「女王陛下の侍女、価値を見抜けない無能王子は流刑、秘密を知った王妹は赤子にして口と記憶を封じます

しおしお

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第8章 『欲望の檻』

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8‑1 囚(とら)はれた白百合 ― 地下牢の序曲 ―



 石壁に滲んだ湿気が、頬を撫でた。
 瞼を開けると、歪んだ鉄格子の向こうに燭火がひとつ揺れている。煤で黒ずんだランプは頼りなく、橙の輪郭は暗闇に呑まれては浮き上がり、また沈んだ。
 ここは――どこ? 脳が霧に包まれたまま、アーデルハイドは跳ね起きようとした。だが両手首に走る冷えた痛みが動きを拒む。銀鎖。魔力抑制刻印のついた枷が静かに光を撥ね返した。

 「目覚めたのね、白百合」

 低い囁き。闇の隅から紅いシルエットが滑り出る。マルガレーテ・フォン・レーベンブルグ――女王の実妹、薔薇と畏怖で飾られた公爵令嬢。だが今、彼女の頬は白粉を重ねても隠しきれぬ影に沈み、瞳には狂おしい焦燥が宿る。

 「王妹……殿下……?」
 自分の声がひどく掠れている。最後に覚えているのは侍女控室で嗅いだ甘い沈丁花の香。それが麻酔香だったと悟るには十分だった。

 「安心して。ここは私の離宮よ。姉上の目も、忠犬の剣も届かない」
 レーベンブルグは足元の扉を開け、鉄格子の内に入る。赤絹の裾が石床をかすめ、芳香が重く降る。「あなたの魔法――若返りの秘奥を貰いに来たの」
 アーデルは首を振った。「私の魔法は、陛下と国を守るためのもの。決して他者へは……」
 鉄靴が石を打つ鋭い音。レーベンブルグが髪を掴み顔を上げさせた。
 「忠義? 滑稽ね。世界は美か醜か、それだけで回っている。姉上は若さという王冠を独り占めにした。私にも戴冠する権利があるはずよ」

 従者が現れる。黒外套の男たち、無機質な瞳。手には注射筒と小瓶。ラベルには見慣れぬ錬金術師の印。
 「口で語れぬなら、血肉を裂いてでも調べるわ」

 刹那、胸を掴む恐怖より先に女王の顔が浮かんだ。――陛下がこの姿を見たら、どれほど悲しむだろう。
 「やめて……国外へだけは連れて行かないでください」
 囚われの声が震える。だが瞳は泳がない。「魔法を……殿下におかけいたします。それで満足いただけるなら」
 レーベンブルグの口元がゆるむ。「ようやく分かったのね。いい子だわ」

 その笑みは刃より冷たい。アーデルハイドは静かに拳を握る。若返りの魔法は術者の設計次第――それが唯一、自分だけの切り札だった。

 従者が魔力枷を一時解除し、腕を縄で縛る。レーベンブルグは馬車の出立を命じる。「異国へ行くのは、その“施術”のあとで考えてあげる」
 アーデルはうつむき、心の中で呟いた。〈陛下、どうか……あと一手、わたくしに機会を〉

 馬車が地下搬出口へ向けて動きだす。車輪が闇の通路をきしらせ、銀鎖が静かに鳴った。
 ――白百合は檻の中、だが光はまだ消えていない。
 最初の鎖が外れる刻こそ、彼女が“魔法の尺度”を決める瞬間なのだから。

8‑2 魔法の取引――揺れる馬車、螺旋する駆引き


 地下搬出口から外気へ出ると、肌を刺すような夜明け前の冷気が流れ込んだ。
 石畳に止められた黒幌馬車は、左右の板を厚い鋼で補強し、窓には内側から鉄格子が打ち込まれている。御者台には仮面を付けた黒外套が二人。周囲を囲む従者らは短弩と毒吹矢を携え、沈黙のまま見張っていた。

 アーデルハイドは枷をはめられたまま、馬車後部から木梯子で押し上げられる。内部は思ったより広く、長椅子にはヴェルベットのクッションと白檀の香炉。中央に固定された樫のテーブル。その上には磨き抜かれた銀盆と水晶杯、そして小瓶がずらりと並んでいる。琥珀色、翡翠色、紫水晶のごとき液体。
 マルガレーテ・レーベンブルグは既に中で待っていた。緋色のオペラコートを膝にかけ、蝋燭の灯の下で頬を撫でている。旧い皺がほとんど消え、肌は陶器のように張っているが、眼窩の影は疲弊を隠せない。

