「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第3章 婚約破棄と追放令

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3‑1 王家の花瓶、砕け散る音――転機の序章



 王宮の正門ホールは、白大理石の床と黄金の梁が朝陽を映してまばゆい。今日は海洋同盟からの使節団を迎えるため、奥の大階段には季節の花と王家由来の宝物が並べられていた。その中央、丈高い台座に鎮座するのは“暁の花瓶”――二百年前、初代リューエル王が東方遠征で得たと伝わる瑠璃の逸品だ。
 厚い瑠璃に金糸細工が巻かれ、内部に封じた魔晶石が光を屈折させることで、暁の空と同じ七色を描く。王宮の宝物庫から動かされることは稀で、まして来客の目に触れる場へ出されるのは十年ぶりだという。

 アーデルハイドは両腕に書類箱を抱え、緊張に肩をすぼめながらホールに入った。使節歓迎の手順を確認した写本を、儀典長に渡すのが仕事だ。
 瑠璃の花瓶が視界に入ると、無意識に足取りが遅くなる。昨夜、侍女官寮で「王家の家宝を割れば王城から追放どころか、斬首もありうる」と噂を聞いたばかりだ。――なるべく遠回りして台座を避けよう。

 ところが彼女の背後、軍靴を鳴らして早足で近づく者がいた。豪奢な赤外套に金糸を散らした正礼服。世継ぎの第一王子、フェルディナントである。
 彼は使節への挨拶に遅れそうだったのか蒼い顔でアーデルの背を見つけ、苛立ちを隠さず叫んだ。

「どけ、邪魔だ!」

 強い掌が肩を押した。書類箱を抱えた腕は咄嗟に踏ん張れず、アーデルの身体は前へ傾ぐ。視界の端で暁の花瓶が迫る。
 ――あ、と声になる前に、肘が台座に当たった。
 重厚な瑠璃がわずかに揺れ、均衡を失う。スロウモーションのように宙へ浮き、大理石の床へ――。

 轟、とガラスが割れる乾いた破砕音がホールに木霊した。
 七色の光が粉塵となって散り、続いて辺りの空気が凍りつく。誰もが声をなくし、花瓶の残骸が転がる音だけが残った。

 アーデルハイドは膝をつき、砕片の上で震えていた。血は流れていない。だが割れた宝瓶の欠片が陽光を浴び、まるで罪の結晶のように眩しい。
 ゆっくりと、王子が振り返った。頬を怒りで紅潮させ、蒼い瞳に蔑みを浮かべる。

「貴様……! 王家の家宝を……!」

 侍従長が駆け寄る。「殿下、破片が危険です――」
 だが王子はそれを手で払いのけ、アーデルの前で高らかに宣告した。

「リリエンベルク子爵令嬢アーデルハイド! 王家の至宝を毀損した罪、万死に値する。だが私が情けをかけ、処刑までは命じぬ。――この場で婚約を破棄し、王宮から直ちに追放を言い渡す!」

 言葉は刃より鋭かった。周囲の貴族がいっせいに息を呑み、衛兵は呆然と立ち尽くす。
 アーデルハイドは震えながら床に手をつき、破片の一片を拾い上げた。指先で撫でる瑠璃は冷たく、現実を突きつける。

 「お待ちくださいませ、殿下」
 か細い声で訴えかける。しかし王子は眉ひとつ動かさず、冷笑を浮かべる。

「弁明など無用だ。お前は何度も宮廷を騒がせた粗忽者。そのうえ王家最大の宝を損なった。恩赦を乞う資格はない。追放で済むことを有難く思うがいい!」

 その瞬間、群衆の後ろで囁きが走る。「処刑でもおかしくない」「追放は甘い罰だ」――あまりの苛烈な宣告に同情する者もいれば、待ってましたとばかりに嘲る者もいる。
 だが誰も知らない。王子がアーデルを押しのけたその勢いこそが破損の原因であることを。

 ――目の奥が熱く滲んだ。悔しい。けれど“事実”を口にすれば王子の面子を潰し、さらなる怒りを買うだろう。女王陛下の大切な第一子。侍女官に過ぎない自分が真実を突きつけたところで、聞き入れられるはずもない。

