「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第5章 守護者アルトハイム

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5‑1 銀の剣はただ一人のために抜かれる――親衛隊長、専属護衛に就任す


 王宮の黎明が金色にほどけるころ、北翼塔三階の小聖堂には親衛騎士二十余名が居並んでいた。
 聖壇前には女王エレオノール、左側にアーデルハイド、右側にアルトハイム・フォン・ツェレ。天窓のステンドグラスを透過した光が三人を中心に円を描き、静かな祝福の色を注ぐ。

 昨夜「白百合勲伯」の叙位が終わった直後、女王はさらに告げた――
 「親衛隊長アルトハイムに、アーデルハイド専属護衛を命ず」
 それは騎士階級にとって名誉かつ重責。この朝、正式な任命の儀が行われる運びとなった。

 侍従が敷物を広げ、女王はそこへ銀箱を置く。蓋が持ち上げられると、黒革の剣帯と、白銀の百合を象ったクロスガード付きの細剣が現れた。
 「アーデルハイドの剣にして盾。王家と同格の保護権を授ける」
 女王が告げ、アルトハイムは膝を折った。

「ツェレ家騎士、アルトハイム。命を賜り、今より我が剣はアーデルハイド殿ただ一人のために抜刀致します」

 声は低く、だが小聖堂を満たすほど響いた。
 アーデルは思わず拳を胸に当てる。昨夜まで同僚のように接していた男が、王宮最高位の結界のなかで“個人騎士”となる。その重みが肌にのしかかる。

 女王が剣帯を取り、アルトハイムの腰に結わえる。金具が音を立てて留まり、続いて細剣が納刀された。柄頭には、白百合と双頭鳳を組み合わせた小さな紋章。
 「汝の剣は国より賜りし剣。だが意志は汝が鍛えよ」
 女王は静かに微笑み、アーデルへ向き直った。
 「そして汝。彼を信じ、決して独りで歩むな。守られるばかりでなく、守る覚悟をもて」

 アーデルハイドは深く膝を折り、両手を組む。
 「謹んでお受けいたします。私にできることは小さくとも、陛下とアルトハイム殿の誇りを傷つけぬよう生きます」

 儀式が終わり、聖堂を出ると春風が廊下を抜けた。遠くで従者が鐘を打つ音が重なり、王宮の一日が始まりを告げる。
 アルトハイムが歩幅を合わせて横に立った。剣帯はまだ革の匂いが新しい。

「専属護衛といっても、今までと任務が大きく変わるわけではない。だが同道しない時でも、私の部下が影で見守る。……落ち着かぬか?」

 アーデルは首を振った。「いいえ。むしろ安心します。でも少し――くすぐったい気持ちも」
「くすぐったい?」
「だって、転ばないように支えてくださるのも任務のうちでしょう?」

 アルトハイムは珍しく口元を緩めた。
「転倒防止は最優先案件だ」

 二人が笑い合ったところへ、クララが駆けてきた。
「侍女官長が仰います。縁談断り状、すでに三十通が焼却炉行きですって!」
 アーデルは肩をすくめた。
「陛下の勅が行き渡るのが早すぎて驚きますね……」
「騎士団の伝令は風より迅い」アルトハイムが淡々と言う。「しかしまだ噂を鵜呑みにする者もいる。午後から“模擬誘拐対処訓練”を施すつもりだ」

「も、模擬誘拐?」
「不意を衝かれるのは現実だけで充分だ。だから先に驚きを経験しておく」
 アーデルは蒼ざめ、クララは拍手して喜んだ。

 そこへ侍従が駆け込み、エレイン王子が学問室を抜け出し走り寄る。
「ねーちゃん! 剣かっこいい! おれにも護衛つけて!」
「殿下にはすでに四人もいらっしゃいます」アーデルが苦笑する。
「じゃあ五人! ――おれ、大きくなったらアルみたいになって、ねーちゃん護るんだ!」

