「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第6章 復讐の刃

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6‑1 北の牢城から放たれた影――復讐の刃、王都に潜む


 王宮で白百合の叙位式が行われ、アーデルハイドの胸に新しい徽章が輝いてから二十日。
 そのころ北領の外れ、雪深い峡谷に建つ旧狩猟城は、まだ冬の気配を残していた。荒れた石壁に吹きつける氷風は頬を裂き、氷結した堀は獣すら寄せつけない。だが塔の最上階だけは灯火が揺れ、闇夜を睨み返すように赤い光を吐いていた。

 廃嫡された元王子――いまは「北領公」と名ばかり呼ばれるフェルディナントは、毛皮の外套を雑に肩へ掛け、地図と財札を並べた机に拳を打ちつけた。
 「母上は私を見捨てた。だが“鍵”さえ折れば、女王の若さも王権も霧散する」
 鍵――王家の若返りの源たるアーデルハイド。彼女の魔法が途絶えれば、王室は数年で老いの影を隠せなくなる。民心も諸侯も揺らぐ。そこへ自分が鞭を振るえば、王位に返り咲く道は開ける。その妄執が、驕慢なプライドを熱く毒した。

 北領公は部下に目配せした。灰外套の男たちが円卓に集まり、一枚の王都地図を広げる。
 「“夜鷹”の三人は王宮下層の排煙口から侵入する。早朝の儀式前に侍女官を仕留めろ」
 旅芸人に化けた刺客はすでに王都へ潜入済みだという。笛吹き、軽業師、荷車引き――外郭検問を易々と潜り抜ける仮装。だがその鞄には、薄刃の短剣と無臭の致死毒が忍ばせてある。

 作戦金を包んだ黒革袋が机上で跳ねた。「成功すれば残りの二倍を渡す。失敗すれば北の雪原で犬死にだ」
 男たちは無言で頭を下げ、吹雪の窓から夜闇へ消えた。

 ◇  ◇  ◇

 王都では、初夏を思わせる陽気が訪れていた。だが親衛詰所の空気は薄氷のように張り詰める。
 アルトハイムは侍女官護衛班を六隊に増員し、日替わりで巡回経路を変えた。王宮外郭へ通じる古い地下煙道には鉄格子が追加され、魔封刻の閂がはめ込まれる。
 だが敵は正面ではなく“死角”を狙う。――それは一枚の羊皮紙で発覚した。

 夕刻、宰相府の書庫に届けられた偽の改築指令書。「侍女官専用通路の照明工事のため、親衛巡回を夜半一時より三時へ変更せよ」とある。署名は宰相の日付印。しかし字体がわずかに違い、アルトハイムは即座に偽公文と見抜いた。
 「排煙口へ兵を」――命じる声は低いが緊迫していた。アーデルハイドは昼の授業で疲れた王子を寝かしつけていたが、隊長の気配に眉を寄せた。
 「何か……起きますか?」
 「まだ分からぬ。だが夜更けまで執務室で待機を」
 「……はい」

 ◇  ◇  ◇

 夜半――王宮厨房棟裏。澱んだ闇を裂き、金属音が一瞬だけ響く。鉄格子に特殊鋸を走らせる黒影が三。吐息さえ抑えたその手際は熟練の暗殺者。
 一名が煙道へ滑り込み、奥で火薬線を設置する。短剣に塗られたのは〈ウィニフレ毒〉――皮膚を掠めれば呼吸麻痺を起こす劇物だ。
 「標的は白百合の女、護衛は一名。目標時間、一六〇脈拍」
 潜入者たちは合図し、這うように暗渠を進んだ。

 だが煙道の出口には、鉄格子が二重。昨夜までは一つだったはずの鎖が増え、魔封刻が淡い燐光を放つ。
 先頭の男が焦りを押し殺し、解錠具を差し――その瞬間、天井の石材がずれ落ちた。轟音。
 粉塵の中、銀鎧が降下し、月光を反射した剣の腹で男を叩き伏せる。同時に奥の二人を影が抑え込み、鎖が鳴る。

 アルトハイムの声が低く響いた。
 「夜鷹か。一度も失敗しなかった暗殺集団と聞くが……王宮は獣の巣ではない」
 刺客の目が憎悪で赤くなる。「北領公の御恵みに背くな!」
 返事は鋼の鍔打ちだった。短い衝突ののち、三人は魔封鎖鎖で拘束され、毒剣は塩水桶へ放られた。

