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第4章 女王の逆鱗と廃嫡
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4‑1 審問の朝――王子、玉座の前に呼び出される
翌日の晨朝――王宮中央議政殿は、未明から重臣たちの足音で震えていた。
漆黒大理石の円卓を囲むのは宰相、財務卿、軍務卿、枢密院僧正。彼らを見下ろす半環状の観覧席には大小の侯爵・伯爵が列をなし、ざわめきは海鳴りのように低く広がる。
中央奥、ひな壇を十段上がったところに白銀の玉座。女王エレオノールはすでに着座し、明けの光を反射する金糸の外套を纏っていた。掲げられた王錫は、通常の朝会では用いられぬ威厳の象徴。――それだけで今日の議題が尋常でないことを示している。
「殿下、ご到着」
扉番が呼ばわり、二枚の扉が重々しく開く。
第一王子フェルディナントは真紅の正礼服に身を包み、顎を上げて入場した。昨夜の“慈悲深い決断”を自負しているのか、足取りは昂然。だが、その背筋に微かな硬直があった。自分を呼びつけたのが母であり、さらに王錫を持つ形式というのは、穏やかな報告だけで終わらぬ前兆だ。
王子が玉座真下の円形紋章〈王家の環〉の上へ立つと、側面階段から親衛隊長アルトハイムが一歩前へ。鎧は礼装ではなく実戦用の黒銀。腰の剣は封を解かぬままだが、柄を覆う革袋は外されていた。
王子は一瞬眉をひそめる。「護衛など不要だろう、母上」と視線で訴える。だが女王は応えない。冷たい青の瞳が、遠い銀河の星のように輝いている。
文吏が布巻の訴状を開く。
「議題――第一王子フェルディナント殿下による“暁の花瓶”破損事件、および侍女官追放令の是非につき、王家裁定を請うものなり」
どよめきが議政殿を走る。昨夕の騒動が“侍女官の不始末”として処理されたはずだ――そう思っていた諸侯の顔が動揺で染まる。王子は声を張った。
「母上。あれは説明したとおり、侍女官の不注意が――」
「沈黙」
王錫の石突が壇に打たれ、雷鳴のような音が奔った。女王の一言に、王子の声が途切れる。
宰相が起立し、女王に向かって深く一礼した。
「陛下。殿下の御説明の前に、親衛隊長および複数証人から提出された“追加資料”の閲覧を願います」
アルトハイムが壇下へ下り、手袋ごと封じた真紅の巾着を掲げた。中身は、瑠璃粉の付着した王子の靴飾り片と、クララ・トゥーリオの供述書。
証拠品は銀盆に載せられて宰相の前に置かれ、侍医が内容を確認する。宰相が淡々と読み上げた。
「――目撃証言によれば、“侍女官を突き飛ばした”との事実が存在する。さらに靴飾りの瑠璃粉は、花瓶の材質と完全一致。弁護の余地は薄いと存ずる」
観覧席のざわめきが一転、ざらりと重い空気に変わる。王子が蒼白になり、声を低く震わせた。
「母上、まさかこの子供の証言などを信じ――!」
「子供を侮蔑する者は、未来を見誤る」
女王が静かに返す。王子は言葉を失った。自分が幼い頃から母に叩き込まれた格言だ。
女王は壇上で立ち上がり、数段下りる。その表情は厳しさを帯びながら、悲しみの影も宿している。
「フェルディナント。そなたに最後の機会を与える。――真実を語りなさい」
大理石が吸い取るほどの静寂。王子は拳を握りしめ、舌打ちした。
「……あの女が私の進路を塞いだのが悪いのだ! 母上の儀式に遅れそうだった、焦りは正当な理由だ!」
傍聴の貴族から失望の溜息。
女王の目が細くなる。「焦りは理解しよう。だが家宝を失った責任と、虚偽報告で侍女官を追放した不義を、どう償うのか」
「だから!」声が裏返った。「処刑せず追放で済ませたのは慈悲だと言ったではないか!」
その瞬間、女王の靴音がひときわ大きく響いた。
彼女は王子の目前で立ち止まり、まっすぐに顔を見上げさせる。
「慈悲を施す者は、まず己が罪を認めねばならぬ。――赦しを乞わぬ者が、どうして他者に慈悲を語れる?」
王子が息を飲む。母の声は氷の刀、言葉が肌を斬る。
やがて観覧席の奥で椅子がきしんだ。大きな影――軍務卿が立ち上がり、直言した。
「王子殿下の行為は不明朗であり、軍紀に照らせば虚偽報告に相当します。兵に誤った命令を下す将とは、我々は行軍できませぬ」
続いて枢密院僧正が祈祷書を閉じ、静かに首を振った。「真実を隠して利益を得る者は祝福から遠ざかる――聖典第三章・二十五節にございます」
孤立する王子。額ににじむ汗を手袋で拭い、必死に声を絞る。
「わ、私は王位継承者なのだぞ! この私を裁くなど、母上にも――」
「――母である前に王だ」女王は静かに言った。「法の前に万人は平等。王子であろうとも」
その宣言が議政殿の石壁にこだまし、揺れを止めた蝋燭の炎が再び揺れる。王子の膝が僅かに折れた。怯えと怒りが混じる顔で周囲を見回すが、味方は誰も立たない。
女王が壇上へ戻り、玉座の前に立った。
「フェルディナント・フォン・リューエル。明朝までに己の罪を省みよ。自ら悔い改め、侍女官アーデルハイド・フォン・リリエンベルクへ正式な謝罪文をしたため、花瓶修復費用と同額の賠償金を支払う意志を示すなら、我は寛大なる判決を考慮する」
