「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第2章『若返りしかできない魔法』

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2‑1 昨日へ戻す、ただそれだけの奇跡 

 夜明け直前の王都は冷えていた。薄桃色の空に鐘楼のシルエットが浮かび、遠く衛兵の交代を告げるラッパが微かに響く。
 アーデルハイドはまだ誰も通らぬ王宮中庭を抜け、女王私室へ続く裏階段を上がった。徹夜の露で石段が黒く艶めき、朝靄が足首を撫でる。
 一行の護衛と侍医が静かに列を成す。――若返りの儀は毎朝欠かさず行われるが、関わる人間は限られている。侍医は女王の脈を取り、護衛は外の耳目を遮り、アーデルハイドだけが儀式を“起動”させる存在だった。

 扉の向こうで、エレオノール女王は既に薄緑の上衣に着替えて待っていた。髪をまとめず、ほどいたまま肩に流す姿は、王ではなく若き才媛のようだ。
 女王は微笑みで迎えると、窓際の長椅子に腰を下ろす。

「おはよう、アーデルハイド。今日は少し眠そうね」

「申し訳ありません。王都の朝の空気が気持ちよくて、つい早く目覚めてしまいました」

「それは何より。では始めましょうか」

 場にいた全員が自然と呼吸を整える。
 アーデルハイドはそっと膝をつき、女王の両手を包むように握った。掌は温かく、脈は安らかに打っている。――これから行うことは「病を癒す」でも「力を与える」でもない。ただ“昨日”という目に見えない岸辺へ、肉体を引き戻す。それだけだ。

 呼吸を合わせ、胸の奥で言葉にならない祈りを結ぶ。
 目を閉じれば、女王の体を包むほのかな“時間の輪郭”が触覚のように感じ取れる。昨日と今日の境目は薄絹ほどの差しかない。指先でそっと解き、ほんの一歩、後ろへ導く。
 瞬間、静かな風が頬を撫でた。髪がふわりと浮き、女王の肩に艶が増す。頬の浅い皺が光の加減で溶け、白い指の節から乾きが消える。

 わずか十数秒。けれど、その間に確かな“巻き戻し”が完了する。
 侍医が脈を測り直し、書き留める。心拍、体温、血色――昨日の値と数値誤差はほぼゼロ。これがアーデルの魔法の証明だった。

「うむ、今日も順調だ。血圧が一昨日より安定しておられる」
 侍医の報告に、女王は小さく微笑んでからアーデルを見た。

「ありがとう。……どう? 体に負担はない?」

「はい。肉体年齢を一日戻すだけですもの。術者の私にはほとんど疲労はありません」

 言葉にすると実に淡白だ。だが真実は、これほど“繊細な奇跡”はない。
 一年三百六十五日――たった一日ずつだとしても、十年続ければ三千六百五十日分。老いとは積算であり、積算を毎日ゼロに更新する作業は、結局「老いない」ことと同義になる。

 侍医と護衛が退出し、部屋には二人きりになった。
 女王は窓辺のカーテンを少し開き、曙光を取り込む。

「今日の私は“昨日の私”。なのに心までは巻き戻らないのが面白いわね」
 そう言って軽やかに伸びをする。
「老いた体は過去へ戻れるのに、心は経験を積み続ける。得がたい魔法よ」

「陛下がそう言ってくださると、救われます。……ですが時々、不安になるのです。この力がもし誰かに奪われたら、と」

 女王が振り向き、卓上のティーポットを指先で軽く叩いた。陶器が澄んだ音を立てる。

「魔法は“奪う”ものではなく“託す”もの。あなたが望まぬ限り、誰にも扱えないわ。――ところで、覚えている? 初めてこの儀を行った日のこと」

「はい。わたくしが十五の冬でした。初めて魔法が発動した瞬間、陛下の髪に光が走って……とても、不思議で怖くて……」

「ふふ。あの日、“昨日へ戻る”感覚を言葉にできず泣いていたわね。けれど私は確信したの。これは王国に必要な奇跡だと。だから毎朝続けさせた。結果、私はこうして三十をとうに過ぎても二十代に見える――」

