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第9章『義母になる未来』
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9‑1 婚約状の雪崩――白百合の値札はいくらか
王妹が乳児となって修道院へ移送された翌週――。
王宮中央郵便局の分配室には、新たな“嵐”が押し寄せていた。
赤い封蝋、金箔押し、異国語の宛名──大小の手紙袋が格子棚から溢れ、仕分け机はまるで山脈。局員たちは悲鳴を上げながら羊皮紙の束を押し込み、宰相府の副官は脂汗を滲ませて立ち尽くす。
「……七日で三千一百四十八通。婚姻照会状と題するもの、国外の大商会からの後援要請状、果ては“若返り巡業”の興行契約書まで……」
副官が読み上げるたび、侍女官長フォンタンヌ夫人の扇子が震えを増した。
「ああ、女王陛下のお耳に入れる前に焼却してしまいたいわ……」
その瞬間、扉が開き、暖色の朝光とともにアーデルハイドが現れた。白の作業衣の袖を軽く折り、胸の白百合勲章が微かに揺れる。
「おはようございます。竈の麦粉納品書を受け取りに――って、これは……?」
局員が小走りで近寄り、赤い封筒の束を差し出す。
「侍女官閣下、すべて貴女宛でございます。差出人は東隣国リュミエル侯国の第一王子殿下。婚約の打診と――」
「ま、待ってください。わたしはまだ十八歳で……」
宰相副官がカウンターを叩き早口で割り込む。
「王子殿下どころか、北海商船ギルド、大陸魔術院、果ては某砂漠皇国の宰相まで! “若返り”の独占契約を結びたいそうで。……これ以上は宰相府で処理しきれませぬ!」
侍女官長も青ざめる。「縁談断り状は昨年の十倍ペース。焼却炉が足りませんの……!」
アーデルは頭を抱えた。王妹事件で魔法の実力を遺憾なく示してしまったうえ、乳児化という衝撃的結末は「白百合の少女は若さを奪いも授けもする」という怪物的噂を加速させていた。
◆
同日午後。玉座の間の側廊では緊急の小議会が開かれていた。
女王エレオノール、宰相、財務卿、そして親衛隊長アルトハイム。テーブル上には婚約照会状の束が積み上がり、簀巻きのように赤い封蝋が光る。
「凍結しきれぬな」女王が溜息を吐く。「“白百合勅令”で接近規制を掛けたはずが、この有様」
財務卿は帳簿をめくり、こめかみを抑えた。「一部の異国商会は“王宮竈プロジェクト”に出資と称し、実質見返りに侍女官殿の技術供与を求めています。断れば穀物市況が揺れかねませぬ」
宰相も苦渋の表情。「王命で一括拒絶すれば諸侯との摩擦が、放置すれば王宮の信頼が……」
そのとき扉が開き、アーデルが頭を下げて入室した。
「陛下、郵便局が崩壊寸前です。火の粉が飛ぶたびに婚約照会状が増えて……どうか封鎖を強めてください」
女王は眉を上げ、ふっと笑った。「そうやって頼ってくるところがまた、諸侯には魅力らしいわ」
アーデルは真っ赤になり、言葉に詰まる。
女王は指先で書類を弾き、「政治的価値が高まるのは国益でもある。しかし、そなた自身の未来を踏みにじらせる気はない」と静かに続けた。
「そこで提案がある。――妾の意のままになる相手と婚約してしまえばよい」
宰相と財務卿が顔を見合わせる。アルトハイムの眉が僅かに動いた。
「そ、そんなご決断を急に……」
アーデルが震える声で言いかけたとき、扉の陰から小柄な影が飛び出した。
「ねーちゃん、ぼく、九九とアルファベット覚えたよ!」
第一継承者エレイン王子、6歳。笑顔で木札を掲げ、アーデルに抱きつく。王宮一、菓子で買収されやすい少年だ。
女王は頬杖をつき、「かわいいわね、王子。――そなたが大きくなったら、白百合のお姉さまを守ってあげられる?」
エレインは無邪気に胸を張る。「うん! アルみたいな騎士になって、ねーちゃんを転ばせない!」
王子の澄んだ声が石壁にこだまし、議場の緊張をやわらげた。
女王はゆったりと立ち上がる。「諸君、答えはここにあるわ。政治は盾と剣。白百合を求める矛先は、白百合自身が選ぶ盾で受け流す。――その盾こそ、次期王たる王子よ」
アーデルの顔から血の気が引く。「陛下っ! 王子はまだ――」
「魔法で時を整えておけば、いずれ釣り合う」
「それは比喩ですっ!」
議場に笑いが起き、だが誰も女王の提案を完全に冗談と受け取れなかった。王子は首を傾げ、「けっこん?」とアーデルの袖を引く。
アルトハイムが静かに言葉を添える。「侍女官殿。王子が守ると言った。――剣士は約束を笑わない」
アーデルは頬を赤らめて俯き、胸の白百合徽章を握った。「……わたくしの魔法は、昨日と明日を繋ぐもの。ならば……王子が大きくなる日まで、時を“整えて”差し上げます」
