契約だけのはずが、溺愛でした ――白い結婚から始まる逆転ざまぁ恋物語

しおしお

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第5編「甘やかな本物の結婚」

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5‑1 再婚式は極甘仕様

 

 王都中心部・星冠大聖堂。天空に溶け込む尖塔の先端から真珠色の光が降り注ぎ、祭壇前を彩る百輪の藤と白薔薇があたかも雲海のように揺れていた。

 かつて「契約」の名目で交わした簡素な婚礼からわずか一月──。
 今日の式は規模も趣向も桁外れだった。
 『侯爵夫妻・本当の愛の誓い』
 と銘打たれた招待状は瞬く間に王都じゅうへ噂を運び、朝から参列者で聖堂前の目抜き通りが身動きできないほど膨れ上がっている。

 「……緊張する?」
 花嫁控室で純白のロングヴェールを整えてくれるミリアが、親友らしい茶目っ気でウインクを送ってくる。
 ルシアは唇を引き結び、けれど頬の熱を隠しきれなかった。
 「初めてじゃないけれど、初めてなのよ――心から『夫に嫁ぐ』と思えるのは」
 髪にあしらった紅玉と藤の髪飾りが小さく震える。指先には、体温で赤く燃え続ける真紅の指輪。

 扉の向こうでは楽団がチューニングを終え、列席貴族のざわめきが波のように寄せて返す。
 ──やがて、オルガンの前奏が始まった。

 「行ってらっしゃい、世界一幸せな花嫁さん」
 最後のピンを打ち終えたミリアが涙ぐむ。
 ルシアは深呼吸し、扉へ手を掛けると同時に頭(かしら)を上げた。
 「きっとあなたにも、もっと素敵な未来が来るわ。だって私が証明したもの――契約より愛の方がずっと甘いって」

 

 ◇ ◇ ◇

 

 純白のバージンロード。
 扉が開いた瞬間、万雷の拍手が大聖堂の丸天井へ昇り、パイプオルガンの荘厳な音色に溶けていく。
 ルシアは一歩、また一歩と進む。
 友人席の孤児院長が目頭を押さえ、書記官たちが「顧問殿!」と囁き、鉱山技師が誇らしげに親指を立てる。
 かつて嘲笑した貴婦人すら、今は羨望に濡れた眼差しでドレスの裾を追っていた。

 祭壇前には、紫紺の瞳の騎士――いや、誰より甘い微笑みを湛えた「私の夫」ノアが待っている。
 金襴(きんらん)の礼装が月光のように輝き、胸元の紅玉タイピンは指輪とおそろい。
 矢のごとき視線が交差し、互いの顔に同時に浮かんだのは、子どもじみた「やっと来た」という笑みだった。

 聖職者が誓詞を読み上げる。
 「汝は契約ではなく、真心をもってこの者を妻とするか」
 「はい。愛ゆえに」
 「汝は契約ではなく、真心をもってこの者を夫とするか」
 「はい。愛ゆえに」

 短い言葉が交わされただけで、式場がふっと甘い熱を帯びる。
 ノアが取り出した指輪は、昨夜錬金術師が手を加えた最新作――紅玉が二層の光環を持ち、誓いの言葉に呼応して脈動する仕掛けだ。
 彼がそっとルシアの薬指に嵌めると、宝玉はバラ色の脈を打ち、光環が祭壇の花弁に反射して会衆を染めた。

 「うわあ……」
 孤児院から招かれた子どもたちが素直な歓声を漏らす。
 聖堂に笑いが波打ち、厳粛な空気が一変して温かな祝祭へ。
 首席判事が呆れ半分で咳払いをしたが、誰も気に留めない。

 「では――誓いのキスを」

 指示の声と同時に、ノアはルシアの頬を両手で包み込み、逃げ場も与えず唇を重ねた。
 以前は一センチに抑えていた距離が、今や零(ゼロ)。
 観覧席の伯爵令嬢が悲鳴を上げ、老顧問が目をぱちぱち瞬く。
 それでもノアは唇を離さず、艶やかな髪を愛おしげに撫で――