 王子は掌を振り上げ、衛兵に命じた。

「今すぐ追放の文書を作成し、この者を宮城から引きずり出せ!」

 衛兵が困惑して動けずにいると、フェルディナントは一歩前へ迫り、アーデルの顎を荒々しく上げた。

「聞こえなかったか? 粗忽者。王家の慈悲に感謝して去るのだ! もはや二度と母上の前に姿を現すな!」

 指先が痛いほど食い込み、悔し涙が閂のように喉を塞いだ。
 だが――そのとき、遠方の回廊で甲冑が爆ぜるような音を立てた。銀の鎧姿が走り来る。親衛隊長アルトハイムである。鋭い視線で状況を読み取り、交錯する視線が一瞬で語る。「真実は後で必ず」。

 アーデルは震える声で小さく返事した。

「……恐れ入りました、殿下。お詫びの言葉もございません」

 そして衛兵に促されるまま立ち上がり、破片の残る床を後にした。
 背後で王子が高らかに勝利宣言を放つ。その声が大理石の天井で反響し、まるで王宮そのものが嘲笑しているように響く。

 外へ続く通路に出ると、冷たい風が頬を打った。胸元で秘かに脈打つのは、残された瑠璃の欠片。――彼女はそっと握りしめる。

(私は王宮を去る……でも、真実は消えない。そして女王陛下は、必ず事の顛末を見抜かれる)

 淡い決意が生まれた瞬間、夕日の光が割れた瑠璃の欠片に屈折し、七色の小さな虹を手の中へ灯した。

3‑2 婚約破棄と追放令――凍る大理石の裁き

 暁の花瓶が砕け散ってから十分も経たぬうちに、正門ホールは“事故”から“儀式”へと姿を変えた。
 青ざめた楽士たちが奏楽を止め、侍従が赤絨毯を巻き取り、衛兵が残骸を布で覆う。残ったのは緊迫した空気と、大理石にこびり付いた七彩の粉塵だけだった。

 中央に立つ第一王子フェルディナントの声が、柱に反響する。

「よいか諸侯よ! この者は王家の家宝を割った愚か者である! 本来ならば処刑されても文句は言えぬ罪! だが――」

 声を張り上げた王子が、蔑みの笑みを浮かべた。

「——妾(わらわ)の情けで追放で済ませてやるのだ。ありがたく思うのだな!」

 大広間にどよめきが起こり、誰かが「慈悲深い殿下!」と持ち上げ、別の誰かが「破棄は当然だ!」と囃した。
 アーデルハイドは絹の手袋ごしに瑠璃の残片を握り締め、衛兵二人に両腕を取られたまま王子の前へ引き据えられる。

「リリエンベルク子爵令嬢アーデルハイド」
 王子の瞳は氷より冷たい。「今この場で、婚約指輪を返上し、王宮の門より去れ」

 女官長が朱塗りの飾り台を運んできた。その上には婚約を示す白金の指輪と、追放証書をしたためるための黒羽ペン。
 アーデルは震える指で薬指の指輪を外した。銀細工に小粒のサファイア――地方貴族の令嬢にしては過分な品だが、王家の権威の前では取るに足らぬ。
 卓にそっと置くと、王子は唇を歪めた。

「粗忽なだけでなく、宝物を壊すほどの不始末。母上の目を汚したお前が隣に立つなど虫唾が走る。――恥を知れ!」

 罵声と失笑が混じる中、儀典長が追放証書を読み上げた。

> 王宮侍女官、ならびに王太子妃候補の身分剥奪。
王家所管の学問記録・蔵書閲覧権の剥奪。
今後いかなる理由でも王都城壁内への立ち入りを禁ず。
違反した場合、財産没収および永久幽閉。



 次々と権利が剥がれ落ち、アーデルの足元から世界が崩れていく。
 それでも彼女は唇を結び、顔を上げた。視線の先には、まだ砕け散った宝瓶の欠片が残る。――あれを壊したのは自分の不注意ではない。王子に突き飛ばされたからだ。だが今ここで真実を叫べば、待つのはさらに苛烈な報復。
 なにより、女王陛下に迷惑をかけるわけにはいかない。

「……わたくしは本罪を重く受け止め、追放を甘んじてお受けいたします」

 か細い声がホールの静寂に溶けた。その瞬間、杖をついた老伯爵が鼻で笑う。

「自業自得じゃ。若返りの噂も、結局は虚勢だったのだろう」

 別の貴婦人が扇で口を隠しながら囁く。「あんな子爵家の娘に王妃は荷が重いわ」
 嘲笑はさざ波のように広がり、床の瑠璃粉を踏む靴音に混じってアーデルの胸を打ち続けた。