王子は唇を噛みしめ、視線を逸らした。答えぬ沈黙が、やがて宣告の刃になると知らずに――。
議政殿の扉が開き、衛兵が王子を伴って退場させる。
玉座の間に残ったのは粉塵のような緊張と、女王の低く深い息だけだった。
宰相が震える声を絞る。「陛下……ご心痛、お察し申し上げます」
女王は小さく首を振った。「心は痛まず。ただ、嘆かわしい。王たる道を示したつもりが、あの子には届かなかった――」
睫毛の奥で炎が灯る。陛下の若々しい貌が、ほんの刹那だけ老いの翳を帯びたのを、近くにいたアルトハイムだけが見た。
彼は剣を握りなおし、静かに誓う。『明日こそ陛下の苦悩を断ち切る日』。
王子の悔悟か、もしくは――“逆鱗”か。
運命の朝へ向け、王宮の深い廊下に風が走った。
4‑2 王家の血を絶つ言葉――廃嫡の勅書
――翌晨、六つの鐘。
王宮中庭には霧が白布のように伏していたが、議政殿の高窓だけは早くも黄金に輝いていた。そこで行われる「継承者再確認式」は、本来なら新年か戴冠行事の折にしか開かれぬ。呼び集められた宰相・枢密院僧正・軍務卿・最高財務監ら十余名は皆、胸騒ぎを覚えつつも正式礼服に身を包んで列席した。
壇上には女王エレオノール。首には王家至宝〈星環の首飾り〉が掛けられ、その煌めきは昨夜の疲労を微塵も感じさせない。だが瞳の底には凍てつく決意が宿っていた。
右手に握るのは銀装の巻物――“廃嫡勅書”であることを、老宰相はその紐色だけで悟った。
床に敷かれた紫絨毯の上、第一王子フェルディナントは一歩下がった位置で立ち尽くしていた。昨夜、女王の示した猶予を無視し、謝罪文も賠償誓約も差し出さずに朝を迎えたのだ。
言い訳は簡単だった。プライドが引き渡しを許さず、侍従へ言葉を口述する筆も震え続けたという。結果、何も書けぬまま夜が白んだ。
「――始めよ」
女王の低い発声で鐘が鳴り、侍従長が一歩前へ。
「ただ今より“王家継承順位再確認式”を執り行います。第一議題、フェルディナント・フォン・リューエル殿下の継承資格について、女王陛下の宣示を仰ぎます」
殿上大鼓がどん、と一発。王子は唇を震わせた。廊下で耳にしてきた噂――“廃嫡”という恐るべき二文字――が現実になる瞬間が来たのだ。
女王は席を立ち、階を五段降り、王子と視線が同じ高さになる場所で止まった。蒼い雙眸がわが子を映す。
「フェルディナント。汝、己が過誤を認めるか」
王子は歯を食いしばり、声を振り絞る。「……過誤は侍女官にありました。私は宝を守るために――」
「汝、なお虚言を重ねるか」
涼しい声音。しかし王子の心臓には鉄鎚。
女王はゆっくりと銀巻物の紐を解いた。蝋封が割れる音が、議政殿の大理石に妙に澄んで響く。
「汝の不実により、王家の威信は傷ついた。にも拘わらず、昨夜示した悔悟の機会を拒絶した。よって、王位継承第一順位を剥奪し、すべての王子権能を停止。以降は“フェルディナント・フォン・リューエル”の称号を禁じ、“北領公フェルディナント”として王宮外の旧狩猟城に蟄居を命ず」
――廃嫡宣言。
その言葉が降るや否や、観覧席から悲鳴のような溜息が沸いた。
王子の顔から血の気が引き、足が痙攣する。「ま……待って下さい、母上! 私は……王子です! 民は私を――」
「民は真実を見抜く。朕(ちん)は民の盾であり鏡だ。盾が錆び、鏡が曇れば、王家は倒れる」
女王は背を向け、ひな壇を上がりきると玉座まで戻った。あとは儀礼官が粛々と手続きを進めるだけ。
宰相は震える手で別紙を読み上げた。「本勅書をもって第二王子エレイン殿下を皇位第一継承者に繰り上げ……」――場内が再びざわつく。まだ六歳の王子を第一位とする異例の措置。だが誰も反論できなかった。母である女王の権威と、第一王子自身の失態がすべてを決定づけている。
剣を佩く近衛兵が進み出て、王子から儀礼剣と王子徽章を外す。赤い外套の肩章が剥ぎ取られ、重い銀鎖は床に落ちて冷たく鳴った。
フェルディナントは呆然とその音を聞いた。栄光の日々がいま砕け散る音。昨夜自らの手で壊した瑠璃の花瓶の、あの鋭い破砕音に似ていた。
周囲の貴族たちは膝を折り、女王に忠誠を示す。軍務卿は剣を掲げ、僧正は祝詞とともに祈祷を唱える――失脚した王子に対してではなく、新たに第一位となった幼いエレイン王子に向けて。
脇席で見守るアルトハイムは、瞬きを一つだけし、淡い安堵を飲み込んだ。女王の表情が痛みを隠し切れていないことを、彼だけは察していた。
「王子殿……いえ、北領公。どうか」
侍従が呟き、退席を促した。フェルディナントは悔し涙を噛み殺し、最後に玉座を振り返る。母は視線を合わせなかった。――いや合わせられなかった。
ゆらゆらと揺れた瞳が訴える。「なぜだ、母上」。だが答えが返ることはなく、白金の扉が閉ざされる音だけが王子の世界を完結させた。
◇ ◇ ◇
議政殿が散会すると、女王は一人きりで残った。玉座の側に立ち、ゆっくりと両手を握る。若返りの魔法で滑らかな手肌にも、強く爪を立てれば薄紅の痕が残る。
アルトハイムが近づき、膝を折った。「すべて陛下のお力の賜物――」
「いいえ、私が育て違えた代償です」
女王はかすかに首を振り、窓外の晴れやかな空を見やる。