 アルトハイムは膝をつき、王子と目線を合わせた。
「その時は私が年老いている。剣を引退しても貴方に盾を譲ろう」
「やくそく!」

 少年の手と騎士の手が固く結ばれる。その横でアーデルは胸に手を当て、静かに誓った。
 ――この絆を、若返りの魔法より強く。

 夕刻、親衛隊詰所の訓練場。アルトハイムは部下たちに命じ、建物から建物へ渡る夜間護送コースを組み立てた。瓦屋根、狭い渡り廊下、暗号化した合図灯。すべてが“万一”の日のため。
 アーデルハイドはその中央で目隠しを解かれ、騎士に付き添われながら一歩ずつ進む。背後に剣の擦れる音、前方で鎖帷子が揺れる音――緊張で呼吸が速まる。

「大丈夫だ。右へ三歩」
 アルトハイムの声が導き、彼女の手を取る。その手は冷たくも硬くもない、意外なほど温かな掌だ。
 瓦の段差を越えた瞬間、足元が空気を掴んだ気がして体がふらつく。アルトハイムが腰に腕を回し支えた。
「呼吸を整えろ。敵の刃より自分の恐れが足を縛る」
 胸の鼓動が落ち着き、足裏が再び屋根を感じたとき、アーデルは瞼を上げた。
 夜風が頬を撫で、王宮の塔屋根が星明かりを受けて輝き、遠くで鐘が時を告げる。
 彼女は小さく笑みを浮かべた。「――私、転びませんでした」
「見事だ」
「でも明日、魔法を失敗するかも」
「その時は私が支える。昨日も今日も明日も」

 白百合の徽章が胸で月を反射し、騎士の剣が静かに光る。
 二人の影は屋根の上で重なり、王宮という巨大な舞台に新たな“守護の契約”を刻みつけた。


5‑2 求婚状の雪崩――王宮郵便局、非常事態

 親衛隊の夜間護送訓練が終わり、アーデルハイドは早くも全身の筋肉痛と戦っていた。だが翌朝、真の試練が待っていたのは足腰ではなく執務机だった。

 午前六時、王宮中央郵便局の分配室。
 仕分け机の上に、山――いや丘のように積み重なった手紙の束。封蝋は貴族紋章、商 guild の印章、はては隣国ビーフェル公国の外交院印まで混在している。
 侍女官長フォンタンヌ夫人が顎に手を当て、真っ青な顔で嘆いた。

「一晩で……七百三十二通。これ全部“求婚状”か“縁談照会状”ですのよ、伯爵閣下」
 隣に立つ宰相副官が無言で頷く。普段は冷静な彼の額にも脂汗が浮かんでいた。

 アーデルが恐る恐る近づくと、局員が一通の分厚い書状を差し出した。
「侍女官殿宛。金箔二重押しでございます。差出人は“ソレル侯爵家当主”」
 開封すると、香料の匂いの向こうに、滑らかな筆致が踊る。〈私の嫡男は文武両道、あなた様の若さの秘訣を心して守り――〉
 文章の半分は自家の栄華、残り半分は「若返りの魔法をぜひ我が家に」の婉曲表現だった。

 アーデルは手紙を閉じ、宰相副官を見つめた。「この量では……私が返書を書ききる前に次の束が来ます」
「閣下からご説明を」侍女官長が副官の袖を引く。
 副官は咳払いし、低い声で告げた。

「王家は貴女に“縁談制限令”を出しましたが、正式発効は午後。結果、制限前の“駆け込み求婚”が殺到したわけです」

 アーデルの目が霞むような気分になった。
 その時、分配室のドアが開き、親衛隊長アルトハイムが姿を現す。黒銀の鎧が朝日を弾き、室の空気が一瞬で引き締まる。

「侍女官殿。これより外来者審査を厳戒態勢へ引き上げる。私の許可なく貴女宛の郵袋を通すなと命じた」
 宰相副官が苦笑気味に礼を取る。「……しかし殿下級のお方までは止められませぬ」
「止める。王命だ」
 冷徹な宣言に室が静まり、開封係が震える手で筆記を止めた。

