「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第10章『永遠の傍にいる方法』

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10‑1 静けさは紅茶の香りとともに

 王宮の春は、いつも気まぐれに訪れる。
 昼にはまだ冷たい風が花壇の土を乾かし、夜になると若い芽を包むような霧が降りる。その淡い陽気と夜露の呼吸が数えきれない日々を織り込み、長かった動乱の影を少しずつ薄めていく。──レーベンブルグの馬車が城門を去ってから、すでに二八日。王都は見違えるほど穏やかになった。

 正午を告げる鐘が鳴る頃、アーデルハイド・フォン・リリエンベルク――いまは〈白百合準后〉となった彼女は、南塔二階のガラス張りティーサロンにいた。
 白いクロスを掛けた丸卓には、香り高いダージリンのティーポットと蜜漬け杏のタルト。窓際の鉢植えでは、春を待ちきれないゼラニウムが緋色の蕾を揺らしている。

 「久しぶりね、ゆっくり紅茶を飲むのは」
 対面にはエレオノール女王。
 普段の政務服ではなく、柔らかな生成りのガウンを肩から羽織り、淡い翡翠の指輪だけを装いに残している。肌は例年と変わらぬ若さを保ちながらも、瞳に浮かぶ光はどこか穏やかだ。
 「陛下もお忙しそうでしたもの」アーデルが微笑む。「昼下がりに紅茶へお誘いするだけでも、一週間前に伺いを立てておかねばならなくて」
 「ならば今日は公務ではなく“友人のお茶会”として扱いましょう」
 女王はそう告げてポットを傾ける。黄金色の紅茶が細い糸を描き、カップの底に小さく渦を作った。

 窓の外では、訓練場の子どもたちが歓声をあげて駆けている。木剣を振り回しているのは王子エレインと衛士見習いの少年少女。彼らを教えるアルトハイム隊長の声が時おり届き、斜面の芝に影を落としてはすぐに遠のいた。
 「王子殿下、すっかり“転ばない走り方”を覚えられましたね」
 「ええ。朝ごとにあなたの焼いた乾パンを“落とさず走れたらおやつ”と約束しているでしょう? 甘い報酬は騎士道の号令より効くのよ」
 女王は小さく肩を震わせ、タルトを楽しげに口へ運んだ。

 アーデルは湯気の向こうで一瞬まぶたを下ろす。
 ── 平穏。花瓶が割れて追放を宣告されたあの日には想像もできなかった、やさしい時間。
 その静けさが、自分の魔法によってつくられたことへの責任を噛みしめるように、両手でカップを包む。
 「陛下、最近は魔法をかけ終えたあと、時々“必要以上に戻しすぎていないか”不安になるのです」
 「不安を覚えるということは、まだ正しい加減を測ろうとしている証。恐れる心を捨てたときこそ魔法は刃になるわ」
 女王は背もたれに寄り、赤い唇を弧にした。
 「それに――妾はそなたの若返りで見目を保っているだけではない。心も若くしてもらっているのだから」
 「心を、ですか?」
 「ええ。そなたが傷つけば妾は焦り、そなたが笑えば妾も笑う。歳を重ねるほど無感動になると言うけれど、そなたの傍に立てば老境の壁など薄氷に過ぎぬわ」

 言葉とともにカップが触れ合い、小さな澄んだ音がした。
 「……恐れ入ります」アーデルは頭を垂れた。「ですが、私にはまだわからないことが多いのです。老いとは何か、美とは何か――“若さ”を失ったとき王宮はどう在るべきか」
 「答えは簡単ではない。だが一つ言えるのは、老いは哀しみでなく“ゆるし”だということ。人がすべての望みを得られぬまま夕暮れを迎えても、それを受け入れられる柔らかな闇。それが老いよ」
 アーデルはその言葉を胸へ落とし込み、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。窓辺のゼラニウムが、陽を浴びて花弁をわずかにひらく。

 話題はやがて王宮の些事へ移る。
 王子の教育係に新しい数学教師を招いたこと、竈の運営に協会が正式に参画を表明したこと、赤子となったマリア・ローザが修道院で初めて笑ったという便り――。
 どれも血の匂いのしない、柔らかな報告ばかりだ。アーデルは自分が淹れた二杯目の紅茶を差し出しながら尋ねた。
 「修道院の園長様が『赤子は歌が好き』と書き添えてくださっていました。いつか院を訪ね歌って差し上げても?」
 「もちろん。そなたの声は子守歌に向いているもの」

