「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第1章『王宮の間抜け令嬢』

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1‑1 居場所のない社交サロン

 からり、と磁器同士のぶつかる甲高い音が響いた。
 真珠色のティーカップがテーブルの端から滑り落ち、白い絨毯に淡紅の液体が派手な染みを作る。その中央で、アーデルハイド・フォン・リリエンベルク子爵令嬢は固まったまま両手を震わせた。

「ま、またやってしまった……」

 半刻前、彼女は同じサロンの隅でペン皿をひっくり返し、インクを自分のドレスに盛大に飛ばしたばかりだ。慌てて着替えたばかりの替えのドレスにも、今度は紅茶の花が咲く。
 若い令嬢たちの失笑が、レースの簾を揺らす微風のようにさやさやと耳を撫でた。

「リリエンベルク令嬢には、王都の高価な絨毯など似合わないのですわね」
「まるで転倒芸を披露するために来ているみたい」

 囁きは決して大声ではない。しかし、静かな午後のサロンでは十分すぎるほど刺さる。アーデルハイドは額の汗を隠すようにカーテンの陰へ下がると、幼馴染の女官見習い―クララに袖を引かれた。

「……また冷たいお水、お持ちしますね。アーデル様、立ちくらみしておられるでしょう」

「ありがとう、クララ。でも大丈夫……きっと慣れるから」

 彼女はそう言いつつ、心の内で(慣れなければいけないのは私ではなく、床のほうかもしれない)と自嘲した。子爵令嬢とはいえ、リリエンベルク家は地方の小領。華やかな大貴族の輪に入れば“浮いて”当たり前だ。それでも父の命じるまま首都へ送り込まれ、毎週のように社交の場へ顔を出す。失敗を繰り返し、失笑を浴び、肩身を狭くしながらも。

 そんなアーデルハイドを「才女」と呼ぶ者が少なからずいるのも、奇妙なねじれだった。幼いころから書物を友として育ち、歴史年表と王家の系譜を暗唱し、古代語の詩をすらすら写せる。だが社交界で重宝されるのは軽妙な世辞と優雅な立ち居振る舞いであり、机の上の学識ではないのだ――少なくとも、皆の目には。

 カーテン越しに庭が見えた。青い空に真紅のバラが映え、噴水の水音が涼しげに重なる。その眩しさを前にして、アーデルハイドはふと背筋を伸ばした。
(私の魔法を誰も知らない。知られてはならない――でも、だからこそ私は、笑って立ち上がらなくちゃ)

 額にかかった亜麻色の前髪をかき上げ、自分で染みの処理を済ませると、再びホールへ戻る。転んでは立ち、こぼしては拭う。そのたびに周囲の声は大きくなる。だが彼女の瞳だけは、不思議な静けさを宿していた。

 夕刻。宴が散会すると、令嬢たちは馬車へ向かい、広間には甘い香の残滓と残った給仕だけが揺らめく燭光を囲む。アーデルハイドは従僕に礼を告げると、石畳の回廊を一人歩いた。帰路につく馬車まで距離があったが、歩いて頭と心を冷やすにはちょうどいい。

 肌寒い風に肩をすくめた瞬間、目の前を急ぎ足の青年が横切った。漆黒の軍装に銀の房を留めた肩章――王宮近衛親衛隊の紋章だ。尖った顎と凛然とした目元、美しい男装の麗人。アーデルハイドの胸がどくりと跳ねる。
 青年――アルトハイム・フォン・ツェレ隊長が、彼女に気づき足を止めた。

「……失礼。踏まれたドレスの裾は大丈夫か?」

 低く透る声に、アーデルハイドは頬を赤くし、慌てて会釈した。

「は、はい! ええと、私はただの……」

「子爵令嬢殿の名は存じている。――怪我はないのなら、良かった」

 それだけ告げ、アルトハイムは廊下の先へ去っていく。その背を見送りながら、アーデルハイドは胸に湧く温かいものを抱えた。誰かに「大丈夫か」と正面から言われたのは、いつ以来だろう。

 一方、正門前の階段では、白金の巻き毛を揺らす幼い少年が大臣らしき男に手を引かれていた。エレイン第2王子――まだ五歳の彼は、菓子箱を抱えて頬を緩めている。アーデルハイドと目が合うと、小さな手を振った。