こうして、白百合勲伯をめぐる縁談合戦は一旦幕引きとなった。
しかし王宮の外――諸侯のサロンや外国使節の館では、別の火種がくすぶり始める。
「第二王子を亡くした女王が、魔法を味方に後継を固めた」
「白百合の魔法は王権の延命装置。それが他国の王子と結びつく可能性は──?」
城壁の中では平穏が戻りつつあるが、壁の外では静かな水面が広がる渦を孕んでいた。
アーデルハイドはまだ知らない。自ら掲げた白百合が、次は“王子の后”という名の冠で、新たな責を課されることを――。
9‑2 「妾のそばにおれ」――鏡の間、二人だけの勅
王宮の一日は長い。
千客万来の謁見、戦馬の蹄音、食堂に漂う麦粥の湯気――それらがすべて静まりかえった真夜中、女王の私室奥にある〈鏡の間〉だけがまだ灯っていた。
厚い緋絹の帳を抜けると、壁一面に据えられた鏡面が燭火を多重に映し出し、まるで無数の夜空が揺れているかのようだった。
「いらっしゃい、白百合」
エレオノール女王は鏡の前に立ち、淡い群青の室内衣に身を包んでいた。胸元には王家の〈星環の首飾り〉。若返りの魔法で保たれた肌が、月の石のように透けて見える。
アーデルハイドは緊張で喉を鳴らし、深々と膝を折った。「夜更けにお呼びとは……」
「夜更けでなくては語れぬこともあるのよ」
女王は鏡の像を一つ示した。そこに映っているのは、王冠を戴いたまま頬に浅い皺を刻んだ“あるはずの自分”だ。
「これが、本来いまの妾の姿。――そなたの魔法なくば、民は老いた王にひれ伏す“義”を疑い始める。だから妾は、そなたを傍らから離せぬ」
アーデルは小さく首を振る。「魔法はお役に立てれば本望です。それ以上の望みなどありません」
「あるのだ。そなたには“望まれて生きる価値”がある。だから今日、婚姻照会が山のように届いた」
女王は静かに歩み寄り、アーデルの肩に両手を置いた。ふわりと檀香の匂いが漂う。
「だが、そなたを欲する者の半分は魔法だけを求め、残りの半分は妾の権威を望む。そして妾はどちらにも渡したくない」
アーデルの睫が揺れた。「陛下……」
女王は唇に憂いを浮かべ、それを押し隠すように微笑む。
「そこで提案――いいえ、勅だ。妾のそばにいよ」
真紅の絨毯の上で、言葉がきらりと刃を放った。アーデルは思わず顔を上げた。
「そば……というと?」
「形式を与える。“王家準后位”、俗に言う〈義母后〉だ。王子が成人し正式后を迎えるまで、そなたを王家内の最高侍女兼教育監として遇する。宮廷席次は三位、待遇は諸侯伯上位」
「わたしが……準后……!?」
耳を疑う尊位だ。諸侯はもちろん、枢密院僧正ですら頭を垂れる席次。
女王はアーデルの手を取り、鏡の前へ連れて行く。二人の像が重なり、双頭鳳と白百合の紋が並んだ。
「恐れるな。そなたは既に王妹の野心を鎮め、竈で民を救い、王子に学を授けた。位は後から付いてくるだけ」
アーデルは鏡像の自分を凝視した。華やかな肩掛けも、宝石もない。けれど女王に手を取られた姿は、侍女官という枠には収まらない何かを纏っている。
「……もし、お受けしてもよろしいなら、ただ一つ条件を」
「申せ」
「私は侍女として陛下に仕え続けたいのです。王子の后候補の名ばかりで終わるとしても、掃除も薬草仕込みも、転倒防止の訓練もやめたくありません」
女王の笑い声が鈴のように響く。「転倒防止まで条件にするとは。良いだろう、好きに転び好きに起きよ」
「転ばないよう努めます!」慌てて訂正し、二人の笑いが重なった。
女王は袖から巻紙を出した。そこには〈白百合準后任命勅書〉と鮮やかな青インクで題が書かれている。下段には空欄――アーデルの署名欄だ。
「この勅が発令された瞬間、諸侯の婚姻状は無効となる。そなたを狙う矢は、王家を狙うに等しいから」
「陛下……アルトハイム隊長は?」
「彼は己の剣をそなたに預けた。位が上がっても変わるまい。むしろ盾はより厚くなる」
アーデルは深呼吸し、羽根ペンを取った。
――アーデルハイド・フォン・リリエンベルク、王家準后位を拝受し、終生をもって女王陛下と王位継承者に忠誠を捧げる。
インクが鏡の火を受けて藍玉の光を放つ。女王が王愛印で封蝋を施し、静かに宣言した。
「これで決まり。――白百合は正式に王家のもの。そして王家は白百合のもの」
ふいに女王の手がアーデルの頬を包む。「ありがとう。……妾は孤独に老いる運命を恐れていた。そなたがいてくれるなら、歳月も怖くない」
アーデルの胸が熱くなる。若返りの魔法は女王の外見を保つが、孤独までは消せない。
「陛下、私は“昨日の若さ”を守るだけではなく、“明日の笑顔”を育てる魔法も覚えます」
「楽しみにしているわ」
鏡の間の無数の反射が、寄り添う二人を白く包む。
