契約だけのはずが、溺愛でした ――白い結婚から始まる逆転ざまぁ恋物語

しおしお

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第4編「真実と逆転ざまぁ」

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4‑1 仮面が剥がれる夜

 

 銀鷲(ぎんわし)ホールの天井高く吊られた七連シャンデリアが、晩餐会の始まりを知らせるように万灯(まんとう)の光を散らしている。
 王族主催の慈善晩餐――名目こそ孤児院への寄付感謝祭だが、実情は“臨時公聴会”の前夜祭。参加する貴族は皆、晴れやかな笑顔の裏で互いの腹の内を探り合っていた。

 

 ルシア=ヴァンフィールドが扇子を腰に差し、ホールへ足を踏み入れると、期待と侮りが入り混じった視線が一斉に注がれた。
 ──本日、この場で侯爵夫人は夫との“円満離縁”を宣言するらしい。
 そんな噂が、早くも無数の扇子とグラスの間を飛び交っている。

 

 「今夜は“契約妻”の仕上げ、ね」
 胸元でささやくと、背後でノアが短く応じた。
 「演じ切れ。檻の鍵は既に外れている」

 

 ◆ ◆ ◆

 

 開宴から半時――
 オーケストラが優雅な序曲を奏でる中、ルクス侯家の令嬢、イリーナ=ルクスが月光色のドレスを翻して現れた。
 長い睫毛の下から琥珀の瞳で辺りを一瞥(いちべつ)し、まっすぐノアのもとへ。
 「まあ、侯爵閣下。お怪我はもう癒えまして?」
 「お気遣い痛み入る。ほんの擦過傷だ」
 ノアが礼を返すと、イリーナはわざとらしく胸に手を当てた。
 「私、三夜も眠れずに心配しておりましたのよ。――ねえ、今宵は少しお話の時間を頂戴できるかしら?」

 

 ルシアは隣で微笑を貼り付けたまま、グラスを指一本で揺らした。
 “嫉妬しない契約妻”という仮面を被り切るために。
 実際、胸の奥にチクリと疼く熱はある。けれどその熱こそがイリーナを罠へ誘う誘引(ゆういん)だ。

 

 イリーナはノアの腕へそっと手を添える。
 「ほら、ご夫人も許してくださるわね?」
 「ええ。どうぞご自由に」
 ルシアはガラス越しの微笑で応じた。
 ――誘いに乗った。計画通り。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 ノアとイリーナが室内バルコニーの隅へ歩き去るのを見届けると、ルシアはすぐ行動を開始した。
 手始めに給仕へ声をかけ、ワインセラー管理表の写しを受け取る。「夫が後ほど銘柄を選びますの」と言えば、誰も疑わない。
 続いて、会場装花を担当する侍女頭へ。
 「公女殿下がお召しの香油で頭痛がする方がいるわ。換気扇の調整を頼める?」
 侍女頭が慌てて舞台袖へ走る。目的は換気口上部の“密談盗聴石”が正常に作動しているか確認すること――ルシアとノアだけが知る合図だ。

 

 十歩ごとに扇子で口元を隠し、礼儀正しく言葉を交わすふりをしながら、彼女は会場中央を一巡した。
 すると、王宮楽団長の鞄から落ちた小さなメモを拾い上げる。
 〈二十一時、東廊下窓辺“銀鯨(ぎんくじら)”にて〉
 暗号めいた走り書き。筆跡は、検察局出納係で拘束中の私兵が所持していた覚え書きと同じ――イリーナ側の伝令符号だ。

 

 (罠を仕掛ける場所まで、親切に書いてあるのね)

 

 ◆ ◆ ◆

 

 バルコニー奥。
 ノアはイリーナと距離を保ちながら立っていた。
 「侯爵閣下。あなたのような方が、あの方と離縁なさるなんて、わたくし理解できませんわ」
 「結婚は契約。契約は更新も解除もある」
 「ならば、新しい契約を――“愛”という名の、もっと甘い契約を――私と」
 イリーナは甘い声を絡め、グラスを傾けた。
 ノアは表情ひとつ変えず、淡々と視線を庭園の月へ向ける。

 