 「……こ、呼吸を……っ」

 ようやく離れた瞬間、ルシアの耳朶(みみたぶ)まで朱に染まり、会場からは割れんばかりの拍手。
 聖職者が「式は……これにて」と苦笑し、鐘楼が祝福の鐘を鳴らした。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 披露宴は聖堂併設のガラス回廊。
 床下に満たされた澄んだ水が鏡面となり、天井の星飾りを映し込む幻想空間だ。
 メインテーブルには夫婦の出会いを象徴する藤と紅玉のモチーフケーキ。
 ――その横には、ルシアが侯爵邸温室で育てた薬草を使った特製ハーブティーがずらり。

 「お味はいかが?」
 淑女たちが一口飲むたび、疲労が溶ける香気に瞳を丸くする。
 領地改革を目指すノアの夢と、学術院顧問となったルシアの実力をアピールする“甘い布石”だ。

 途中、王太子がスピーチで持ち時間を大幅に超えて語り、列席の枢密顧問が咳払いで止める一幕も。
 だがノアは「殿下の情熱は私たちの力になります」と笑い、会場をまとめ上げた。
 会衆は一斉に健康茶を掲げ、
 「侯爵夫妻の永遠の愛と、王国の繁栄に!」
 と祝杯を上げる。

 酔いの回った貴族が「ざまぁをありがとう!」と叫び、ディランの左遷先である辺境警備隊が録音した「雪と泥の祝電」が流れると、ホールは大爆笑の渦。
 外では噂好きの市民が「ご両人、口づけの長さ記録更新らしいわよ」と拍手を送っていた。

 

 ◇ ◇ ◇

 

 夕刻前、テラスに残ったのは二人きり。
 藤色の空を背景に、ノアは椅子へ腰掛け、ルシアを膝の上へ抱き上げる。
 「まだ式は終わらない」
 「え?」
 「次は夫婦だけの“更新式”だ」

 真紅の指輪が体温を感知し、再び深い紅を灯す。
 ノアはその光を見つめ、至近距離で囁いた。
 「この色が銀へ戻る日が来ても、毎晩塗り替えてやる。……君が許す限り」
 「心配しないで。私の熱は下がらないわ」

 そう答えると、ルシアは自ら唇を重ねた。
 甘い午後の残光が二人を包み、藤の香が風に揺れる。

 星冠大聖堂の最上の鐘が遠くで鳴り始め、王都中の人々が空を見上げた。
 そこには、霞む雲を突き抜けるように高く高く――
 再び結ばれた侯爵夫妻の、真紅の誓いが輝いていた。

 そして物語は、極甘のまま次の章へ。


5‑2 侯爵夫人の大改革



 

 再婚式からわずか三日――。
 ルシアはヴァンフィールド領の南端、レイオット公爵家の旧領地に立っていた。かつて“借財と荒廃の象徴”と囁かれたミロア盆地。濁った運河、水車の止まった製粉所、閉じられた鉱山口。春の柔らかな風さえ、どこか淀んでいるように感じられる。

 

 「……変わってないわね」

 視察に同行した執事ハワードが眉根を寄せたが、ルシアはむしろ口角を上げた。
 「変わっていないということは、改善の余地がまるごと残っているってことよ。今日から“公爵夫人”じゃなく、“領地改革実行責任者”の顔で行くわ」

 ノアは少し後ろで腕を組み、紫紺の瞳を細める。
 「夫はサポートに徹する。指示さえくれれば金も人も出そう」
 「ではまず――あそこ」

 ルシアが指差すのは、山肌にぽっかり口を開けた旧ミロア鉱山坑道。冷たい風が吹き抜けるたび、金属の匂いと微かな硫黄臭が混ざって漂った。

 

 ◆ ◆ ◆

 翌日夜明け前。坑道前に集められたのは、侯爵家が首都から呼び寄せた若い鉱山技師、ルシアが学術院人脈で引き入れた錬金術師助手、そして旧坑夫の村人たち。灯籠を掲げ、簡易演台に立ったルシアが声を張る。