 女王はそっと立ち上がり、鏡張りの壁面の前に歩み出た。複数の自分と、背後に映るアーデルの姿が重なる。
 「白百合準后。――妾は、いつか必ず老いる。そなたの魔法を以てしても、それは避けがたい。だが老いてもなお、そなたは妾のそばにいると約束してくれるか」

 問いは静かな水面を叩く石のよう。アーデルは立ち上がり、鏡越しに女王の背を見た。
 「陛下が夜明けを望まれるかぎり、私は昨日へ戻す魔法をかけます。──ですが、本当の若さは陛下の心から生まれるもの。心が沈みそうになったら、私は紅茶とお菓子を持って参上します」
 「頼もしい言葉ね」
 女王は振り返り、指を絡めた。「きょうの紅茶は一つ覚えた。焦がし杏と花の蜜をほんの一滴。若さではなく幸福を甘くする調合」
 「レシピ帳に追記いたしましょう。百年後の王宮も、この香りで満たされるように」

 笑い声が重なり、ガラスは春の陽を受けてきらめいた。
 やわらかな静謐。それは戦火をくぐり抜けた人々だけが持つ、壊れもののような光。
 アーデルはカップを口元へ運び、蜜と紅茶の香りを胸いっぱいに吸い込む。
 (永遠などない。けれど“永遠に傍にいる方法”はある……)

 若返りの魔法は時を巻き戻す。しかし心は、日々を紡ぐごとに前へ進む。
 その交差点に立つ自分こそが、女王にとっての「永遠」になるのだ。そう思うと、胸の白百合が一層温かく脈を打った。

 外で王子の歓声が上がる。「アル! 次の演習は二十回だって!」
 アルトハイムが「転ばなければ、な」と応じる声が届き、アーデルと女王は顔を見合わせた。
 「どうやら休憩が要るようね」
 「蜂蜜入りの乾パンを用意させますわ」

 平穏は紅茶の湯気とともに立ち上り、王宮の高い天窓へ溶けていった。
 戦いは終わり、けれど未来はこれから。
 白百合準后と若き王子の物語は、静かな午後の陽射しのように──まだ柔らかく、まだあたらしく、続いていく。

10‑2 「いつまでも妾のそばに」――月光庭園、永遠の契り

 夕べの政務を終えた王宮に、銀の鐘が九つを響かせた。
 城壁の内側はすでに灯火管制が解かれ、侍女たちは日の終わりを示す聖歌を口ずさみながら寝支度を整えている。だが中央庭園だけは、なお淡い光をまとっていた。
 ——満月が石畳を流れる泉のように照らす夜。

 アーデルハイドは白いマントを羽織り、女王エレオノールの後ろ姿を追って歩いていた。
 月光庭園と呼ばれるその一角は、夜咲きの銀蓮と蒼薔薇が混植され、昼間には見えない輝きを放つ。湿った甘い香が風とともに漂い、すべての足音を柔らかく包む。

 「随分と夜更けの散歩ですね、陛下」
 声をかけると、女王は薄いヴェールのような息を吐いた。
 「昼の紅茶も良いけれど、夜の月に照らされる花はまた格別よ。——そなたには、いま少しだけ王ではなく“姉”の顔で付き合ってほしい」
 アーデルは思わず肩をすくめる。「姉……と呼ばれるには恐れ多いですわ」
 「妾の妹は幼子に還った。だから、そなたが姉でも良いではないか」
 冗談めいた響きの奥に、わずかな寂しさが混じる。アーデルは女王の横に並び、歩幅を合わせた。

 池のほとりには白大理石のベンチがあり、二人はそこへ静かに腰を掛けた。
 水面に揺れ込む月影が、女王の横顔をやわらかく縁取る。肌は若さを湛えながらも、光の陰影は年輪のような深みを映し、アーデルは目を奪われた。
 「陛下……」
 「言いにくいことほど静かな場所で言うものだ」
 女王は手袋を外し、冷えた指先で銀蓮の花弁を撫でた。「そなたには、いつまでも妾のそばにいてほしい」

 アーデルの胸がとくりと鳴る。日中のティーサロンでも似た言葉を聞いた。しかし、今夜の声色は不思議な震えを含んでいた。
 「……準后の任ならば生涯をかけて務める覚悟です」
 「任ではない、想いだ。王としての命令ではなく、一人の人としての願い」
 女王は指を組み、月の光をすくうように膝の上へ置いた。
 「子を産む后も、忠節を誓う臣も、皆やがて時の彼方へ去る。若返りの魔法が止めるのは肉体だけで、心の空白を埋めることはない。だが、そなたと過ごす時間だけは“空白”にならぬ」

