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第8章 御前試合の茶番 ── 降参と八百長の華麗なる演出
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ティナ・ロッテリア公爵令嬢が、侯爵邸の護衛騎士に守られながら王都プティニエールの大理石造りの大広間へ足を踏み入れたとき、冷たい冬の朝の陽光は白銀に輝く大理石の柱を淡く照らし、雪解け水が滴るように空気を凍らせていた。廊下の両脇には歴代王家の肖像画が金縁に納められ、仄暗いシャンデリアの炎がその額縁に揺らめきを映すたびに、絵画の中の王たちが睨みをきかせて見守っているかのような重苦しさを放っている。両側に控える宮廷侍従や執務官たちの視線は、いっせいに正装の令嬢へ向けられていた。
「公爵令嬢ティナ殿――こちらへ」
曇り硝子の窓を背景にした重厚な扉の前で待ち受けていた宰相の声に促され、ティナは深く一礼して赤絨毯の上を進んだ。その裾はわずかに凍気を吸い込み、歩幅をひとつ刻むごとにかすかな音を立てる。振り返ると、護衛騎士たちの甲冑に雪が白く積もり、凍える風がその肩口を吹き抜けていた。
玉座に腰掛けるシャルル・ド・プティニエール国王は、深紅の法衣をそっと払うと、ゆっくりと巻物を広げた。大理石の座台に設えられた玉座の前で、王冠を灯す光はあまりにも眩く、令嬢の瞳に映る自らの姿を金色に染め上げる。国王は杖を一振りし、詔勅の文言を詠み上げる声を場内に轟かせた。
「ロッテリア公爵令嬢ティナ・ロッテリア殿よ、先の魔族軍撃退の功績、辺境伯領ロイエンタールの守護における剣技と魔法の才覚は、我が帝国にとりて至上の功績なり。よって、貴殿の真価を臣民の前に示すべく、帝国最強の騎士、ダイバー=タグホイヤー卿との御前試合を命ず。日時は本朝、此の大広間にて行うこと。ついては速やかに準備し、全軍民の見届けるところとせよ。」
その詔勅が読み終えられると、巻物を持った侍従たちは深々と礼をし、周囲には緊張と驚きの空気が一瞬にして漂った。これまで幾度となく王命に従い、追放と召還を繰り返してきた令嬢の胸にも、新たな苛立ちと覚悟が同時に巻き起こる。
「最強騎士との試合……また、茶番に巻き込まれるのか」
心の中で吐息を漏らしながら、ティナは剣帯に触れて銀剣の柄を確かめた。双剣紋の外套は侯爵家の証であり、追放者から英雄へと押し上げられた彼女の誇りでもある。
そのとき、玉座の後方に控えていた侍従が合図をし、さらに奥の大扉が開かれた。そこから現れたのは、鋼のように冷たい輝きを放つ甲冑に身を包んだ男――ダイバー=タグホイヤー卿であった。彼の漆黒の鎧は一切の装飾を排し、長剣の柄には「鋼鉄の剣」の異名にふさわしい鍛え抜かれた風格が宿っている。
タグホイヤー卿は周囲を見回し、一切の言葉を発することなく深々と一礼した。その剣先がわずかに地面を掠め、冷たい金属の音が周囲に緊張を呼び込む。観衆は息を飲み、騎士団長の圧倒的な風格に釘付けになる。宮廷画家や詩人たちは筆を止め、鍛冶工たちは呼吸を合わせて剣の鍔を覗き込み、貴族の面々は興奮の宴と茶番の狭間で複雑な表情を浮かべた。
ティナは背筋を伸ばし、掌で蒼銀の双剣紋を握りしめる。王都に呼び戻されたのは二度目、三度目となるが、最強騎士との一騎打ちを前にしては、その運命を呪うほかない。
「タグホイヤー卿、よろしくお願いいたします」
令嬢は凛とした声で告げ、一礼を返した。タグ卿は無言で剣を軽く振りかざし、準備完了を示す。
国王は杖を鳴らし、最終合図を告げた。
「審判は宰相。合図の後、両者は構え、互いの真価を示せ。戒めは一切なし!」