 アルトハイムはアーデルに一瞥を送り、机の片側に積み上がった「未開封束」を丸ごと抱える。
「これらは火薬で毒粉を混ぜている恐れがある。詰所で鑑定した後、焼却する」
 侍女官長が慌てて叫ぶ。「半分は無害でしょう! 侯爵家の正式印も――」
「“半分”は無害、イコール“半分”は有害だ。……王家宝物の二の舞は許さん」

 分配室が騎士の理詰めに沈黙した時、別の足音が廊下を弾んだ。
 「ねーちゃーん!」
 エレイン王子である。群青の学習服をひらひらさせ、アーデルを見るなり笑顔で突進したが、アルトハイムの腕で軽く制止された。

「殿下、侍女官殿はお仕事中です」
 エレインは頰をぷうと膨らまし、「じゃあお手紙配るの手伝う!」と机に乗りそうになる。アーデルは慌てて近寄り、頭を撫でて宥めた。

「殿下の宿題が終わったら、一緒にクルミ入りクッキーを焼きましょうね」
「ほんと!?」
「ええ、ほんと。だから今はお戻りになって――」

 言いかけたところへ、後方のドアが開き女王の侍従が現れた。
「アーデルハイド・フォン・リリエンベルク侍女官、陛下がお呼びです」

 アーデルは書状の山を背後に、アルトハイムと王子を従えて謁見の間へ向かう。
 ラピスラズリの床を踏む足音が重なり、扉が開く。女王は黄金の書見台に向かい、かすかに笑んでいた。

「求婚状が雪崩のようだとか。さぞ大変でしょう?」

「はい……陛下のお耳にもすでに」

「ええ。宰相が“郵便局が陥落する”と騒いでおったわ」女王は愉快そうに頬へ指を当てる。「そこで、先手を打つことにしたの」

 王室印の緋巻物が机に置かれている。「縁談制限令正式発効書」。女王のサインが青いインクで輝いていた。

「この制限令の骨子は三つ。一つ、アーデルハイドへの縁談は女王の直筆許可が必要。二つ、不許可の連打を避けるため、申請は年に一度のみ。三つ、申請手数料は千金」

 アーデルは思わず立ち尽くした。
「せ、千金……!」
「足切りよ。財力でも真剣さでもない、“愚かな野心”を切る金額」

 アルトハイムが腕を組む。「見事な盾であります」
 女王が微笑む。「盾だけではない。貴女を縁談から守るなら、むしろ――」

 彼女はそっと横目でエレイン王子を示した。少年は玉座の下でクルミをかじっている。
「――“攻め”に転じる方が早いでしょう?」

 アーデルの心臓がどくりと跳ねた。
「陛下、まさか……」

「いずれ正式に発表するわ。だが噂は既に十分。貴女が第二王子の将来の婚約者候補になるという噂を流すだけで、半数の求婚状は消えるでしょう」

 部屋の温度が一気に上がった気がした。アーデルは真っ赤になり、エレインも目を瞬かせて「けっこん……?」と首を傾げた。
 アルトハイムだけが小さく咳払いし、侍従に視線で合図する。「殿下の算術課題の時間です」
 少年は不満気に退室し、扉が閉まる。

 アーデルが両手を振った。「陛下! 私はまだ十八歳とはいえ殿下との差が……」
「六歳は七歳になり、十歳になる。貴女の魔法があれば、年齢差は対数的に縮むわ」
「魔法を私に使うつもりは……!」
「冗談よ」女王は肩で笑う。「でも政治は駆け引き。貴女を利用する輩には利用されぬ“盾”を持たせるのが王の策」