 アーデルは息を呑んだ。女王が己の弱さを見せるのは、長い王宮生活で数えるほどしかない。
 「わたしがお傍に居続ければ……陛下は永遠を恐れずに済みますか」
 「永遠は存在しないから尊い。けれど、永遠に近いものを共に歩む友が欲しいのだ」

 月光が雲で遮られ、二人の影がにわかにくすむ。アーデルはきゅっとショールを握りしめた。
 「陛下。私は魔法を使います。前日への若返りは王家に必要ですが、同じだけ“歳月を重ねる尊さ”も信じています。ですから——」
 女王は目を細める。「言葉を選ばず、言ってみよ」
 「もし、陛下がいつか“魔法をやめたい”とお感じになったら、私は必ず止めます。でも止めると決められた日には、わたくしも同じ時を生きる覚悟で魔法を手放します」

 雲が流れ、光が戻る。女王はゆっくり瞳を開き、底のない青が露を受けて輝いた。
 「それは、いつか妾が老いを受け入れる日が来ても——そなたは傍にいると?」
 「はい。皺も白髪も、すべて陛下の歴史。私は紅茶とお菓子でそれを祝います」

 沈黙。夜風が銀蓮の湖面を震わせ、小さな波が月影を砕いた。
 女王はその波紋を見つめ、やがて微笑む。「人は皆、老いを恐れたくて美を欲する。だが恐れを分け合える友が一人いれば十分なのだな」
 彼女はそっとアーデルの手を取る。指先は淡く冷たいが、掌は鼓動の熱を帯びていた。
 「ならば誓おう、二人で歳月を歩むと」
 「はい」

 手を重ねたまま、女王は月へ祈るように瞼を閉じ、口元で呟く。
 「——そして王子が立派な王冠を戴く日、そなたは母の座でなく、友として玉座の脇に立っておれ」
 「母ではなく、友……」
 「母子とはやがて離れる、だが友は並び続ける。そなたが選んだ覚悟を王子にも伝えてやってほしい」

 アーデルは頷き、胸の白百合徽章をそっと撫でた。金糸で縁取られた花弁は月の光を受け、やわらかく光を返す。
 (永遠を誓う指輪より、朽ちない木のように。私は王家の傍らで根を張り、緑を分ける友になるのだ)

 そこへ、遠く塔の上から夜警のラッパが三度鳴った。
 女王が立ち上がり、マントの裾を払う。「夜が深い。戻ろうか、白百合」
 「はい、陛下。今日の月光は少し若返りすぎて眩しゅうございますから」
 二人は笑い合い、並んで回廊へ向かった。

 振り返ると、銀蓮がいっせいに風に揺られ、まるで月光の拍手のように葉を鳴らしていた。
 アーデルはその音を背に受けながら、静かに歩調を合わせる。いつか魔法を手放す日が来ても、恐れることはない——そう心に刻みながら。

 夜の王宮は静かだが、二人の足音は確かに未来へ続いていた。やがて麦粥の香る朝が来ても、月光庭園の誓いは消えない。
 白百合と王は、永遠に最も近い距離で、同じ時を歩むことを選んだのだから。

10‑3 「ならばエレイン王子と婚約させよう」――玉座の爆弾、白百合ぐらり



 夜の月光庭園で「そばにいよ」と誓いを交わして三日。
 王宮は穏やかなまま、しかしざわつく噂の種が芽を伸ばしていた。——“白百合準后と王子の婚約はいつ布告されるのか”。

 そして迎えた王暦一二一八年 卯月十五日。
 枢密評議と諸侯院連席の大広間には、金糸の天蓋と百合の紋章旗が並び、上席にエレオノール女王が坐す。
 左右に宰相・軍務卿・僧正。列席を許された諸侯は二十名。
 その中央、白いマントに薄金のショールを纏ったアーデルハイドが呼び出された。彼女はまだ理由を知らない——少なくともそう思っていた。

 女王は王錫の石突きを軽く床に打つ。
 「本日集めたのは一件。白百合準后の将来をめぐる混乱を収め、王位継承に安寧をもたらすためである」
 ざわりと空気が揺れる。諸侯は期待と焦燥のまなざしで侍女準后を見た。
 アーデルは胸の徽章を押さえ、緊張を飲み込む。