 「乗せて。――発車」
 短い命令で扉が閉ざされ、閂が落ちた。轡の音がして、馬車が滑り出す。室内は薄暗く、足下の絨毯が揺れを吸う。

 「さて、契約のおさらいをしましょうか」
 女王妹が指をはじくと、従者がテーブルに一枚の羊皮紙を差し出した。若返りの“対価”として国外逃亡を中止する、という即席の誓約書である。
 アーデルハイドは紙に目を落とす。押印欄にはすでに薔薇の紋章が赤い封蝋で捺されている。

 「あなたの魔法で私を二十歳前後に保つ。その後、追手が来る前に王宮へ“戻る”許可を与える。――そう書いてあるわ」
 「わたくしが施術を終えたら、速やかにここで降ろしていただけるのですね?」
 「ええ。少なくとも、いったんは」

 “いったん”――その曖昧な一語が刃のように光る。だが時間は稼げた。結界枷は外れている。手首には鎖が残っているとはいえ、術を起動する最低限の身振りは可能だ。
 アーデルは静かに頷いた。「承知しました。施術には集中が必要です。揺れを抑え、香を弱めてくださいますか」
 「好きにしなさい」
 レーベンブルグが手を振ると、従者が揺り止め鎖を車輪に掛け、香炉の蓋を半分閉じた。馬車は速度を落とし、林を抜ける土道へ入ったようだ。車軸が軋むたび、ランプの火が踊る。

 アーデルは深く息を吸う。若返りの魔法――本来は前日比の微調整に留めておく安全設計。だが術式を書き換えれば、“時間逆行リミット”を限界まで伸ばすことができる。問題は対象の精神と肉体の乖離が臨界を越えると、意識は霧散し、最後は新生児にリセットされるということ。
 (赤子まで……記憶も、すべて)
 それを告げてなお、レーベンブルグは「やめて」と言う。そこまで織り込んで式は完成する。

 「始めます」
 彼女は手首の鎖を緩く捻り、両掌を自身の胸の前で重ね合わせた。魔力は枷の外周をかすかな火花のようにうろつき、やがて鎖を介して対象――王妹へと触れる。
 第一段、表層皮膚の弾力を整える。レーベンブルグの頬が薔薇の花びらのように血色を帯びた。
 第二段、真皮層の水分とコラーゲンを過去の状態へ戻す。皺が消え、首筋のくすみが抜ける。
 第三段、骨髄の造血機能へ波及。指先が淡い桜色に染まり、呼吸が深くなる。
 「す、すばらしい……」
 王妹の瞳が潤み、黒い光が宿る。緋のドレスがゆるくなり、鎖骨があどけない輪郭に近づく。

 「ねえ、もう十分よ。これ以上は危険だわ」
 第四段、内臓基底代謝を十三年前に同期。
 レーベンブルグは咳き込み、ドレスの袖が手首で余る。「やめなさい。止めてと言っているのが分からないの?」
 アーデルは薄く微笑んだ。「この術は“最適細胞年齢”まで進みます。途中停止は不可能です」
 「最適って、どこまで……?」
 「赤子です」

 蒼白になった王妹が立ち上がろうとした瞬間、第五段が走った。骨格再配列。肘の関節が柔らかく溶け、椅子から転がり落ちそうになる。従者が駆け寄るが、魔力の渦に触れた途端に弾き飛ばされ、壁へ叩きつけられた。
 「助けて! 止めろ、この娘を拘束しろ!」
 従者が短弩を向ける。だが矢は発射される前に、術式の乱流で空気を裂き、天井に刺さった。
 「無駄です。いまは私も制御権を離れました。完了までは、誰にも……」

 王妹の髪が輝く灰金色になり、瞳孔が透き通る碧に変わる。背が縮み、肩幅が狭まり、ドレスがだぶりとまとわりつく。
 「いや……いやあああっ!」
 声変わりの途中で高く甲を破った悲鳴が、幼児の泣き声へ崩れる。
 最終段、細胞分裂速度を出生直前に固定。ドレスの中で小さな体が蠢き、布地がぺしゃりと落ちた。

