8 / 10
第8章 『欲望の檻』
しおりを挟む
8‑1 囚(とら)はれた白百合 ― 地下牢の序曲 ―
石壁に滲んだ湿気が、頬を撫でた。
瞼を開けると、歪んだ鉄格子の向こうに燭火がひとつ揺れている。煤で黒ずんだランプは頼りなく、橙の輪郭は暗闇に呑まれては浮き上がり、また沈んだ。
ここは――どこ? 脳が霧に包まれたまま、アーデルハイドは跳ね起きようとした。だが両手首に走る冷えた痛みが動きを拒む。銀鎖。魔力抑制刻印のついた枷が静かに光を撥ね返した。
「目覚めたのね、白百合」
低い囁き。闇の隅から紅いシルエットが滑り出る。マルガレーテ・フォン・レーベンブルグ――女王の実妹、薔薇と畏怖で飾られた公爵令嬢。だが今、彼女の頬は白粉を重ねても隠しきれぬ影に沈み、瞳には狂おしい焦燥が宿る。
「王妹……殿下……?」
自分の声がひどく掠れている。最後に覚えているのは侍女控室で嗅いだ甘い沈丁花の香。それが麻酔香だったと悟るには十分だった。
「安心して。ここは私の離宮よ。姉上の目も、忠犬の剣も届かない」
レーベンブルグは足元の扉を開け、鉄格子の内に入る。赤絹の裾が石床をかすめ、芳香が重く降る。「あなたの魔法――若返りの秘奥を貰いに来たの」
アーデルは首を振った。「私の魔法は、陛下と国を守るためのもの。決して他者へは……」
鉄靴が石を打つ鋭い音。レーベンブルグが髪を掴み顔を上げさせた。
「忠義? 滑稽ね。世界は美か醜か、それだけで回っている。姉上は若さという王冠を独り占めにした。私にも戴冠する権利があるはずよ」
従者が現れる。黒外套の男たち、無機質な瞳。手には注射筒と小瓶。ラベルには見慣れぬ錬金術師の印。
「口で語れぬなら、血肉を裂いてでも調べるわ」
刹那、胸を掴む恐怖より先に女王の顔が浮かんだ。――陛下がこの姿を見たら、どれほど悲しむだろう。
「やめて……国外へだけは連れて行かないでください」
囚われの声が震える。だが瞳は泳がない。「魔法を……殿下におかけいたします。それで満足いただけるなら」
レーベンブルグの口元がゆるむ。「ようやく分かったのね。いい子だわ」
その笑みは刃より冷たい。アーデルハイドは静かに拳を握る。若返りの魔法は術者の設計次第――それが唯一、自分だけの切り札だった。
従者が魔力枷を一時解除し、腕を縄で縛る。レーベンブルグは馬車の出立を命じる。「異国へ行くのは、その“施術”のあとで考えてあげる」
アーデルはうつむき、心の中で呟いた。〈陛下、どうか……あと一手、わたくしに機会を〉
馬車が地下搬出口へ向けて動きだす。車輪が闇の通路をきしらせ、銀鎖が静かに鳴った。
――白百合は檻の中、だが光はまだ消えていない。
最初の鎖が外れる刻こそ、彼女が“魔法の尺度”を決める瞬間なのだから。
8‑2 魔法の取引――揺れる馬車、螺旋する駆引き
地下搬出口から外気へ出ると、肌を刺すような夜明け前の冷気が流れ込んだ。
石畳に止められた黒幌馬車は、左右の板を厚い鋼で補強し、窓には内側から鉄格子が打ち込まれている。御者台には仮面を付けた黒外套が二人。周囲を囲む従者らは短弩と毒吹矢を携え、沈黙のまま見張っていた。
アーデルハイドは枷をはめられたまま、馬車後部から木梯子で押し上げられる。内部は思ったより広く、長椅子にはヴェルベットのクッションと白檀の香炉。中央に固定された樫のテーブル。その上には磨き抜かれた銀盆と水晶杯、そして小瓶がずらりと並んでいる。琥珀色、翡翠色、紫水晶のごとき液体。
マルガレーテ・レーベンブルグは既に中で待っていた。緋色のオペラコートを膝にかけ、蝋燭の灯の下で頬を撫でている。旧い皺がほとんど消え、肌は陶器のように張っているが、眼窩の影は疲弊を隠せない。
「乗せて。――発車」
短い命令で扉が閉ざされ、閂が落ちた。轡の音がして、馬車が滑り出す。室内は薄暗く、足下の絨毯が揺れを吸う。
「さて、契約のおさらいをしましょうか」
女王妹が指をはじくと、従者がテーブルに一枚の羊皮紙を差し出した。若返りの“対価”として国外逃亡を中止する、という即席の誓約書である。
アーデルハイドは紙に目を落とす。押印欄にはすでに薔薇の紋章が赤い封蝋で捺されている。
「あなたの魔法で私を二十歳前後に保つ。その後、追手が来る前に王宮へ“戻る”許可を与える。――そう書いてあるわ」
「わたくしが施術を終えたら、速やかにここで降ろしていただけるのですね?」
「ええ。少なくとも、いったんは」
“いったん”――その曖昧な一語が刃のように光る。だが時間は稼げた。結界枷は外れている。手首には鎖が残っているとはいえ、術を起動する最低限の身振りは可能だ。
アーデルは静かに頷いた。「承知しました。施術には集中が必要です。揺れを抑え、香を弱めてくださいますか」
「好きにしなさい」