「だが、国には真実を示さねばならない。フェルディナントを庇えば、その影で数え切れぬ民が嘘に泣く。私は王として――母であることを捨てた」
「陛下」
アルトハイムはそっと視線を上げる。女王の頬を一筋の涙が伝った。それは老いではない、若返り魔法でも消せない母の痛み。
騎士は深く頭を垂れた。「陛下が背負われた痛みの重さ、我らが分かち持ちます。……アーデルハイド殿とともに」
女王の瞳が揺れ、微かに微笑む――かと思えば、次の瞬間、鋭さを取り戻す。
「そう。アーデルハイド……今は追放の身。だが彼女こそ、私の“明日”を守る鍵。すぐに帰還させねば」
アルトハイムは胸に拳を当てた。「はい。すでに足取りは掴んでおります。ご命令ひとつで」
「頼むわ、アルトハイム。――そしてもう一つ」
女王は懐から羊皮紙を取り出し、言葉を選ぶように重ねた。
「子らが犯す罪は、私が王家に注いだ愛の形の是非。ならば、弟妹たちも同じ轍を踏ませないため、我らが盾となるべきね」
鋭い碧眼の騎士は頷く。「エレイン殿下はまだ幼い。貴女とアーデルハイド殿、その二つの光で導いてさしあげましょう」
玉座の上、初春の陽が王錫に反射し、議政殿の床へ光の輪を描いた。
廃嫡の宣告は終わった。しかし王権の試練は次の段階へ進む――“王子の復讐”という影が、すでに遠い北領で蠢き始めていた。
4‑3 「アーデルを辱める者は、王の資格なし」――宮廷に刻まれた金剛の勅
廃嫡勅書が読み上げられ、第一王子フェルディナントが護送されてゆくと、議政殿には嵐の去ったあとのような沈黙が落ちた。
だが女王エレオノールはまだ玉座に腰を戻さない。銀の王錫を壇に立てたまま、宙を切るように右手を挙げると、宰相が再び布巻の文書を捧げ持った。緋色の封蝋が付いたその巻物は、先ほどより重い意味を帯びている。
「諸卿、耳を澄ませよ。これより――王家侍女官アーデルハイド・フォン・リリエンベルクに関わる特別勅を宣示する」
女王の声は鐘鋳のように澄みわたり、壁面の金細工を微かに震わせた。
宰相が巻物を開き、一字一句を噛み砕くように朗誦する。
> 第一条 王宮侍女官アーデルハイド・フォン・リリエンベルクを、王家功労位《白百合勲伯》に列す。
第二条 彼女は今後、王家の“若年健康顧問官”として毎朝の儀式を掌る。
第三条 いかなる者と雖も、強要・脅迫・侮辱によってアーデルハイドに精神的または肉体的損害を与えた場合、即刻「大逆罪」に準じて裁く。
第四条 当該侍女官への縁談・接近は、必ず女王陛下自身の書面許可を要する。
第五条 王家の名誉を以って宣言する――「アーデルを辱める者は、王の資格なし」。
最後の一句を読み終えた瞬間、議政殿全体が凍りついた。
“王の資格なし”――それは先ほど王子を廃した言葉と同質。すなわちアーデルハイドを害せば、王族でさえ王位を失うという鉄槌だ。
老伯爵が喉を鳴らし、若い侯爵夫人が扇を震わせる。昨日まで彼女に縁談を仕掛けていた諸侯は、一瞬にして顔色を失った。
軍務卿が膝を突き剣を床に置く。「陛下の御盾たる近衛兵二百、今後は侍女官殿の居所を輪番で警護いたします」
枢密僧正は祈祷書を胸に当て「聖典の慈愛は真なる忠義に降り注ぐ」と唱えた。
しかし、最も重く頭を垂れたのは宰相である。長く政を担った老臣は震える声で進言した。
「陛下、斯くも断固たる勅を発した以上、侍女官殿を速やかに宮廷へお呼び戻し、安堵を示されませ。さもなくば敵は外で牙を剥きましょう」
「心得ている」
女王は王錫を打ち鳴らし、側面に控える銀鎧へ視線を向けた。「親衛隊長アルトハイム・フォン・ツェレ」
隊長は即座に膝を折り、剣を掲げる。「御前にて」
「直ちに侍女官アーデルハイドを探し出し、王宮へ護送せよ。護衛には二十五騎を付け、王家の双頭鳳章を掲げるがいい」
「はっ――王命、確かに!」
鎧の靴音が石を裂き、親衛騎兵たちが疾風のように議政殿を後にした。その背に、女王は微かに目を伏せる。玉座の階段を下り切り、ひとり壇下で深く息を吐いた。
* * *
その頃、王都外縁の小宿では追放馬車が短い給水停車をしていた。粗末な安宿の裏庭。荷車番が桶を運びつつ口笛を吹く。その音にまぎれて蹄の響きが増え、砂埃とともに銀甲冑の一団が現れた。
先頭の騎士が旗竿を立てる。金糸の双頭鳳――女王直属親衛の紋章。
「アーデルハイド・フォン・リリエンベルク殿は在すか!」
轟く声に、宿の主人が跳び上がった。驚く隙もなく騎兵が中庭になだれ込み、馬車を取り囲む。
幌の布が開き、アーデルハイドが姿を現す。途端に先頭の騎士が兜を上げた。銀髪と碧眼――アルトハイム隊長その人だ。
「遅くなった。――迎えに来た」
アーデルは唇を震わせた。「王子の決定は……?」
「無効となった。女王陛下は、貴女を辱める者を王と認めぬと宣言された」
言って、隊長は長筒状の文書を手渡した。緋の封蝋が押された“勅書謄本”。最後の一節を震える声で読み上げる。
「……『アーデルを辱める者は、王の資格なし』……」
涙が頬を滑った。悔し涙でも悲しい涙でもない。王冠より重い信頼の重み。
アルトハイムが手綱を引き、黒馬を下りる。膝をつき、騎士礼で右拳を鎧胸に当てた。