 ◇  ◇  ◇

 その頃、離宮の侍女官居室では、アーデルが古文書を繙きながらも胸のざわめきを抑え切れずにいた。窓の外で何かが弾けるような音がしてランプが揺らぎ、彼女は立ち上がる。
 廊下の向こうから足音――アルトハイムが姿を見せた。鎧には土埃がつき、瞳は氷の色で燃えている。

「終わった。……刺客は無力化した」
 言葉の短さに潜んだ怒りと安堵を感じ、アーデルは胸を押さえた。
 「誰が、私を……」
 「北領公だ。王子が復讐に踏み切った」

 思わず目を閉じる。廃嫡でもなお終わらなかった怨恨。王家の決断でも刃を折れなかった現実。
 アルトハイムはそっと肩に手を置く。

「恐れるな。剣はあなたのために抜かれた。――明日、陛下へ報告する。王子にはもはや猶予はない」

 アーデルは深く息を吸い、震える声で応えた。

「私も戦います。魔法ではなく、明日を生きる覚悟で」

 その瞬間、窓外で雲が割れ、満月がまばゆい光を落とした。
 銀の剣と白百合徽章が同時に輝き、夜の王宮は次なる嵐の前触れに静かに息を潜めた。

6‑2 裁きの光――廃嫡王子、流刑への途

 夜を割った急報は、夜明け前の王宮全域を震わせた。
 〈夜鷹〉三名拘束――親衛詰所から女王執務室への連絡網は矢のようだった。突入からわずか一刻後、女王エレオノールは臨時摂政会議を招集。まだ東の空に薄群青が残る時刻、宰相・軍務卿・枢密僧正、そして親衛隊長アルトハイムが玉座前に並んだ。

 「証言を」
 女王の指示で、鎖に繫がれた黒外套の男が床に引き据えられる。血塗れの口元から洩れる荒い息、その瞳には狂信の炎。

 「我らは北領公殿下の御命に従っただけだ。侍女官を屠り、女王の若さという虚飾をもぎ取る予定だった」
 軍務卿が一歩前へ。「北領公から直筆の指令書は?」
 男は嘲る。「口頭命令だ。証拠なぞ残さぬ――それが殿下のご聡明さだ」

 だが、アルトハイムは巾着を差し出した。血と煤で汚れた羊皮紙の切れ端。
 「煙道の火薬袋から発見した。殿下が廃嫡前に用いた私印と一致」
 宰相が細目で確認し、太鼓腹を揺らして頷く。「確かに王子私印。筆跡鑑定にも出せば動かぬ証拠となりましょう」

 女王の眉は僅かに震えたが、声は氷より冷えた。
 「フェルディナントは廃嫡に甘んじず、なお王宮へ刃を差し向けた。──ならば王家の法は二度目の慈悲を与えぬ」

 その場で勅書の起草が始まる。罪状〈王家侍女官暗殺未遂並びに王宮破壊未遂〉。
 僧正が聖典を開き、淡々と読み上げる。「血縁の重さは罪を軽くする盾にあらず。むしろ王家を蝕む刃なれば、より深き贖いを請け負うべし」

 アーデルハイドは室の隅で成り行きを見守っていた。夜着の上に簡素な外套。その顔色は蒼白だが、視線だけは揺れない。
 女王が呼び掛ける。「アーデルハイド、こちらへ」
 恐る恐る歩み寄り、膝を折ろうとすると女王は手を伸ばし止めた。

 「もう膝を折る必要はない。汝の立場は『王家功労位』、臣下に非ず。──よいか」

 胸の白百合徽章が重みを増すように感じ、彼女はしっかり頷いた。
 「……はい、陛下」

 「問う」女王の声が低く響く。「フェルディナントをいかに裁すべきと考える」
 突然の問いに室内がざわつく。だがアーデルは深呼吸をひとつ。

 「廃嫡は済みました。ですが王都近隣に留めれば、再び奸計を巡らす恐れ……。北領よりさらに遠く、港も街道も乏しい地へ流刑とし、外部との書簡・面会を禁じるべきかと」
 軍務卿が目を見開き、宰相が口を噤む。まさか柔弱と侮っていた侍女官から、これほど剛断な提案が飛び出すとは。
 女王は静かに目を細め、やがて頷いた。「同意する。流刑地は西方寒海の孤島《カロス》──外洋流氷域に浮かぶ絶海の岩砦。離反者を二度と本土へ戻さぬ場所だ」

 勅書にその名が記され、王家の赤印が押される。
 「これにより北領公フェルディナント、明暦一二一八年四月二十日付で《終身島流刑》を宣告」
 宣言の瞬間、執務室に張り詰めた空気が弦のように震えた。