 「この鉱山は『枯れた』という噂で閉じられました。しかし昨年の地質調査で、深層に未採掘の赤鉄鉱脈があると判明しています。しかも鉄だけじゃない――錬金用の希少金属、火霊石も混在しているわ」

 村の年長坑夫が恐る恐る手を挙げる。
 「お嬢……いえ、旦那様。資金も人数も、前と同じじゃ……」
 「だから私たちがいるのよ」

 ルシアは技師に合図。助手が皮袋から小瓶を取り出し、坑口へ撒く。淡い緑光が走り、壁面の鉱石が鈍く輝いた。観衆が息を呑む。

 「《露顕(ろけん)の粉》――希少金属にだけ反応する錬金触媒よ。ここを新しい“火霊石”の産地にするわ。利益配分は旧坑夫の皆さんにも。鉱石の三割を採掘共同体へ戻し、残り七割で借財を整理。加えて加工所を建てて雇用を生む――これが第一段」

 ざわめきが熱へ変わる。年長坑夫は目尻を赤くした。
 「……夢みたいじゃ」
 「夢を現実にするのが“侯爵夫人の仕事”ですもの」

 

 ◆ ◆ ◆

 数日後、ルシアは綿密な資金繰り表を携えて侯爵邸の執務室へ戻った。
 「ノア、こちら“第ニ段”。運河の水質改善計画よ」
 「お、間髪入れず来たな。読ませてくれ」

 提案書には水車付き沈殿池の図、上流に薬草フィルター畑を設ける設計図、そして新設ワイナリーの構想まで。鉱業だけでなく農産・観光を複合的に立て直す青写真だ。ノアは目を踊らせながらページを捲り、最後に低く笛を吹いた。

 「三年で黒字化……強気だな」
  「愛の指輪が銀に戻る前に結果を見せたいの。許可印をお願い」
  「異議なし」

 朱印が押される音に、ルシアの胸が高鳴る。かつて「没落家の負債」と笑われた公爵領が、いまや王都でも前例のない再生モデルになる――そう確信していた。

 

 ◆ ◆ ◆

 改革の噂は瞬く間に広がった。
 《侯爵夫人、鉱山を蘇(よみがえ)らせる》《運河に花咲く藤の水車》《新産業“火霊石ランプ”首都市場へ》―― 行商人はこぞって見本を求め、書記官は統計データを学術院へ送る。孤児院で育った少年少女を職業訓練として受け入れるプログラムも始まり、教会は支援金を増額。王太子殿下は「我が国の未来は婦人の手にある!」と演説して、新聞の一面飾りになった。

 夜。帳簿を閉じたルシアは大きく伸びをし、窓の外を眺めた。遠くミロア盆地に仮設された焚き火が数珠のように灯り、鉱夫たちの歌声が風に乗って届く。
 暖炉の前ではノアが紅茶を二杯淹れ、片方を差し出した。
  「本日の成果:起業志願 14 件、入植願い 27 通。レイオットの名が輝いているぞ」
  「“ヴァンフィールド”も一緒よ。夫婦揃って上り調子だもの」

 赤い指輪が湯気の中で煌めく。ルシアがカップを置くと、ノアは膝に彼女を抱え、耳元に囁く。
  「なあ、公式行事がない夜くらい休め。布団で本を読んでやる」
  「……膝枕で?」
  「もちろん」

 くすりと笑い、ルシアは頷いた。契約も責任も、重圧すら甘く溶ける時間。指輪の紅がいっそう深く燃え、火霊石ランプが控えめに応えた。

 

 ◆ ◆ ◆

 翌週。首都の大講堂で“再建プロジェクト報告会”が開かれた。壇上に立ったルシアは、後方スクリーンにスライドを映し出す。
  1. 鉱山労働人口 300 → 520(+73%)
  2. 運河水質 B- → A
  3. 孤児就業率 0→42%