「参りましょう、侍女官殿。王宮は貴女を待っています」
彼女は瑠璃の欠片を握り締めたまま、頷く。
騎兵たちが馬車を守るように隊列を組み、王都へ引き返す。春の雲が割れ、道を照らす光が少女の涙を虹色に染めた。
* * *
その報せは夕刻までに宮廷の隅々へ届いた。
昨日までアーデルを見下し求婚を仕掛けた貴族たちは震え上がり、財務卿エットルは家門の宴を取りやめ、侯爵夫人サヴォナローラは甥に「当分王宮を訪ねるな」と手紙を送ったという。
侍女たちの間では別の噂が立った。「女王陛下は侍女官殿を娘同然に思われている」「いや未来の義理の娘にするのだ」「第二王子殿下は菓子で買収された」――真偽はさておき、どの言葉にも畏れと羨望が混じっていた。
その日の夜、議政殿の天井に灯るシャンデリアは、例夜より眩しく光ったという。
七彩の瑠璃を失った王宮が、新たに“人”という宝石を輝かせるように。
そして誰もが悟った――この城で最も強いのは若返りの秘術ではなく、それを授ける少女を「護る」と断じた女王の言葉そのものだ、と。
4‑4 再会の誓い――白百合の徽章にかけて(約2,300字)
夕陽が王宮の尖塔を朱く染めるころ、黒馬に護られた小馬車が中庭へ滑り込んだ。
先導の親衛騎士が「道を開けよ!」と声を上げると、侍従や女官が次々と石畳の脇に控える。車輪が止まり、幌が開いた。――アーデルハイド・フォン・リリエンベルク。
軍靴が階段を駆け下り、迎えに立つのは宰相の副官、侍医長、そして女官長。彼らはそろって膝を折り、王家功労位《白百合勲伯》のリボンを胸に輝かせた彼女へ深い礼を捧げた。
ほんの一昼夜で世界が反転した光景に、アーデルは戸惑いを覚えつつも礼を返す。
最後尾から下馬したアルトハイム隊長が小声で告げた。
「陛下がお待ちだ。――今宵の儀は“再任”ではなく“叙位式”。胸を張れ」
大理石の回廊を渡り、私室の二重扉が開いた。そこには翡翠色のドレスを纏い、暖炉の前に佇む女王エレオノールの姿。
アーデルハイドは思わず駆け寄ろうとして、膝が床に触れる寸前に踏みとどまった。涙が滲み、しかし声は澄んでいた。
「遅れて戻りました。……陛下に、はなむけの言葉すら頂けぬまま出てしまい……」
女王はすっと右手を差し伸べる。
「追放は“はなむけ”ではない。王家の汚泥を洗い落とすために、君に嘘を背負わせた。それを赦してほしい」
アーデルは顔を振り、女王の手を握った。
「陛下が謝られることではありません。――私は王家の侍女官。陛下のためなら、昨日も今日も明日も、たとえ百年先でも忠誠を捧げます」
「百年先?」女王は冗談めかし眉を上げる。「では百年分、若返りをお願いしようかしら」
「し、死んでしまいます!」
思わず跳ねる声に、女王が慈しむように笑い、アーデルの肩を抱いた。その温もりは、魔法では与えられない真実の若さだ。
暖炉脇のテーブルに、紅茶と蜂蜜漬けクルミの皿が用意されている。アーデルが椅子を勧められ腰を落ち着けると、女王は懐から新しい徽章を取り出した。白銀の百合に小さな星。中央には透きとおった瑠璃が嵌め込まれている。
「《白百合勲伯》の証。手に取るかぎり、そなたは王宮の“柱”の一つ。誰も動かせぬ」
アーデルの指が震えながら勲章を受け取る。砕けた花瓶と同じ瑠璃が、今は壊れぬ形で胸に宿った。
女王が茶をすする。「さて、正式に戻った第一歩だ。明日の予定を伝えるわ」
「はい!」
「夜明けの若返り儀式。続いて継承順位繰り上げを祝う小規模な晩餐。……そして午前のうちに“縁談断り状”が五十通は届くでしょうから、焼却炉へ回しておいて」
アーデルは吹き出しそうになり、「承知いたしました」と頭を下げた。
「クララには菓子の仕込みを手伝わせておきます。殿下用のクルミ糖も」
「ふふ。エレインが歓喜するわね。……ところで彼が昨夜こう言ったの。“ねーちゃんは戻る。おれのクッキーがまだ残ってるから”」
聞けば六歳の王子は、追放の報を知るや泣きながら皿を抱えて寝たという。胸に甘い痛みが走り、アーデルはそっと唇を噛む。
「――戻れて良かった。本当に」
「あら、戻るのは始まりよ。まだまだ敵も難題もある。王子の復讐も、妹の野望も、宰相府の腹の内も。だが心配はいらないわ。私たちは“三人”で立つ」
「三人?」
扉が控えめにノックされる。アルトハイムが無言で入室し、銀の剣を床に突き立てた。
「侍女官殿を乗せた馬車を追っていた刺客三名、すべて拘束し地下牢へ。裁判に備え尋問を進めます」
「三人目の柱が剣を掲げれば、百年先でも揺るがぬわ」
女王が微笑し、アーデルは感謝の念で胸が熱くなった。アルトハイムは視線を下げる。
「……侍女官殿。明朝、転倒するなよ」
「し、しませんっ!」
二人の軽口に女王が笑い、暖炉の火がはぜる。
アーデルは胸の勲章を確かめ、深く息を吸った。百年でも、昨日へでもない。“今”に生きて、王を支える。これこそ自分の魔法の真価だと噛みしめながら。
夜。王宮の窓という窓に灯りがともり、白百合の旗が終夜はためいた。屋根瓦を撫でる風は、どこか甘いクルミと蜂蜜の匂い。
そして誰も知らない――その香りを辿るように、遥か北の旧狩猟城で一人の男が憤怒に震え、新たな復讐の策を練っていることを。結末はまだ遠い。だが、アーデルハイドの正しい昨日と今日が、確かに王国に刻まれた夜だった。