 その頃、舞台袖裏ではルシアが耳石(みみいし)を通して二人の会話を収録していた。
 (言質、取れた。)
 グラスの底で笑い、時計の針が二十一時へ近づくのを待つ。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 三刻(とき)の鐘――午後九時。
 “銀鯨”と呼ばれる海獣のレリーフ窓辺に、イリーナの侍女アンナが現れた。
 ドレスの袖に忍ばせた小瓶を取り出し、窓枠へひそかに塗りつける。
 ──無色の毒。触れれば皮膚を痺(しび)れさせ、数刻で心臓を徐々に止める劇薬。
 だが塗布が終わる前に、背後からそっと羽根扇子が突き出された。
 「ご苦労さま。その瓶、私が預かるわ」
 振り向いた瞬間、侍女の口元へ絹のハンカチが押し当てられる。
 眠香(みんこう)。アンナは短い悲鳴すら上げられず昏倒した。

 

 ルシアは瓶を掴むと手袋を二重に替え、証拠袋に密封。
 廊下の角で、紫紺の瞳が待っていた。
 「早かったな」
 「あなたの方こそ、公女を長く引き留めてくれて助かったわ」
 ふたりは視線だけで合図し、東廊下を王宮監察官詰所へ向かう。
 廊下の正面からは、監察官と枢密顧問官が足音荒くやって来た。
 「暗殺未遂の証拠だ。目撃者は侯爵夫人」
 ノアの言葉に、顧問官たちは目を見開き侍女アンナを拘束する。
 上官を呼ぶため衛兵が走り去ると、廊下には刹那の静寂が訪れた。

 

 「これで、仮面は剥がれたわ」
 ルシアが囁く。
 ノアは懐から銀翼ブローチを取り出し、月光に翳した。
 「剥がすのはここからだ。本命は法廷。それまでは――」
 「契約妻と“捨てられた女”を、完璧に演じ続ける」

 顔を寄せずに、影だけを重ねてふたりは微笑んだ。
 月明かりが長い回廊を照らし、銀線の床が凛と冷たい。
 嵐は目前。
 けれど、二つの歩幅は揃っていた。

 

 ──そして、宴の喧噪(けんそう)の向こうで。
 イリーナは侯爵を探して振り返り、傍らに夫人の姿が見えないことに気づく。
 薄紫のドレスは歓楽の輪から滑り落ち、静かな闇へ消えていた。
 その闇が、己の未来を呑み込もうとしているとは、まだ知らずに。

4‑2 公開裁判と婚約破棄返し

 

 銀鷲ホールからわずか半日──。
 王都中央議事堂の奥、古代神殿を改装した〈最高王家査問廷〉には、白大理石の列柱が林立していた。半円形の階壇中央に王族陪審十二名、その背後に第一王子レオン殿下。そして左右に枢密顧問、検察官、弁務官。その視線を真正面から受ける場所に、三つの被告席が並ぶ。

 

 一つ目の椅子には蒼白い顔のイリーナ=ルクス公女。
 二つ目には硬直したディラン=アルバーグ副団長。
 三つ目にはイリーナの侍女長アンナ──すでに自白済みの共犯者。

 開廷の銅鑼が低く鳴り、法服をまとった王家首席検察官が朗々と声を張った。

 「被告イリーナ=ルクス、ならびに共犯二名は、王太子主催行事での暗殺未遂、ならびに会計局汚職の隠匿を企図した罪に問われている。証拠物件提出者は――ヴァンフィールド侯爵夫妻!」

 ざわめきが奔る。
 観覧席に詰めかけた貴族たちの視線が一斉に壇上へ向かった。
 ルシアは深呼吸し、翡翠色の法廷用ドレスを翻して証言台に立つ。左隣ではノアが黒外套を正し、紫紺の瞳で会場全体を一瞥した。

 

 まず提出されたのは、侍女アンナが窓枠へ塗布しようとした劇薬小瓶。続いてルシアが拾い拡大写しを取った〈銀鯨メモ〉、密偵が押収した裏帳簿、汚職金流入を示す鉱山領収証。書面が列柱の足元へ並べられるたび、陪審の顔色がみるみる翳(かげ)る。

 

 「証拠一三七番、財務省公印偽造。――署名はイリーナ公女ご本人の筆跡と一致」

 「捏造ですわッ!」
 イリーナが立ち上がり、椅子を大きく軋(きし)ませた。
 だが王家筆跡鑑定官が静かに首を振る。
 「鑑定は三名の書家が同一結果。反証できますか?」

 沈黙。蒼白だったイリーナの顔面に怒りの紅が散った。

 