 女王は肩を竦めて茶を啜る。
「正直に言えば、外見の若さなど副産物よ。私が欲しかったのは“健康”と“安定”だ。老いに怯えず執務が続けられる。それが王国の益になる」

 アーデルハイドは頭を垂れた。
「陛下のために役立てるのが、私の生きる意味です」

「なら、これからは堂々と生きなさい。あなたの力を“昨日”に閉じ込めず、明日のためにも使ってほしい。――失敗を恐れずにね」

 その瞬間、窓の外で鐘が鳴る。午前八時の城鐘。日常業務の始まりを告げる音だ。
 女王はカップを置き、書類の束を取った。

「侍女官アーデルハイド。今日からは、この書簡の清書も頼むわ。誤字は許されないから、昨夜のようにペン皿は倒さぬようにね」

「はっ、精進いたします!」

 緊張で背筋を正すと、女王は冗談めかし目を細めた。

「もし転んでも――昨日の私に戻れると思えば気が楽でしょう?」

 アーデルは声を上げて笑い、咲いた笑顔のまま深く礼をした。
 今日の女王は昨日の女王。だが自分は昨日よりもひとつ成長した――そう感じられる朝だった。

2‑2 若返りの儀――静謐なる朝の習慣

 王宮がまだ薄藍の闇に包まれている午前五時――寮舎の回廊を蝋燭の列が進む。侍女官長が掲げる燭台の震える火は、アーデルハイドの影を壁に二重三重に映し出した。
 純白の衛生衣を纏った侍医長テオファヌス、金糸を施した軍装の親衛副長カール、そして銀鎧姿のアルトハイム隊長が伴を務める。四人が向かうのは、城の最奥――女王エレオノールの居私室である。

 石壁に掛けられた夜香木のランプが揺れ、ほのかに甘い香りが漂う。衛兵が無言で双扉を押し開くと、暖炉に薪が静かに燃え、室温は早暁とは思えぬほど温かい。
 女王はすでに鏡台の前に座り、長い金髪を緩く結い上げていた。翡翠色の寝間着の上に薄手のショールを羽織り、宝飾も冠も身につけていないが、覇気は隠し切れない。
 一行が一礼すると、女王は椅子を回し柔らかく微笑んだ。

「おはよう。……アーデルハイド、今日は少し顔色がいいわね。昨晩はしっかり休めた?」

「はい。昨夜は侍女官寮で頂いた温柑茶のおかげでぐっすりと」

「それは何より。では、始めましょうか」

 合図と同時に侍医が脈診用の絹紐を取り出し、アーデルハイドは女王の正面に膝をつく。副長カールは重厚なカーテンを引き、窓外の月光を遮断。アルトハイムは扉前に立ち、鋭い碧眼で廊下を監視した。――若返りの儀は“外界の時間”を極力侵入させないために、光と物音を制限する。数十秒の静寂が、城の鼓動を遠ざけるのだ。

 アーデルハイドは深呼吸をひとつ。手を洗面鉢の湧き水で清め、女王の両手を包む。
 掌に触れた肌は、昨日と同じく絹のように滑らか。だが微細な乾きや張りの変化は、彼女には“時間のざらつき”として感知できる。
 目を閉じ、胸中で呟く。言葉というより旋律。詩でも呪文でもない、音にさえならない「昨日」への共鳴だ。
 呼気と吸気の合間、皮膚を撫でる空気がゆっくり温度を変えた。女王の髪先がふわりと揺れ、その黄金が鈍色から朝露の光沢へ戻る。指の節に帯びた疲労が消え、爪の色が淡い薔薇色へ澄む――。

 侍医長がわずかに息を呑む。毎朝のことながら、この瞬間だけは何度見ても神秘なのだろう。紐で計測した脈拍は安定し、体表温は前日比でほぼ同値。
 カール副長が時間を計る砂時計を伏せ、緩みかけた肩に再び力を込めた。外部の侵入がないか、儀式中は決して視線を揺らさない。 

 アーデルハイドは静かに目を開け、手を離す。女王の頬に淡い紅潮が浮かび、瞳の輝きが一段階増している。
 その光を真っ直ぐに受け止め、彼女は低く頭を垂れた。

「完了いたしました、陛下」

「ええ、ありがとう。――今日も一日、国務に勤しめそうね」

 女王は立ち上がり、ショールを翻す。暖炉の火だけだった室内に、彼女の動きが生む風が通り抜け、空気の層が入れ替わる。
 侍医が手早く血圧と視診を終えると、儀式は終了の合図だ。カールがカーテンを開き、雪解け前の科学的な黎明光が差し込む。窓の外、東の空が淡い橙に染まり、王宮の尖塔がシルエットを濃くする。