翌日の晨朝――王宮中央議政殿は、未明から重臣たちの足音で震えていた。
漆黒大理石の円卓を囲むのは宰相、財務卿、軍務卿、枢密院僧正。彼らを見下ろす半環状の観覧席には大小の侯爵・伯爵が列をなし、ざわめきは海鳴りのように低く広がる。
中央奥、ひな壇を十段上がったところに白銀の玉座。女王エレオノールはすでに着座し、明けの光を反射する金糸の外套を纏っていた。掲げられた王錫は、通常の朝会では用いられぬ威厳の象徴。――それだけで今日の議題が尋常でないことを示している。
「殿下、ご到着」
扉番が呼ばわり、二枚の扉が重々しく開く。
第一王子フェルディナントは真紅の正礼服に身を包み、顎を上げて入場した。昨夜の“慈悲深い決断”を自負しているのか、足取りは昂然。だが、その背筋に微かな硬直があった。自分を呼びつけたのが母であり、さらに王錫を持つ形式というのは、穏やかな報告だけで終わらぬ前兆だ。
王子が玉座真下の円形紋章〈王家の環〉の上へ立つと、側面階段から親衛隊長アルトハイムが一歩前へ。鎧は礼装ではなく実戦用の黒銀。腰の剣は封を解かぬままだが、柄を覆う革袋は外されていた。
王子は一瞬眉をひそめる。「護衛など不要だろう、母上」と視線で訴える。だが女王は応えない。冷たい青の瞳が、遠い銀河の星のように輝いている。
文吏が布巻の訴状を開く。
「議題――第一王子フェルディナント殿下による“暁の花瓶”破損事件、および侍女官追放令の是非につき、王家裁定を請うものなり」
どよめきが議政殿を走る。昨夕の騒動が“侍女官の不始末”として処理されたはずだ――そう思っていた諸侯の顔が動揺で染まる。王子は声を張った。
「母上。あれは説明したとおり、侍女官の不注意が――」
「沈黙」
王錫の石突が壇に打たれ、雷鳴のような音が奔った。女王の一言に、王子の声が途切れる。
宰相が起立し、女王に向かって深く一礼した。
「陛下。殿下の御説明の前に、親衛隊長および複数証人から提出された“追加資料”の閲覧を願います」
アルトハイムが壇下へ下り、手袋ごと封じた真紅の巾着を掲げた。中身は、瑠璃粉の付着した王子の靴飾り片と、クララ・トゥーリオの供述書。
証拠品は銀盆に載せられて宰相の前に置かれ、侍医が内容を確認する。宰相が淡々と読み上げた。
「――目撃証言によれば、“侍女官を突き飛ばした”との事実が存在する。さらに靴飾りの瑠璃粉は、花瓶の材質と完全一致。弁護の余地は薄いと存ずる」
観覧席のざわめきが一転、ざらりと重い空気に変わる。王子が蒼白になり、声を低く震わせた。
「母上、まさかこの子供の証言などを信じ――!」
「子供を侮蔑する者は、未来を見誤る」
女王が静かに返す。王子は言葉を失った。自分が幼い頃から母に叩き込まれた格言だ。
女王は壇上で立ち上がり、数段下りる。その表情は厳しさを帯びながら、悲しみの影も宿している。
「フェルディナント。そなたに最後の機会を与える。――真実を語りなさい」
大理石が吸い取るほどの静寂。王子は拳を握りしめ、舌打ちした。
「……あの女が私の進路を塞いだのが悪いのだ! 母上の儀式に遅れそうだった、焦りは正当な理由だ!」
傍聴の貴族から失望の溜息。
女王の目が細くなる。「焦りは理解しよう。だが家宝を失った責任と、虚偽報告で侍女官を追放した不義を、どう償うのか」
「だから!」声が裏返った。「処刑せず追放で済ませたのは慈悲だと言ったではないか!」
その瞬間、女王の靴音がひときわ大きく響いた。
彼女は王子の目前で立ち止まり、まっすぐに顔を見上げさせる。
「慈悲を施す者は、まず己が罪を認めねばならぬ。――赦しを乞わぬ者が、どうして他者に慈悲を語れる?」
王子が息を飲む。母の声は氷の刀、言葉が肌を斬る。
やがて観覧席の奥で椅子がきしんだ。大きな影――軍務卿が立ち上がり、直言した。
「王子殿下の行為は不明朗であり、軍紀に照らせば虚偽報告に相当します。兵に誤った命令を下す将とは、我々は行軍できませぬ」
続いて枢密院僧正が祈祷書を閉じ、静かに首を振った。「真実を隠して利益を得る者は祝福から遠ざかる――聖典第三章・二十五節にございます」
孤立する王子。額ににじむ汗を手袋で拭い、必死に声を絞る。
「わ、私は王位継承者なのだぞ! この私を裁くなど、母上にも――」
「――母である前に王だ」女王は静かに言った。「法の前に万人は平等。王子であろうとも」
その宣言が議政殿の石壁にこだまし、揺れを止めた蝋燭の炎が再び揺れる。王子の膝が僅かに折れた。怯えと怒りが混じる顔で周囲を見回すが、味方は誰も立たない。
女王が壇上へ戻り、玉座の前に立った。
「フェルディナント・フォン・リューエル。明朝までに己の罪を省みよ。自ら悔い改め、侍女官アーデルハイド・フォン・リリエンベルクへ正式な謝罪文をしたため、花瓶修復費用と同額の賠償金を支払う意志を示すなら、我は寛大なる判決を考慮する」
王子は唇を噛みしめ、視線を逸らした。答えぬ沈黙が、やがて宣告の刃になると知らずに――。
議政殿の扉が開き、衛兵が王子を伴って退場させる。
玉座の間に残ったのは粉塵のような緊張と、女王の低く深い息だけだった。