 囚われの〈夜鷹〉が絶望の呻きを漏らす。「殿下……!」
 アルトハイムが鎖を引き、冷徹に告げる。「共犯としてお前たちも島送りだ。外界へ戻る道は永久に閉ざされる」

 ◇  ◇  ◇

 夕刻、埠頭。軍旗を掲げた黒船《氷刄》が低い汽笛をあげる。
 鎖を引かれたフェルディナントは、粗末な囚人服の上にかつての王子外套を無理やり羽織っていた。誇りを捨てきれぬ彼は、破れた裾を踏みながら振り返る。尖塔の夕映えの中、女王も侍女官も影のように遠い。
 「私を追放すれば、母上は後悔する!」
 叫びは波音に攫われた。見送りの姿はない。剣を佩いたアルトハイムだけが桟橋を踏み、最後まで監視していた。

 アーデルハイドは王宮の高窓から黒船の帆先を見守っていた。
 「これで……終わるでしょうか」
 女王の影が隣に立つ。「終わらぬわ。だが第一の刃は折った。試練は続く。守る覚悟は?」
 白百合の徽章を握りしめ、アーデルは迷いなく答えた。

 「──昨日より強く、明日まで続く覚悟があります」

 女王の唇が微かに綻ぶ。「良い返事。では明日の儀式も遅刻は赦さないから」

 黄昏の光が二人を照らし、王宮の影は長く伸びて街石を包み込む。
 北の影は遠ざかった。けれど別の夜が、静かに翼をひろげ始めていることを、まだ誰も知らない。

6‑3 呪毒の夜──心を蝕む“復讐”と、その鎮め方



 北領公フェルディナントが流刑へ向かった翌晩。
 王都は祝祭のような高揚と、不気味な沈黙を同時に孕んでいた。街人は「反逆者が去った」と杯を掲げる一方で、「王子がまた刃を差し向けるのでは」と囁く。──王家の影は、なお長く街石を濡らしている。


---

◆ 失われた“日常”

 アーデルハイドは己の執務机に向かいながら、羊皮紙の文字が霞んで見えた。
 昼間は平静を装っていた。だが夜半、刺客の短剣が閃いた情景が脳裏に焼きついて離れない。暗渠に響く金属音、刃の先で揺れる毒の滴。
 ──もし鉄格子が二重でなければ。
 ──もしアルトハイムの剣が一瞬遅れていれば。
 想像は雪崩となって押し寄せ、ペン先を震わせる。

 そこへ静かなノック。扉を開けると、クララが湯気の立つミルク煮リンゴを盆に載せて立っていた。
 「夜食にどうかしら。桂皮が緊張をほぐすって、侍医長が」
 だが甘い香りにも心は落ち着かず、匙を握る手が硬い。
 「……大丈夫?」クララが囁く。アーデルは微笑もうとしたが唇がうまく動かない。
 「平気よ。転ばない訓練も、毒の対処法も習ったでしょう?」──なのに胸の鼓動は速まる一方だった。


---

◆ 親衛詰所、深更の闇

 消灯後の親衛兵舎。アルトハイムは執務机に書簡を並べ、当直将校に簡潔な指示を与えていた。
 「明晩から配置を換える。南中庭の渡り廊下に弓兵を二名、魔符師を一名。侍女官居室周辺の暗所は水晶提灯で照度を保て」
 命令を終えると、剣帯を外して椅子に沈みながら眉間を揉む。──“盾”を増やしても、守る相手が怯えていては意味がない。

 そこへ戸口をノックする気配。開けると、薄衣の侍医長が細長い包みを差し出した。
 「侍女官殿の睡眠を助ける香草です。が──薬草では恐怖は抜けぬ。精神の護りは貴公が担ってやりなさい」
 アルトハイムは無言で礼を取り、包みを懐に入れた。


---

◆ 中庭の月、二人の稽古

 翌日、昼の授業を終えたエレイン王子が居眠りにつくころ、アルトハイムはアーデルを南庭へ誘った。
 「剣ではなく、歩法の稽古だ。夜の悪夢は足裏の安定から解ける」
 砂利の上を裸足で歩かせ、次に苔石、最後に木橋へ。段差の感触を意識して踏み替える。
 初めは震えていた足首が、十歩、二十歩で力を取り戻す。アーデルは額の汗を拭いながら、はじめて自分の呼吸が深くなるのを感じた。