 アルトハイムが扉を少し開き、廊下の衛兵に合図。護衛交代の静かな足音が遠ざかった。
 女王が卓に置いた水晶ガラスの杯に手を伸ばし、一口飲む。

「アーデルハイド」

「はい」

「昨日の会議で、北方の貴族から“老齢の家臣を隠居させたい”と相談があったわ。もし彼らがあなたの力を知れば、手段を選ばず奪いにくるでしょう。――だからこそ、今朝も無事に終えられたことを誇りに思いなさい」

 アーデルは背筋を正した。

「その危険を減らすためにも、私は失敗を減らさねばなりません。魔法だけが取り柄と思われないよう、侍女官として成長してみせます」

「ふふ、意欲的で結構。けれど完璧を目指しすぎて転ばぬようにね」
 女王はユーモアを含ませてウインクした。昨日の花瓶事件を蒸し返された形だが、言葉の裏には深い信義があると感じる。
 ――あなたの価値は魔法だけではない。笑顔も知識も菓子の甘さも、すべてがわたしの“昨日”を照らす、と。

 儀式が終わると、アーデルハイドは侍医に代わり朝食膳の支度を担う。厨房から届くパン・ド・カンパーニュを湯気の立つうちに盛りつけ、スパイス香草のスープを温め、白葡萄のジュレと蜂蜜を合わせたデザートを用意する。この献立は昨月、アーデル自身が栄養学の書を参照しながら提案したもので、女王が気に入って採用した。
 食器を運びながら、ふと背後に気配を感じた。アルトハイムだ。彼は声を落として言う。

「……数刻後、宰相会議の議場に同行してほしいと陛下が仰せだ。新規法令の写本を読み上げる役目らしい」

「私が……? あ、あの豪奢な議場で?」

「臆するな。誤読しても死にはしない。――転倒にさえ気をつければ」
 口元だけで笑う隊長の冗談に、アーデルは顔を赤くしつつ、胸の奥で決意を新たにする。若返りの儀が終わった瞬間から、次の任務が始まる。失敗を恐れては道はひらかれないのだ。

 テーブルセッティングを終える頃、窓外の空は黄金色を帯び、王都の屋根に長い影を落とした。鐘楼が六つ刻を打ち、城門が開かれる。
 女王がパンを裂き、スープに浸し、ほんの一口味わって柔らかく目を細めるのを見届けると、アーデルハイドは胸いっぱいに新しい朝の空気を吸い込んだ。

 ――昨日へ戻す奇跡はたしかに私だけのもの。でも、今日と明日を前へ進めるのは、学びと勇気と、小さな失敗を笑い飛ばす心。
 暖炉の火がぱちりと弾け、銀の器に乗った白葡萄のジュレが陽光を受けて宝石のように輝いた。

2‑3 銀鎧の騎士に語る“24時間若返り”の理 

 陽が傾きはじめた頃――
 王宮南の小温室には、ほの温い湿気とレモンタイムの芳香が漂っていた。昼の執務を終えたアーデルハイドは薄緑の作業服のまま、テーブルに小振りのティーセットを並べる。向かいに腰を下ろすのは親衛隊長アルトハイム。銀髪を後ろで束ね、剣帯だけは離さないまま、今日は鎧を脱ぎシンプルな黒の軍装だ。

「――陛下から“詳しく聞け”と命を受けた。あなたの魔法の正体を」

 切り出す声は静かだが、眼差しは真剣そのもの。
 アーデルハイドは深呼吸し、卓上の暖炉灯を少し明るくした。

「誓っていただけますか? 今から話すことは陛下と私の命に関わります」

 アルトハイムは即座に片膝を突き、剣の柄に手を置いた。

「我が名と剣に懸けて他言はしない」

 その言葉を受け、アーデルはカップを置いて両手を組む。

「私の魔法は“時間の操作”ではありません。純粋に肉体年齢を二十四時間分だけ若返らせる――それだけの力です」

「巻き戻すのではなく、ただ二十四時間分“減算”する?」

「ええ。正確には“細胞の損耗を丸一日分修復する”感覚に近い。ゆえに毎朝一回かければ、見かけの年齢は維持できる。昨日という座標に戻すわけではないので、〝昨日の傷〟が再現することもありません」