宰相が震える声を絞る。「陛下……ご心痛、お察し申し上げます」
女王は小さく首を振った。「心は痛まず。ただ、嘆かわしい。王たる道を示したつもりが、あの子には届かなかった――」
睫毛の奥で炎が灯る。陛下の若々しい貌が、ほんの刹那だけ老いの翳を帯びたのを、近くにいたアルトハイムだけが見た。
彼は剣を握りなおし、静かに誓う。『明日こそ陛下の苦悩を断ち切る日』。
王子の悔悟か、もしくは――“逆鱗”か。
運命の朝へ向け、王宮の深い廊下に風が走った。
4‑2 王家の血を絶つ言葉――廃嫡の勅書
――翌晨、六つの鐘。
王宮中庭には霧が白布のように伏していたが、議政殿の高窓だけは早くも黄金に輝いていた。そこで行われる「継承者再確認式」は、本来なら新年か戴冠行事の折にしか開かれぬ。呼び集められた宰相・枢密院僧正・軍務卿・最高財務監ら十余名は皆、胸騒ぎを覚えつつも正式礼服に身を包んで列席した。
壇上には女王エレオノール。首には王家至宝〈星環の首飾り〉が掛けられ、その煌めきは昨夜の疲労を微塵も感じさせない。だが瞳の底には凍てつく決意が宿っていた。
右手に握るのは銀装の巻物――“廃嫡勅書”であることを、老宰相はその紐色だけで悟った。
床に敷かれた紫絨毯の上、第一王子フェルディナントは一歩下がった位置で立ち尽くしていた。昨夜、女王の示した猶予を無視し、謝罪文も賠償誓約も差し出さずに朝を迎えたのだ。
言い訳は簡単だった。プライドが引き渡しを許さず、侍従へ言葉を口述する筆も震え続けたという。結果、何も書けぬまま夜が白んだ。
「――始めよ」
女王の低い発声で鐘が鳴り、侍従長が一歩前へ。
「ただ今より“王家継承順位再確認式”を執り行います。第一議題、フェルディナント・フォン・リューエル殿下の継承資格について、女王陛下の宣示を仰ぎます」
殿上大鼓がどん、と一発。王子は唇を震わせた。廊下で耳にしてきた噂――“廃嫡”という恐るべき二文字――が現実になる瞬間が来たのだ。
女王は席を立ち、階を五段降り、王子と視線が同じ高さになる場所で止まった。蒼い雙眸がわが子を映す。
「フェルディナント。汝、己が過誤を認めるか」
王子は歯を食いしばり、声を振り絞る。「……過誤は侍女官にありました。私は宝を守るために――」
「汝、なお虚言を重ねるか」
涼しい声音。しかし王子の心臓には鉄鎚。
女王はゆっくりと銀巻物の紐を解いた。蝋封が割れる音が、議政殿の大理石に妙に澄んで響く。
「汝の不実により、王家の威信は傷ついた。にも拘わらず、昨夜示した悔悟の機会を拒絶した。よって、王位継承第一順位を剥奪し、すべての王子権能を停止。以降は“フェルディナント・フォン・リューエル”の称号を禁じ、“北領公フェルディナント”として王宮外の旧狩猟城に蟄居を命ず」
――廃嫡宣言。
その言葉が降るや否や、観覧席から悲鳴のような溜息が沸いた。
王子の顔から血の気が引き、足が痙攣する。「ま……待って下さい、母上! 私は……王子です! 民は私を――」
「民は真実を見抜く。朕(ちん)は民の盾であり鏡だ。盾が錆び、鏡が曇れば、王家は倒れる」
女王は背を向け、ひな壇を上がりきると玉座まで戻った。あとは儀礼官が粛々と手続きを進めるだけ。
宰相は震える手で別紙を読み上げた。「本勅書をもって第二王子エレイン殿下を皇位第一継承者に繰り上げ……」――場内が再びざわつく。まだ六歳の王子を第一位とする異例の措置。だが誰も反論できなかった。母である女王の権威と、第一王子自身の失態がすべてを決定づけている。
剣を佩く近衛兵が進み出て、王子から儀礼剣と王子徽章を外す。赤い外套の肩章が剥ぎ取られ、重い銀鎖は床に落ちて冷たく鳴った。
フェルディナントは呆然とその音を聞いた。栄光の日々がいま砕け散る音。昨夜自らの手で壊した瑠璃の花瓶の、あの鋭い破砕音に似ていた。
周囲の貴族たちは膝を折り、女王に忠誠を示す。軍務卿は剣を掲げ、僧正は祝詞とともに祈祷を唱える――失脚した王子に対してではなく、新たに第一位となった幼いエレイン王子に向けて。
脇席で見守るアルトハイムは、瞬きを一つだけし、淡い安堵を飲み込んだ。女王の表情が痛みを隠し切れていないことを、彼だけは察していた。
「王子殿……いえ、北領公。どうか」
侍従が呟き、退席を促した。フェルディナントは悔し涙を噛み殺し、最後に玉座を振り返る。母は視線を合わせなかった。――いや合わせられなかった。
ゆらゆらと揺れた瞳が訴える。「なぜだ、母上」。だが答えが返ることはなく、白金の扉が閉ざされる音だけが王子の世界を完結させた。
◇ ◇ ◇
議政殿が散会すると、女王は一人きりで残った。玉座の側に立ち、ゆっくりと両手を握る。若返りの魔法で滑らかな手肌にも、強く爪を立てれば薄紅の痕が残る。
アルトハイムが近づき、膝を折った。「すべて陛下のお力の賜物――」
「いいえ、私が育て違えた代償です」
女王はかすかに首を振り、窓外の晴れやかな空を見やる。
「だが、国には真実を示さねばならない。フェルディナントを庇えば、その影で数え切れぬ民が嘘に泣く。私は王として――母であることを捨てた」
「陛下」