 次に、ディランの金融口座を経由した私兵給与の証跡が表示されると、騎士たちの席からどよめきが起こった。
 ディランは震える拳で椅子の肘掛を掴む。
 「待ってくれ! 俺は……知らなかった。口座は遠縁の男爵に貸してやっただけ――」

 「副団長ともあろう者が、自分名義の金流れを把握していないと?」
 王家顧問が冷然と切り返す。逃げ場はない。

 

 最後に、ノアが静かに進み出た。
 「襲撃の標的は本来、私ではない。――妻だ」

 ざわっ。
 ノアは袖をめくり、まだかすかに残る傷跡を晒す。
 「私が受けたのはかすり傷。しかし夫人の命を狙った矢は、王家主催の祝賀会へ向けられ、国家儀礼そのものを汚した。よって私は本日、夫人の安全と名誉を守るべく“円満離縁”条項を即時行使し、妻を危険から切り離すと同時に、個人資格の訴訟権を認めるよう請願する」

 議場が凍りつく。
 離縁宣言――噂が現実になり、イリーナの目が勝利の光を帯びる。だが次の瞬間、ルシアが一礼し、透き通る声を響かせた。

 「私、ルシア・レイオットは、侯爵閣下の申し出を受け、婚姻契約を解除いたします。――同時に、暗殺教唆の被害者として、イリーナ=ルクス公女を民事および刑事で告訴します」

 バシュッ、と空気が裂けたような拍手――いや、歓声に近い驚嘆が観覧席に走った。
 『捨てられた妻が泣き寝入り』という旧派の計算は、一瞬にして反転したのだ。

 

 「馬鹿な!」
 イリーナが叫ぶ。
 「あなたは侯爵家を失ったら何も残らない! 没落令嬢に戻るだけでしょう!?」

 ルシアは静かに首を振り、胸ポケットから一枚の書状を取り出した。
 「これは王太子殿下の署名入りで成立した“皇家学術院特別顧問”の任命状。私は侯爵家に籍を置かずとも、国家顧問として研究予算を受け取り、領地再建に従事する立場を得ました」

 さらに観覧席の貴婦人たちが感嘆の溜息を洩らす。
 イリーナの顔は朱を超えて暗紫に変わった。

 

 「被告人!」
 陪審席の王子レオンが椅子を叩く。
 「反論がないなら評決に入る。汚職と暗殺未遂は王家に対する反逆だ。潔く罪を認めよ」

 イリーナは歯噛みし、名家の誇りごと肩を震わせた。
 結局、彼女の弁護士は降伏を示す白書面を掲げる。
 「被告は事実を争わず。量刑のみを求む」

 槌が高く鳴り響き、議事堂の天井が震えた。
 第一王子殿下は判決言い渡しを宣告する。

 「イリーナ=ルクス公女、爵位剥奪の上で国外追放──
 ディラン=アルバーグ副団長、王太子騎士団除名、辺境警備隊への左遷──」

 言い渡しが終わったと同時に、廷内は抑えきれないざわめきと拍手で沸騰した。
 悪辣な仮面は剥がれ落ち、公女の虚栄は粉々に。
 騎士の威光は失墜し、椅子に縋(すが)り付く姿は酷くみじめだ。

 ルシアは唇を震わせながらも、きりりと頭を下げた。
 “ざまぁ”の声は上げない。
 けれど心の内では、かつて踏みつけられた屈辱がひっくり返る音が高らかに鳴っていた。

 

 こうして公開裁判は終わった。
 ルシアは夫人を離れ、ルシア・レイオットとして勝利を掴む。
 そして退廷の直前――

 後方席から差し込む月光の道を歩くルシアの視界に、紫紺の瞳が映った。
 ノアが群衆の壁を割り、ともすれば危うい熱を宿した微笑で近づいて来る。
 “離縁”を経た二人の関係は、ここで終わらない――
 それを悟った瞬間、鼓動が新しい章の扉を叩いた。

 勝利と自由、そして未名の未来。
 侯爵夫人の仮面を脱ぎ捨てた令嬢は、薄藤色のドレスを翻し、光の方角へ歩み去った。

4‑3 契約条項「離縁」

 