宰相が杖を高く掲げ、剣戟を促す号令を下した。大広間の入口に設えられた衝立の向こう、観覧席の貴族たちの視線が一斉に演武場へと注がれる。凍てつく王都の朝が、二人の剣士――追放者の英雄と鋼鉄の騎士――による壮絶な舞台を迎えようとしていた。
第8章-2 一閃の即降参――最強騎士との茶番第一幕
冷たい冬光が銀色の大理石床を淡く照らす王都プティニエール大広間。深紅の緞帳が取り払われ、玉座の前に設えられた簡易の演武場は、四方を金縁の衝立と絢爛たる絨毯に囲まれている。王冠を戴くシャルル国王が高座からゆっくりと杖を振り、号令が下された。
「始め!」
審判役の宰相が長い緑の袖を振り上げ、重厚な声が響き渡る。魔族軍を退けた英雄――ティナ・ロッテリア公爵令嬢は、剣こそ腰に帯びているものの、剣を抜かずに片手を優雅に腰に当てたまま、タグホイヤー卿と向き合う。騎士団長にして「鋼鉄の剣」の異名を持つダイバー=タグホイヤー卿は、重厚な黒鎧をきしませると、剣を抜き放し閃光のように構えを取った。
観衆の息遣いが一斉に静まり返る。朱に染まった朝日の残照が窓から差し込み、タグ卿の鋼の刃を赤く染める。甲冑の継ぎ目からはわずかに湯気が立ち上り、彼の剣先がわずかに震えているのが見える。
だが、歓声と緊張が最高潮に達したその瞬間――
ティナはそっと両手を高く掲げ、腰を深く折った。
「参りました」
演武場に沈黙が落ちた。タグホイヤー卿はその剣先を降ろす間もなく、一瞬目を白黒させた。剣を構えたまま肩で軽く息を吸い、両眼を令嬢へ向ける。
大広間の貴族は唖然とし、侍従たちは巻物を落とさんばかりに顔を見合わせる。宮廷画家は筆を止め、詩人は韻を踏むことも忘れている。審判の宰相が杖を振り下ろすも、号令の続きは声にならなかった。
「……え?」
咄嗟に発したタグ卿の低い呟きが、緊張の糸を切り裂く。次いで、令嬢の口角がくすりと上がる。
「痛いの、嫌ですもの」
その台詞は飄々として無邪気でありながら、演武場の緊張と格式を愚弄するかのような挑発にも聞こえる。タグ卿は鞘に剣を戻し、金属音だけが凍てつく大広間に響いた。観衆はざわめきを堪えかねて一斉に囁き、驚きと失笑が混ざり合う。重苦しい茶番の様相を呈していた、大広間の空気が一気に瓦解した瞬間だった。
国王は高座の最上段で眉をひそめ、軽く杖を鳴らして詰問した。
「なぜ降参を? 理由を述べよ、ロッテリア殿」
詰め寄る声は圧を帯びていたが、令嬢は両手を下ろし、腰を伸ばしながら胸元へそっと手を戻す。振り仰いだ銀剣紋の外套が、王都の冷たい朝光を受けて鈍く煌いた。
「…始めから真剣勝負のつもりは、ないのですわ」
ティナは恍惚の表情を浮かべ、小柄な身体をすらりと見せる。侍従たちの眼前で、あたかも何か大いなる謎を解き明かすかのように。
国王の視線は鋭く令嬢を射抜いた。詔を破るのか、あるいは単なる侮辱か。しかし攻めるよりも先に――
タグホイヤー卿は鎧の裾を一瞥し、深く息を吐くように言った。
「心得た。では、この茶番、次の役者を呼んでくれぬか?」
観衆は再びどよめき、演武場の奥の衝立から白銀のローブを翻す者の足音が浅く響き渡る。凛とした金糸の刺繍をまとう聖女アルテナが、ゆっくりと眼下の茶番舞台へ姿を現すための合図であった。磁石のように聖女へ引き寄せられる空気が、まさに大広間全体を震わせている。
ここに、御前試合第一幕──「最強騎士との一閃即降参」は幕を閉じ、次なる茶番へと続くのであった。
第8章-3 聖女アルテナの飛び入り参戦と開始直後降参の禁止
冬の陽光が大広間を冷たく包み込む中、最強騎士タグホイヤー卿との“即降参”茶番が一段落した。演武場に散った笑い声とざわめきがまだくすぶる中、宰相が改めて杖を掲げた。