 アーデルはため息をつき、緋巻物を手にした。今は署名欄が空欄だ。「……せめて私が自分の価値を政略でなく実務で示したあとで、殿下との将来を考えさせてください」

 女王が微笑を深める。「望むところ。――まずは郵便局の手紙との戦だわね」

 * * *

 午後の陽が傾き始める頃、アーデルハイドは焚書室で燃え盛る炉前に立っていた。アルトハイムの部下が次々と求婚状を放り込み、封蝋が爆ぜインクが煙になる。
 署名欄には大貴族の名や海外の王侯の名もある。だが炎は平等だ。
 アーデルは胸の白百合の徽章を握り、「政略結婚の駒にはならない」と静かに呟いた。

 灰をかき混ぜる鉄杖が火花を散らす。――郵便局では次の束が届いているだろう。
 痛みも重責もまとめて飲み込み、彼女は炉に背を向けた。廊下の先に、剣と盾を携えた騎士が待ち受け、王室の幼い鳥が未来へ羽ばたく準備をする。

 白百合勲伯の一日はまだ始まったばかりだった。

5‑3 「ならば後継者と婚約させるか」――王宮ティーサロン、驚愕のアフタヌーン



 王室郵便局の「求婚状雪崩騒動」から数日。
 アルトハイムによる手紙焼却戦術と縁談制限令の布告で封筒の洪水は収まりつつあったが、侍女や侍従のあいだでは依然として噂が絶えなかった。――
 「白百合勲伯は誰と結婚するのか」「若返りの魔法を嫁入り道具にするのか」――。館ごとに派閥が賭けを始めるほどである。

 そんな火種を一気に“終息”させるべく、女王エレオノールはとびきり大胆な手を打ってきた。
 春の午後、南庭のティーサロン。昨夏の改修で増設されたガラス張りの離れは、花壇の香りと陽光が溢れる王家の私的空間だ。
 そこに集められたのはわずか4人。女王、アーデルハイド、アルトハイム、そして――六歳になったばかりの第一継承者エレイン王子。

 楡の長卓には苺タルトとクルミの砂糖菓子、そしてアーデルが徹夜で仕上げたレモンメレンゲパイが並ぶ。
 女王はナイフでタルトを切り分けながら、さらりと言った。

「――というわけで、そなたを王位後継者と“婚約”させようと考えている」

 タルトにフォークを刺そうとしたアーデルの手が止まる。
「……どなたと、と申しましたか?」
「エレインよ」
 女王は淡々と答えた。苺を王子の皿へ載せながら。

 アルトハイムが紅茶を注ぐ手をピタリと止める。王子は頬をぱんと叩いて瞳を輝かせた。
「ねーちゃんとけっこん? やった! お菓子食べ放題だ!」

「ちょ、ちょっと待ってください!」
 アーデルが立ち上がる勢いで椅子を鳴らした。
「殿下は六歳――まだ字も全部は書けません。年齢差が……!」
「七歳になり、十歳になり、やがて成人するわ」女王は気にも留めぬ様子でカップを傾ける。「その頃には貴女も成長し、魔法で日々の若さを整え、見目にも釣り合う」

 アーデルは頬を真っ赤にして抗議した。
「わ、わたしは自分に魔法を濫用するつもりはありません!」
「“濫用”ではなく“利用”よ。自らを十年単位で若返らせる危険は避けるが、二十四時間分の調整なら無理はないだろう。それに――」

 女王はさらりと視線をアルトハイムへ流す。
「親衛隊長も、転倒防止と礼儀教育で徹底的に支えるのだとか」
 騎士はわずかに目を細めた。「全力を尽くします」

 アーデルは両手をぶんぶん振る。
「お二人とも、本気で進める気なんですか!? エレイン殿下はまだ“おままごと”しか知りません!」
「だから英才教育を始めたばかりだわ」女王はタルトの苺を食む。「算術、礼法、剣術、そして――貴女の焼く菓子で高い集中力を維持している。これは王家の立派な国家プロジェクトよ」