外では夜警のラッパが遠く鳴り、星環の首飾りが燐のように瞬いた。
その夜、王国史に新たな称号が刻まれた――〈白百合準后〉。
翌朝、誰より先に縁談断り状の山が灰になり、誰より早く王子が「ねーちゃん、すごい!」と駆け寄ったのは言うまでもない。
準后の第一歩は、侍女官と同じ掃除当番。
だが煌く徽章を揺らしながらモップを持つ姿に、廊下の下級侍女たちは気づいた。
――白百合は階段を上がっても、決して己を飾らない。
だからこそ王も国も、この花を手放さないのだと。
9‑3 王子の誓い――幼き盾、歩き出す
白百合準后任命勅が公布されて三日後。
王宮内郭の〈翠石回廊〉には、めずらしく侍女も廷臣もいなかった。壁の紋章旗がひそやかに揺れ、陽光が翡翠の床をまばゆく照らす。まるで舞台が片付いたあとの静けさ――だが、その中心には幼い主役が立っていた。
エレイン王子、六歳。
袖口をきっちり折った緑の訓練服に、小剣の模擬鞘を帯びている。頬は少し緊張でこわばり、灰青の瞳がぐっと引き締まっていた。
「ねーちゃん、ぼく、“覚悟”って言葉を調べたんだ」
回廊の中ほどでアーデルハイドが立ち止まる。準后位の象徴である薄金のショールが肩で揺れた。
「覚悟……」
「うん。『痛いこともつらいことも自分で選ぶ勇気』だって、辞書に書いてあった」
小さな拳が震えながらも強く握られる。アーデルは思わず跪き、王子と目線を合わせた。「殿下は、何かを選びたいのですか?」
王子は唇を結び、まっすぐ頷いた。「ぼく、ねーちゃんと結婚する覚悟をする!」
言い終えた瞬間、顔が真っ赤になり、足がわずかに後ずさる。それでも視線をそらさず続けた。「いまは子どもだけど、大きくなるまで待ってて。でも待ってるあいだ――転んだり、悪い人にさらわれたり、絶対させない。だから強くなる覚悟をするんだ」
アーデルの瞳が潤む。彼の言葉には、まだ幼児特有の舌足らずさが残っている。それでも「守りたい」という意志だけは、騎士の宣誓と同じ重さを帯びていた。
「……ありがとう、殿下」
差し伸べられた小さな手を取る。ひやりとした掌は少し汗ばんでいて、指先がこわばっている。アーデルはそっと握り返し、柔らかい声で重ねた。
「それでは私も、殿下が大きくなるまで“魔法で時を整える役目”を果たします。でも強くなる修業は殿下自身でしてくださいね」
「うん!」
そのとき、回廊の奥で鎧の靴音が鳴った。
アルトハイム隊長が姿を現し、王子の前で片膝をつく。「殿下、第一回〈王子衛士訓練〉の刻限です。準備は万端と拝察します」
「はい!」王子は声を張り、模擬剣の柄に手を置いた。
アルトハイムはアーデルへ視線を投げ、わずかに口元を緩める。「盾は鋼を鍛える火床と同じ。幼いうちから熱をくぐれば折れにくい」
「どうかご指導をお願いします、隊長殿」
「もちろん」
王子は二人に見守られ、回廊の端へ駆けて行く。小さな背中を夕光が長く伸ばし、その影はほんの少し、騎士のように広かった。
◆
訓練場。
王子のために縮尺を落とした木製障害物が並び、親衛隊の若手が模擬敵役として構えている。衛士見習いの子どもたちも集まり、ざわざわと期待に沸いた。
アルトハイムが木剣を下ろす。「殿下、まず転ばずに走り抜ける。次に丸盾を持って打太刀を受ける。最後に合図旗を読んで退避。――三つ同時に意識せよ」
「やってみる!」
太鼓が鳴り、王子が駆け出す。最初の木柵を片脚で跳び、二つ目の低い杭をくぐる。足がもつれそうになるたび、歯を食いしばって踏ん張る。
アーデルは横の見学席で手を握りしめた。かつて自分が王宮の石畳で何度も転んだように、この子も転ぶだろう。だが――今日は転ばない。必死で地面を掴む靴裏が、そう告げている。
楯受けの段階。王子は小さな丸盾を掲げ、先輩衛士の木剣を肩で受け止めた。打撃の反動で身体がぐらりと揺れる。だが倒れぬまま吠える。「次っ!」
最後の合図旗――青に朱の斜線。退避方向は左。王子は盾を下げず、足を返して駆け抜けた。
「――通過!」
アルトハイムが高らかに宣言し、観覧席から歓声が上がる。子どもたちが眼を輝かせ、若手騎士が微笑む。
王子は息を切らしながら振り向き、アーデルを探すように視線を走らせた。
アーデルが胸に手を当て、深く頷くと、少年の顔が輝いた。
◆
その夜。
女王の執務室では、宰相が新たな縁談照会状を灰の箱に放り込み、女王が朱筆で「不受理」の印を走らせていた。
「白百合準后の婚姻窓口は閉鎖。……やれやれ、これで何通目でしょう」
「四千を越えたと記録しているわ」エレオノールは軽く肩を回す。「人の欲は尽きぬものね」
宰相は咳払いし、別の帳簿を広げた。「しかし、諸侯の一部が“白百合準后位は王家血縁でなく僥倖”と陰口を。王子との婚約を正式に打ち出さぬかぎり、やむことはありますまい」