 侍従が羽ペンを差し出した。追放証書の署名欄にはすでに王子のサインが燦然と刻まれ、彼女の名を待っている。
 インク壺の口が小さく嗤うように見えた。――これを書けば、王都に戻る道は絶たれる。でも書かなければ剣が待つだけだ。
 アーデルは震える手で自らの名を記す。最後の点を打った瞬間、羽ペンが乾く前に侍従が証書を巻き取り、封蝋を押した。

「これより追放処分を執行する。衛兵、令嬢を西門まで護送せよ」

 鋼の号令が落ち、大理石に打つ靴音が再び鳴り出した。
 王子は背を向け、整え直した外套を翻す。使節団の輿が到着するまであと少し。彼はこの不祥事を自らの威光に変えるつもりだった――「家宝を壊した侍女官を即断で追放した寛容にして剛毅な王太子」として。

 アーデルハイドは連れ出される途中、砕けた瑠璃の欠片をひと欠片だけ袖に滑り込ませた。
 そして背後に礼を示すように頭を下げる――本当は女王に向けて。心の中で、ただ一言を結ぶ。

(陛下。真実は必ず……)

 正門が遠ざかり、剣を手にした衛兵が両脇につく。外へ出れば、そこは凍てつく早春の風。
 だが胸には小さな欠片が宿る。七彩の光を秘めた罪の証――同時に、無実の証明でもある。
 それを握りしめながら、アーデルハイドは王宮の塔を振り返った。深い青空に映える白亜の尖塔。その頂には、彼女が仕えてきた“昨日より若い”女王が在る。

 王家の花瓶は砕けた。婚約は片付けられ、追放の文に名を刻んだ。
 ――けれどそれは終わりではない。
 今この瞬間を境に、真実を知る者と知らぬ者の運命が大きく分かれて動き始めたのだ。


3‑3 石畳を離れる足音――追放の門をくぐるまで

 王子の宣言が轟いた直後、衛兵たちはアーデルハイドを両脇から押さえ、正門ホールを後にした。
 金糸のタペストリーと宝石のシャンデリア――煌びやかな天井の下を通るたび、彼女は胸を締めつけられる。昨日まで侍女官として駆け回った回廊が、今は冷たい牢獄の廊下のようだ。

 石階段を下り、西翼の搬出用通路へ。宮廷の華やかさとは無縁の、物資専用の曇った窓と湿った壁。ここを通る人はほとんどいない。追放者を人目につかせぬための近道だと悟り、アーデルは悔しさを噛み殺す。
 衛兵の一人が帽子を深く被り、小声で言った。

「……申し訳ない。殿下のご命令とて、私らでは覆せぬ」

 アーデルは首を振った。「あなた方の責任ではありません。それより門まで案内いただければ十分ですわ」――声は震えていたが、涙は見せなかった。
 脳裏には女王の笑顔、アルトハイムの静かな励まし、エレイン王子の無邪気な笑みが浮かぶ。どれも彼女を支えてきた“昨日”の宝物だ。失われていない。奪われてもいない。

 搬出口の扉が開き、露台に粗末な馬車が待っていた。黒い幌と錆びた留め金。追放者輸送用の常設車だ。
 アーデルが乗り込もうとした瞬間、鉄靴の音が急ぎ足で迫った。息を切らした女官クララが駆け寄り、兵の制止を振り切って彼女の手を握る。

「行かないで、お願い……! あなたは何も悪くないのに!」

「クララ……」
 名前を呼ぶ声に、友の瞳がさらに潤む。アーデルはそっと握り返し、袖の中から小瓶を渡した。中には砕けた瑠璃の粉が揺れ輝く。

「預かって。私が無実だと示す鍵になるかもしれない」
「必ず陛下へ届けるわ!」
「危険を冒さないで。隊長殿が動いてくださるはずだから、その時に――」

 衛兵が優しく二人を引き離した。クララは叫びを飲み込みながら後ずさる。アーデルが馬車へ足を掛けたまさにその時、廊下の奥で銀鎧がきらめいた。アルトハイムが一歩も走らず、しかし確かな速度で歩み寄る。その表情は氷の穏やかさ――嵐の前に生まれる沈黙の気圧。

 衛兵が敬礼する。「隊長殿、処分執行の最中であります」
「心得ている」
 短い返答に風が冷える。アルトハイムはアーデルの目前で立ち止まり、視線を合わせた。言葉はない。ただ、剣士の瞳が静かに語る――“必ず戻す”。

 アーデルは微笑み返すことしか出来ない。馬車の小さな戸を閉めると、幌越しに残る景色は灰色の石壁と曇天の隙間。
 車輪が転がりはじめ、王宮の裏門へ。通用門には王家の刻印があるが、追放者のための扉は脇の木戸だ。錆びた鎖を外しながら門番が呟く。