「ねーちゃん! さっきのクッキー、おいしかった!」

「まあ、ありがとうございます。次はもっと――」

 言いかけた途端、王子の従者が咳払いし、少年を促して馬車へ乗せた。淡い残光が扉に映り込み、少年の笑顔が閉ざされる。その光景にアーデルハイドは苦笑した。
 ――位階とはそういうもの。でも、微かな縁は、種のようにどこかで芽を出すかもしれない。

 夕陽が赤く石畳を染める。彼女は少しだけ胸を張った。ドジも転倒も、今日までは恥だった。けれど明日からは違う――たとえ周囲が知らずとも、自分だけは己の価値と忠義を知っているのだから。

 夜空の一番星が瞬き始めたころ、アーデルハイド・フォン・リリエンベルクは馬車の窓から王宮を振り返った。
 掌には、割れたティーカップの欠片が一片。失敗の象徴でもあり、彼女が決して屈しなかったという小さな証でもある。
 星明かりが破片に反射し、きらりと光った。


1‑2 突然の勅使と黄金の回廊

 翌朝――まだ夜明けの靄が残る頃、リリエンベルク邸の門前に王宮の紋章を掲げた馬車が止まった。
 金と紫の二頭立て。御者台に座るのは近衛騎兵団の制服をまとう壮年騎士で、扉には緋色の封蝋で留められた書状が掲げられている。邸の召使いが恐る恐る対応に出ると、騎士は低く名乗った。

「王宮親衛詰所所属、第四槍隊副長カール・アーデ。――リリエンベルク子爵令嬢アーデルハイド殿を、女王陛下の謁見室へ直ちにお迎えせよとの勅命を賜っている」

 寝間着姿で書庫に籠もり、日記に昨夜の失敗を反省文として綴っていたアーデルハイドは、侍女の叫び声で半ば強制的に引きずり出された。からまる夜会髪をほどき、慌ただしく午餐兼化粧を済ませ、灰青色の外套を羽織っただけで馬車に押し込められる。その間、父母は血相を変え「昨日、また粗相でもしたのか?」「いや、もしかして縁談だろうか」などと頭を抱えていたが、当の本人が真っ青なのだから取り合う余裕はない。

 馬車は王都の真珠街を抜け、朝霧に霞む宮城へ向かった。石畳を叩く蹄の音さえ、今日に限って心臓の鼓動に重なり息苦しい。
 正門をくぐると、昨夜は遠目にしか見られなかった衛兵の列が整列し、黄金の大階段が天へ続くかのように輝く。その先の大理石の回廊では――。

「――お久しぶりです、リリエンベルク令嬢」

 銀のチェーンメイルが朝陽を跳ね返し、きらめく剣帯を締めたアルトハイムが立っていた。整った顔立ちをさらに凛とさせる岩のような静寂。彼はいつも無表情だが、その瞳だけは言葉以上に雄弁で、今も「心配するな」と告げているようだった。
 アーデルハイドは胸で手を合わせ、かすかに頭を下げた。

「ま、まさか……尋問とかでは、ないのでしょうか」

「女王陛下ご自身の招きです。安心なさい」
「ほ、本当に安心していいのでしょうか……」
「ええ。私がこうして先導している以上、害意はありません」

 短くそう言い、アルトハイムは回廊の奥へ歩き出す。
 壁面を覆うステンドグラスに射し込む朝日が、色とりどりの花弁を床へ散らし、二人の影が万華鏡のように重なった。進むほどに香るのは宮中御用達の白檀。剣戟の匂いもしない平和な朝――それでもアーデルハイドの指は冷えきって震え続ける。

 最奥の謁見前室で待機するよう告げられ、アーデルは深呼吸を三度。扉の向こうから聞こえるのは、落ち着いた女性の話し声と紙を繰る微かな音で、叱責の気配はない。それでも震えは止まらず、ぎこちなく膝を折る稽古を自分で繰り返す。

 ほどなくして扉番が錫杖で床を打ち鳴らした。

「――女王陛下、リリエンベルク子爵令嬢アーデルハイド入室いたします」

 開かれた扉の先、赤絨毯が玉座まで真っ直ぐ続く。その中央に据えられた白金の執務卓。豪奢な衣装ではなく、翡翠色のシンプルな上掛けを羽織っただけの女王エレオノールが、眼鏡越しに書簡を閉じてこちらを向いた。
 やわらかな金髪に囁く微笑。王冠を戴かぬ朝の姿は、誰が見ても二十代前半の王女と見紛う若さ――しかし実年齢は四十路をゆうに越えている。
 アーデルハイドはそれを知る唯一の存在として、胸の内でそっと祈るように跪いた。