 女王は続ける。「結論から言おう——アーデルハイド・フォン・リリエンベルクを、王位第一継承者エレイン・フォン・エレオノールと婚約させる」

 大広間に、瞬きほどの沈黙。
 次いで轟くような騒然。宰相が目をむき、軍務卿が咳込み、僧正の聖典が膝で跳ねる。諸侯は顔を寄せ合わせ、耳打ちが飛び交う。
 当のアーデルはというと、頬から血の気が引いたまま硬直していた。

 ——「だって六歳ですけど⁉」

 声が漏れたのは自分か、頭の中か。反射的に王子を探すと、横の小椅子で王子本人がびしっと背筋を伸ばしていた。
 昨日まで使っていた訓練用上着ではなく、正式な小礼服にミニチュア剣。眉間に皺を寄せているが、靴の先で床をむずむず叩いているあたり、やはり子どもらしい。

 女王は穏やかに片手を上げ、ざわめきを鎮める。「諸卿は幼き結婚を疑問視するかもしれぬ。しかしこれは“婚姻”ではなく“王家後見の誓約”だ。正式な成婚は王子が成年に達してから」
 宰相が血相を変えつつも質問に立つ。「な、何ゆえ今、形式だけとはいえ婚約を?」
 「白百合の魔法を『王冠を狙う矢』から永久に守る盾を用意するためだ。——最も純粋で、決して寝返らぬ盾。それが王子である」

 アーデルは我に返り、震える声を絞る。「陛下。それは……わたくしにとっても王子にとっても重責。この子の未来を縛ることになりませんか?」
 王子がすっと立ち、彼女の袖を掴んだ。「ぼくが決めた。ねーちゃんを守る剣になるって誓ったから、婚約も覚悟も選ぶ」
 幼い声は驚くほど澄んでいた。諸侯のさざめきが止み、広間に静けさが落ちる。

 女王は微笑み、玉座から歩み降りる。「聞いたろう。まだ六歳、されど第一王子としての覚悟を見せた」
 彼女は銀の指輪が納められた小箱を取り、アーデルの前で開いた。
 「白百合準后、そなたが真に王家の友であり続ける証として、この婚約を受けるか?」

 脳裏に駆け抜ける過去——花瓶を割って追放を命じられた日、王子の刃、王妹の誘拐。
 その度に伸ばされた剣と盾。
 アーデルは膝を折り、深く一礼した。
 「……ひとつ条件を」
 「申せ」
 「わたくしが王子と肩を並べるその日まで、自分自身に魔法を濫用いたしません。――王子が成長する時間を、等しく歩みます」

 女王は満足げに頷き、指輪を差し出す。「美しい提案だ。時を止めるのではなく、待つと決めたか」
 アーデルは微笑み、リングを薬指の根で止めた。大きすぎてするりと落ちる。王子が慌てて受け止め、「大きくなったらぴったりにする!」と宣言し、再び広間に笑いが戻った。

 僧正が聖典を掲げる。「神の御前に契りを。汝らは互いの未来を護り合い、民と王国の若さを育むものなり」
 太鼓が打たれ、ラッパがファンファーレを奏でる。紅白の幕が降り、宰相が諸侯へ向き直り声を張る。
 「——よって本日、白百合準后と王位第一継承者の婚約をここに公証す!」

 花びらが高窓から舞い、アーデルは王子の手を引いて立ち上がった。
 「殿下、これが正式の婚約式です。……大丈夫、転ばず歩けますね?」
 王子は胸を張り、模擬剣の柄を叩く。「うん! 転んでも、自分で起きる!」
 アルトハイム隊長が列の後方で静かに剣を抜き、祝賀の敬礼を送った。白銀の刃が光を受けて輝く。

 こうして王子と白百合準后は「未来」の鎖で結ばれた。
 もとより鎖は重い。しかし二人の歩む速度が同じなら、鎖はリボンに変わるだろう。
 アーデルは胸の徽章を撫で、心の内でそっと誓った。

 ——時を止めず、時を共に刻む。これが永遠の、最も優しい魔法。

10‑4 「時を止めておけ」「……比喩ですから!」――白百合エピローグ、そして序章へ

(約2,200 字)

 婚約布告から一週間後。
 王位継承者エレイン王子は、玉座前の踏み段で腕立て伏せと九九の暗唱を日課にし、侍女官長は「準后さまの寝不足は王国の損失」と膨大な祝賀状を深夜に焼却炉へ流し込む。
 王宮は平穏だった。平穏すぎて、ある晩――ふいに嵐が起こる。


---

◆ 一、夜伽の勉強会(?)

