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第10話 温かい♡
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第10話 温かい♡
専用レーンの整備が終わったその日、食堂には妙な静けさが満ちていた。
昨日までのような大工の怒鳴り声も、床板を削る音もない。
あるのは、これから何かが始まると全員が知っている時の、張りつめた沈黙だけだった。
リリアーヌはいつもの席に着き、そっと背筋を伸ばす。
目の前には、白い皿も銀の蓋も、まだ何もない。
けれど壁の向こう、地下と廊下と扉の向こう側で、たくさんの人が今この瞬間のために動いているのだと思うと、自然と胸が高鳴った。
「殿下」
侍従長が小さく頭を下げる。
「本日は、昨日までの記録をもとに、速度ではなく安定を優先しております」
「はい」
「搬送時間は、わずかに長くなる見込みです」
「はい」
「ですが、温度保持の工夫も追加しております」
そこまで聞いて、リリアーヌは少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
侍従長は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その時だった。
地下から、かすかな掛け声が届く。
「上げろッ!」
バドの声だ。
続いて、滑車のきしむ音。
廊下の向こうから、アンナたちの車輪の音。
扉の前で待つリーゼは、今日も目を閉じている。
みんなが、つながっている。
たった一皿のために。
ただ、温かいうちに届けるために。
リーゼの手が動いた。
大扉が、必要な分だけ、音もなく開く。
その隙間を、アンナのカートが滑り込んだ。
前よりもわかる。
速い。でも急いでいる感じはない。
床を流れるように進み、最後の減速も、すうっと美しい。
テーブルの横で止まる。
ぴたり、とまでは言わない。
けれど、止まることをカートと皿がちゃんと受け入れているような、そんな止まり方だった。
給仕長が前に出る。
銀の蓋を持ち上げる。
ふわり。
今度は、はっきりと湯気が見えた。
リリアーヌの喉が、小さく鳴る。
皿の中には、黄金色のポタージュ。表面はなめらかで、昨日のような飛沫の名残はどこにもない。静かな艶をたたえたまま、ちゃんと“今ここに届いた”顔をしていた。
スプーンを手に取る。
食堂の空気が、ぴんと張りつめる。
たぶん今この瞬間、地下でも廊下でも、みんな息を止めている。
ひと口。
舌に触れた瞬間、リリアーヌは目を見開いた。
温かい。
ちゃんと温かい。
ぬるくない。寂しくない。
口に入れた瞬間、胸の奥がふっとほどけるような、あの感じ。
冬の日に帰宅して飲んだスープみたいな。
忙しくてくたくたの夜に、レンジから出したおにぎりをほおばった時みたいな。
派手じゃないのに、心のどこかが「よかった」と言う温度。
思わず、頬がゆるんだ。
「温かい……」
その声が、静かな食堂に落ちる。
リリアーヌはもうひと口飲んで、今度ははっきり笑った。
「温かい♡」
その瞬間だった。
壁の向こうから、かすかな歓声が聞こえた。
地下だ。
いや、廊下かもしれない。
たぶん両方だ。
給仕長が深く息を吐き、侍従長が目を閉じる。
アンナは胸の前でそっと拳を握り、リーゼは相変わらず無表情のままだったが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
リリアーヌはスプーンを置き、みんなを見回した。
「とても、おいしいですわ」
料理長が、その場で深く頭を下げる。
「……光栄にございます」
声が少し震えていた。
バドの怒号も、アンナの厳しい指導も、リーゼの静かな圧も、全部この一皿につながっていたのだ。
温かいものは、ホッとさせてくれる。
それは、食べる人だけじゃないのかもしれない。
ちゃんと届けられた、とわかること。
ちゃんと喜んでもらえた、と伝わること。
それもまた、人をほっとさせるのだろう。
リリアーヌはそう思いながら、もう一口スープを飲んだ。
そして、胸の中でぽつりとつぶやく。
(温かいご飯が欲しかっただけなのに……)
そこで少し考えて、言い直した。
(……でも、これはちょっと、嬉しいかも)
その時、食堂の外で誰かが小さく叫んだ。
「記録更新だ!」
続いて、地下からバドの声が響く。
「浮かれるな! 次はもっと上を目指すぞ!」