「アーデルハイド、よく来てくれたわね」

 声は柔らかかった。怯える自分が馬鹿らしくなるほど。
 女王は執務卓を回り込むと、ひざまずく彼女を自ら抱き起こした。

「顔を上げなさい。昨日の夜会でうまく立ち回れなかったとか、そんな小事のために呼んだわけではないわ」

「……は、はい。陛下のお言葉、身に余る光栄です」

「実を言えば――」

 女王は微笑を深め、室内の侍従たちを合図で下げると、ふたりきりになった。壁にかかった懐中時計の音だけが時を刻む。

「あなたを正式に“王宮付き侍女官”に任命しようと思っているの」

 思わず息が止まる。侍女官、それは単なる女官とは比べ物にならない名誉職だ。お茶や掃除に従事するのではなく、執務を補佐し密命を請け負う側近。
 だが、なぜ自分のような間抜けを――。

「理由は二つあるわ。一つは、昨日あなたがサロンで何度転んでも最後まで笑おうとしていた度胸。失敗を恐れぬ心は、王の傍に立つ者の資格よ」
「もう一つは……」
「そう。わたくしの若さを保つ『昨日への小さな巻き戻し』――あなたの魔法。これを王宮の日課として公式に記録し、あなた自身の身分を守る保険にもしたいの」

 アーデルハイドははっと息を飲む。その魔法は王家最大の機密。公にすれば狙う者が出る危険すらある。

「陛下、もしそれを表沙汰にすれば、逆に私が――」

「だからこそ“王命”にするのよ。王命であれば誰も手出しできない」

 女王は窓辺へ歩き、朝日の眩しさに目を細めた。

「あなたに重荷を背負わせるようで心苦しい。でも、わたくしはあなたを“庇護される秘密の道具”ではなく、“堂々と胸を張る王宮侍女官”にしたいの」

 その言葉の温度に、アーデルハイドの頬が熱くなった。
 ―誰もが陰で笑う自分を、女王陛下は必要としてくれる。守ろうとしてくれる。ならば答えは一つ。

「謹んでお受けいたします。女王陛下の侍女官として、心身の限りお仕えいたします」

 深々と頭を垂れると、女王は満足げに手を伸ばし、彼女の肩に温かな掌を置いた。

「ありがとう。では今日から一日たりとも遅刻は許さないわよ?」

「は、はいっ!」

 涙がにじむほど嬉しいのに、返事はやはり間抜けた声だった。
 ――けれど胸に芽生えた光は、もう誰にも揺らせない。
 王宮の黄金の回廊が、今日からは彼女の舞台となるのだから。

1‑3 新任侍女官の一日目――銀の剣と菓子の甘い罠


 翌朝、黎明を告げる号砲が三度鳴り終わらぬうちに、アーデルハイドは王宮の「侍女官回廊」に立っていた。
 紺の制服ドレスに白のエプロン、左胸には王家の百合をかたどった真鍮製の徽章。鏡の前で整えたはずの髪は、いまや緊張で首筋に張りついている。

 初任務は「玉座の間の整備」。王族が朝礼を行う前に、敷物を点検し、祭壇の花を取り替え、燭台の煤を払う――どれも侍女官にとっては当たり前の雑務だ。
 だが、これが「落ち度の許されない王都一の舞台」である事実は、彼女の胃を容赦なく締め付けた。

 広さ百歩の赤絨毯を丁寧に拭き、花瓶を抱えて壇上へ。
 そこで彼女は息を呑む。昨夜割った花瓶と同じ王家紋入りの“対”がそこに鎮座していたのだ。
 (落としたら今度こそ処刑かも――!)
 一瞬手が震えたが、深呼吸。そっと載せ替え、台座の中心へ収める。肩の力を抜いた途端、背後から絹靴の足音が近づいた。

「危なげなく済んだようだな」

 凛とした声。振り向くと、親衛隊長アルトハイムが無表情で立っている。制服に差した儀礼剣は朝の光を受けて銀の刃を思わせた。

「た、隊長殿……! あの、昨日の件はご迷惑を――」

「謝る必要はない。壊したのは花瓶だけ、命は落とさなかった」

 淡々とした言い方だが、それが彼なりの労いだと気づく。
 アルトハイムは壇上を一瞥し、彼女が生けた白百合を摘まみ上げた。

「綺麗だ。だが茎の切り口は斜めに。水揚げが良くなる」

「は……はい! ご指導ありがとうございます!」

 花瓶を直す緊張で忘れていた初歩の所作。アーデルハイドは恥ずかしさで頬を染め、素直に頭を下げた。アルトハイムは小さく笑みを浮かべると、回廊へ視線を向ける。

「――そろそろ来る頃だ」

 何のことかと耳を澄ませた瞬間、甲高い声が響いた。

「アーデルねーちゃん! おはよう!」

 ころん、と駆け込んできた小さな影――エレイン第2王子である。紺の簡素な外套に、両の手には大きな菓子箱。侍従数名が慌てて追いすがるが、少年は頑なにアーデルの前まで走り切った。