 判決の余韻がまだ石壁に残る黄昏、王宮前広場には耳ざわりなざわめきが渦を巻いていた。

 「見た? 侯爵夫人、いや“元”夫人よ」
 「捨てられた上に自分で離縁宣言なんて――可哀想に」

 扇子で口元を隠しながら、酷薄な同情を装う貴婦人たち。かつてルシアを侮蔑した面々は、今度もまた新しい餌を探す鴉の群れだった。

 けれど薄藤のドレスを着た令嬢は、誰より背筋を伸ばして宮門の階段を下りる。夕日が髪に火を灯し、砂金のように揺れた。

 (もう“侯爵夫人”ではない。けれど私は私――)

 深呼吸と共に胸を満たしたのは、敗北の苦さではなく自由の甘さだった。

 

 ◆ ◆ ◆

 

 夜。王城内の回廊を抜けた先――月に照らされた小庭園。

 「ルシア」

 背後から名前を呼ぶ声に振り返ると、黒外套を翻したノアが一人、白薔薇の気配をまとって立っていた。公女も騎士も去り、人影のない静謐(せいひつ)。蝋燭もないのに彼の瞳だけが淡く光を宿している。

 「ご機嫌はいかがだ、元・夫人殿」
 冗談まじりの低音。ルシアは肩をすくめた。
 「“捨てられた女”にはお似合いかしら。ざまあの記者が群がってたわ」

 「ならば見せてやろう。捨てたのは誰か、拾い上げるのは誰かを」

 ノアは懐から天鵞絨(びろうど)の小箱を取り出し、月光の下で蓋を開く。きらめいたのは、燃えるような深紅の指輪。中央に嵌(は)め込まれた紅玉は、紫紺の瞳を映して熾火(おきび)のように揺れる。

 「離縁を告げたのは君を護るため。でも契約を外した今、私は“本気の求婚”をする権利がある――そうだろう?」

 ルシアは息を呑んだ。裁判で見せた冷徹な策略家と同じ顔なのに、その声は不器用な青年の熱を帯びている。

 「……憐れみならお断りよ」

 「違う」

 月が雲間を割き、白磁の光が彼女らを縁取る。ノアは片膝をつき、まるで夜伽噺(とぎばなし)の騎士のように頭を垂れた。

 「取引で始まった関係は、利害で終わった。ここから先は愛だ。――ルシア、私は君に焦がれている」

 胸に潜ませていた感情を暴く言葉。その真っ直ぐさに、ルシアの心の壁がざりりと音を立てて崩れた。路面に落ちた月影が揺れ、涙の粒がその上へ滴る。

 「あなた……ずるいわ。私に“共犯者”以上を望むなら、最初から言っておけばよかったのに」

 「言えば、君は契約を選ばなかったか?」

 「たぶん……怖くて逃げたわ」

 自嘲気味に笑い、手の甲で涙を拭う。ノアはゆっくり立ち上がり、指輪を掲げた。

 「だからこそ今。恐れも承知で――もう一度、歩幅を揃えたい」

 掌を差し出され、ルシアは逡巡(しゅんじゅん)の末にそっと重ねる。指輪が薬指へ滑り込む瞬間、紅玉が月光を吸い込み、紅蓮(ぐれん)の花が灯った。

 「……熱い」

 「錬金術師が仕込んだ小細工だ。君の体温を感知して輝きを増す。情熱が冷めれば白銀に戻るらしい」

 「じゃあ一生このままね」

 ルシアは泣き笑いで囁き、月明かりの庭に噴き出す笑声(えみこえ)。次の拍子、ノアはたまらず彼女の肩を抱き寄せた。

 ――禁じられた距離、一センチを超えて。

 契約条項はもはや紙屑。同意書も印璽も必要ない、二つの鼓動が刻む誓約。

 遠く宮門から聞きつけた噂好きの貴婦人たちが、扇子を落として呆然と見つめている。

 「侯爵に捨てられた女が、即日侯爵夫人に返り咲いたですって!?」

 ざまあ返しの大合唱を背に、二人は互いの額をそっと寄せ合う。

 「明日、正式に婚姻届を再提出しよう」
 「今度こそ“離縁条項”は付けないわ」
 「更新は……口づけのみで?」
 「毎年でも、毎晩でも。――ねえ、ノア」

 返事代わりに落ちた唇は甘く、春の夜風に藤の香が重なった。

 契約から愛情へ。
 盾と剣は溶け合い、一対の翼になった。

 真紅の指輪が深夜の庭園で燦然と燃える――まるで、二人の物語が“ざまぁ”の火花を超え、永遠へ点火された証のように。

4‑4 真紅の指輪

 