レーベンブルグが手を振ると、従者が揺り止め鎖を車輪に掛け、香炉の蓋を半分閉じた。馬車は速度を落とし、林を抜ける土道へ入ったようだ。車軸が軋むたび、ランプの火が踊る。
アーデルは深く息を吸う。若返りの魔法――本来は前日比の微調整に留めておく安全設計。だが術式を書き換えれば、“時間逆行リミット”を限界まで伸ばすことができる。問題は対象の精神と肉体の乖離が臨界を越えると、意識は霧散し、最後は新生児にリセットされるということ。
(赤子まで……記憶も、すべて)
それを告げてなお、レーベンブルグは「やめて」と言う。そこまで織り込んで式は完成する。
「始めます」
彼女は手首の鎖を緩く捻り、両掌を自身の胸の前で重ね合わせた。魔力は枷の外周をかすかな火花のようにうろつき、やがて鎖を介して対象――王妹へと触れる。
第一段、表層皮膚の弾力を整える。レーベンブルグの頬が薔薇の花びらのように血色を帯びた。
第二段、真皮層の水分とコラーゲンを過去の状態へ戻す。皺が消え、首筋のくすみが抜ける。
第三段、骨髄の造血機能へ波及。指先が淡い桜色に染まり、呼吸が深くなる。
「す、すばらしい……」
王妹の瞳が潤み、黒い光が宿る。緋のドレスがゆるくなり、鎖骨があどけない輪郭に近づく。
「ねえ、もう十分よ。これ以上は危険だわ」
第四段、内臓基底代謝を十三年前に同期。
レーベンブルグは咳き込み、ドレスの袖が手首で余る。「やめなさい。止めてと言っているのが分からないの?」
アーデルは薄く微笑んだ。「この術は“最適細胞年齢”まで進みます。途中停止は不可能です」
「最適って、どこまで……?」
「赤子です」
蒼白になった王妹が立ち上がろうとした瞬間、第五段が走った。骨格再配列。肘の関節が柔らかく溶け、椅子から転がり落ちそうになる。従者が駆け寄るが、魔力の渦に触れた途端に弾き飛ばされ、壁へ叩きつけられた。
「助けて! 止めろ、この娘を拘束しろ!」
従者が短弩を向ける。だが矢は発射される前に、術式の乱流で空気を裂き、天井に刺さった。
「無駄です。いまは私も制御権を離れました。完了までは、誰にも……」
王妹の髪が輝く灰金色になり、瞳孔が透き通る碧に変わる。背が縮み、肩幅が狭まり、ドレスがだぶりとまとわりつく。
「いや……いやあああっ!」
声変わりの途中で高く甲を破った悲鳴が、幼児の泣き声へ崩れる。
最終段、細胞分裂速度を出生直前に固定。ドレスの中で小さな体が蠢き、布地がぺしゃりと落ちた。
ランプが揺れを増し、馬車が急停車した。外で御者が叫ぶ。「隊長! 前方に哨戒騎兵の灯!」
アーデルはそっと前へ進み、絨毯の上に転がった乳児を抱き上げた。柔らかな頬、泣き腫らした紅い顔。王妹の証――薔薇の形のほくろが右肩に微かに残っている。
「あらあら……ようこそ、新しい世界へ」
呆然と立ち尽くす従者たちを尻目に、彼女はゆりかごを揺らすように抱えたまま、扉をノックした。
「外に出していただけるかしら。契約は履行しましたので」
馬車の外では、親衛隊の騎士灯が青白い朝霧を裂いて近づいている。アルトハイム隊長の声が凛と響く。
「馬車の中の者、武器を捨て、扉を開けよ!」
アーデルは赤子を胸に、扉の把手を押し下げた。冷えた外気が流れ込み、麦畑の彼方で朝日が昇り始める。
「ただいま戻りました、隊長殿──そして陛下のもとへ」
白百合の侍女官は、赤子を揺らしながら一歩、土の地面へ足を下ろした。
夜の闇は解け、空は新しい金に染まりつつある。薔薇の毒は赤子へ還り、王宮への帰路が、薄紅の光で照らされていた。
8‑3 若さは与えられるものではない――帰還の行軍、揺れる信条
黎明の風を切り裂き、親衛隊二十五騎の縦列が王都街道を疾走した。
先頭、黒馬の背で手綱を握るアルトハイムが振り返るたび、護送の中心にいる幌馬車が陽光を受けて淡く輝いた。――馬車ではなく揺り籠。そこに納められているのは、赤子と化したマルガレーテ・レーベンブルグ。そして彼女を包む白百合の侍女官アーデルハイドだった。
アーデルは小さな体を毛布でくるみ、震えが起きぬよう胸に抱えている。赤子は泣き疲れて眠りにつき、薔薇色の頰をかすかに上下させるだけだ。
「……眠っても、かつての記憶は戻らない。これは救いなの? それとも罰?」
自問が胸の奥で渦を巻く。
馬車の横腹を叩いていた前輪の軋みが途切れ、アルトハイムが轡を絞った。
「侍女官殿。王都まであと三刻。休息を挟む」
舗装の良い丘陵地で列は緩やかに停止。騎士たちが見張りを散開し、道端に即席の天幕が張られる。
アーデルが幌を出ると、草に残る夜露が靴先を濡らした。遠く薄霧の彼方で、城壁がうっすらと影を描いている。
「冷える。肩掛けを」
アルトハイムが自らのマントを差し出す。アーデルは赤子を片腕で抱き替えながら受け取った。
「ありがとうございます、でも……隊長の鎧が露に濡れてしまいます」