「若い令嬢なのに、哀れなものだな。王家の名の下に……」
 言いかけた彼を、同行の兵長が睨んで黙らせる。「余計な情けをかけるな。命令を履行するのみだ」

 城壁の外は春の芽吹きより冷たい風が吹いていた。広い石畳を横切り、郊外へ続く街道へ出ると、王宮の影が遠のいていく。
 馬の足音が単調に響き、アーデルは幌布をめくって外を見た。灰色の雲の裂け目から一筋の光が差し、王宮の尖塔を金に染めている。追放の門をくぐっても、心の中の王宮はまだ光を宿していた。

 ◇   ◇   ◇

 一方その頃、正門ホールでは後片付けが進んでいた。花瓶の残骸を納めた木箱が封印され、王家宝物修復工房へ運ばれる。その場に立ち合った儀典長は眉根を寄せる。

「殿下にはお伝えしたのですか? 本来修復師の判定を待つはずでしたが……」
「殿下の御意志だ。侍女官一人に宝物ひとつ。天秤にかけるまでもないと」侍従長が肩をすくめる。

 すると、巾着を手にしたアルトハイムが歩み寄り、低く言った。
「その箱、城内修復師に届ける前に検証を願いたい。事故の原因として検体を採る」
「しかし殿下のご決裁が……」
「私は女王陛下直属。殿下の私命より王命が優先するのは王宮の掟だ」

 侍従長は顔色を変え、箱の行き先を書き直す。「わ、わかった。修復工房にて御検証を」
 アルトハイムは背を向けると、拳を強く握った。巾着の中、瑠璃の粉が静かに音を立てる。

 ◇   ◇   ◇

 馬車は王都外縁の関所へ近づいていた。そこから先は公国への街道。アーデルハイドは膝の上で手を組み、目を閉じる。
 追放の証書は自分の名で完成した。だが彼女の魔法はまだ消えていない。若返りの力は女王の身に宿り、一日分だけ年齢を戻しているだろう。
 ――「私がいなくても、明日までは今日と変わらず」。それは慰めであり、同時に焦りを煽る現実だ。もし一週間、一ヶ月と続けば効果は途切れ、女王は急激な老化を受ける。
 アーデルの目に決意が宿る。追放を受け入れたのは、あくまで一時の“退却”に過ぎない。身を隠し、真実を掴む機会が来た時、必ず戻らなければ。

 木戸の向こう、関所の旗が見えた。衛兵が通行記録を書き付け、馬車は街道へ背を向ける。
 だがその瞬間、遠く王都の空にひときわ高い鐘の音が広がった。時刻ではない。非常を告げる鐘――。

 アーデルハイドは胸に手を当て、顔を上げた。
 鐘は告げている。王宮で何かが動き出したと。
 幌から差し込む夕陽に染まった頬は、涙ではなく燃える誓いでわずかに震えていた。

3‑4 真実は床に落ちた瑠璃のように――静かな目撃者たち

 西門へ護送されるアーデルハイドを乗せた馬車が石畳を離れると、正門ホールには遅れて駆けつけた近衛士官や侍従が続々と集まった。割れた花瓶は布で覆われたまま。だが七彩の粉塵と水晶のごく細い亀裂は隠せず、朝日にきらめいている。

 ――その光の上に、ひとりの侍女が膝をついた。
 クララ・ヴィンデン。アーデルハイドの幼馴染で侍女見習いの彼女は、破片を拾い上げるふりをしながら周囲を見回した。王子の退場後、大広間にはひそひそ声が渦巻いている。

「ひどい粉砕だな」「さすがに追放は軽い」「しかし彼女が突き飛ばされたという噂も……」

 囁き合う二人の廷臣。その背後、壁際の花桶に隠れるようにして黒衣の小姓・トゥーリオが立っていた。先ほどの一部始終を遠目に見ていた少年である。まだ十二歳、口を噤んだまま手袋の中の指を強く握りしめていた。

 クララは目配せで合図し、トゥーリオを物陰へ招いた。

「……全部、見ていたのね?」
「うん……王子殿下が彼女を押した。足元が滑ったせいで花瓶が――」
「静かに」クララは人差し指を唇にあてる。「この場で言えば、あなたまで口封じされるわ」