女王はペン先を止め、窓外の夜景を見る。塔の上に月が薄雲を透かし、竈屋根から湯気が昇っている。
「正式婚約を掲げれば騒ぎは収束する。だが、その日付は王子が自ら決めねばならぬ。覚悟とはそういうものだ」
ふと、机の隅に置かれた小さな紙包みが目に入る。――〈王子訓練初日・無転倒褒賞 クルミ糖〉と、アーデルの丸い字。
女王は柔らかく笑った。「白百合は人の心を転ばせぬお菓子を作るのが上手ね」
◆
深夜。
アーデルは自室で昼間の訓練記録を写し取り、ペンを置いた。窓の外で梟が鳴く。
──わたしは白百合準后。王子が大人になるまで、魔法で“時を整える”守り手。
だが心の奥には微かな不安も芽生える。若さを奪う魔法で王妹を赤子にした日、自分の手の中に“取り返しのつかぬ選択肢”があることを悟った。
「その力を、王子の未来の芽を摘むために使う日は――絶対に来させない」
誓いを胸に、白百合の侍女官はランプを吹き消す。
窓辺でそよぐ夜風が、薄金のショールをはらりと持ち上げ、月光の中で白く耀いた。
王子の学と剣が伸びゆく時間。それを護る盾と魔法と覚悟は、今、確かに育ち始めていた。
9‑4 美を憎しみで求めし者の末路――王宮大広間、最後の勅
春まだ浅い王都に、荘厳の鐘が鳴った。
王宮北翼、大理石の大広間。紅白の絨毯が玉座まで真っすぐ延び、上座にはエレオノール女王、下座には枢密僧正・宰相・軍務卿・列席諸侯。壁の高窓から射す光が白百合と双頭鳳の紋章旗を照らし、祭壇卓の中央には――小さなゆり籠。
緋の刺繍をまとった籠の中で、乳児マリア・ローザ(元マルガレーテ・レーベンブルグ)は、まだ夢の底にいる。
会衆の視線が一点に集まる中、女王が立ち上がった。手には瑠璃色の勅書。
「王妹マルガレーテは、その若さと美を憎しみと嫉妬で求め、王家を脅かした。美しさは奪うものではなく、育むもの――白百合が示したこの理を踏みにじった罪は重い」
広間にざわめきが走る。女王は続ける。
「されど、彼女はいま“幼き無垢”として再生の門に立っている。よって王家は極刑を望まず、代わりに《流離の修道誓》へ付す」
宰相が勅書を読み上げる。――王妹は本日をもって爵位・財産を剝奪、修道院《聖泉の園》に預け、成人年(16歳)まで帰還を禁ず。
僧正が聖典を掲げ、「無垢の身に宿る旧き罪の影を滅し、やがて正しき美へ導かれんことを」と祝祷を唱える。
女王はゆり籠へ近づき、指先で乳児の頰をそっと撫でた――そこには、もはや憎悪でも羨望でもない、ただ柔らかな母性の翳が差していた。
アーデルハイドは側列に控え、胸の白百合徽章を強く握る。自身の魔法が下した結果を改めて見つめながら、その背後で諸侯の視線がざわめいた。
(奪う若さは消える。育む若さだけが残る)
脳裏に女王の言葉が反響し、胸の奥で小さく灯が揺れる。
軍務卿の号令で、銀鎧の親衛騎士四名が乳児のゆり籠を囲み、白い覆いを掛ける。アーデルが歩み寄り、薄桃の毛布を整えた。
「良い旅を。次に会う時は、望む美を育てられる人になっていますように」
乳児の指が彼女の小指をぎゅっと握った。無垢で、あたたかい。
アルトハイム隊長が静かに横へ並び、「盾の任を賜った」と短く伝える。護送の剣は、この瞬間から女王ではなく乳児の未来を守る。
玉座に戻った女王は、最後に一同へ向き直った。
「美しさを憎しみで求めた末路を、王家は二度と許さぬ――かつ、二度と生まれさせぬ。そのために白百合準后が示した慈悲と誓いを、国の礎とする」
大広間に深い黙礼が降りた。薔薇の棘は抜かれ、かわりに芽吹くのは白百合と麦の穂。
◆
夕刻、北門の石橋。
修道院行きの馬車を見送る列の最前で、アーデルハイドは王子エレインと手を繋いで立っていた。
馬車が動き出すと、王子が小さく手を振る。「ばいばい、あかちゃん。また王都で会おうね!」
アーデルは王子の手を握り返し、微笑む。「殿下が立派になった頃、きっと再会できますわ。その時はお友達になってあげてください」
「うん! おれ、剣も九九ももっと上手になる!」
橋の下で夕日が川面を紅く染め、馬車の影が遠ざかる。
アルトハイムが控えめに近寄り、囁く。「これで脅威は払拭された。だが準后位の盾は、これからが重責だ」
アーデルは深く息を吸い、朱に染まる空を仰いだ。
「ええ。若さを憎しみで奪う人が現れぬよう、わたしは昨日と明日をつなぎ続けます」
「剣はいつでも傍に」
「ありがとうございます、隊長殿」
彼女は王子とともに振り返り、王宮の尖塔を眺めた。夕陽を背に白百合旗が翻り、そこから始まる“未来”が確かに脈打っている。
女王は広窓からその光景を見届け、静かに呟いた。
「白百合は咲き続ける。美を守るためでなく、愛を育むために――」
鐘楼が一つ、二つと時を告げる。