「昨日くれたクッキー、おいしかった! 今日はお礼にシガレットビスケットを持ってきたんだ!」

「まあ……わざわざありがとうございます、殿下」

 屈んで受け取ると、少年は得意げに胸を張った。アルトハイムが眉をひそめる。

「殿下、謁見前に走り回るのはお控えください。お怪我をなさいます」

「だってねーちゃんに渡したかったんだもん!」

 エレインはむくれ顔で剣帯を指差す。

「それにアル、剣を持ったまま廊下で睨むの、こわいよ?」

「……承知しました。私も氣をつけます」
 親衛隊長が子どもの一言に軽く頭を垂れる姿は、アーデルハイドには衝撃だった。

 侍従が王子を朝の勉学へうながそうとするが、少年は菓子箱を押しつけると耳元で囁いた。

「ねーちゃん、また作って。……王宮ってね、大人の顔が怖い時があるんだ。でもお菓子の匂いがすると、みんな笑うんだよ」

 瞬間、アーデルの胸に小さな灯が灯る。彼の囁きは甘い砂糖菓子のようにほろりと溶け、重圧で固まった心を柔らかく解いた。
 彼女は少年の手をとり、そっと握る。

「ええ、約束します。今度は蜂蜜を多めに入れて、もっと笑顔になれるお菓子を」

「やった!」

 少年はぱあっと輝き、侍従に連れられて去っていった。遠ざかる足音を見送りながら、アーデルハイドはふっと肩の力を抜いた。

 アルトハイムが横に並び、柔らかく告げる。

「……殿下が笑うと、城の空気が明るくなる。あなたの菓子にはその力があるらしい」

「私の、菓子?」

「私が保証しよう。侍女官としてのあなたがどれほど手を滑らせようとも――王子が笑えば、その一日は許される」

 冗談とも本気とも取れない物言いに、アーデルはくすりと笑った。

「それでは、王子の笑顔のためにも二度と花瓶は割れませんね」

「頼む。あれは予備がもうひとつしかない」

 ふたりは笑い合い、再び業務に戻る。
 玉座の間に敷かれた赤絨毯の先、朝礼の準備が整うころには、アーデルハイドの背筋は卑屈な曲線ではなく、ほんの少し凛と伸びていた。

 ――初仕事は、まだ始まったばかり。小さな失敗は繰り返すかもしれない。
 けれど、この王宮には、彼女を見て微笑む少年と、無表情の奥でそっと支える騎士がいる。そして背後には、若さと共に王国を統べる女王の確かな信頼が――。

1‑4 “妾のお気に入り”――黄昏の私室で交わされた誓い


 太陽が城壁の向こうへ沈み、窓格子を茜色に染める頃。
 アーデルハイドは一日の奉仕を終え、侍女官控えの小部屋で制服の埃を払っていた。初任務の緊張はようやく抜けたものの、腕や腰は心地よい疲労でじんじんする。――そのとき、戸口に現れた女官長が静かに頭を下げた。

「陛下が今宵のお茶会へ、リリエンベルク侍女官をお呼びです」

「わ、私を……?」

 息をのむ彼女に、女官長は微笑みだけを残し去っていく。
 急ぎ袖口を整え、胸の徽章を確かめ、鏡に向かって深呼吸。頬の赤みを指で落ち着かせても鼓動は速まる一方だ。

 ――舞踏会用でも執務室でもない、王の私室。それは限られた側近だけが立ち入る聖域だ。たった一日めの自分が招かれる理由は、魔法の用か、あるいは朝の失敗を慰めるためか。

 通された部屋は深い葡萄色の絨毯が敷かれ、暖炉で白檀の薪が静かに燃えていた。鎧兜も儀礼旗もなく、代わりに壁一面を覆うのは旅先で集めたという小さな絵画。王都の喧騒から切り離された静寂――その中央に、軽やかに椅子を勧める女王エレオノールの姿があった。