 「身体が動けば、心は後からついて来る。……剣士の格言だが、魔法使いにも当てはまる」
 アルトハイムは木橋の欄干に寄りかかる。剣士の影が午後の陽射しに長く伸び、アーデルはふと問いを漏らした。
 「……怖くないの? 昨日の毒刃がもっと巧妙だったら、今ここにあなたはいない」
 「私は剣士。刃のかたわらが生業だ。怖れる時は引退の時だろう」

 淡々とした返事だったが、アーデルはその静けさの底に大きな火を感じた。
 「あなたがいなくなるほうが、よほど怖い」
 呟きが風にまぎれ、二人の間に落ちた。アルトハイムの瞳がわずかに揺れ、すぐ定位置の硬さへ戻る。


---

◆ 夜半の小聖堂

 訓練三日目。アーデルは聖堂で一人、蝋燭を灯していた。
 石床にひれ伏し、掌を組む。魔法を使い続ける負荷より、守るべき女王が暗殺と隣り合わせにいた事実のほうが重かった。
 「私の魔法が陛下の弱点に……」
 自嘲が漏れる。そこへ背後から燭火が揺れ、アルトハイムが跪いた。小さな布包みを差し出す。
 「侍医長から預かった香草茶。だが効き目は一時だ。──不安の根を断つには、誰かに話すしかない」

 アーデルは蝋燭を見つめた。「……聞いてくれる?」
 夜蝉の鳴き声だけが合間に入り、彼女は語り始めた。
 十五歳で初めて魔法が発現し、周囲の目が変わった。家族でさえ彼女を“聖遺物”扱いした。友と笑うたび「魔法を分けて」と囁かれた。──そして今、義兄であった王子が命を狙った。
 「若返りは祝福だったはずなのに、私を孤独に閉じ込めた檻になりつつある」

 アルトハイムは蝋燭の芯を整え、炎を揺らした。
 「孤独を選ぶ必要はない。剣士は一騎で戦場に立つが、背後には同じ紋章の仲間がいる。……貴女にもいる」
 彼は革手袋を外し、白い掌を示す。
 「魔法を欲する手は拒絶していい。だが魔法の有無ではなく“貴女”に伸びる手は、握り返してもいい」

 アーデルの胸で何かが解けた。恐怖が完全に消えるわけではない。だが檻の鍵が音を立てて外れた心地がした。
 彼女は掌を重ねた。温もりが脈と重なり、蝋燭の灯がひときわ明るくなる。


---

◆ 白百合の夜明け

 数刻後、小聖堂の鐘が朝を告げる。
 透き通る青の窓から初光が差し、アーデルは微笑んだ。――昨夜、ほんの一瞬うとうとと眠れた。悪夢は現れず、代わりに花の咲く夢を見た。
 女王の若返りの儀を終えると、エレイン王子が走り込んで来る。「ねーちゃん、九九ぜんぶ言えたよ!」
 アーデルは膝をついて笑い、「では今日は掛け算のお菓子ね」と答えた。

 廊下の先でアルトハイムが見守る。剣士の影は長いが、その輪郭はもう冷たいだけではない。
 アーデルは真っ直ぐ歩き出す。転びそうになっても、背中に風を感じる。
 恐怖も孤独も、刃のように迫る復讐も──盾と剣と、白百合の魔法を縫い合わせた新しい鎧で、きっと乗り越えられる。

 そして彼女は知る。
 北の牢城から放たれた影は折れたが、次は誰が、どんな欲望で若返りの鍵を狙うかは分からない。
 けれど夜毎に揺らいだ心は、もう剣士の掌と星の下で鍛えられた。
 夜鷹の刃よりも鋭い意志で、アーデルハイドは女王の“明日”を迎えに行くのだった。

6‑4 夜明けの合奏――揺れる心、囲む手

 刺客が鎮圧されて三日。
 王宮は一見平穏を取り戻していたが、アーデルハイドの胸にはまだ氷の欠片が残っていた。昼のあいだは業務の波に押し流されて紛れるものの、夜半――窓硝子に月が射し込むと、不意に脈が早鐘を打つ。
 〈もし次の刃が、もっと巧妙だったなら〉
 思考の隙間に湧きあがる声。目を閉じれば暗渠で跳ねた毒刃が再生する。深呼吸を繰り返しても、胸郭がじわじわと締まった。

 そんな夜、女王エレオノールから私的な招きを受けた。
 場所は南翼離れの音楽室。壁一面の窓に重ねた紗のカーテンが揺れ、ろうそくの灯が檀木の床を照らしている。
 扉を押すと、部屋の中央に円卓。その周りに陛下、親衛隊長アルトハイム、侍女クララ、そしてまだ眠たげなエレイン王子が並んでいた。机上には銀糸の譜面と、大小の楽器。