 聴衆の官僚たちがざわつく。
  「一年どころか半月でここまで……?」
  「資金源はどこに?」
  「侯爵家と王家の共同信用保証。しかも利息は公益還元型!」

 ルシアは胸を張り、高らかに宣言する。
  「かつて“借財まみれ”と呼ばれた領地が、今ここに新たな産業創出モデルとして生まれ変わりました。――女性だから、令嬢だからと侮った皆さま。どうか数字を見て、時代が変わったと認めてください」

 割れるような拍手。
 最前列で見守るノアが、腕組みしながら目尻を下げた。
  「愛してるぞ、私の英雄」
  「まだ始まったばかりよ。次は王都郊外の荒地を“薬草シルクロード”にするわ」
  「……徹夜はほどほどに」

 夜空に浮かぶ真紅の指輪は、今日も銀へ戻らない。
 侯爵夫人ではなく“改革家ルシア”の物語が、王都の星図に新しい軌跡を描き始めていた。

5‑3 ざまぁ祭りの後日談

(本文:約 2,200 字)

 

 春の終わり、王都の月はしっとりと淡紫に濡れていた。
 侯爵邸の南テラスでは、ルシアが夜空を見上げながら薄いペンを走らせている。羊皮紙にしたためるのは、〈失脚組〉の近況をまとめた非公式レポート。――そう、「ざまぁ祭り」の総括である。

 * * *

 ■ ディラン=アルバーグ
 辺境警備隊へ左遷されて一か月。
 初任地は王都から五百リーグ離れた北方氷壁砦。噂によれば標高千メートル、夜は腐った鉄風が吹きつけ、朝は凍結した馬桶(ばとう)の氷を割って身を清める過酷な地。

 赴任初日に書いた“反省文”は、「婚約破棄を軽率に行ったことを深く恥じる」から始まるものの末尾で「必ず栄転して帰還し、あの栄光を再び」と締めくくられており、隊長に「反省の色ゼロ」と評価された。

 さらに二週目、物資補給の遅延を理由に無許可で砦を離れ、私費で馬を雇い村落へ下りたところを雪豹に襲われ負傷。報告書では「野外演習中に負傷」と改竄を試みたが、同行兵士の証言で嘘が発覚、現在は営倉で謹慎中。

 ──ルシアの備考:
 > 雄々しい雪豹にまで嘘を見抜かれるとは、さすがですわね。次は牙の磨き方でも学んでは?

 * * *

 ■ イリーナ=ルクス(旧公女、現:被追放者)
 爵位剥奪後、国外追放。
 出国先は北東の港湾都市トリス。名目は「療養」だが実際は監視付きの強制移住。随行したのは元侍女二名のみ。彼女の持参財産は王家に凍結され、生活費は年額百ルクスの最低扶助金に制限。

 到着直後は「わたくしほどの才色ならすぐに社交界で返り咲く」と豪語したというが、港町の貴族たちは“王家反逆の罪人”に見向きもしない。唯一の慰めは地方新聞のゴシップ欄。そこに自作の記事を匿名で投稿し「侯爵夫人の再婚は偽愛」と唱えるも、閲覧数が伸びず閉鎖されたらしい。

 最近は元侍女と海辺で客船を眺め、「いつか必ず帰還してみせる」と呟く姿が目撃されている。潮風で髪がバサバサに荒れ、もはや“氷の百合”と呼ばれた面影は無い。

  ──ルシアの備考:
  > 潮風はきれいにしますもの。あなたの虚栄も、海に流してしまえば?