王妹の物語は終わり、王子と白百合の新しい章が、深い茜の空に向けてひそかに開いた。
王妹が乳児となって修道院へ移送された翌週――。
王宮中央郵便局の分配室には、新たな“嵐”が押し寄せていた。
赤い封蝋、金箔押し、異国語の宛名──大小の手紙袋が格子棚から溢れ、仕分け机はまるで山脈。局員たちは悲鳴を上げながら羊皮紙の束を押し込み、宰相府の副官は脂汗を滲ませて立ち尽くす。
「……七日で三千一百四十八通。婚姻照会状と題するもの、国外の大商会からの後援要請状、果ては“若返り巡業”の興行契約書まで……」
副官が読み上げるたび、侍女官長フォンタンヌ夫人の扇子が震えを増した。
「ああ、女王陛下のお耳に入れる前に焼却してしまいたいわ……」
その瞬間、扉が開き、暖色の朝光とともにアーデルハイドが現れた。白の作業衣の袖を軽く折り、胸の白百合勲章が微かに揺れる。
「おはようございます。竈の麦粉納品書を受け取りに――って、これは……?」
局員が小走りで近寄り、赤い封筒の束を差し出す。
「侍女官閣下、すべて貴女宛でございます。差出人は東隣国リュミエル侯国の第一王子殿下。婚約の打診と――」
「ま、待ってください。わたしはまだ十八歳で……」
宰相副官がカウンターを叩き早口で割り込む。
「王子殿下どころか、北海商船ギルド、大陸魔術院、果ては某砂漠皇国の宰相まで! “若返り”の独占契約を結びたいそうで。……これ以上は宰相府で処理しきれませぬ!」
侍女官長も青ざめる。「縁談断り状は昨年の十倍ペース。焼却炉が足りませんの……!」
アーデルは頭を抱えた。王妹事件で魔法の実力を遺憾なく示してしまったうえ、乳児化という衝撃的結末は「白百合の少女は若さを奪いも授けもする」という怪物的噂を加速させていた。
◆
同日午後。玉座の間の側廊では緊急の小議会が開かれていた。
女王エレオノール、宰相、財務卿、そして親衛隊長アルトハイム。テーブル上には婚約照会状の束が積み上がり、簀巻きのように赤い封蝋が光る。
「凍結しきれぬな」女王が溜息を吐く。「“白百合勅令”で接近規制を掛けたはずが、この有様」
財務卿は帳簿をめくり、こめかみを抑えた。「一部の異国商会は“王宮竈プロジェクト”に出資と称し、実質見返りに侍女官殿の技術供与を求めています。断れば穀物市況が揺れかねませぬ」
宰相も苦渋の表情。「王命で一括拒絶すれば諸侯との摩擦が、放置すれば王宮の信頼が……」
そのとき扉が開き、アーデルが頭を下げて入室した。
「陛下、郵便局が崩壊寸前です。火の粉が飛ぶたびに婚約照会状が増えて……どうか封鎖を強めてください」
女王は眉を上げ、ふっと笑った。「そうやって頼ってくるところがまた、諸侯には魅力らしいわ」
アーデルは真っ赤になり、言葉に詰まる。
女王は指先で書類を弾き、「政治的価値が高まるのは国益でもある。しかし、そなた自身の未来を踏みにじらせる気はない」と静かに続けた。
「そこで提案がある。――妾の意のままになる相手と婚約してしまえばよい」
宰相と財務卿が顔を見合わせる。アルトハイムの眉が僅かに動いた。
「そ、そんなご決断を急に……」
アーデルが震える声で言いかけたとき、扉の陰から小柄な影が飛び出した。
「ねーちゃん、ぼく、九九とアルファベット覚えたよ!」
第一継承者エレイン王子、6歳。笑顔で木札を掲げ、アーデルに抱きつく。王宮一、菓子で買収されやすい少年だ。
女王は頬杖をつき、「かわいいわね、王子。――そなたが大きくなったら、白百合のお姉さまを守ってあげられる?」
エレインは無邪気に胸を張る。「うん! アルみたいな騎士になって、ねーちゃんを転ばせない!」
王子の澄んだ声が石壁にこだまし、議場の緊張をやわらげた。
女王はゆったりと立ち上がる。「諸君、答えはここにあるわ。政治は盾と剣。白百合を求める矛先は、白百合自身が選ぶ盾で受け流す。――その盾こそ、次期王たる王子よ」
アーデルの顔から血の気が引く。「陛下っ! 王子はまだ――」
「魔法で時を整えておけば、いずれ釣り合う」
「それは比喩ですっ!」
議場に笑いが起き、だが誰も女王の提案を完全に冗談と受け取れなかった。王子は首を傾げ、「けっこん?」とアーデルの袖を引く。
アルトハイムが静かに言葉を添える。「侍女官殿。王子が守ると言った。――剣士は約束を笑わない」
アーデルは頬を赤らめて俯き、胸の白百合徽章を握った。「……わたくしの魔法は、昨日と明日を繋ぐもの。ならば……王子が大きくなる日まで、時を“整えて”差し上げます」
こうして、白百合勲伯をめぐる縁談合戦は一旦幕引きとなった。
しかし王宮の外――諸侯のサロンや外国使節の館では、別の火種がくすぶり始める。
「第二王子を亡くした女王が、魔法を味方に後継を固めた」