 アルトハイムが眉を動かす。

「では十歳若返らせたいなら、三千六百五十回施術が必要になる?」

「理論上はそう。……けれど一日に複数回も可能です。十回連続で行えば、十日分若返る。だから“一気に十歳”も不可能ではない。ただし――」

「反動があるのか?」

「一施術毎に肉体が受ける“修復ストレス”が蓄積します。短時間に過剰な回数を打てば、骨格と内臓が新陳代謝について行けず、危険な多臓器不全を招く。陛下が一日一回に限定しておられるのは、そのリスクを熟知なさっているからです」

 アーデルハイドは指で胸を叩いた。

「そして重要な修正点をお伝えします。私は自分自身にも魔法をかけられます。」

 アルトハイムの碧眼が細くなる。

「前に自分へは用いられぬと……」

「そう誤解させたのは私です。セルフ施術は“焦点合わせ”が難しく、鏡や水面で自分の画像を媒介にしなければならない。事故の可能性を考えて封印していただけで、不可能ではありません」

「なるほど。では自らにかけざるを得ない状況が来ると?」

「はい。仮に王宮から遠く離れた地で陛下を支える時、術者が衰えていては継続が困難になります。だから……いざという時は私も二十四時間若返る選択を取らねばなりません」

 アルトハイムは深く息を吐き、小瓶を取り出した。淡琥珀の液体――先日アーデルが差し出した蜂蜜のど飴の素だ。

「ならば、これを預かっておいてくれ。徹夜警備で喉を痛めた時、私も頼りにする」

「……甘いものは苦手では?」

「秘密だと言ったろう?」

 二人の間に小さな笑いが生まれる。一瞬の和やかさの後、隊長は真顔で尋ねた。

「副作用は他に? 精神や記憶が揺らぐことは?」

「精神は不変です。記憶はむしろ鮮明になる傾向。脳細胞も若返るからでしょう。けれど術後すぐは“身体と心の年齢差”に違和感がある。大量に若返った直後、十代の手足で四十年分の礼節をこなすのは――陛下ほどの方でも難儀します」

「だから一日一回。少しずつ、心身を同期させるわけか」

 アーデルは頷き、真剣なまなざしで言葉を重ねる。

「この魔法が脅威と見なされれば、私は『生きた霊薬』として狙われます。……でも、それでも続けたい。陛下は国の希望ですし、私の大切な――」

 言葉を選びかけ、唇を噛む。
 アルトハイムは剣柄から手を離し、代わりに卓上のハーブティーを注いだ。

「なら、私の剣は二十四時間、いや永遠に貴女の盾だ。今後も毎朝付き添う。陛下が一回で済む日は一回、もし二回必要なら二回――限界ならば止める。それが私の職責」

 湯気と共にローズマリーの香りが立ち昇る。
 アーデルハイドは両手でカップを包み、熱を胸に吸った。

「……ありがとう。あなたのおかげで、二十四時間分の勇気が湧いてきます」

「勇気は日持ちしないらしい。明日も補給しよう」

「ええ、明日も――昨日と同じ勇気を」

 二人の笑みを映し、温室の天窓から金色の夕陽が差し込む。薄紅の光がハーブの葉脈を透かし描き、若返りの理を語る密談は穏やかな余韻を残して幕を閉じた。

2‑4 宮廷に走る囁き――「若返り」という禁断の貨幣

(約2,400字)

 それは、アーデルハイドが温室でアルトハイムと語り合った翌日のことだった。
 宰相会議が終わり、重臣たちが玉座の間を辞していく中、彼女は議場の隅で清書した写本をまとめていた。硝子窓から射し込む春の日差しが王宮紋の金糸を照らし、静けさの中に紙の擦れる音だけが響く。
 ――その背後で、擦り切れた革靴が足早に近づいた。

「……リリエンベルク侍女官殿」

 振り返ると、財務卿エットル公爵の秘書官が帽子を胸に抱え、汗ばんだ額を光らせている。五十代半ばの男は、視線を泳がせながら周囲の耳目を確かめた。

「噂は事実でしょうか。女王陛下の御身を“若返らせる”秘術を用いる、と……」

 突然の直球に、アーデルハイドは瞳を瞬いた。
 ――もう届いたのか、温室での密談の余波が? いいえ、情報源は別にある。

 昨日、議場で彼女が読み上げた法令案を耳にした貴族たちは、その滑舌と容姿に矛盾を覚えたのだ。
 「十五の頃の侍女官が、なぜ十年以上経た今もほとんど変わらぬ顔なのか?」
 そこに“女王も老いを見せぬ”という周知の事実が重なり、噂は稲妻の速さで宮廷を駆け巡った。