「鎧は錆びても磨けば光る。だが、あなたと子は替えが利かない」
たった一言に胸が揺れる。
「隊長殿……私は、これで良かったのでしょうか。魔法を“凶器”として振るったのでは」
騎士は雨あがりの鋼のような瞳で見つめ返す。
「凶器かどうかは目的が決める。あなたは王と民を守るために使った。それで十分だ」
「けれど……若さを奪うことで人を救うなんて、矛盾しています」
「だとすれば、若さを奪われた者が若さの意味を誤っていただけだ」
アーデルは視線を落とす。小さな指が自分の袖を握っていた。
「殿下、この方は罪人……でも、罪を忘れるほど若返ってしまいました」
「罪を記憶で裁くのは王法。罪を未来で赦すのは神のみわざ」
アルトハイムは草上に膝をつき、赤子の額へそっと手をかざす。「お前は生まれなおした。次は正しい美を選ぶと誓え」
赤子は眠ったまま、かすかな息を吐いた。
アーデルの頬を、ふっと風が撫でる。胸に詰まっていた罪悪の鉛が少し溶ける音がした。
「若さは与えられるものではなく、育むもの――陛下がいつも仰る言葉です」
「そして、育むには時間が要る。あなたには時間を司る力がある。ならば、どんな矛盾も受け止められるはずだ」
騎士の声は厳しくも柔い。アーデルは深く頷き、赤子の額にそっと口づけた。
小休止ののち、部隊はふたたび進軍した。王都が近づくにつれ、農夫や旅商人が路肩に避け、白百合の旗と双頭鳳の旗に手を合わせる。皆、赤子を抱く侍女官の姿を訝しみながらも、誰も問わない。
茜色の陽が天頂へ伸び切った頃、王都南門が開かれた。門上の衛兵が角笛を鳴らし、「白百合帰還!」と叫ぶ。
通りに集まった市民がざわめき、麦粥屋の女主人が目を潤ませた。「おかえり、若返りの姉さん……」
アーデルは帽子の庇を上げ、静かに微笑み返した。
◆
玉座の間。
女王エレオノールは、黄金の階段を下りて進み出たアーデルハイドを見て、目を細めた。赤子を抱いたその姿は、まるで新しい命を授けた聖母のようだった。
「戻ったのか、我が白百合」
アーデルは深く一礼し、言葉を選ぶ。
「はい。殿下は……もう、御身を蝕む妄執から解放されました」
女王は赤子を抱き取り、細い眉をふるわせる。「……マルガレーテか」
そこには姉妹の情がわずかに揺れたが、すぐ王の決断が覆う。「罪は赤子となっても消えぬ。だが罰の形は変わろう」
枢密僧正が進み出て、浄めの水を額に落とす。「この子の魂が新たに出発するなら、導きは慈悲でなくては」
女王は頷き、アルトハイムへ視線を向けた。「暫定の里親、修道院の名簿を」
「はっ、既に三候補を選別済み」
すべてが静かに動きはじめる。
エレイン王子が駆け寄り、「これが……あの意地悪おばさま?」と目を丸くした。
アーデルは膝を折って王子の目線に合わせる。「罪は残ります。でも、人はやり直せます。殿下も覚えていてくださいね」
少年は難しい顔で頷き、「じゃあぼく、大きくなったら悪いことはすぐ謝る!」と宣言した。
女王はその言葉に目を細め、「立派な次期王ね」と微笑む。
玉座の背後、広窓から差し込む昼光が白百合徽章に当たり、煌めきを散らす。
若返りの魔法は人を救う刃にも、破滅の毒にもなる。だがその行方を決めるのは術そのものではない。――使う者の信念。
アーデルハイドは胸に手を当てた。
(私はもう迷わない。若さは与えられず、奪われもせず……自ら育てるもの)
白百合の花弁が風に舞う幻が、玉座の間をかすめた。
剣士の眼差しがそれを追い、王の瞳が微笑みの影で揺れた。
そして王国は、次の未来へ時を刻み始める――静かな鐘の音とともに。
8‑4 薔薇の棘を抜き、白百合は咲き続ける――王妹処分と新たな波紋
赤子と化したマルガレーテを抱き、アーデルハイドが王宮へ戻った翌朝。
女王エレオノールはただちに 臨時枢密評議会 を招集した。議題は二つ――
1. 王妹の法的身分と処遇、
2. 事件終息を王都および諸侯へどう公表するか。
玉座前に列したのは宰相、軍務卿、枢密僧正、都市守備総監。そして親衛隊長アルトハイム。
女王の膝には純白の布に包んだ乳児。皺一つない額に寝息が立ちのぼり、薔薇の香は影もない。
---
■ 1 王妹の身分処理
宰相が文案を読み上げる。
> ◎ マルガレーテ・フォン・レーベンブルグ公爵令嬢は、
> 若返り魔術の暴走による「年齢回帰症」を発症。
> ◎ 専門修道院で保護教育を受けるまで、公爵位・爵禄を一時停止。
> ◎ 公爵領の統治は女王陛下の名代として王室評議会が暫定管理。
軍務卿は腕を組み、「回帰症」を病として公表すればクーデターの汚名を避けられる、と賛同した。
僧正は赤子の額に浄油を塗り、深い溜息をつく。「罪を過去に戻したのなら、更生の未来を与えるしかあるまい」
女王はうなずき、黒檀の印章を押した。――レーベンブルグ家は実質的な廃家。薔薇の棘は根から引き抜かれた。