 アルトハイムは苦笑すら見せず、次の茶器に手を伸ばす。「侍女官殿。政治的盾としては最上の策です。貴女への縁談は名目上“不敬罪対象”になり、王子の成年まで封じられます」
「名目上って!」アーデルは頭を抱えた。「私に恋愛の自由は……」
「あるわ」女王の声が柔らかくなる。「貴女が本当に愛する人を見つけたなら、その時は契約を解けばいい。だがね、もし真面目な求婚者が現れるなら、千金の申請料と王家審査を難なく通る度胸が必要よ?」

 アーデルが沈黙した。アルトハイムは小さく息を吐き、王子の皿へ二つ目のタルトを置く。
 エレインは満面の笑みでタルトに騎士のフォークを突き立て、「ぼく、とつぎょく(特訓)もがんばる!」と宣言した。苺クリームを口に付けながら。

 女王はそれを見て満足げに笑った。「そうね。第一継承者には覚悟が要るわ。アーデル、王子の勉学を見守り、彼の心を守る盾にもなりなさい」
 まだ上擦った声でアーデルは返事した。「……はい、かしこまりました。でも私自身の心は……」
 言いかけて視線を落とす。胸の白百合勲章が暖炉の火を映し、淡い光を繰り返す。

 沈黙が陽だまりのように数秒――。
 誰より先に口を開いたのはアルトハイムだった。
「侍女官殿。剣は一本でも、心は複数の盾で護ることができます。……私も盾となる」

 女王が面白そうに目を細める。「頼もしいわね。ならば三重護衛ね。親衛隊長として、個人騎士として、そして――剣と盾のバランスを教える教師として」
 騎士は無言で頷く。アーデルは目を丸くし、それからフッと頬を緩めた。

「……ありがとうございます。では私も、殿下の菓子を三倍おいしく作る努力を」
「やった!」王子が跳び上がる。「ぼく、明日までに九九覚える!」

 女王はカップを置き、軽く指を鳴らした。「では決まりね。『王子と侍女官の修業計画』。今日から始めましょう。アルトハイム、時間割を組んで」
「はっ。最初は朝の若返り儀式後、発声と礼法を三十分。続いて算術六十分……」
 アーデルは額を押さえた。自分の縁談騒動が、いつの間にか王子の強化合宿へシフトしている。

 だが胸の奥で、小さな安堵の火が灯るのを感じた。無数の求婚状より、幼い王子の無邪気な笑顔のほうが遥かに軽やか。女王と騎士の盾に守られ、彼女は次へ進める。
 ――“転倒しない侍女官”から、“未来の王を育てる若返りの賢女”へ。

 ティーサロンの天窓から、春雲が切れ、まばゆい光が差し込んだ。
 アーデルは初めて正面からその光を受け止め、ゆっくりと目を細めた。「百年先」ではなく「十数年先」の約束が、白い百合のように蕾を開こうとしている。



5‑4 星灯りの回廊――二つの誓い、ひとつの白百合

(約2,400字)

 王宮の一日は、春先でも長い。
 若返りの儀、王子の猛特訓、宰相室から届く試算書の写し、郵便局から送り返される「却下通知」。
 日が暮れるころには侍女官見習いが複写机で舟を漕ぎ、厨房では次の朝食の下ごしらえが始まっていた。

 アーデルハイドは喧噪を逃れ、北塔三階の外回廊へ出た。
 ここは城壁よりも高く、石造りの欄干越しに王都の街灯が星のように瞬く。ひと息吸い込むと、昼間の焦げ砂糖やインクや羊皮紙の匂いが遠ざかり、夜空の冷たい香りが胸を満たした。
 しかし一歩進んだ瞬間、革靴の裏が石の継ぎ目に取られ、体が傾ぐ。

「……っと」

 腰を抱え支えた腕。銀鎧の冷たい胸当てが背に触れ、すぐに離れる。
 アルトハイムだった。影の中でも蒼い瞳は月明かりを映して鋭い。

「転倒防止最優先。覚えているか?」

 冗談めかした声に、アーデルは苦笑して頭を下げた。
「は、はい。訓練で学びましたが……習熟には時間がかかります」

「習熟とは回数ではなく意識だ」

「意識だけで転ばずに済むなら、幼い頃から怪我などしていません」

 つい拗ねた口調になり、我ながら情けなく思う。だが隊長は鼻を鳴らしただけだ。
「私は剣を振るが、鍔が欠けるときもある。だが欠けた鍔は次に砕けぬように研ぎ鍛える。――転ぶたび、次は避ければいいだけだ」