 場所は家族棟の講義室。
 アーデルハイドはロウソクの火を見つめ、算術板を抱えた王子を寝かしつけようとしていた。
 「九九は明日にしましょう。目がとろんとしてますわ」
 「ぜんぜん眠くない!」
 王子は机を叩き、紙片を突きだす。そこには揺れる幼児字で “けっこんのじゅんびプラン” と書かれている。

 第一項:ねーちゃんが大人になるまでの間、自分も大人になる
 第二項:転ばない
 第三項:お腹に筋肉をつける
 第四項:剣の腕でアルを超える
 第五項:九九を千回言えるようにする

 アーデルは苦笑しながら第四項を指で撫でた。「隊長殿は百戦の剣士。超えるには十年はかかりますよ?」
 「だから“時を止める”んだ!」
 「それ比喩ですから!」

 あまりの真顔に吹き出してしまい、王子は膨れっ面で寝台へ転がった。
 すると戸口の影からひときわ低い咳払い。アルトハイム隊長が腕を組んで立っていた。
 「九九を千回は喉を傷める。発声練習の前に腹式呼吸を教える。侍女官殿、横隔膜の図解を」
 「え、今ですか!? もう就寝の刻ですが!?」
 王子は大興奮。「よし、はらしきこきゅうだ!」
 こうして深夜の“婚約者強化合宿”が始まり、廊下の侍女たちは笑いを堪えて走り去った。


---

◆ 二、女王ふたたび爆弾を投げる

 翌朝。
 ティーサロンで昨晩の狂騒を聞いた女王エレオノールは、白茶をひとすすりし訊いた。
 「婚約準備は捗っているか?」
 アーデルは涙目で皿を置く。「アルトハイム隊長のおかげで王子は筋肉痛、私は酸欠でした」
 「良いことだ。筋は折れる前に強くなり、愛は転ぶ前に笑いで鍛えられる」
 「笑って済まされる筋肉痛では……」
 女王は卓を軽く叩き、さらりと言った。
 「ならば次の試練。“即位式まで時を止めておけ”」

 アーデル、紅茶を噴きそうになる。
 「ちょ、陛下!? 私が老化調整を引き受けるとは言いましたが、十年以上連続など人体への負荷が……」
 「冗談だ。」
 女王は満開の笑顔で、リスボン橙のタルトを勧めた。
 「比喩だ。心を止めず、でも慌てず。——“時を止めておけ”とは、それくらい落ち着いて見守れ、ということ」
 「……肝が冷えました」
 「凍った心は甘い菓子で溶ける。ほら食べなさい」

 アーデルは端をかじり、ふっと笑った。「たしかに温まります。——王子のタスクにも“タルトを百種類食べる”を入れておきます」
 「千種類でも良いわ」女王が返し、二人の笑いが木窓を揺らした。


---

◆ 三、盾と剣の見守り

 その日の午後。
 訓練場で王子が腹式呼吸を叫びつつ跳ねている隣で、アルトハイムがアーデルに近づく。
 「侍女官……準后殿。あなたの魔法と王子の修業、どちらが先に限界を迎える?」
 「きっと私の魔法より、王子の成長が先です。負荷を減らし、日々の自然な伸びを待ちます」
 「剣も同じ。焦ると筋が裂ける」
 アーデルは頷き、「隊長殿も焦らずお付き合いください」
 「もちろんだ。我が剣は、白百合と王子が歩幅を合わせる限り抜かれることはない」

 子どもたちの笑声が芝生を転がり、小鳥が白百合の咲く垣根に降りた。
 平和は麦粥と汗の匂い、そして遠い未来への小走りで育まれていく。


---

◆ 四、永遠の傍にいる“方法”

 夜。
 アーデルの執務机には二冊の分厚い新ノートが置かれた。
  一冊目:《王子成長観察・時空調整記録》
  二冊目:《女王陛下ご機嫌レシピ百選+α》

 表紙に日付を書き入れ、ペンを置く。窓外には満ちかけの月。
 ——永遠とは出来事ではなく、選び続ける行為。
 彼女は月に向かって微笑み、囁いた。

 「毎日を記録し、魔法を少しだけ使って、笑いを必ず添える。
   それが“時を止める”比喩の、本当の意味」

 机の脇で、王子が紙鎧を着た人形を握りしめ眠っている。口元には「転ばないぞ」という寝言。
 アーデルはそっと毛布をかけ、ランプを落とす。

 白百合の準后と六歳の婚約者、剣士の盾と女王の若さ。
 さまざまな時間が交差する王宮で、静かな夜が更けていく。

 時は止まらない。けれど彼女が隣に在る限り、永遠は今日も続く。

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