---
■ 2 王都への発表
続いて都市守備総監が報告する。
「王都へは“病と治療のための保護”と布告いたします。経済不安も鎮まりましたゆえ、八門封鎖を順次解除可能かと」
「封鎖解除の前にもう一つ」女王が遮る。
「白百合勲伯が民へ示した《公竈》と《若返り講習》は、王家直轄の恒常事業として残す。民の胃と心を養う策だ」
宰相が慌てて帳簿をめくり、財務卿を目で探す。女王は薄く笑った。
「尊い若さに値札は付けられまい?」
議場が静まり返り、やがて一斉に頭が下がった。
---
■ 3 赤子の譲渡式
その日の夕刻、北塔礼拝堂で譲渡式がひっそり行われた。
式服に着替えたアーデルハイドは乳児を胸に抱き、祭壇前へ進む。
尼僧長マチルダが黄金の洗礼皿を掲げ、祝祷を唱える。
「天の御名において、嬰児マリア・ローザに新たな始まりを──」
一同がアーメンと唱和する中、女王は視線を逸らさず妹を見つめた。
“おまえは二度と私を憎まずに済む”。
その吐息は誰にも聞こえない。けれど女王の肩にのしかかっていた重石が、わずかに下りたのをアーデルは感じた。
---
■ 4 夕暮れのテラス――次の波紋
式が終わり、王宮南テラス。
橙色の陽を浴びた石畳を、アーデルとアルトハイムが並んで歩く。遠くで侍女たちが竈用の穀 sacks を運び、兵士は封鎖解除へ向けて機材を撤収している。
「薔薇の香はもう届きませんね」
アーデルが胸の白百合徽章を撫でる。
アルトハイムは手すりに肘を置いた。「届くのは麹の香ばしさと粥の湯気だけだ」
しかし騎士は真顔に戻り、低く続ける。
「とはいえ脅威が消えたわけではない。貴女の魔法の価値が諸侯に知れ渡った。次は“政略婚”という形で迫る者が現れる」
アーデルは苦笑した。「もう来ています。午前中だけで縁談照会状が十八通……」
「女王陛下が遮る策を練っている。気を緩めるな」
その瞬間、テラスの奥で扉が開き、翡翠のドレスを翻した女王が現れた。
「やあ、二人とも探したぞ」
エレイン王子が跳ねるように後ろへ続く。「ねーちゃん! ぼく今日、魔法の講習で褒められた!」
「まあ、素晴らしいですわ」アーデルが頭を撫でる。
女王はテーブルに紅茶を注ぎながら、さらりと言った。
「フェルディナント亡き後、王位継承者はエレインだけ。となれば《王太子妃》の椅子は一つね」
アーデルはカップを落としそうになる。アルトハイムが無言で受け皿を支えた。
「ま、まだ6歳ですが!?」
女王は唇を弓なりに曲げ、冗談とも本気ともつかぬ声で囁く。
「そなたの魔法で“時”を調え、王子が追いつくまで傍にいれば良い」
エレインは首を傾げた。「ときって止められるの?」
アーデルは顔を真っ赤にし、逃げるように湯気をすする。
(それは比喩ですから!)
テラスに笑いが広がり、夕陽は尖塔を朱に染めた。
王妹という薔薇は棘を失い、白百合は再び王宮を彩る。
だが紅茶の湯気の上、次の波紋がゆらりと立った――アーデルの“政治的価値”という名の波紋だ。
夜風が胸元の徽章をひやりと冷やす。
若返りの魔法で護るもの、そして縛るもの。
アーデルハイドはそっと息を吐き、遠い未来に伸びる薄桃色の道を見据えた。
若さは与えられぬ。ならば私は、この若さで王と国と……そしてあの小さな王子の“時間”そのものを守り続けよう。
白百合は夕闇に溶けず、柔く香りを残した。
王宮の新しい夜が、静かに幕を下ろす。
石壁に滲んだ湿気が、頬を撫でた。
瞼を開けると、歪んだ鉄格子の向こうに燭火がひとつ揺れている。煤で黒ずんだランプは頼りなく、橙の輪郭は暗闇に呑まれては浮き上がり、また沈んだ。
ここは――どこ? 脳が霧に包まれたまま、アーデルハイドは跳ね起きようとした。だが両手首に走る冷えた痛みが動きを拒む。銀鎖。魔力抑制刻印のついた枷が静かに光を撥ね返した。
「目覚めたのね、白百合」
低い囁き。闇の隅から紅いシルエットが滑り出る。マルガレーテ・フォン・レーベンブルグ――女王の実妹、薔薇と畏怖で飾られた公爵令嬢。だが今、彼女の頬は白粉を重ねても隠しきれぬ影に沈み、瞳には狂おしい焦燥が宿る。
「王妹……殿下……?」
自分の声がひどく掠れている。最後に覚えているのは侍女控室で嗅いだ甘い沈丁花の香。それが麻酔香だったと悟るには十分だった。
「安心して。ここは私の離宮よ。姉上の目も、忠犬の剣も届かない」
レーベンブルグは足元の扉を開け、鉄格子の内に入る。赤絹の裾が石床をかすめ、芳香が重く降る。「あなたの魔法――若返りの秘奥を貰いに来たの」
アーデルは首を振った。「私の魔法は、陛下と国を守るためのもの。決して他者へは……」
鉄靴が石を打つ鋭い音。レーベンブルグが髪を掴み顔を上げさせた。
