、
　知らせが届く。

「監査が、
　動き始めています」

　一瞬、
　彼の手が止まる。

（……早い）

　だが、
　もう引けない。

（ならば、
　こちらも一段、
　深く）

　夜の帝都。

　同じ空の下で、
　二人はそれぞれ、
　決断を下していた。

　表では、
　何も起きていない。

　だが――
　次に動くのは、
　どちらか。


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