ああ、うん。
そうなるよね。
リリアーヌは、温かいポタージュを抱くように両手で皿を包み込みながら、小さく笑った。
王宮の食卓は、たしかに少しずつ変わり始めていた。
専用レーンの整備が終わったその日、食堂には妙な静けさが満ちていた。
昨日までのような大工の怒鳴り声も、床板を削る音もない。
あるのは、これから何かが始まると全員が知っている時の、張りつめた沈黙だけだった。
リリアーヌはいつもの席に着き、そっと背筋を伸ばす。
目の前には、白い皿も銀の蓋も、まだ何もない。
けれど壁の向こう、地下と廊下と扉の向こう側で、たくさんの人が今この瞬間のために動いているのだと思うと、自然と胸が高鳴った。
「殿下」
侍従長が小さく頭を下げる。
「本日は、昨日までの記録をもとに、速度ではなく安定を優先しております」
「はい」
「搬送時間は、わずかに長くなる見込みです」
「はい」
「ですが、温度保持の工夫も追加しております」
そこまで聞いて、リリアーヌは少しだけ笑った。
「……ありがとうございます」
侍従長は、ほんの一瞬だけ目を細めた。
その時だった。
地下から、かすかな掛け声が届く。
「上げろッ!」
バドの声だ。
続いて、滑車のきしむ音。
廊下の向こうから、アンナたちの車輪の音。
扉の前で待つリーゼは、今日も目を閉じている。
みんなが、つながっている。
たった一皿のために。
ただ、温かいうちに届けるために。
リーゼの手が動いた。
大扉が、必要な分だけ、音もなく開く。
その隙間を、アンナのカートが滑り込んだ。
前よりもわかる。
速い。でも急いでいる感じはない。
床を流れるように進み、最後の減速も、すうっと美しい。
テーブルの横で止まる。
ぴたり、とまでは言わない。
けれど、止まることをカートと皿がちゃんと受け入れているような、そんな止まり方だった。
給仕長が前に出る。
銀の蓋を持ち上げる。
ふわり。
今度は、はっきりと湯気が見えた。
リリアーヌの喉が、小さく鳴る。
皿の中には、黄金色のポタージュ。表面はなめらかで、昨日のような飛沫の名残はどこにもない。静かな艶をたたえたまま、ちゃんと“今ここに届いた”顔をしていた。
スプーンを手に取る。
食堂の空気が、ぴんと張りつめる。
たぶん今この瞬間、地下でも廊下でも、みんな息を止めている。
ひと口。
舌に触れた瞬間、リリアーヌは目を見開いた。
温かい。
ちゃんと温かい。
ぬるくない。寂しくない。
口に入れた瞬間、胸の奥がふっとほどけるような、あの感じ。
冬の日に帰宅して飲んだスープみたいな。
忙しくてくたくたの夜に、レンジから出したおにぎりをほおばった時みたいな。
派手じゃないのに、心のどこかが「よかった」と言う温度。
思わず、頬がゆるんだ。
「温かい……」
その声が、静かな食堂に落ちる。
リリアーヌはもうひと口飲んで、今度ははっきり笑った。
「温かい♡」
その瞬間だった。
壁の向こうから、かすかな歓声が聞こえた。
地下だ。
いや、廊下かもしれない。
たぶん両方だ。
給仕長が深く息を吐き、侍従長が目を閉じる。
アンナは胸の前でそっと拳を握り、リーゼは相変わらず無表情のままだったが、ほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
リリアーヌはスプーンを置き、みんなを見回した。
「とても、おいしいですわ」
料理長が、その場で深く頭を下げる。
「……光栄にございます」
声が少し震えていた。
バドの怒号も、アンナの厳しい指導も、リーゼの静かな圧も、全部この一皿につながっていたのだ。
温かいものは、ホッとさせてくれる。
それは、食べる人だけじゃないのかもしれない。
ちゃんと届けられた、とわかること。
ちゃんと喜んでもらえた、と伝わること。
それもまた、人をほっとさせるのだろう。
リリアーヌはそう思いながら、もう一口スープを飲んだ。
そして、胸の中でぽつりとつぶやく。
(温かいご飯が欲しかっただけなのに……)
そこで少し考えて、言い直した。
(……でも、これはちょっと、嬉しいかも)
その時、食堂の外で誰かが小さく叫んだ。
「記録更新だ!」
続いて、地下からバドの声が響く。
「浮かれるな! 次はもっと上を目指すぞ!」
ああ、うん。
そうなるよね。
リリアーヌは、温かいポタージュを抱くように両手で皿を包み込みながら、小さく笑った。
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