「忠義? 滑稽ね。世界は美か醜か、それだけで回っている。姉上は若さという王冠を独り占めにした。私にも戴冠する権利があるはずよ」
従者が現れる。黒外套の男たち、無機質な瞳。手には注射筒と小瓶。ラベルには見慣れぬ錬金術師の印。
「口で語れぬなら、血肉を裂いてでも調べるわ」
刹那、胸を掴む恐怖より先に女王の顔が浮かんだ。――陛下がこの姿を見たら、どれほど悲しむだろう。
「やめて……国外へだけは連れて行かないでください」
囚われの声が震える。だが瞳は泳がない。「魔法を……殿下におかけいたします。それで満足いただけるなら」
レーベンブルグの口元がゆるむ。「ようやく分かったのね。いい子だわ」
その笑みは刃より冷たい。アーデルハイドは静かに拳を握る。若返りの魔法は術者の設計次第――それが唯一、自分だけの切り札だった。
従者が魔力枷を一時解除し、腕を縄で縛る。レーベンブルグは馬車の出立を命じる。「異国へ行くのは、その“施術”のあとで考えてあげる」
アーデルはうつむき、心の中で呟いた。〈陛下、どうか……あと一手、わたくしに機会を〉
馬車が地下搬出口へ向けて動きだす。車輪が闇の通路をきしらせ、銀鎖が静かに鳴った。
――白百合は檻の中、だが光はまだ消えていない。
最初の鎖が外れる刻こそ、彼女が“魔法の尺度”を決める瞬間なのだから。
8‑2 魔法の取引――揺れる馬車、螺旋する駆引き
地下搬出口から外気へ出ると、肌を刺すような夜明け前の冷気が流れ込んだ。
石畳に止められた黒幌馬車は、左右の板を厚い鋼で補強し、窓には内側から鉄格子が打ち込まれている。御者台には仮面を付けた黒外套が二人。周囲を囲む従者らは短弩と毒吹矢を携え、沈黙のまま見張っていた。
アーデルハイドは枷をはめられたまま、馬車後部から木梯子で押し上げられる。内部は思ったより広く、長椅子にはヴェルベットのクッションと白檀の香炉。中央に固定された樫のテーブル。その上には磨き抜かれた銀盆と水晶杯、そして小瓶がずらりと並んでいる。琥珀色、翡翠色、紫水晶のごとき液体。
マルガレーテ・レーベンブルグは既に中で待っていた。緋色のオペラコートを膝にかけ、蝋燭の灯の下で頬を撫でている。旧い皺がほとんど消え、肌は陶器のように張っているが、眼窩の影は疲弊を隠せない。
「乗せて。――発車」
短い命令で扉が閉ざされ、閂が落ちた。轡の音がして、馬車が滑り出す。室内は薄暗く、足下の絨毯が揺れを吸う。
「さて、契約のおさらいをしましょうか」
女王妹が指をはじくと、従者がテーブルに一枚の羊皮紙を差し出した。若返りの“対価”として国外逃亡を中止する、という即席の誓約書である。
アーデルハイドは紙に目を落とす。押印欄にはすでに薔薇の紋章が赤い封蝋で捺されている。
「あなたの魔法で私を二十歳前後に保つ。その後、追手が来る前に王宮へ“戻る”許可を与える。――そう書いてあるわ」
「わたくしが施術を終えたら、速やかにここで降ろしていただけるのですね?」
「ええ。少なくとも、いったんは」
“いったん”――その曖昧な一語が刃のように光る。だが時間は稼げた。結界枷は外れている。手首には鎖が残っているとはいえ、術を起動する最低限の身振りは可能だ。
アーデルは静かに頷いた。「承知しました。施術には集中が必要です。揺れを抑え、香を弱めてくださいますか」
「好きにしなさい」
レーベンブルグが手を振ると、従者が揺り止め鎖を車輪に掛け、香炉の蓋を半分閉じた。馬車は速度を落とし、林を抜ける土道へ入ったようだ。車軸が軋むたび、ランプの火が踊る。
アーデルは深く息を吸う。若返りの魔法――本来は前日比の微調整に留めておく安全設計。だが術式を書き換えれば、“時間逆行リミット”を限界まで伸ばすことができる。問題は対象の精神と肉体の乖離が臨界を越えると、意識は霧散し、最後は新生児にリセットされるということ。
(赤子まで……記憶も、すべて)
それを告げてなお、レーベンブルグは「やめて」と言う。そこまで織り込んで式は完成する。
「始めます」
彼女は手首の鎖を緩く捻り、両掌を自身の胸の前で重ね合わせた。魔力は枷の外周をかすかな火花のようにうろつき、やがて鎖を介して対象――王妹へと触れる。
第一段、表層皮膚の弾力を整える。レーベンブルグの頬が薔薇の花びらのように血色を帯びた。
第二段、真皮層の水分とコラーゲンを過去の状態へ戻す。皺が消え、首筋のくすみが抜ける。
第三段、骨髄の造血機能へ波及。指先が淡い桜色に染まり、呼吸が深くなる。
「す、すばらしい……」
王妹の瞳が潤み、黒い光が宿る。緋のドレスがゆるくなり、鎖骨があどけない輪郭に近づく。
「ねえ、もう十分よ。これ以上は危険だわ」
第四段、内臓基底代謝を十三年前に同期。
レーベンブルグは咳き込み、ドレスの袖が手首で余る。「やめなさい。止めてと言っているのが分からないの?」