 ランプが揺れを増し、馬車が急停車した。外で御者が叫ぶ。「隊長! 前方に哨戒騎兵の灯!」
 アーデルはそっと前へ進み、絨毯の上に転がった乳児を抱き上げた。柔らかな頬、泣き腫らした紅い顔。王妹の証――薔薇の形のほくろが右肩に微かに残っている。
 「あらあら……ようこそ、新しい世界へ」
 呆然と立ち尽くす従者たちを尻目に、彼女はゆりかごを揺らすように抱えたまま、扉をノックした。

 「外に出していただけるかしら。契約は履行しましたので」
 馬車の外では、親衛隊の騎士灯が青白い朝霧を裂いて近づいている。アルトハイム隊長の声が凛と響く。
 「馬車の中の者、武器を捨て、扉を開けよ!」
 アーデルは赤子を胸に、扉の把手を押し下げた。冷えた外気が流れ込み、麦畑の彼方で朝日が昇り始める。

 「ただいま戻りました、隊長殿──そして陛下のもとへ」

 白百合の侍女官は、赤子を揺らしながら一歩、土の地面へ足を下ろした。
 夜の闇は解け、空は新しい金に染まりつつある。薔薇の毒は赤子へ還り、王宮への帰路が、薄紅の光で照らされていた。

8‑3 若さは与えられるものではない――帰還の行軍、揺れる信条



 黎明の風を切り裂き、親衛隊二十五騎の縦列が王都街道を疾走した。
 先頭、黒馬の背で手綱を握るアルトハイムが振り返るたび、護送の中心にいる幌馬車が陽光を受けて淡く輝いた。――馬車ではなく揺り籠。そこに納められているのは、赤子と化したマルガレーテ・レーベンブルグ。そして彼女を包む白百合の侍女官アーデルハイドだった。

 アーデルは小さな体を毛布でくるみ、震えが起きぬよう胸に抱えている。赤子は泣き疲れて眠りにつき、薔薇色の頰をかすかに上下させるだけだ。
 「……眠っても、かつての記憶は戻らない。これは救いなの? それとも罰?」
 自問が胸の奥で渦を巻く。

 馬車の横腹を叩いていた前輪の軋みが途切れ、アルトハイムが轡を絞った。
 「侍女官殿。王都まであと三刻。休息を挟む」
 舗装の良い丘陵地で列は緩やかに停止。騎士たちが見張りを散開し、道端に即席の天幕が張られる。
 アーデルが幌を出ると、草に残る夜露が靴先を濡らした。遠く薄霧の彼方で、城壁がうっすらと影を描いている。

 「冷える。肩掛けを」
 アルトハイムが自らのマントを差し出す。アーデルは赤子を片腕で抱き替えながら受け取った。
 「ありがとうございます、でも……隊長の鎧が露に濡れてしまいます」
 「鎧は錆びても磨けば光る。だが、あなたと子は替えが利かない」

 たった一言に胸が揺れる。
 「隊長殿……私は、これで良かったのでしょうか。魔法を“凶器”として振るったのでは」
 騎士は雨あがりの鋼のような瞳で見つめ返す。
 「凶器かどうかは目的が決める。あなたは王と民を守るために使った。それで十分だ」
 「けれど……若さを奪うことで人を救うなんて、矛盾しています」
 「だとすれば、若さを奪われた者が若さの意味を誤っていただけだ」

 アーデルは視線を落とす。小さな指が自分の袖を握っていた。
 「殿下、この方は罪人……でも、罪を忘れるほど若返ってしまいました」
 「罪を記憶で裁くのは王法。罪を未来で赦すのは神のみわざ」
 アルトハイムは草上に膝をつき、赤子の額へそっと手をかざす。「お前は生まれなおした。次は正しい美を選ぶと誓え」
 赤子は眠ったまま、かすかな息を吐いた。