「ようやく寛げる時間ね。今日はお疲れさま」

 横長のテーブルに三人分のティーカップが並ぶ。アーデルと女王、そして用意されたもう一脚の椅子には親衛隊長アルトハイムが控え、傍らで給仕役を務めていた。銀の茶瓶を傾ける仕草さえ隙がなく、煌めく剣帯が暖炉の火を映す。

「……陛下のお側にいらして良かったですか?」
 カップを手にしたアーデルハイドは、熱を逃すため息を吹きかけ、そっと尋ねる。

「ええ、とても良かったわ」
 女王は砂糖をひと匙だけ溶かし、微笑んだ。
「朝の花瓶を落とさずに済んだだけで、王宮の床板が拍手していたでしょう?」

「そ、それは……床板まで……」

「冗談よ。でも噂ではもう『転ばない侍女官』と呼ばれているらしいわ」

 アーデルは苦笑し、肩の力を抜く。こうして向かい合うと、陛下は年齢を感じさせぬ瑞々しさを帯びている。魔法の効果というより、内側から湧く気迫が肌を照らすのだ。

「それに――」

 女王は小首を傾け、やや声を潜めた。

「あなたの焼いた菓子を食べたエレインがね、夕食を残さず平らげたの。滅多にないことよ」

「殿下が? まぁ、うれしい……!」

「王宮一、偏食家の坊やですもの。あなたのお菓子が胃袋を掴んだというわけ」

 アルトハイムが脇で咳払いし、控えめに告げる。

「殿下は食後、侍医に“ねーちゃんとは毎日おやつ会議をしたい”と直訴していらっしゃいました」

「おやつ会議……?」

 アーデルハイドは思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえる。女王はその様子を見て上機嫌に笑った。

「あなたが宮廷にいる理由がまた一つ増えたわね。――アーデルハイド」

 呼びかけとともに、女王は手を伸ばす。やわらかな指が、侍女官の勲章の真鍮に触れた。胸元でカチリと音がし、徽章は白金の鏡面仕立てにすり替わっている。宝飾職人の手による本物の銀装だ。

「陛下、これは……!」

「王宮侍女官の正式徽章よ。今日一日で返すつもりだったけれど――気に入ったから、そのままお前のものにする」

 続く言葉は、暖炉の火より温かかった。

「妾のお気に入りだ」

 賛辞でも告白でもない、王としての宣言。
 アーデルハイドは胸の奥がじんと熱くなり、視界の端が滲む。思わず椅子から立ち上がりかけたその肩を、アルトハイムが静かに押し下げた。
 ――座って受けるが良い、それが陛下の願いだ、と目が語る。

「……恐悦至極に存じます。私も、陛下のおそばで働けることが、心からの喜びです」

 震える声で応えると、女王は満足げに頷いた。

「では、これで正式に今日から侍女官。明日からは“昨日への巻き戻し”に加え、執務補佐も任せるわ。初めは誤字のない書簡写しから」

「はい! 全力で努めます!」

 アーデルの背筋は自然に伸び、目には言葉にならぬ決意が宿った。
 その横でアルトハイムが紅茶を注ぎ足し、短く囁く。

「……おめでとう。これからは私も、毎朝あなたを迎えに来る」

「えっ? そ、それは警護の一環ですか?」

「半分は。半分は……まあ、“転倒防止”だ」

「や、やはりそこなのですね」

 二人のやり取りに、女王が目を細める。

「転ばぬよう支え合い、菓子で王子を笑わせ、侍女官の務めを果たす――それで十分。そなたは、そなたらしくあればいい」

 外では鐘楼が七時の鐘を鳴らし、私室の窓に夜の気配が忍び寄る。
 暖炉の火がぱち、と弾けたとき、アーデルハイドはようやく理解した。
 ――この部屋は王国の中心にあって、たった三人だけの秘密の温室なのだ。ここには嘲笑も階級もない。ただ仕事への誇りと、小さな幸せを分かち合う飲み物と。

 杯を掲げ、女王が締めくくる。

「では、我ら三人に祝福を。王国にとっては些末でも、妾にとっては掛け替えのない家族へ」

 銀の鈴のように澄んだ音が重なり、香り高い茶が喉を潤す。
 そしてアーデルハイドは誓った。
 ――たとえ何度転んでも、失敗しても、この徽章を再び汚すまい。
 女王の“お気に入り”として胸を張り、若返りの奇跡を途切れさせぬよう、毎日を懸命に生きるのだ、と。

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