「次の試合に臨むものは、開始直後の降参を禁ずる。合図から三呼吸は構えを崩すことなかれ。よろしいな、ロッテリア殿、アルテナ殿?」
その一言は、場内の空気を再び引き締めた。観衆の笑い声は消え去り、緊張の静寂が大広間を支配する。赤絨毯を踏みしめる音すら、凍りつくような静けさだ。
そのとき、演武場の背後、玉座のそばに設えられた衝立の影から、白銀のローブを羽織った聖女アルテナが足音もなく歩み出た。蒼藍の瞳に宿る決意は、ここでこそ自らの「格」を誰よりも強く示す必要に迫られた婚約者としての覚悟を物語っている。
「失礼いたします、陛下」
アルテナは玉座に向かって深く一礼し、続けて演武場の中央へと視線を移した。タグホイヤー卿は剣を納め、柄を軽く掴んだままその背を向ける。ティナも銀剣の柄を握り直し、両手を腰に当てたまま微かに頷いた。
国王シャルルは杖を軽く打ち鳴らし、低く告げる。
「アルテナ殿、聖女としての勝利は国の安寧を象徴するもの。ここにロッテリア殿との剣試合を許可せん。婚約者としての格を示せ」
宰相はその命を巻物に書き込みながら、改めて号令のルールを復唱した。
「ただし、開始直後の降参は再び認めない。合図の後、少なくとも三呼吸は構えを保持せよ」
会場に静寂が広がり、刻一刻と訪れる次の大一番を待ち受ける空気が張りつめる。そんな中、ティナはくすりと笑い、つぶやいた。
「こんな頭のおかしい事を考えたのは誰?…あのバカか…」
その軽口には、自らが演じる茶番を完全に掌握し、さらに場を攪乱(かくらん)してやろうという小悪魔的な策略が込められている。貴族たちはささやき合い、臣民代表の面々も眉を上げてティナの方を振り返った。
そして──
「始め!」
宰相が杖を高く掲げ、声を張り上げた。音とともに静寂が引き裂かれ、ついに聖女アルテナと公爵令嬢ティナによる真正面の一騎打ちが幕を開ける。大理石の床にこだまする二人の足音、刃と杖の軋む音が、王都の冬空をも震わせる壮絶な瞬間であった。
第8章-4 大団円──演出された聖女勝利の締めくくり
冷気を孕んだ大広間に、「始め!」との号令が重厚に響き渡ると同時に、演武場の周囲に並ぶ貴族たちの視線は、一斉にティナ・ロッテリア公爵令嬢と聖女アルテナへと注がれた。宰相が先ほど繰り返した「開始直後の降参は認めない」という戒めの言葉が、まだ壇上の余韻として残っている。剣と杖を手にした二人は、互いの呼吸を確かめるように一歩ずつ間合いを詰めた。
アルテナは聖杖の柄を堅く握り、蒼い瞳に宿る覚悟の色を火花のように迸らせる。
ティナは銀剣の柄を指でなぞりながら、腰に手を当てて軽く顎を引き、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「――この間合い、悪くありませんわね」
ティナが囁くと、アルテナはわずかに頷き、杖先を静かに左から右へ大きく一振りした。鈍く冴えた金属音が氷のように冷たい空気を切り裂き、演武場の中央に白い軌跡を刻む。
アルテナはそのまま剣戟(けんげき)を繰り出した。
「――参ります!」
杖の先端を光の刃のように閃かせ、ティナの右肩を狙う一撃。観衆は身を乗り出し、深い息を呑んだ。
ティナは素早く右へ一歩かわし、杖先が空を切る隙に懐へ飛び込む構えを見せた。その動作はまるで詩を紡ぐかのように優雅で、剣の鞘が甲冑の上を軽く滑る音だけが、演武場に響き渡る。
「ふふ…なかなかの一撃ですわね」
ティナは言いながら右目を細め、続けざまに大剣を抜き放った。その刃先は魔族軍との死闘でも曇ることなく、鋼の感触は観衆の視線を引き寄せた。