 アーデルの頬を、ふっと風が撫でる。胸に詰まっていた罪悪の鉛が少し溶ける音がした。
 「若さは与えられるものではなく、育むもの――陛下がいつも仰る言葉です」
 「そして、育むには時間が要る。あなたには時間を司る力がある。ならば、どんな矛盾も受け止められるはずだ」
 騎士の声は厳しくも柔い。アーデルは深く頷き、赤子の額にそっと口づけた。

 小休止ののち、部隊はふたたび進軍した。王都が近づくにつれ、農夫や旅商人が路肩に避け、白百合の旗と双頭鳳の旗に手を合わせる。皆、赤子を抱く侍女官の姿を訝しみながらも、誰も問わない。
 茜色の陽が天頂へ伸び切った頃、王都南門が開かれた。門上の衛兵が角笛を鳴らし、「白百合帰還!」と叫ぶ。
 通りに集まった市民がざわめき、麦粥屋の女主人が目を潤ませた。「おかえり、若返りの姉さん……」
 アーデルは帽子の庇を上げ、静かに微笑み返した。



 玉座の間。
 女王エレオノールは、黄金の階段を下りて進み出たアーデルハイドを見て、目を細めた。赤子を抱いたその姿は、まるで新しい命を授けた聖母のようだった。
 「戻ったのか、我が白百合」
 アーデルは深く一礼し、言葉を選ぶ。
 「はい。殿下は……もう、御身を蝕む妄執から解放されました」
 女王は赤子を抱き取り、細い眉をふるわせる。「……マルガレーテか」
 そこには姉妹の情がわずかに揺れたが、すぐ王の決断が覆う。「罪は赤子となっても消えぬ。だが罰の形は変わろう」
 枢密僧正が進み出て、浄めの水を額に落とす。「この子の魂が新たに出発するなら、導きは慈悲でなくては」
 女王は頷き、アルトハイムへ視線を向けた。「暫定の里親、修道院の名簿を」
 「はっ、既に三候補を選別済み」

 すべてが静かに動きはじめる。
 エレイン王子が駆け寄り、「これが……あの意地悪おばさま?」と目を丸くした。
 アーデルは膝を折って王子の目線に合わせる。「罪は残ります。でも、人はやり直せます。殿下も覚えていてくださいね」
 少年は難しい顔で頷き、「じゃあぼく、大きくなったら悪いことはすぐ謝る!」と宣言した。
 女王はその言葉に目を細め、「立派な次期王ね」と微笑む。

 玉座の背後、広窓から差し込む昼光が白百合徽章に当たり、煌めきを散らす。
 若返りの魔法は人を救う刃にも、破滅の毒にもなる。だがその行方を決めるのは術そのものではない。――使う者の信念。
 アーデルハイドは胸に手を当てた。
 (私はもう迷わない。若さは与えられず、奪われもせず……自ら育てるもの)

 白百合の花弁が風に舞う幻が、玉座の間をかすめた。
 剣士の眼差しがそれを追い、王の瞳が微笑みの影で揺れた。
 そして王国は、次の未来へ時を刻み始める――静かな鐘の音とともに。

8‑4 薔薇の棘を抜き、白百合は咲き続ける――王妹処分と新たな波紋

 赤子と化したマルガレーテを抱き、アーデルハイドが王宮へ戻った翌朝。
 女王エレオノールはただちに 臨時枢密評議会 を招集した。議題は二つ――
 1. 王妹の法的身分と処遇、
 2. 事件終息を王都および諸侯へどう公表するか。

 玉座前に列したのは宰相、軍務卿、枢密僧正、都市守備総監。そして親衛隊長アルトハイム。
 女王の膝には純白の布に包んだ乳児。皺一つない額に寝息が立ちのぼり、薔薇の香は影もない。


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■ 1 王妹の身分処理

 宰相が文案を読み上げる。
 > ◎ マルガレーテ・フォン・レーベンブルグ公爵令嬢は、
 >    若返り魔術の暴走による「年齢回帰症」を発症。
 > ◎ 専門修道院で保護教育を受けるまで、公爵位・爵禄を一時停止。
 > ◎ 公爵領の統治は女王陛下の名代として王室評議会が暫定管理。

 軍務卿は腕を組み、「回帰症」を病として公表すればクーデターの汚名を避けられる、と賛同した。
 僧正は赤子の額に浄油を塗り、深い溜息をつく。「罪を過去に戻したのなら、更生の未来を与えるしかあるまい」