 「夜更けに失礼ね」女王は微笑んだ。「今日は“眠りの合奏”を用意したわ。音の鎧で恐怖を遠ざけるの」
 アーデルが首を傾げると、クララが小太鼓を手渡し、アルトハイムはヴィオラ・ダ・ガンバの弓を構える。王子は木製の鈴を嬉しそうに揺らした。

 「昔の医師が書き残しているの」女王はピアノ椅子に腰を下ろす。「不安は冷たい水のようなもの。音楽と温かい菓子で囲えば、氷は自然に溶ける、と」
 アーデルの前に置かれたのは小さなハープ。金の糸のような弦を爪弾くと、かすかな和音が夜気を震わせた。

 女王はゆるやかなテンポでバロックの子守歌を弾き始める。
 アルトハイムの低い弦が寄り添い、クララが太鼓で鼓動を刻み、王子の鈴が星屑のリズムをふりまく。
 アーデルは震える指で弦を撫でた。はじめは戸惑いで音が途切れがちだったが、仲間の響きが寄せては返す波のように支えてくれる。深い低音が背を押し、透明な鈴が肩を撫で、ピアノの旋律が胸下の氷を陽光で包む。音が重なるほど、氷塊は静かに融解した。

 ――この音の輪が守ってくれる。
 そう思った瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと外れ、呼吸が深く落ちる。弦の震動が掌から腕へ、心臓へと沁み込んでいく。

 曲が終わると、王子が両手を挙げた。「もう一回! 今度はぼくが大きい鈴!」
 皆が笑い、女王がピアノの蓋を軽く叩く。「二曲めは踊り歌よ。騒いで疲れたら、嫌でも眠れるはず」

 夜の音楽室は小さな舞踏会になった。王子が机を回って鈴を鳴らし、クララがステップを踏み、アーデルは失敗しながらもハープでリズムを追う。アルトハイムは片眉を上げつつも、曲の終盤で大胆なグリッサンドを差し込み、思わず喝采が起きた。

 やがて王子がエネルギーを使い果たし、椅子に沈みこむと、女王はそっと演奏を止めた。
 「さて、夜更かしはここまで。お茶にしましょう」

 ティーセットの蓋を開けると、湯気の中から蜂蜜と檸檬の香り。甘酸っぱい匂いが胸郭に降り、アーデルは自然に笑った。
 女王がカップを差し出す。「恐怖は食べられない。でも食べ物を恐怖に変えられる愚かな者もここにはいないわ」
 アーデルはカップを受け取り、白百合の徽章にそっと触れた。「陛下、ありがとうございます」

 アルトハイムが低く咳払いし、窓を開け放つ。新鮮な夜風がカーテンを膨らませ、遠くの星を呼び込んだ。
 「侍女官殿。転ぶくらいなら私が支える。だが眠れぬ夜は自分で起き上がり、歌えばいい。剣士の夜稽古も歌から始まる」
 「ふふ、それは初耳ですわ」

 王子が半分眠りながら呟く。「アルもねーちゃんも、おかあ……陛下も、みんな歌うとやさしい」
 女王は微笑んで額に口づけ、「そのやさしさこそ王の力よ」と囁いた。

 時計が零時を告げると、音楽室を出た。回廊に並ぶ燭台が温かな炎を揺らし、床の影がゆらゆらと重なり合う。
 アルトハイムが先に立ち、王子を寝室へ運ぶ。クララは食器を片づけ、残ったアーデルは女王と肩を並べて歩く。

 「恐怖は弱さではない」
 女王の言葉が静かに落ちる。「弱さを自覚し、受け止め、それでも前へ出る強さこそ誇りよ」
 アーデルは夜空を仰いだ。昨日見た星座が、今日は少し近くに感じられる。
 「陛下。明日からは自分で歌います。転ばぬよう、でも音を外しても笑えるように」
 「上手く歌えずとも聞き手がいる。忘れぬことね」

 言葉を交わす間に居室へ着く。扉が閉まる直前、アルトハイムの低い「おやすみ」が背中から届いた。

 蝋燭を消すと、静寂が降りた。窓外の星明かりは柔らかく、胸中の氷は跡形なく溶けていた。
 〈また刃が来ても、私には歌と盾と剣がある〉
 瞼が落ち、夢の淵で金糸の旋律が揺れた。復讐の夜は去ったわけではない。だがそれを恐れすぎる夜も、同じだけ遠ざかっていった。

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