 石段へ腰を掛け、広い夜空を見上げる。アルトハイムは沈黙を守ったまま隣に立ち、手摺に片肘をついた。
 星が寄り添うように瞬き、吹きつける春風が肩掛けを揺らす。

「今日だけで十度は求婚の噂が流れました」
 アーデルは呟く。「そのたびに拒否の判が押され、代わりに『将来の王太子妃』の噂が上書きされて」
「噂は泡沫だ。しかし泡が弾ける過程で“刃”になる。注意しろ」

「だからあなたが盾になるのですね」

 アルトハイムの横顔がわずかに緩む。
「盾になるのは職務だ。“剣”になるのは私自身の望みだ」

「……望み?」

「親衛隊長として王を守る。それは私の生き方だ。だが――アーデルハイド個人を守ることは、私個人の意思だ」

 その言葉は、冷えた夜気を一瞬で温めた。
 アーデルは視線を落とし、胸の白百合徽章に触れる。細工の瑠璃が月光を返し、淡く光る。

「私も申し上げます。あなたがいなければ、きっと私は昨日までの自分のまま。……ただ魔法をかけるだけの器具で終わっていたでしょう」

「器具ではない。人だ。涙も笑いもする。それを忘れるな」

 短く切るような言い回しのなかに、騎士の不器用な優しさが覗く。
 アーデルは頬を緩めた。「では、私が泣き言をこぼしても怒りませんか?」

「泣き言の十や二十、受け止めてやる。だが百は困るな。書類仕事が増える」

 ふっと笑いが漏れ、二人の距離が指一本分近づいた。
 夜空には大熊座、乙女座――季節の星。古星図を愛読した少女は、星々の名前を“昨日”のように覚えている。隣の騎士は星に詳しくないらしい。指で結び星座を示すと、彼は黙って聴いた。

「この二つを線で結ぶと、王家の紋になぞらえることができます。昔の占星術師は“王が在る限り、この二つは離れぬ”と……」

「つまり離れれば王家に凶兆か」

「そう。けれど私たちは毎朝“昨日”を取り戻す。星が離れても、また近づける――そんな気がするのです」

「詩人だな、ときどき」

「詩人は転びません」アーデルは肩を竦め、「……たぶん」と付け加えた。
 アルトハイムが珍しく喉を鳴らして笑う。夜風が鎧の鱗をかすかに震わせた。

「いつか王子殿下が成長し、本当に貴女と婚約する時が来たら――私は剣を置くかもしれない」

「え?」

「その頃には殿下自らが貴女の盾となるだろう。私が間に立つ理由はない」

 胸がちくりと痛む。まだ恋と呼ぶには早すぎる感情が、騎士の言葉でざわめいた。
 だがアーデルは青く澄んだ瞳を見返す。

「その日が来るまで、何年でも支えてください。私はその間に転ばない歩き方を覚えます。……それが私の誓いです」

 アルトハイムは短く頷き、右手を差し出した。厚く研ぎ澄まされた剣士の手。アーデルは両手で包むように握り返す。
 二つの誓いが静かに重なり、白百合の徽章が星灯りにきらめいた。

 遠くで時の鐘が十を打つ。夜勤の衛兵が交代し、厨房の湯気がまた立ち上る頃、二人は灯りの消えた回廊を歩き始めた。
 ――転ばぬよう。だがもし転んでも、もう支える手が確かにある。
 少年王子の未来、女王の若さ、そして己の心――三つの矢を束ねるために、彼らは同じ歩幅を選び、ゆっくりと王宮の夜を進んで行った。

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