「申し訳ありません。宰相会議の議事に余計な尾ひれが付いているようですが、私は女王陛下の日常を補佐するだけの侍女官です」

 丁寧に一礼し、紙束を胸に掲える。秘書官はなお食い下がろうとしたが、向こうから近衛兵が歩いてきたのを見て、諦めるように去った。

 兵の影が遠ざかると、次に現れたのは髭をたくわえた壮年の侯爵夫人。袖には古家名サヴォナローラの紋章。地下鉱山を三つ所有する富豪貴族である。夫人は扇を揺らしながら、不自然なほどに温かな声で囁いた。

「リリエンベルク令嬢。うちの甥が独身でねえ……とても聡明で温厚、将来は伯爵の爵位が確約されているの。良い話ではございませんこと?」

 縁談。しかも“若返りの噂”が広まった翌日に。
 アーデルは即答を避け、慇懃に辞して通路へ向かった。――すると、眼前を別の宮廷侍女が横切り、小声で仲間に囁くのが聞こえた。

「彼女を娶った者は義母が永遠に若いのよ。鏡台も老舗の美容師も必要ない王妃になれるって噂」

「妬ましいわ。でも王子殿下は婚約を破棄したのよね?」

「だからこそ空席なのよ。今なら手を伸ばせば掴める宝石ってわけ」

 嘆息が漏れた。ほんの数日前まで“転倒令嬢”と笑われていた自分が、今は“若返りを授ける鍵”として扱われている。立場が一夜で逆転した途端、伸びてくる手は美辞麗句だけを纏い、内側には欲望の刃を隠している。

 ――逃げ場を探すように回廊へ出ると、爽やかな風が吹き抜けた。石畳の向こうに、中庭で遊ぶエレイン王子の姿が見える。木陰では侍医と教育係が目を光らせながらも、王子は気ままに木の実を拾い集めていた。
 アーデルが近づくと、少年は顔を上げて朗らかに手を振った。

「ねーちゃん! これ、くるみ! お菓子の飾りにできるよ!」

 明るい声に胸の重りが少しだけ軽くなる。彼の無邪気さは、宮廷の打算と隔絶した真昼の空だ。
 彼女はスカートの裾を摘み、軽くお辞儀を返す。

「では晩餐後にクルミ糖がけを作りましょう。殿下の宿題が終われば、ですが」

「うっ……今日の算術は難しいんだ……」

 小さく頬を膨らませる王子を見ていると、背後で甲冑が鳴った。
 アルトハイム隊長が日課の巡回を終えたのだ。彼はアーデルの真横に立ち、視線を中庭から回廊へ移す。

「……随分と熱心に令嬢を口説く者が増えたらしい」

 鋭利な一言。アーデルは苦笑し、溜め息まじりに答えた。

「私の魔法が表沙汰になれば、こうなることは予想できました。けれど実際に次々と縁談の話が届くと、怖いというより――居心地が悪いですね」

「彼らは魔法だけを見ている。貴女自身ではない」

 その断言に、胸がじんと熱くなった。
 アルトハイムは楯のように彼女を庇い、通り過ぎる侍従やメイドの視線を払う。冷徹な鎧の奥で、守護の意志が燃えているのがわかる。

「だが心配は要らない。陛下は既に“盾”を用意されているらしい」

「盾、ですか?」

「後継者を巻き込む形での外交的〝封印〟だ。……詳しくは陛下から聞くといい」

 彼の言及は“エレイン王子との婚約案”に違いないと悟るが、今は問わない。王子が算術の教本を抱えて戻ってくると、アーデルは笑って小さな手を取った。

「午後の勉強へ参りましょう。今日の課題が終われば、キッチンでクルミを砕いて飴掛けにしますから」

「がんばる!」

 王子が走り出す。アーデルがその後を追い、アルトハイムは一歩後ろで静かに歩調を合わせた。
 その背に、宮廷の窓という窓が光を帯びた瞳のように集まり、囁きを漏らす。――若返りの魔法。王室の血筋を支える錬金術。誰が彼女を手中に収めるか。

 しかし、騎士の足音は冷たい大理石の上で揺るがず、侍女官のスカートは陽光を受けて澄んだ影を落とす。
 欲望の渦巻く廊下にひとすじの風が吹き抜け、クルミと砂糖の甘い匂いが、遠い予感のように漂った。

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