アーデルは薄く微笑んだ。「この術は“最適細胞年齢”まで進みます。途中停止は不可能です」
「最適って、どこまで……?」
「赤子です」
蒼白になった王妹が立ち上がろうとした瞬間、第五段が走った。骨格再配列。肘の関節が柔らかく溶け、椅子から転がり落ちそうになる。従者が駆け寄るが、魔力の渦に触れた途端に弾き飛ばされ、壁へ叩きつけられた。
「助けて! 止めろ、この娘を拘束しろ!」
従者が短弩を向ける。だが矢は発射される前に、術式の乱流で空気を裂き、天井に刺さった。
「無駄です。いまは私も制御権を離れました。完了までは、誰にも……」
王妹の髪が輝く灰金色になり、瞳孔が透き通る碧に変わる。背が縮み、肩幅が狭まり、ドレスがだぶりとまとわりつく。
「いや……いやあああっ!」
声変わりの途中で高く甲を破った悲鳴が、幼児の泣き声へ崩れる。
最終段、細胞分裂速度を出生直前に固定。ドレスの中で小さな体が蠢き、布地がぺしゃりと落ちた。
ランプが揺れを増し、馬車が急停車した。外で御者が叫ぶ。「隊長! 前方に哨戒騎兵の灯!」
アーデルはそっと前へ進み、絨毯の上に転がった乳児を抱き上げた。柔らかな頬、泣き腫らした紅い顔。王妹の証――薔薇の形のほくろが右肩に微かに残っている。
「あらあら……ようこそ、新しい世界へ」
呆然と立ち尽くす従者たちを尻目に、彼女はゆりかごを揺らすように抱えたまま、扉をノックした。
「外に出していただけるかしら。契約は履行しましたので」
馬車の外では、親衛隊の騎士灯が青白い朝霧を裂いて近づいている。アルトハイム隊長の声が凛と響く。
「馬車の中の者、武器を捨て、扉を開けよ!」
アーデルは赤子を胸に、扉の把手を押し下げた。冷えた外気が流れ込み、麦畑の彼方で朝日が昇り始める。
「ただいま戻りました、隊長殿──そして陛下のもとへ」
白百合の侍女官は、赤子を揺らしながら一歩、土の地面へ足を下ろした。
夜の闇は解け、空は新しい金に染まりつつある。薔薇の毒は赤子へ還り、王宮への帰路が、薄紅の光で照らされていた。
8‑3 若さは与えられるものではない――帰還の行軍、揺れる信条
黎明の風を切り裂き、親衛隊二十五騎の縦列が王都街道を疾走した。
先頭、黒馬の背で手綱を握るアルトハイムが振り返るたび、護送の中心にいる幌馬車が陽光を受けて淡く輝いた。――馬車ではなく揺り籠。そこに納められているのは、赤子と化したマルガレーテ・レーベンブルグ。そして彼女を包む白百合の侍女官アーデルハイドだった。
アーデルは小さな体を毛布でくるみ、震えが起きぬよう胸に抱えている。赤子は泣き疲れて眠りにつき、薔薇色の頰をかすかに上下させるだけだ。
「……眠っても、かつての記憶は戻らない。これは救いなの? それとも罰?」
自問が胸の奥で渦を巻く。
馬車の横腹を叩いていた前輪の軋みが途切れ、アルトハイムが轡を絞った。
「侍女官殿。王都まであと三刻。休息を挟む」
舗装の良い丘陵地で列は緩やかに停止。騎士たちが見張りを散開し、道端に即席の天幕が張られる。
アーデルが幌を出ると、草に残る夜露が靴先を濡らした。遠く薄霧の彼方で、城壁がうっすらと影を描いている。
「冷える。肩掛けを」
アルトハイムが自らのマントを差し出す。アーデルは赤子を片腕で抱き替えながら受け取った。
「ありがとうございます、でも……隊長の鎧が露に濡れてしまいます」
「鎧は錆びても磨けば光る。だが、あなたと子は替えが利かない」
たった一言に胸が揺れる。
「隊長殿……私は、これで良かったのでしょうか。魔法を“凶器”として振るったのでは」
騎士は雨あがりの鋼のような瞳で見つめ返す。
「凶器かどうかは目的が決める。あなたは王と民を守るために使った。それで十分だ」
「けれど……若さを奪うことで人を救うなんて、矛盾しています」
「だとすれば、若さを奪われた者が若さの意味を誤っていただけだ」
アーデルは視線を落とす。小さな指が自分の袖を握っていた。
「殿下、この方は罪人……でも、罪を忘れるほど若返ってしまいました」
「罪を記憶で裁くのは王法。罪を未来で赦すのは神のみわざ」
アルトハイムは草上に膝をつき、赤子の額へそっと手をかざす。「お前は生まれなおした。次は正しい美を選ぶと誓え」
赤子は眠ったまま、かすかな息を吐いた。
アーデルの頬を、ふっと風が撫でる。胸に詰まっていた罪悪の鉛が少し溶ける音がした。
「若さは与えられるものではなく、育むもの――陛下がいつも仰る言葉です」
「そして、育むには時間が要る。あなたには時間を司る力がある。ならば、どんな矛盾も受け止められるはずだ」
騎士の声は厳しくも柔い。アーデルは深く頷き、赤子の額にそっと口づけた。
小休止ののち、部隊はふたたび進軍した。王都が近づくにつれ、農夫や旅商人が路肩に避け、白百合の旗と双頭鳳の旗に手を合わせる。皆、赤子を抱く侍女官の姿を訝しみながらも、誰も問わない。