だが――その刹那、アルテナは大きく身を転じ、杖の柄で剣先を弾き返した。火花のように散る閃光が大広間に飛び散り、貴族たちが思わず手を打ち合わせる。
「やりますね、聖女殿!」
ティナは軽い声で称賛すると、再度構えを取った。
「――ですが、私はもっと面白いことを思いつきましたの」
ティナは小さく笑み、両手を腰に戻す。演武場の緊張が一瞬、ふっと緩むようだった。
アルテナが眉根を寄せ、真剣なまま剣閃を放とうとしたその瞬間──
「うわあ~、やられた~!」
ティナはまるで真っ向から打ち砕かれたかのような大声を上げ、演武場の縁から滑るように這い出して大げさに仰向けに倒れ込んだ。両膝を抱え、両腕を空へ突き上げるその姿は、痛みと絶望を演じる芝居の極みとしか思えなかった。
場内は一瞬、凍りつく。タグホイヤー卿の鎧がきしみ、侍従は巻物を落としそうになり、貴族たちは驚愕の表情を浮かべた。国王は高座から身を乗り出し、「何事か!」と声を荒げようとする。
しかし──その直後、アルテナがそっとティナの倒れた横へ歩み寄った。杖を優雅に床へ据え、低く囁く。
「勝ったことにしておきなさい」
ティナは仰向けのまま小声で頷き、笑みを浮かべた。その表情は痛みに縋るものではなく、まるで盟友に秘密を共有するかのような連帯感を秘めている。
アルテナは再び杖を高く掲げ、一礼する。
「聖女アルテナ、聖女としての勝利を献上いたします!」
その宣言とともに、審判の宰相が杖を打ち鳴らした。場内は喝采と失笑が入り混じる不思議な余韻に包まれた。王都最大の茶番劇は、英雄と聖女が演じる計算された「勝利の体裁」により、華々しくも虚ろに幕を閉じようとしている。
国王は静かに杖をしまい、ほほ笑みを浮かべた。
「良かろう、これにて御前試合は閉幕。両名とも、その功績と格式を見事に示された。宴を開け!」
侍従たちが急ぎ宴の準備を始め、騎士団旗手が剣を収め、宮廷画家がその瞬間を筆に刻み込む。ティナはゆっくりと起き上がり、銀色の双剣紋の外套を整えながら、内心で呟いた。
(これぞ――利用されるのではなく、利用する、ということでしょう?)
大広間の歓声と嘲笑が入り混じる中、ティナ・ロッテリアと聖女アルテナはそれぞれの勝利の余韻を胸に、王都の冬空へ向かって静かに微笑んだのであった。
「公爵令嬢ティナ殿――こちらへ」
曇り硝子の窓を背景にした重厚な扉の前で待ち受けていた宰相の声に促され、ティナは深く一礼して赤絨毯の上を進んだ。その裾はわずかに凍気を吸い込み、歩幅をひとつ刻むごとにかすかな音を立てる。振り返ると、護衛騎士たちの甲冑に雪が白く積もり、凍える風がその肩口を吹き抜けていた。
玉座に腰掛けるシャルル・ド・プティニエール国王は、深紅の法衣をそっと払うと、ゆっくりと巻物を広げた。大理石の座台に設えられた玉座の前で、王冠を灯す光はあまりにも眩く、令嬢の瞳に映る自らの姿を金色に染め上げる。国王は杖を一振りし、詔勅の文言を詠み上げる声を場内に轟かせた。
「ロッテリア公爵令嬢ティナ・ロッテリア殿よ、先の魔族軍撃退の功績、辺境伯領ロイエンタールの守護における剣技と魔法の才覚は、我が帝国にとりて至上の功績なり。よって、貴殿の真価を臣民の前に示すべく、帝国最強の騎士、ダイバー=タグホイヤー卿との御前試合を命ず。日時は本朝、此の大広間にて行うこと。ついては速やかに準備し、全軍民の見届けるところとせよ。」
その詔勅が読み終えられると、巻物を持った侍従たちは深々と礼をし、周囲には緊張と驚きの空気が一瞬にして漂った。これまで幾度となく王命に従い、追放と召還を繰り返してきた令嬢の胸にも、新たな苛立ちと覚悟が同時に巻き起こる。
「最強騎士との試合……また、茶番に巻き込まれるのか」