 ――薄紅の夜明け。

 王都南端、聖騎士団付属の古礼拝堂には、淡い薔薇窓(まど)を通して朝陽が差し込んでいた。長椅子の木肌を磨く香油の匂い、百合と藤を束ねた祭壇装花。鐘楼がまだ眠る刻限だというのに、式の立会人たちは既に席に着き、私語を慎みながら開式を待っている。

 「ほんとうに、今日やるのね……」

 祭壇脇、友人代表として招かれたミリアは、かつての親友――黒髪を纏め上げたルシアに囁いた。

 「ええ。前回は“契約”の結婚式。今回は“恋”の結婚式よ」

 胸元に配された真紅の宝玉が、朝陽を跳ね返して深い火を宿す。昨日、月下で受け取った指輪は、錬金術の魔力で花火のごとく輝き続けていた。

 聖職者が壇上に立ち、静けさを促す鐘を一度だけ鳴らす。
 扉が開き、紫紺の礼服に身を包んだノア=ヴァンフィールド侯爵が入堂した。従騎士も楽団もない。あるのは、夫婦ふたりだけが主役という潔い舞台。

 列席者が立ち上がり、すすり泣く音が混じる。ルシアは一歩ずつバージンロード――いや〈再誓約の道〉を進み、ノアの前で足を止めた。

 「婚姻解消より十二時間。最短離縁、最短再婚――記録づくめだな」

 「しばらくは騒がれるでしょうね」

 ふわり、互いに笑う。緊張ではなく、秘密を分かち合う共犯者の笑み。

 聖職者が誓約文を読み上げ、ふたりは指輪を掲げ合う。
 「契約ではなく、愛を誓いますか」
 「はい」
 声が重なった瞬間、紅玉が眩しい閃光を放った。見守る貴婦人たちが歓声とも溜息ともつかぬ吐息を漏らし、ステンドグラスの小鳥が羽ばたくように光彩を撒き散らす。

 ――カラン。

 祝福の鐘が三度鳴る。その音が外へ抜けた途端、礼拝堂の扉が再び開いた。
 そこに立っていたのは、早朝から集まった報道記者や街の人々。彼らは驚愕に目を見張った。昨日「捨てられた」と噂された侯爵夫人が、今朝には「侯爵の新妻」として真紅の指輪を掲げている。

 ノアはルシアの手を取り、階段を下りながらわざと大きく宣言した。
 「本日、ヴァンフィールド侯爵家とレイオット公爵家は、正式に縁戚関係を結び直した。――以後、妻は“契約解除不能”である」

 喝采が雷のように走る。

 ◆ ◆ ◆

 披露の宴は王都でも指折りの<天球宮殿>のテラス。
 鏡面水盤に藤の花びらが漂い、金糸の陽が水面で踊る。夕刻前の短いパーティーだが、招かれたのはルシアが選別した孤児院長、鉱山技師、書記官、そして旧来の友人たち。大仰な貴族の列はない。

 「こんなに身軽な結婚式、初めてですわ」
 ミリアが目を細め、グラスを掲げる。
 ルシアは笑い、かつて自分を見下した伯爵夫人が遠巻きに羨望を向ける光景を横目で捉えた。

 「ねえ、夫人――いえ、ルシア顧問」
 王太子が冗談めいて近寄る。
 「汚職の後始末が片付いたら、余の茶会で新しい学術院計画を発表するつもりだ。君の助言が必要でね」
 「喜んで。……ただし、報酬は孤児院への寄付口座へ振り込んでください」

 太子は目を丸くし、そして破顔した。「交渉人め」

 ◆ ◆ ◆

 宴の終わり。
 ルシアとノアはテラスの端、夕陽が沈みかける手摺に寄り添い立った。
 「これで本当に契約は終わった」
 ノアがつぶやく。
 「ええ。次は“更新”も“破棄”も条文じゃなくて、毎日の口づけで判断しましょう」
 「なら今、更新を――」

 言い終わるより先に、ルシアは背伸びし、彼の唇へそっと触れた。真紅の指輪が西陽を受けて燃え上がる。

 (熱はまだ、銀へは戻らない)

 新しい物語がもう静かに始まっている。

 遠く街の鐘が晩祷(ばんとう)を知らせ、風に乗って藤の香が通り過ぎた。
 夫婦の影は一つに重なり、王都の空に淡い蒼紫のリボンを引く――夜が降りても消えない、永遠の誓いのように。

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