アルトハイムはそっと視線を上げる。女王の頬を一筋の涙が伝った。それは老いではない、若返り魔法でも消せない母の痛み。
騎士は深く頭を垂れた。「陛下が背負われた痛みの重さ、我らが分かち持ちます。……アーデルハイド殿とともに」
女王の瞳が揺れ、微かに微笑む――かと思えば、次の瞬間、鋭さを取り戻す。
「そう。アーデルハイド……今は追放の身。だが彼女こそ、私の“明日”を守る鍵。すぐに帰還させねば」
アルトハイムは胸に拳を当てた。「はい。すでに足取りは掴んでおります。ご命令ひとつで」
「頼むわ、アルトハイム。――そしてもう一つ」
女王は懐から羊皮紙を取り出し、言葉を選ぶように重ねた。
「子らが犯す罪は、私が王家に注いだ愛の形の是非。ならば、弟妹たちも同じ轍を踏ませないため、我らが盾となるべきね」
鋭い碧眼の騎士は頷く。「エレイン殿下はまだ幼い。貴女とアーデルハイド殿、その二つの光で導いてさしあげましょう」
玉座の上、初春の陽が王錫に反射し、議政殿の床へ光の輪を描いた。
廃嫡の宣告は終わった。しかし王権の試練は次の段階へ進む――“王子の復讐”という影が、すでに遠い北領で蠢き始めていた。
4‑3 「アーデルを辱める者は、王の資格なし」――宮廷に刻まれた金剛の勅
廃嫡勅書が読み上げられ、第一王子フェルディナントが護送されてゆくと、議政殿には嵐の去ったあとのような沈黙が落ちた。
だが女王エレオノールはまだ玉座に腰を戻さない。銀の王錫を壇に立てたまま、宙を切るように右手を挙げると、宰相が再び布巻の文書を捧げ持った。緋色の封蝋が付いたその巻物は、先ほどより重い意味を帯びている。
「諸卿、耳を澄ませよ。これより――王家侍女官アーデルハイド・フォン・リリエンベルクに関わる特別勅を宣示する」
女王の声は鐘鋳のように澄みわたり、壁面の金細工を微かに震わせた。
宰相が巻物を開き、一字一句を噛み砕くように朗誦する。
> 第一条 王宮侍女官アーデルハイド・フォン・リリエンベルクを、王家功労位《白百合勲伯》に列す。
第二条 彼女は今後、王家の“若年健康顧問官”として毎朝の儀式を掌る。
第三条 いかなる者と雖も、強要・脅迫・侮辱によってアーデルハイドに精神的または肉体的損害を与えた場合、即刻「大逆罪」に準じて裁く。
第四条 当該侍女官への縁談・接近は、必ず女王陛下自身の書面許可を要する。
第五条 王家の名誉を以って宣言する――「アーデルを辱める者は、王の資格なし」。
最後の一句を読み終えた瞬間、議政殿全体が凍りついた。
“王の資格なし”――それは先ほど王子を廃した言葉と同質。すなわちアーデルハイドを害せば、王族でさえ王位を失うという鉄槌だ。
老伯爵が喉を鳴らし、若い侯爵夫人が扇を震わせる。昨日まで彼女に縁談を仕掛けていた諸侯は、一瞬にして顔色を失った。
軍務卿が膝を突き剣を床に置く。「陛下の御盾たる近衛兵二百、今後は侍女官殿の居所を輪番で警護いたします」
枢密僧正は祈祷書を胸に当て「聖典の慈愛は真なる忠義に降り注ぐ」と唱えた。
しかし、最も重く頭を垂れたのは宰相である。長く政を担った老臣は震える声で進言した。
「陛下、斯くも断固たる勅を発した以上、侍女官殿を速やかに宮廷へお呼び戻し、安堵を示されませ。さもなくば敵は外で牙を剥きましょう」
「心得ている」
女王は王錫を打ち鳴らし、側面に控える銀鎧へ視線を向けた。「親衛隊長アルトハイム・フォン・ツェレ」
隊長は即座に膝を折り、剣を掲げる。「御前にて」
「直ちに侍女官アーデルハイドを探し出し、王宮へ護送せよ。護衛には二十五騎を付け、王家の双頭鳳章を掲げるがいい」
「はっ――王命、確かに!」
鎧の靴音が石を裂き、親衛騎兵たちが疾風のように議政殿を後にした。その背に、女王は微かに目を伏せる。玉座の階段を下り切り、ひとり壇下で深く息を吐いた。
* * *
その頃、王都外縁の小宿では追放馬車が短い給水停車をしていた。粗末な安宿の裏庭。荷車番が桶を運びつつ口笛を吹く。その音にまぎれて蹄の響きが増え、砂埃とともに銀甲冑の一団が現れた。
先頭の騎士が旗竿を立てる。金糸の双頭鳳――女王直属親衛の紋章。
「アーデルハイド・フォン・リリエンベルク殿は在すか!」
轟く声に、宿の主人が跳び上がった。驚く隙もなく騎兵が中庭になだれ込み、馬車を取り囲む。
幌の布が開き、アーデルハイドが姿を現す。途端に先頭の騎士が兜を上げた。銀髪と碧眼――アルトハイム隊長その人だ。
「遅くなった。――迎えに来た」
アーデルは唇を震わせた。「王子の決定は……?」
「無効となった。女王陛下は、貴女を辱める者を王と認めぬと宣言された」
言って、隊長は長筒状の文書を手渡した。緋の封蝋が押された“勅書謄本”。最後の一節を震える声で読み上げる。
「……『アーデルを辱める者は、王の資格なし』……」
涙が頬を滑った。悔し涙でも悲しい涙でもない。王冠より重い信頼の重み。
アルトハイムが手綱を引き、黒馬を下りる。膝をつき、騎士礼で右拳を鎧胸に当てた。
「参りましょう、侍女官殿。王宮は貴女を待っています」
彼女は瑠璃の欠片を握り締めたまま、頷く。
騎兵たちが馬車を守るように隊列を組み、王都へ引き返す。春の雲が割れ、道を照らす光が少女の涙を虹色に染めた。
* * *