心の中で吐息を漏らしながら、ティナは剣帯に触れて銀剣の柄を確かめた。双剣紋の外套は侯爵家の証であり、追放者から英雄へと押し上げられた彼女の誇りでもある。
そのとき、玉座の後方に控えていた侍従が合図をし、さらに奥の大扉が開かれた。そこから現れたのは、鋼のように冷たい輝きを放つ甲冑に身を包んだ男――ダイバー=タグホイヤー卿であった。彼の漆黒の鎧は一切の装飾を排し、長剣の柄には「鋼鉄の剣」の異名にふさわしい鍛え抜かれた風格が宿っている。
タグホイヤー卿は周囲を見回し、一切の言葉を発することなく深々と一礼した。その剣先がわずかに地面を掠め、冷たい金属の音が周囲に緊張を呼び込む。観衆は息を飲み、騎士団長の圧倒的な風格に釘付けになる。宮廷画家や詩人たちは筆を止め、鍛冶工たちは呼吸を合わせて剣の鍔を覗き込み、貴族の面々は興奮の宴と茶番の狭間で複雑な表情を浮かべた。
ティナは背筋を伸ばし、掌で蒼銀の双剣紋を握りしめる。王都に呼び戻されたのは二度目、三度目となるが、最強騎士との一騎打ちを前にしては、その運命を呪うほかない。
「タグホイヤー卿、よろしくお願いいたします」
令嬢は凛とした声で告げ、一礼を返した。タグ卿は無言で剣を軽く振りかざし、準備完了を示す。
国王は杖を鳴らし、最終合図を告げた。
「審判は宰相。合図の後、両者は構え、互いの真価を示せ。戒めは一切なし!」
宰相が杖を高く掲げ、剣戟を促す号令を下した。大広間の入口に設えられた衝立の向こう、観覧席の貴族たちの視線が一斉に演武場へと注がれる。凍てつく王都の朝が、二人の剣士――追放者の英雄と鋼鉄の騎士――による壮絶な舞台を迎えようとしていた。
第8章-2 一閃の即降参――最強騎士との茶番第一幕
冷たい冬光が銀色の大理石床を淡く照らす王都プティニエール大広間。深紅の緞帳が取り払われ、玉座の前に設えられた簡易の演武場は、四方を金縁の衝立と絢爛たる絨毯に囲まれている。王冠を戴くシャルル国王が高座からゆっくりと杖を振り、号令が下された。
「始め!」
審判役の宰相が長い緑の袖を振り上げ、重厚な声が響き渡る。魔族軍を退けた英雄――ティナ・ロッテリア公爵令嬢は、剣こそ腰に帯びているものの、剣を抜かずに片手を優雅に腰に当てたまま、タグホイヤー卿と向き合う。騎士団長にして「鋼鉄の剣」の異名を持つダイバー=タグホイヤー卿は、重厚な黒鎧をきしませると、剣を抜き放し閃光のように構えを取った。
観衆の息遣いが一斉に静まり返る。朱に染まった朝日の残照が窓から差し込み、タグ卿の鋼の刃を赤く染める。甲冑の継ぎ目からはわずかに湯気が立ち上り、彼の剣先がわずかに震えているのが見える。
だが、歓声と緊張が最高潮に達したその瞬間――
ティナはそっと両手を高く掲げ、腰を深く折った。
「参りました」
演武場に沈黙が落ちた。タグホイヤー卿はその剣先を降ろす間もなく、一瞬目を白黒させた。剣を構えたまま肩で軽く息を吸い、両眼を令嬢へ向ける。
大広間の貴族は唖然とし、侍従たちは巻物を落とさんばかりに顔を見合わせる。宮廷画家は筆を止め、詩人は韻を踏むことも忘れている。審判の宰相が杖を振り下ろすも、号令の続きは声にならなかった。
「……え?」
咄嗟に発したタグ卿の低い呟きが、緊張の糸を切り裂く。次いで、令嬢の口角がくすりと上がる。
「痛いの、嫌ですもの」
その台詞は飄々として無邪気でありながら、演武場の緊張と格式を愚弄するかのような挑発にも聞こえる。タグ卿は鞘に剣を戻し、金属音だけが凍てつく大広間に響いた。観衆はざわめきを堪えかねて一斉に囁き、驚きと失笑が混ざり合う。重苦しい茶番の様相を呈していた、大広間の空気が一気に瓦解した瞬間だった。
国王は高座の最上段で眉をひそめ、軽く杖を鳴らして詰問した。