「白百合の魔法は王権の延命装置。それが他国の王子と結びつく可能性は──?」
城壁の中では平穏が戻りつつあるが、壁の外では静かな水面が広がる渦を孕んでいた。
アーデルハイドはまだ知らない。自ら掲げた白百合が、次は“王子の后”という名の冠で、新たな責を課されることを――。
9‑2 「妾のそばにおれ」――鏡の間、二人だけの勅
王宮の一日は長い。
千客万来の謁見、戦馬の蹄音、食堂に漂う麦粥の湯気――それらがすべて静まりかえった真夜中、女王の私室奥にある〈鏡の間〉だけがまだ灯っていた。
厚い緋絹の帳を抜けると、壁一面に据えられた鏡面が燭火を多重に映し出し、まるで無数の夜空が揺れているかのようだった。
「いらっしゃい、白百合」
エレオノール女王は鏡の前に立ち、淡い群青の室内衣に身を包んでいた。胸元には王家の〈星環の首飾り〉。若返りの魔法で保たれた肌が、月の石のように透けて見える。
アーデルハイドは緊張で喉を鳴らし、深々と膝を折った。「夜更けにお呼びとは……」
「夜更けでなくては語れぬこともあるのよ」
女王は鏡の像を一つ示した。そこに映っているのは、王冠を戴いたまま頬に浅い皺を刻んだ“あるはずの自分”だ。
「これが、本来いまの妾の姿。――そなたの魔法なくば、民は老いた王にひれ伏す“義”を疑い始める。だから妾は、そなたを傍らから離せぬ」
アーデルは小さく首を振る。「魔法はお役に立てれば本望です。それ以上の望みなどありません」
「あるのだ。そなたには“望まれて生きる価値”がある。だから今日、婚姻照会が山のように届いた」
女王は静かに歩み寄り、アーデルの肩に両手を置いた。ふわりと檀香の匂いが漂う。
「だが、そなたを欲する者の半分は魔法だけを求め、残りの半分は妾の権威を望む。そして妾はどちらにも渡したくない」
アーデルの睫が揺れた。「陛下……」
女王は唇に憂いを浮かべ、それを押し隠すように微笑む。
「そこで提案――いいえ、勅だ。妾のそばにいよ」
真紅の絨毯の上で、言葉がきらりと刃を放った。アーデルは思わず顔を上げた。
「そば……というと?」
「形式を与える。“王家準后位”、俗に言う〈義母后〉だ。王子が成人し正式后を迎えるまで、そなたを王家内の最高侍女兼教育監として遇する。宮廷席次は三位、待遇は諸侯伯上位」
「わたしが……準后……!?」
耳を疑う尊位だ。諸侯はもちろん、枢密院僧正ですら頭を垂れる席次。
女王はアーデルの手を取り、鏡の前へ連れて行く。二人の像が重なり、双頭鳳と白百合の紋が並んだ。
「恐れるな。そなたは既に王妹の野心を鎮め、竈で民を救い、王子に学を授けた。位は後から付いてくるだけ」
アーデルは鏡像の自分を凝視した。華やかな肩掛けも、宝石もない。けれど女王に手を取られた姿は、侍女官という枠には収まらない何かを纏っている。
「……もし、お受けしてもよろしいなら、ただ一つ条件を」
「申せ」
「私は侍女として陛下に仕え続けたいのです。王子の后候補の名ばかりで終わるとしても、掃除も薬草仕込みも、転倒防止の訓練もやめたくありません」
女王の笑い声が鈴のように響く。「転倒防止まで条件にするとは。良いだろう、好きに転び好きに起きよ」
「転ばないよう努めます!」慌てて訂正し、二人の笑いが重なった。
女王は袖から巻紙を出した。そこには〈白百合準后任命勅書〉と鮮やかな青インクで題が書かれている。下段には空欄――アーデルの署名欄だ。
「この勅が発令された瞬間、諸侯の婚姻状は無効となる。そなたを狙う矢は、王家を狙うに等しいから」
「陛下……アルトハイム隊長は?」
「彼は己の剣をそなたに預けた。位が上がっても変わるまい。むしろ盾はより厚くなる」
アーデルは深呼吸し、羽根ペンを取った。
――アーデルハイド・フォン・リリエンベルク、王家準后位を拝受し、終生をもって女王陛下と王位継承者に忠誠を捧げる。
インクが鏡の火を受けて藍玉の光を放つ。女王が王愛印で封蝋を施し、静かに宣言した。
「これで決まり。――白百合は正式に王家のもの。そして王家は白百合のもの」
ふいに女王の手がアーデルの頬を包む。「ありがとう。……妾は孤独に老いる運命を恐れていた。そなたがいてくれるなら、歳月も怖くない」
アーデルの胸が熱くなる。若返りの魔法は女王の外見を保つが、孤独までは消せない。
「陛下、私は“昨日の若さ”を守るだけではなく、“明日の笑顔”を育てる魔法も覚えます」
「楽しみにしているわ」
鏡の間の無数の反射が、寄り添う二人を白く包む。
外では夜警のラッパが遠く鳴り、星環の首飾りが燐のように瞬いた。
その夜、王国史に新たな称号が刻まれた――〈白百合準后〉。
翌朝、誰より先に縁談断り状の山が灰になり、誰より早く王子が「ねーちゃん、すごい!」と駆け寄ったのは言うまでもない。