 トゥーリオの喉が強張る。王家の権威に逆らう愚を、幼い彼は本能的に悟っていた。

 その瞬間、甲冑の歩調が近づいた。親衛隊長アルトハイムだ。銀鎧から剣帯へ続く線は微動だにせず、冷気をまとっている。クララと少年を見止めると、低い声で囁く。

「私の詰所まで来い。――真実を聞かせてほしい」

 トゥーリオが震える手で破片の一つを差し出す。
「……殿下の靴先に付いた瑠璃の粉、拭き取る暇もなかった。これが証明になるかどうか……」

 アルトハイムは小さく頷き、破片を手袋ごと巾着に収めた。そこへ儀典長が駆け戻り、焦燥の面持ちで囁く。

「隊長、王子殿下は“追放の手回しは済んだ”と高らかに宣伝しておいでだ。慈悲深き御威光として使節へ示すと」
「宣伝が早すぎるな」アルトハイムの声は氷点の静けさ。「真実をごまかす者ほど騒ぎ立てるものだ」

 クララは堪えきれず伏し目がちに涙を滲ませた。アーデルハイドはあの日と同じだ。ドジを笑われても微笑み返し、今も罪を被ったまま誰も責めず去った。

 アルトハイムは少女の肩を軽く叩いた。
「泣くな。君の友は追放されただけ――生きている。生きている限り、名誉は取り返せる」

 蒼い瞳が廊下の先へ向けられる。そこには女王私室へ通じる大扉――月桂樹の紋章が輝く。

「陛下は必ず疑問を抱かれる。私は事実を携えてあの扉に立つ。……協力してくれるか」
「はい!」クララとトゥーリオが声をそろえた。

 ◇   ◇   ◇

 一方その頃、王子フェルディナントは客人用の控え間で外套を整えさせていた。側近が歓心を買おうと「殿下のご決断に使節は大感激でしょう」と囁く。殿下は鼻で笑い、「ただの粗忽者一人に過ぎん。母上には後で“鎮撫”とでも言えば済む」と気を抜く。

 しかし袖口についた瑠璃の粉が、陽光で僅かに光った。侍従が拭おうとすると、王子は乱暴に手を払う。
「必要ない。見苦しい真似をするな」――苛立ちが尾を引き、額に不快な汗が滲む。

 ◇   ◇   ◇

 夕刻。女王エレオノールは執務机で報告書を閉じた。内容は「花瓶破損および侍女官追放の即時措置」。文面は整っている。だが腐食した金の匂いが紙から立ち上るようだ。

「――見事な速筆だこと。真実を隠すには速さも刃の一つ……」女王は溜息をつき、窓外の空に問いかけた。

 ノック。扉の隙間からアルトハイムが姿を見せる。横にはクララとトゥーリオ。
「報告書の追伸をお持ちしました、陛下」

 隊長は巾着を差し出し、中から靴底に圧着した瑠璃の粉片を取り出した。
「王家の花瓶の材質は、国産の瑠璃石ゆえ外部の粉では代替できません。これは殿下の靴についたもので、突き飛ばした証左になるでしょう」

 女王は目を細めて破片を光に透かした。七色。朝焼けの欠片が再び王座に返った。

「……そなた達が証言を? 怖くはなかったのか」
 トゥーリオが唇を噛む。「怖いです。でも……アーデル様は毎朝、陛下のために祈るように魔法を――」
 言いかけてクララがそっと肩を抱き、「私たちの大切な友を、嘘で消させるわけには参りません」と続けた。

 エレオノールは静かに立ち上がり、窓際の夜香木を撫でる。
「彼女は追放ではなく“口封じ”を受けたのですね。――よく知らせてくれました」

 背後で隊長が剣に手を添える。
「陛下、御裁可を。真実を蔑ろにする者を、王家の名において裁くべき時です」

 王冠なき女王の瞳が蒼く燃えた。
「明日の晨朝会議で判を下す。王子とて、王家の法を破れば処断する――」

 ◇   ◇   ◇

 その夜。王都近郊の旅籠ではアーデルハイドが荷造りを終えていた。追放され、今は護衛らしい護衛もいない。明日には遥か南方の実家へ向かう馬車に乗る予定だ。
 枕元に置いた包みを開け、砕けた瑠璃を月光に透かす。七色のきらめきが瞳に宿り、胸の奥で小さく炎が揺れた。

「……私は粗忽者でも罪人でもない。真実が戻るその日まで――生きて、陛下をお守りします」

 窓の外、王宮の尖塔が紺青の夜に溶け込む。まだ遠い。けれど届かない距離ではない。
 彼女が拳を握った時、ほのかに暖かい風が枕元の蝋燭を揺らし、七彩の欠片に誓いの火を灯した。

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