「なぜ降参を? 理由を述べよ、ロッテリア殿」
詰め寄る声は圧を帯びていたが、令嬢は両手を下ろし、腰を伸ばしながら胸元へそっと手を戻す。振り仰いだ銀剣紋の外套が、王都の冷たい朝光を受けて鈍く煌いた。
「…始めから真剣勝負のつもりは、ないのですわ」
ティナは恍惚の表情を浮かべ、小柄な身体をすらりと見せる。侍従たちの眼前で、あたかも何か大いなる謎を解き明かすかのように。
国王の視線は鋭く令嬢を射抜いた。詔を破るのか、あるいは単なる侮辱か。しかし攻めるよりも先に――
タグホイヤー卿は鎧の裾を一瞥し、深く息を吐くように言った。
「心得た。では、この茶番、次の役者を呼んでくれぬか?」
観衆は再びどよめき、演武場の奥の衝立から白銀のローブを翻す者の足音が浅く響き渡る。凛とした金糸の刺繍をまとう聖女アルテナが、ゆっくりと眼下の茶番舞台へ姿を現すための合図であった。磁石のように聖女へ引き寄せられる空気が、まさに大広間全体を震わせている。
ここに、御前試合第一幕──「最強騎士との一閃即降参」は幕を閉じ、次なる茶番へと続くのであった。
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冬の陽光が大広間を冷たく包み込む中、最強騎士タグホイヤー卿との“即降参”茶番が一段落した。演武場に散った笑い声とざわめきがまだくすぶる中、宰相が改めて杖を掲げた。
「次の試合に臨むものは、開始直後の降参を禁ずる。合図から三呼吸は構えを崩すことなかれ。よろしいな、ロッテリア殿、アルテナ殿?」
その一言は、場内の空気を再び引き締めた。観衆の笑い声は消え去り、緊張の静寂が大広間を支配する。赤絨毯を踏みしめる音すら、凍りつくような静けさだ。
そのとき、演武場の背後、玉座のそばに設えられた衝立の影から、白銀のローブを羽織った聖女アルテナが足音もなく歩み出た。蒼藍の瞳に宿る決意は、ここでこそ自らの「格」を誰よりも強く示す必要に迫られた婚約者としての覚悟を物語っている。
「失礼いたします、陛下」
アルテナは玉座に向かって深く一礼し、続けて演武場の中央へと視線を移した。タグホイヤー卿は剣を納め、柄を軽く掴んだままその背を向ける。ティナも銀剣の柄を握り直し、両手を腰に当てたまま微かに頷いた。
国王シャルルは杖を軽く打ち鳴らし、低く告げる。
「アルテナ殿、聖女としての勝利は国の安寧を象徴するもの。ここにロッテリア殿との剣試合を許可せん。婚約者としての格を示せ」
宰相はその命を巻物に書き込みながら、改めて号令のルールを復唱した。
「ただし、開始直後の降参は再び認めない。合図の後、少なくとも三呼吸は構えを保持せよ」
会場に静寂が広がり、刻一刻と訪れる次の大一番を待ち受ける空気が張りつめる。そんな中、ティナはくすりと笑い、つぶやいた。
「こんな頭のおかしい事を考えたのは誰?…あのバカか…」
その軽口には、自らが演じる茶番を完全に掌握し、さらに場を攪乱(かくらん)してやろうという小悪魔的な策略が込められている。貴族たちはささやき合い、臣民代表の面々も眉を上げてティナの方を振り返った。
そして──
「始め!」
宰相が杖を高く掲げ、声を張り上げた。音とともに静寂が引き裂かれ、ついに聖女アルテナと公爵令嬢ティナによる真正面の一騎打ちが幕を開ける。大理石の床にこだまする二人の足音、刃と杖の軋む音が、王都の冬空をも震わせる壮絶な瞬間であった。
第8章-4 大団円──演出された聖女勝利の締めくくり