準后の第一歩は、侍女官と同じ掃除当番。
だが煌く徽章を揺らしながらモップを持つ姿に、廊下の下級侍女たちは気づいた。
――白百合は階段を上がっても、決して己を飾らない。
だからこそ王も国も、この花を手放さないのだと。
9‑3 王子の誓い――幼き盾、歩き出す
白百合準后任命勅が公布されて三日後。
王宮内郭の〈翠石回廊〉には、めずらしく侍女も廷臣もいなかった。壁の紋章旗がひそやかに揺れ、陽光が翡翠の床をまばゆく照らす。まるで舞台が片付いたあとの静けさ――だが、その中心には幼い主役が立っていた。
エレイン王子、六歳。
袖口をきっちり折った緑の訓練服に、小剣の模擬鞘を帯びている。頬は少し緊張でこわばり、灰青の瞳がぐっと引き締まっていた。
「ねーちゃん、ぼく、“覚悟”って言葉を調べたんだ」
回廊の中ほどでアーデルハイドが立ち止まる。準后位の象徴である薄金のショールが肩で揺れた。
「覚悟……」
「うん。『痛いこともつらいことも自分で選ぶ勇気』だって、辞書に書いてあった」
小さな拳が震えながらも強く握られる。アーデルは思わず跪き、王子と目線を合わせた。「殿下は、何かを選びたいのですか?」
王子は唇を結び、まっすぐ頷いた。「ぼく、ねーちゃんと結婚する覚悟をする!」
言い終えた瞬間、顔が真っ赤になり、足がわずかに後ずさる。それでも視線をそらさず続けた。「いまは子どもだけど、大きくなるまで待ってて。でも待ってるあいだ――転んだり、悪い人にさらわれたり、絶対させない。だから強くなる覚悟をするんだ」
アーデルの瞳が潤む。彼の言葉には、まだ幼児特有の舌足らずさが残っている。それでも「守りたい」という意志だけは、騎士の宣誓と同じ重さを帯びていた。
「……ありがとう、殿下」
差し伸べられた小さな手を取る。ひやりとした掌は少し汗ばんでいて、指先がこわばっている。アーデルはそっと握り返し、柔らかい声で重ねた。
「それでは私も、殿下が大きくなるまで“魔法で時を整える役目”を果たします。でも強くなる修業は殿下自身でしてくださいね」
「うん!」
そのとき、回廊の奥で鎧の靴音が鳴った。
アルトハイム隊長が姿を現し、王子の前で片膝をつく。「殿下、第一回〈王子衛士訓練〉の刻限です。準備は万端と拝察します」
「はい!」王子は声を張り、模擬剣の柄に手を置いた。
アルトハイムはアーデルへ視線を投げ、わずかに口元を緩める。「盾は鋼を鍛える火床と同じ。幼いうちから熱をくぐれば折れにくい」
「どうかご指導をお願いします、隊長殿」
「もちろん」
王子は二人に見守られ、回廊の端へ駆けて行く。小さな背中を夕光が長く伸ばし、その影はほんの少し、騎士のように広かった。
◆
訓練場。
王子のために縮尺を落とした木製障害物が並び、親衛隊の若手が模擬敵役として構えている。衛士見習いの子どもたちも集まり、ざわざわと期待に沸いた。
アルトハイムが木剣を下ろす。「殿下、まず転ばずに走り抜ける。次に丸盾を持って打太刀を受ける。最後に合図旗を読んで退避。――三つ同時に意識せよ」
「やってみる!」
太鼓が鳴り、王子が駆け出す。最初の木柵を片脚で跳び、二つ目の低い杭をくぐる。足がもつれそうになるたび、歯を食いしばって踏ん張る。
アーデルは横の見学席で手を握りしめた。かつて自分が王宮の石畳で何度も転んだように、この子も転ぶだろう。だが――今日は転ばない。必死で地面を掴む靴裏が、そう告げている。
楯受けの段階。王子は小さな丸盾を掲げ、先輩衛士の木剣を肩で受け止めた。打撃の反動で身体がぐらりと揺れる。だが倒れぬまま吠える。「次っ!」
最後の合図旗――青に朱の斜線。退避方向は左。王子は盾を下げず、足を返して駆け抜けた。
「――通過!」
アルトハイムが高らかに宣言し、観覧席から歓声が上がる。子どもたちが眼を輝かせ、若手騎士が微笑む。
王子は息を切らしながら振り向き、アーデルを探すように視線を走らせた。
アーデルが胸に手を当て、深く頷くと、少年の顔が輝いた。
◆
その夜。
女王の執務室では、宰相が新たな縁談照会状を灰の箱に放り込み、女王が朱筆で「不受理」の印を走らせていた。
「白百合準后の婚姻窓口は閉鎖。……やれやれ、これで何通目でしょう」
「四千を越えたと記録しているわ」エレオノールは軽く肩を回す。「人の欲は尽きぬものね」
宰相は咳払いし、別の帳簿を広げた。「しかし、諸侯の一部が“白百合準后位は王家血縁でなく僥倖”と陰口を。王子との婚約を正式に打ち出さぬかぎり、やむことはありますまい」
女王はペン先を止め、窓外の夜景を見る。塔の上に月が薄雲を透かし、竈屋根から湯気が昇っている。
「正式婚約を掲げれば騒ぎは収束する。だが、その日付は王子が自ら決めねばならぬ。覚悟とはそういうものだ」