 女王はうなずき、黒檀の印章を押した。――レーベンブルグ家は実質的な廃家。薔薇の棘は根から引き抜かれた。


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■ 2 王都への発表

 続いて都市守備総監が報告する。
 「王都へは“病と治療のための保護”と布告いたします。経済不安も鎮まりましたゆえ、八門封鎖を順次解除可能かと」
 「封鎖解除の前にもう一つ」女王が遮る。
 「白百合勲伯が民へ示した《公竈》と《若返り講習》は、王家直轄の恒常事業として残す。民の胃と心を養う策だ」
 宰相が慌てて帳簿をめくり、財務卿を目で探す。女王は薄く笑った。
 「尊い若さに値札は付けられまい?」
 議場が静まり返り、やがて一斉に頭が下がった。


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■ 3 赤子の譲渡式

 その日の夕刻、北塔礼拝堂で譲渡式がひっそり行われた。
 式服に着替えたアーデルハイドは乳児を胸に抱き、祭壇前へ進む。
 尼僧長マチルダが黄金の洗礼皿を掲げ、祝祷を唱える。
 「天の御名において、嬰児マリア・ローザに新たな始まりを──」

 一同がアーメンと唱和する中、女王は視線を逸らさず妹を見つめた。
 “おまえは二度と私を憎まずに済む”。
 その吐息は誰にも聞こえない。けれど女王の肩にのしかかっていた重石が、わずかに下りたのをアーデルは感じた。


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■ 4 夕暮れのテラス――次の波紋

 式が終わり、王宮南テラス。
 橙色の陽を浴びた石畳を、アーデルとアルトハイムが並んで歩く。遠くで侍女たちが竈用の穀 sacks を運び、兵士は封鎖解除へ向けて機材を撤収している。

 「薔薇の香はもう届きませんね」
 アーデルが胸の白百合徽章を撫でる。
 アルトハイムは手すりに肘を置いた。「届くのは麹の香ばしさと粥の湯気だけだ」

 しかし騎士は真顔に戻り、低く続ける。
 「とはいえ脅威が消えたわけではない。貴女の魔法の価値が諸侯に知れ渡った。次は“政略婚”という形で迫る者が現れる」
 アーデルは苦笑した。「もう来ています。午前中だけで縁談照会状が十八通……」
 「女王陛下が遮る策を練っている。気を緩めるな」

 その瞬間、テラスの奥で扉が開き、翡翠のドレスを翻した女王が現れた。
 「やあ、二人とも探したぞ」
 エレイン王子が跳ねるように後ろへ続く。「ねーちゃん! ぼく今日、魔法の講習で褒められた!」
 「まあ、素晴らしいですわ」アーデルが頭を撫でる。

 女王はテーブルに紅茶を注ぎながら、さらりと言った。
 「フェルディナント亡き後、王位継承者はエレインだけ。となれば《王太子妃》の椅子は一つね」
 アーデルはカップを落としそうになる。アルトハイムが無言で受け皿を支えた。
 「ま、まだ6歳ですが!?」
 女王は唇を弓なりに曲げ、冗談とも本気ともつかぬ声で囁く。
 「そなたの魔法で“時”を調え、王子が追いつくまで傍にいれば良い」

 エレインは首を傾げた。「ときって止められるの?」
 アーデルは顔を真っ赤にし、逃げるように湯気をすする。
 (それは比喩ですから!)

 テラスに笑いが広がり、夕陽は尖塔を朱に染めた。
 王妹という薔薇は棘を失い、白百合は再び王宮を彩る。
 だが紅茶の湯気の上、次の波紋がゆらりと立った――アーデルの“政治的価値”という名の波紋だ。

 夜風が胸元の徽章をひやりと冷やす。
 若返りの魔法で護るもの、そして縛るもの。
 アーデルハイドはそっと息を吐き、遠い未来に伸びる薄桃色の道を見据えた。

 若さは与えられぬ。ならば私は、この若さで王と国と……そしてあの小さな王子の“時間”そのものを守り続けよう。

 白百合は夕闇に溶けず、柔く香りを残した。
 王宮の新しい夜が、静かに幕を下ろす。

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