茜色の陽が天頂へ伸び切った頃、王都南門が開かれた。門上の衛兵が角笛を鳴らし、「白百合帰還!」と叫ぶ。
通りに集まった市民がざわめき、麦粥屋の女主人が目を潤ませた。「おかえり、若返りの姉さん……」
アーデルは帽子の庇を上げ、静かに微笑み返した。
◆
玉座の間。
女王エレオノールは、黄金の階段を下りて進み出たアーデルハイドを見て、目を細めた。赤子を抱いたその姿は、まるで新しい命を授けた聖母のようだった。
「戻ったのか、我が白百合」
アーデルは深く一礼し、言葉を選ぶ。
「はい。殿下は……もう、御身を蝕む妄執から解放されました」
女王は赤子を抱き取り、細い眉をふるわせる。「……マルガレーテか」
そこには姉妹の情がわずかに揺れたが、すぐ王の決断が覆う。「罪は赤子となっても消えぬ。だが罰の形は変わろう」
枢密僧正が進み出て、浄めの水を額に落とす。「この子の魂が新たに出発するなら、導きは慈悲でなくては」
女王は頷き、アルトハイムへ視線を向けた。「暫定の里親、修道院の名簿を」
「はっ、既に三候補を選別済み」
すべてが静かに動きはじめる。
エレイン王子が駆け寄り、「これが……あの意地悪おばさま?」と目を丸くした。
アーデルは膝を折って王子の目線に合わせる。「罪は残ります。でも、人はやり直せます。殿下も覚えていてくださいね」
少年は難しい顔で頷き、「じゃあぼく、大きくなったら悪いことはすぐ謝る!」と宣言した。
女王はその言葉に目を細め、「立派な次期王ね」と微笑む。
玉座の背後、広窓から差し込む昼光が白百合徽章に当たり、煌めきを散らす。
若返りの魔法は人を救う刃にも、破滅の毒にもなる。だがその行方を決めるのは術そのものではない。――使う者の信念。
アーデルハイドは胸に手を当てた。
(私はもう迷わない。若さは与えられず、奪われもせず……自ら育てるもの)
白百合の花弁が風に舞う幻が、玉座の間をかすめた。
剣士の眼差しがそれを追い、王の瞳が微笑みの影で揺れた。
そして王国は、次の未来へ時を刻み始める――静かな鐘の音とともに。
8‑4 薔薇の棘を抜き、白百合は咲き続ける――王妹処分と新たな波紋
赤子と化したマルガレーテを抱き、アーデルハイドが王宮へ戻った翌朝。
女王エレオノールはただちに 臨時枢密評議会 を招集した。議題は二つ――
1. 王妹の法的身分と処遇、
2. 事件終息を王都および諸侯へどう公表するか。
玉座前に列したのは宰相、軍務卿、枢密僧正、都市守備総監。そして親衛隊長アルトハイム。
女王の膝には純白の布に包んだ乳児。皺一つない額に寝息が立ちのぼり、薔薇の香は影もない。
---
■ 1 王妹の身分処理
宰相が文案を読み上げる。
> ◎ マルガレーテ・フォン・レーベンブルグ公爵令嬢は、
> 若返り魔術の暴走による「年齢回帰症」を発症。
> ◎ 専門修道院で保護教育を受けるまで、公爵位・爵禄を一時停止。
> ◎ 公爵領の統治は女王陛下の名代として王室評議会が暫定管理。
軍務卿は腕を組み、「回帰症」を病として公表すればクーデターの汚名を避けられる、と賛同した。
僧正は赤子の額に浄油を塗り、深い溜息をつく。「罪を過去に戻したのなら、更生の未来を与えるしかあるまい」
女王はうなずき、黒檀の印章を押した。――レーベンブルグ家は実質的な廃家。薔薇の棘は根から引き抜かれた。
---
■ 2 王都への発表
続いて都市守備総監が報告する。
「王都へは“病と治療のための保護”と布告いたします。経済不安も鎮まりましたゆえ、八門封鎖を順次解除可能かと」
「封鎖解除の前にもう一つ」女王が遮る。
「白百合勲伯が民へ示した《公竈》と《若返り講習》は、王家直轄の恒常事業として残す。民の胃と心を養う策だ」
宰相が慌てて帳簿をめくり、財務卿を目で探す。女王は薄く笑った。
「尊い若さに値札は付けられまい?」
議場が静まり返り、やがて一斉に頭が下がった。
---
■ 3 赤子の譲渡式
その日の夕刻、北塔礼拝堂で譲渡式がひっそり行われた。
式服に着替えたアーデルハイドは乳児を胸に抱き、祭壇前へ進む。
尼僧長マチルダが黄金の洗礼皿を掲げ、祝祷を唱える。
「天の御名において、嬰児マリア・ローザに新たな始まりを──」
一同がアーメンと唱和する中、女王は視線を逸らさず妹を見つめた。
“おまえは二度と私を憎まずに済む”。
その吐息は誰にも聞こえない。けれど女王の肩にのしかかっていた重石が、わずかに下りたのをアーデルは感じた。
---
■ 4 夕暮れのテラス――次の波紋
式が終わり、王宮南テラス。
橙色の陽を浴びた石畳を、アーデルとアルトハイムが並んで歩く。遠くで侍女たちが竈用の穀 sacks を運び、兵士は封鎖解除へ向けて機材を撤収している。
「薔薇の香はもう届きませんね」