 * * *

 ■ 旧派閥 貴族議員団 ― 汚職グループ
 裁判で連座判決を受けた議員六名は、領地経営権の停止と五年間の政治活動禁止処分。
 当初は「盟友イリーナが戻れば失地回復」と楽観していたが、ミロア鉱山の新収益と運河再生事業が予想を上回る結果を出し、王都の商会は早々にルシア陣営へ鞍替え。結果、彼らの資金源は凍結したまま解凍されず、現在は“財務再教育プログラム”を受講中。

 授業初日、教師役の学術院会計士が黒板に書いた第一声は「婚約破棄のコストについて」。議員の一人が顔を真っ赤にして教室を飛び出したと噂される。

  ──ルシアの備考:
  > 数値は正直。愛情もまた然り――覚えておいて損はありませんわ

 * * *

 ルシアは最後の一行を書き足し、ペンを置いた。
 > ――ざまぁ、完了。

 風が吹き抜け、テラスのランプが揺れる。すると背後から柔らかな布の衣擦れ。ノアが赤ワインのグラス二脚を持って現れた。

 「失脚組の報告書か?」
 「ええ。いわば“敗者の学習記録”ね」
 「王立学院の教材に回しても面白いな。題して“悪徳の費用対効果”」

 二人で笑い合い、グラスを重ねる。ほのかな葡萄の香と薄紫の夜風が交わり、真紅の指輪が星明かりに輝いた。

 「それにしても――」ノアがルシアの肩越しに羊皮紙を覗き込む。「毒舌が増していないか?」
  「公女を名乗るには少し庶民的だったかしら?」
  「いや、僕の妻としては満点だ」

 ルシアは頬を染めてグラスを傾け、ふと視線を王都の遠景へ。
 灯りが川沿いに連なり、尖塔の先で鐘が鳴る。ほんの半年前、自分が絶望の淵に立たされたことなど夢のようだ。

 「ねえ、ノア」
 「ん?」
  「次のざまぁは必要ない未来を作りましょう。悪意に費やす時間があったら、もっと甘いものを」

 紫紺の瞳が柔らかく細められる。
  「賛成だ。ただし僕としては“甘いもの”もほどほどに。糖度の上げ過ぎは身体に毒だから」
  「心配しないで。あなたが糖度を測ってキスで中和してくれるでしょう?」

 言い終えるや否や、唇が塞がれる。ワインと藤の香が混ざり合い、夜空の星が一段と瞬きを増した。

 こうして“ざまぁ祭り”の後日談は、甘い余韻へと融けていく。
 敗者は敗者として教訓を刻み、勝者はただ一歩ずつ未来へ。
 真紅の指輪は相変わらず熱を抱き、銀へ戻る気配など微塵もない――。

5‑4 愛の契約更新

(本文:約 2,300 字)

 

 再婚式からちょうど一年──。
 王都の暦が〈緋色月(ひしょくづき)〉の最終日を示すころ、ヴァンフィールド侯爵邸の北塔にある小サロンでは、ささやかな“記念行事”の準備が進んでいた。

 テーブルの中央には、グラスドームに封じた火霊石ランプ。
 淡紅の脈を打つそれは、ルシアが鉱山を再生させた証そのものだ。脇を飾るのはノア自ら剪定した藤と白薔薇の小瓶。キャンバス地のカーテンを揺らす夜風には春の名残が香り、壁掛け時計の振り子が静かに時を刻む。