ふと、机の隅に置かれた小さな紙包みが目に入る。――〈王子訓練初日・無転倒褒賞 クルミ糖〉と、アーデルの丸い字。
女王は柔らかく笑った。「白百合は人の心を転ばせぬお菓子を作るのが上手ね」
◆
深夜。
アーデルは自室で昼間の訓練記録を写し取り、ペンを置いた。窓の外で梟が鳴く。
──わたしは白百合準后。王子が大人になるまで、魔法で“時を整える”守り手。
だが心の奥には微かな不安も芽生える。若さを奪う魔法で王妹を赤子にした日、自分の手の中に“取り返しのつかぬ選択肢”があることを悟った。
「その力を、王子の未来の芽を摘むために使う日は――絶対に来させない」
誓いを胸に、白百合の侍女官はランプを吹き消す。
窓辺でそよぐ夜風が、薄金のショールをはらりと持ち上げ、月光の中で白く耀いた。
王子の学と剣が伸びゆく時間。それを護る盾と魔法と覚悟は、今、確かに育ち始めていた。
9‑4 美を憎しみで求めし者の末路――王宮大広間、最後の勅
春まだ浅い王都に、荘厳の鐘が鳴った。
王宮北翼、大理石の大広間。紅白の絨毯が玉座まで真っすぐ延び、上座にはエレオノール女王、下座には枢密僧正・宰相・軍務卿・列席諸侯。壁の高窓から射す光が白百合と双頭鳳の紋章旗を照らし、祭壇卓の中央には――小さなゆり籠。
緋の刺繍をまとった籠の中で、乳児マリア・ローザ(元マルガレーテ・レーベンブルグ)は、まだ夢の底にいる。
会衆の視線が一点に集まる中、女王が立ち上がった。手には瑠璃色の勅書。
「王妹マルガレーテは、その若さと美を憎しみと嫉妬で求め、王家を脅かした。美しさは奪うものではなく、育むもの――白百合が示したこの理を踏みにじった罪は重い」
広間にざわめきが走る。女王は続ける。
「されど、彼女はいま“幼き無垢”として再生の門に立っている。よって王家は極刑を望まず、代わりに《流離の修道誓》へ付す」
宰相が勅書を読み上げる。――王妹は本日をもって爵位・財産を剝奪、修道院《聖泉の園》に預け、成人年(16歳)まで帰還を禁ず。
僧正が聖典を掲げ、「無垢の身に宿る旧き罪の影を滅し、やがて正しき美へ導かれんことを」と祝祷を唱える。
女王はゆり籠へ近づき、指先で乳児の頰をそっと撫でた――そこには、もはや憎悪でも羨望でもない、ただ柔らかな母性の翳が差していた。
アーデルハイドは側列に控え、胸の白百合徽章を強く握る。自身の魔法が下した結果を改めて見つめながら、その背後で諸侯の視線がざわめいた。
(奪う若さは消える。育む若さだけが残る)
脳裏に女王の言葉が反響し、胸の奥で小さく灯が揺れる。
軍務卿の号令で、銀鎧の親衛騎士四名が乳児のゆり籠を囲み、白い覆いを掛ける。アーデルが歩み寄り、薄桃の毛布を整えた。
「良い旅を。次に会う時は、望む美を育てられる人になっていますように」
乳児の指が彼女の小指をぎゅっと握った。無垢で、あたたかい。
アルトハイム隊長が静かに横へ並び、「盾の任を賜った」と短く伝える。護送の剣は、この瞬間から女王ではなく乳児の未来を守る。
玉座に戻った女王は、最後に一同へ向き直った。
「美しさを憎しみで求めた末路を、王家は二度と許さぬ――かつ、二度と生まれさせぬ。そのために白百合準后が示した慈悲と誓いを、国の礎とする」
大広間に深い黙礼が降りた。薔薇の棘は抜かれ、かわりに芽吹くのは白百合と麦の穂。
◆
夕刻、北門の石橋。
修道院行きの馬車を見送る列の最前で、アーデルハイドは王子エレインと手を繋いで立っていた。
馬車が動き出すと、王子が小さく手を振る。「ばいばい、あかちゃん。また王都で会おうね!」
アーデルは王子の手を握り返し、微笑む。「殿下が立派になった頃、きっと再会できますわ。その時はお友達になってあげてください」
「うん! おれ、剣も九九ももっと上手になる!」
橋の下で夕日が川面を紅く染め、馬車の影が遠ざかる。
アルトハイムが控えめに近寄り、囁く。「これで脅威は払拭された。だが準后位の盾は、これからが重責だ」
アーデルは深く息を吸い、朱に染まる空を仰いだ。
「ええ。若さを憎しみで奪う人が現れぬよう、わたしは昨日と明日をつなぎ続けます」
「剣はいつでも傍に」
「ありがとうございます、隊長殿」
彼女は王子とともに振り返り、王宮の尖塔を眺めた。夕陽を背に白百合旗が翻り、そこから始まる“未来”が確かに脈打っている。
女王は広窓からその光景を見届け、静かに呟いた。
「白百合は咲き続ける。美を守るためでなく、愛を育むために――」
鐘楼が一つ、二つと時を告げる。
王妹の物語は終わり、王子と白百合の新しい章が、深い茜の空に向けてひそかに開いた。
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