その報せは夕刻までに宮廷の隅々へ届いた。
昨日までアーデルを見下し求婚を仕掛けた貴族たちは震え上がり、財務卿エットルは家門の宴を取りやめ、侯爵夫人サヴォナローラは甥に「当分王宮を訪ねるな」と手紙を送ったという。
侍女たちの間では別の噂が立った。「女王陛下は侍女官殿を娘同然に思われている」「いや未来の義理の娘にするのだ」「第二王子殿下は菓子で買収された」――真偽はさておき、どの言葉にも畏れと羨望が混じっていた。
その日の夜、議政殿の天井に灯るシャンデリアは、例夜より眩しく光ったという。
七彩の瑠璃を失った王宮が、新たに“人”という宝石を輝かせるように。
そして誰もが悟った――この城で最も強いのは若返りの秘術ではなく、それを授ける少女を「護る」と断じた女王の言葉そのものだ、と。
4‑4 再会の誓い――白百合の徽章にかけて(約2,300字)
夕陽が王宮の尖塔を朱く染めるころ、黒馬に護られた小馬車が中庭へ滑り込んだ。
先導の親衛騎士が「道を開けよ!」と声を上げると、侍従や女官が次々と石畳の脇に控える。車輪が止まり、幌が開いた。――アーデルハイド・フォン・リリエンベルク。
軍靴が階段を駆け下り、迎えに立つのは宰相の副官、侍医長、そして女官長。彼らはそろって膝を折り、王家功労位《白百合勲伯》のリボンを胸に輝かせた彼女へ深い礼を捧げた。
ほんの一昼夜で世界が反転した光景に、アーデルは戸惑いを覚えつつも礼を返す。
最後尾から下馬したアルトハイム隊長が小声で告げた。
「陛下がお待ちだ。――今宵の儀は“再任”ではなく“叙位式”。胸を張れ」
大理石の回廊を渡り、私室の二重扉が開いた。そこには翡翠色のドレスを纏い、暖炉の前に佇む女王エレオノールの姿。
アーデルハイドは思わず駆け寄ろうとして、膝が床に触れる寸前に踏みとどまった。涙が滲み、しかし声は澄んでいた。
「遅れて戻りました。……陛下に、はなむけの言葉すら頂けぬまま出てしまい……」
女王はすっと右手を差し伸べる。
「追放は“はなむけ”ではない。王家の汚泥を洗い落とすために、君に嘘を背負わせた。それを赦してほしい」
アーデルは顔を振り、女王の手を握った。
「陛下が謝られることではありません。――私は王家の侍女官。陛下のためなら、昨日も今日も明日も、たとえ百年先でも忠誠を捧げます」
「百年先?」女王は冗談めかし眉を上げる。「では百年分、若返りをお願いしようかしら」
「し、死んでしまいます!」
思わず跳ねる声に、女王が慈しむように笑い、アーデルの肩を抱いた。その温もりは、魔法では与えられない真実の若さだ。
暖炉脇のテーブルに、紅茶と蜂蜜漬けクルミの皿が用意されている。アーデルが椅子を勧められ腰を落ち着けると、女王は懐から新しい徽章を取り出した。白銀の百合に小さな星。中央には透きとおった瑠璃が嵌め込まれている。
「《白百合勲伯》の証。手に取るかぎり、そなたは王宮の“柱”の一つ。誰も動かせぬ」
アーデルの指が震えながら勲章を受け取る。砕けた花瓶と同じ瑠璃が、今は壊れぬ形で胸に宿った。
女王が茶をすする。「さて、正式に戻った第一歩だ。明日の予定を伝えるわ」
「はい!」
「夜明けの若返り儀式。続いて継承順位繰り上げを祝う小規模な晩餐。……そして午前のうちに“縁談断り状”が五十通は届くでしょうから、焼却炉へ回しておいて」
アーデルは吹き出しそうになり、「承知いたしました」と頭を下げた。
「クララには菓子の仕込みを手伝わせておきます。殿下用のクルミ糖も」
「ふふ。エレインが歓喜するわね。……ところで彼が昨夜こう言ったの。“ねーちゃんは戻る。おれのクッキーがまだ残ってるから”」
聞けば六歳の王子は、追放の報を知るや泣きながら皿を抱えて寝たという。胸に甘い痛みが走り、アーデルはそっと唇を噛む。
「――戻れて良かった。本当に」
「あら、戻るのは始まりよ。まだまだ敵も難題もある。王子の復讐も、妹の野望も、宰相府の腹の内も。だが心配はいらないわ。私たちは“三人”で立つ」
「三人?」
扉が控えめにノックされる。アルトハイムが無言で入室し、銀の剣を床に突き立てた。
「侍女官殿を乗せた馬車を追っていた刺客三名、すべて拘束し地下牢へ。裁判に備え尋問を進めます」
「三人目の柱が剣を掲げれば、百年先でも揺るがぬわ」
女王が微笑し、アーデルは感謝の念で胸が熱くなった。アルトハイムは視線を下げる。
「……侍女官殿。明朝、転倒するなよ」
「し、しませんっ!」
二人の軽口に女王が笑い、暖炉の火がはぜる。
アーデルは胸の勲章を確かめ、深く息を吸った。百年でも、昨日へでもない。“今”に生きて、王を支える。これこそ自分の魔法の真価だと噛みしめながら。
夜。王宮の窓という窓に灯りがともり、白百合の旗が終夜はためいた。屋根瓦を撫でる風は、どこか甘いクルミと蜂蜜の匂い。
そして誰も知らない――その香りを辿るように、遥か北の旧狩猟城で一人の男が憤怒に震え、新たな復讐の策を練っていることを。結末はまだ遠い。だが、アーデルハイドの正しい昨日と今日が、確かに王国に刻まれた夜だった。
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