冷気を孕んだ大広間に、「始め!」との号令が重厚に響き渡ると同時に、演武場の周囲に並ぶ貴族たちの視線は、一斉にティナ・ロッテリア公爵令嬢と聖女アルテナへと注がれた。宰相が先ほど繰り返した「開始直後の降参は認めない」という戒めの言葉が、まだ壇上の余韻として残っている。剣と杖を手にした二人は、互いの呼吸を確かめるように一歩ずつ間合いを詰めた。
アルテナは聖杖の柄を堅く握り、蒼い瞳に宿る覚悟の色を火花のように迸らせる。
ティナは銀剣の柄を指でなぞりながら、腰に手を当てて軽く顎を引き、小悪魔的な笑みを浮かべた。
「――この間合い、悪くありませんわね」
ティナが囁くと、アルテナはわずかに頷き、杖先を静かに左から右へ大きく一振りした。鈍く冴えた金属音が氷のように冷たい空気を切り裂き、演武場の中央に白い軌跡を刻む。
アルテナはそのまま剣戟(けんげき)を繰り出した。
「――参ります!」
杖の先端を光の刃のように閃かせ、ティナの右肩を狙う一撃。観衆は身を乗り出し、深い息を呑んだ。
ティナは素早く右へ一歩かわし、杖先が空を切る隙に懐へ飛び込む構えを見せた。その動作はまるで詩を紡ぐかのように優雅で、剣の鞘が甲冑の上を軽く滑る音だけが、演武場に響き渡る。
「ふふ…なかなかの一撃ですわね」
ティナは言いながら右目を細め、続けざまに大剣を抜き放った。その刃先は魔族軍との死闘でも曇ることなく、鋼の感触は観衆の視線を引き寄せた。
だが――その刹那、アルテナは大きく身を転じ、杖の柄で剣先を弾き返した。火花のように散る閃光が大広間に飛び散り、貴族たちが思わず手を打ち合わせる。
「やりますね、聖女殿!」
ティナは軽い声で称賛すると、再度構えを取った。
「――ですが、私はもっと面白いことを思いつきましたの」
ティナは小さく笑み、両手を腰に戻す。演武場の緊張が一瞬、ふっと緩むようだった。
アルテナが眉根を寄せ、真剣なまま剣閃を放とうとしたその瞬間──
「うわあ~、やられた~!」
ティナはまるで真っ向から打ち砕かれたかのような大声を上げ、演武場の縁から滑るように這い出して大げさに仰向けに倒れ込んだ。両膝を抱え、両腕を空へ突き上げるその姿は、痛みと絶望を演じる芝居の極みとしか思えなかった。
場内は一瞬、凍りつく。タグホイヤー卿の鎧がきしみ、侍従は巻物を落としそうになり、貴族たちは驚愕の表情を浮かべた。国王は高座から身を乗り出し、「何事か!」と声を荒げようとする。
しかし──その直後、アルテナがそっとティナの倒れた横へ歩み寄った。杖を優雅に床へ据え、低く囁く。
「勝ったことにしておきなさい」
ティナは仰向けのまま小声で頷き、笑みを浮かべた。その表情は痛みに縋るものではなく、まるで盟友に秘密を共有するかのような連帯感を秘めている。
アルテナは再び杖を高く掲げ、一礼する。
「聖女アルテナ、聖女としての勝利を献上いたします!」
その宣言とともに、審判の宰相が杖を打ち鳴らした。場内は喝采と失笑が入り混じる不思議な余韻に包まれた。王都最大の茶番劇は、英雄と聖女が演じる計算された「勝利の体裁」により、華々しくも虚ろに幕を閉じようとしている。
国王は静かに杖をしまい、ほほ笑みを浮かべた。
「良かろう、これにて御前試合は閉幕。両名とも、その功績と格式を見事に示された。宴を開け!」
侍従たちが急ぎ宴の準備を始め、騎士団旗手が剣を収め、宮廷画家がその瞬間を筆に刻み込む。ティナはゆっくりと起き上がり、銀色の双剣紋の外套を整えながら、内心で呟いた。
(これぞ――利用されるのではなく、利用する、ということでしょう?)
大広間の歓声と嘲笑が入り混じる中、ティナ・ロッテリアと聖女アルテナはそれぞれの勝利の余韻を胸に、王都の冬空へ向かって静かに微笑んだのであった。
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