 「一年前の今日は『契約解除不能』を宣言した日だな」

 袖を軽くまくりながら室内へ入って来たノアが、椅子の背に上着を掛けて微笑んだ。ルシアは錬金インクの匂いが残る羊皮紙束を閉じ、立ち上がる。

 「ええ。そして今日からは“更新制”よ」

 手にしているのは、たった二枚の薄紙――《愛の契約更新書》。驚くほど簡素なその内容は、次の一文でほぼ埋め尽くされている。

 > 第一条
 > 毎年この日、双方が望む限り「永遠の恋」を更新し、その方法は任意の甘さで行うこと

 ノアは笑みを深め、羽ペンを回した。
 「条文が甘すぎて虫歯になるな」
 「昨年までの堅苦しい約款に比べれば砂糖一匙よ。さ、サインして」

 「もちろん。ただし同じ権利を行使して甘さの“追記”を認めてもらう」

 さらさらと追筆される“第二条”――
 > 第二条
 > 更新時に口づけが五秒未満だった場合、本条に反し罰則として追加の七日間、別荘にて二人きりで過ごすものとする

 「強制休暇条項?」
 「働き過ぎの妻対策だ。鉱山にも運河にも君の代わりはいないが、君の身体は一つだから」

 ルシアは頬を染めた。
 「公平に、夫側にも適用してちょうだい。改革資金の過労死なんて笑えないもの」
 「喜んで」

 二人は羊皮紙を真ん中に置き、同時にサイン。真紅の封蝋が押されると、火霊石が光を弾き返し、部屋いっぱい金の粉が舞ったように瞬いた。

 ◆ ◆ ◆

 「さ、契約更新の“実務”に移るわよ」

 ルシアが椅子を引き、ノアを座らせる。彼女自身は膝に軽く腰かけ、二人の影がランプの向こう壁で重なる。鼻先が触れそうな距離で、紫紺と翠の瞳が静かに絡んだ。

 「一年前は“心の距離一センチ”って言ったわね」
  「ああ。今日は?」
  「零センチ。……零秒のキスから始めて、五秒なんて余裕で超えてみせる」

 言い終えるやいな、ノアの背へ腕を回し、首筋に口づけを落とす。驚愕ではなく、期待で瞬く彼の目尻が下がり、静かな吐息が洩れた。甘さに溶けた時間が数を数えることを忘れ、火霊石がさらに深く色づく。

 唇が離れるころには、壁掛け時計の振り子が十度は往復していた。

  「……確かに五秒どころじゃないな」
  「これで別荘送りは回避。でも罰則が消えたわけじゃない。来年も同じノルマがあるのよ?」
  「罰ではなく褒美だろう。七日間の逃避行、準備しておく」

 二人は笑い、グラスドームの火霊石ランプに手を伸ばす。ルシアが指先で石をなぞると、ぼぅ、と炎が増幅。室内が朝焼けのように染まった。

 「ねえ、ノア……来年の更新式、どこでやりましょう?」
  「ミロアの運河が完成したら観光船の船上で。再来年は山頂の藤園。その次は王都を飛び出して──」
  「世界一周の誓い、面白いかも」

  「契約書には『場所は任意』とある。愛に国境は無いからな」

 ルシアは椅子を降り、窓辺を開け放った。初夏へ傾きつつある夜風が髪を揺らし、遠くの街灯が川面に金糸を撒く。

 「今年も“ざまぁ”の種は転がってる。だけど、もう私たちが敵を討つ番じゃないわ。改革の灯を広げる番」

  「うむ。火霊石ランプで王都の貧民街も照らし終えた。次は北方砦の雪中ランプ計画だ」

  「ディランのいる氷壁砦?」

  「もっと寒い場所に転属願いを出すかもしれないから、念のため最新式のヒーターも送るさ。感謝状付きで」

 二人はいたずらな目配せを交わし、風に乗せて笑い声を零した。

 ◆ ◆ ◆

 半刻後。ランプを消した部屋には月光のみ。
 床に置かれた《愛の契約更新書》の封蝋が、まだ温かく輝いている。ルシアはその横に跪き、ペンを取り出して追伸を書き添えた。

 > 追伸――
 > この契約は、私たちが生涯を終えても無効とならない。
 > 火霊石が灰になり、指輪の紅が銀へ戻っても、誓いは未来の誰かに引き継がれる。

 書き終えた瞬間、静かにノアが後ろから抱き締めた。

  「更新、完了だな」
  「ええ。来年まで有効期限は“永遠”」

  「期限と永遠は矛盾だ」
  「矛盾ごと抱きしめてくれるのが、あなたでしょう?」

 ひとこと返事代わりのキスが落ち、ルシアは目を閉じた。
 世界が闇に溶けるほどの深さで重なった唇が、未来へ続く条文に柔らかい句読点を打つ。

 夜空には藤色の星が流れ、遠い鐘が新しい日付を告げる。
 ――これは契約から始まった永遠の恋。
 更新は無限、更新料はただ一つ。

 “あなたと私の愛を証明する、止まらないキス”。

 火霊石が再び熱を帯び、真紅の指輪が月明かりの中で燃えた。

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