アーデルが胸の白百合徽章を撫でる。
アルトハイムは手すりに肘を置いた。「届くのは麹の香ばしさと粥の湯気だけだ」
しかし騎士は真顔に戻り、低く続ける。
「とはいえ脅威が消えたわけではない。貴女の魔法の価値が諸侯に知れ渡った。次は“政略婚”という形で迫る者が現れる」
アーデルは苦笑した。「もう来ています。午前中だけで縁談照会状が十八通……」
「女王陛下が遮る策を練っている。気を緩めるな」
その瞬間、テラスの奥で扉が開き、翡翠のドレスを翻した女王が現れた。
「やあ、二人とも探したぞ」
エレイン王子が跳ねるように後ろへ続く。「ねーちゃん! ぼく今日、魔法の講習で褒められた!」
「まあ、素晴らしいですわ」アーデルが頭を撫でる。
女王はテーブルに紅茶を注ぎながら、さらりと言った。
「フェルディナント亡き後、王位継承者はエレインだけ。となれば《王太子妃》の椅子は一つね」
アーデルはカップを落としそうになる。アルトハイムが無言で受け皿を支えた。
「ま、まだ6歳ですが!?」
女王は唇を弓なりに曲げ、冗談とも本気ともつかぬ声で囁く。
「そなたの魔法で“時”を調え、王子が追いつくまで傍にいれば良い」
エレインは首を傾げた。「ときって止められるの?」
アーデルは顔を真っ赤にし、逃げるように湯気をすする。
(それは比喩ですから!)
テラスに笑いが広がり、夕陽は尖塔を朱に染めた。
王妹という薔薇は棘を失い、白百合は再び王宮を彩る。
だが紅茶の湯気の上、次の波紋がゆらりと立った――アーデルの“政治的価値”という名の波紋だ。
夜風が胸元の徽章をひやりと冷やす。
若返りの魔法で護るもの、そして縛るもの。
アーデルハイドはそっと息を吐き、遠い未来に伸びる薄桃色の道を見据えた。
若さは与えられぬ。ならば私は、この若さで王と国と……そしてあの小さな王子の“時間”そのものを守り続けよう。
白百合は夕闇に溶けず、柔く香りを残した。
王宮の新しい夜が、静かに幕を下ろす。
1
あなたにおすすめの小説
天然だと思ったギルド仲間が、実は策士で独占欲強めでした
星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー本編8話+後日談7話⭐︎
ギルドで働くおっとり回復役リィナは、
自分と似た雰囲気の“天然仲間”カイと出会い、ほっとする。
……が、彼は実は 天然を演じる策士だった!?
「転ばないで」
「可愛いって言うのは僕の役目」
「固定回復役だから。僕の」
優しいのに過保護。
仲間のはずなのに距離が近い。
しかも噂はいつの間にか——「軍師(彼)が恋してる説」に。
鈍感で頑張り屋なリィナと、
策を捨てるほど恋に負けていくカイの、
コメディ強めの甘々ギルド恋愛、開幕!
「遅いままでいい――置いていかないから。」
望まぬ結婚をさせられた私のもとに、死んだはずの護衛騎士が帰ってきました~不遇令嬢が世界一幸せな花嫁になるまで
越智屋ノマ
恋愛
「君を愛することはない」で始まった不遇な結婚――。
国王の命令でクラーヴァル公爵家へと嫁いだ伯爵令嬢ヴィオラ。しかし夫のルシウスに愛されることはなく、毎日つらい仕打ちを受けていた。
孤独に耐えるヴィオラにとって唯一の救いは、護衛騎士エデン・アーヴィスと過ごした日々の思い出だった。エデンは強くて誠実で、いつもヴィオラを守ってくれた……でも、彼はもういない。この国を襲った『災禍の竜』と相打ちになって、3年前に戦死してしまったのだから。
ある日、参加した夜会の席でヴィオラは窮地に立たされる。その夜会は夫の愛人が主催するもので、夫と結託してヴィオラを陥れようとしていたのだ。誰に救いを求めることもできず、絶体絶命の彼女を救ったのは――?
(……私の体が、勝手に動いている!?)
「地獄で悔いろ、下郎が。このエデン・アーヴィスの目の黒いうちは、ヴィオラ様に指一本触れさせはしない!」
死んだはずのエデンの魂が、ヴィオラの体に乗り移っていた!?
――これは、望まぬ結婚をさせられた伯爵令嬢ヴィオラと、死んだはずの護衛騎士エデンのふしぎな恋の物語。理不尽な夫になんて、もう絶対に負けません!!
婚約破棄された伯爵令嬢は隣国の将軍に求婚され、前世の記憶を取り戻す
nacat
恋愛
婚約者である王太子に身に覚えのない罪を着せられ、婚約破棄された伯爵令嬢エリシア。
廷臣たちの嘲笑の中、隣国の若き将軍ライナルトが現れ、「ならば、俺が君を妻にしよう」と求婚する。
彼はただの救い手ではなかった。エリシアの“前世の記憶”と深く結びついた存在だったのだ——。
かつてすべてを失った令嬢が、今世では誰より強く、愛され、そしてざまぁを下す。
溺愛と逆転の物語、ここに開幕。
ぽっちゃり侯爵と大食い令嬢の甘い婚約生活
piyo
恋愛
女性秘書官として働きながら、“大食い令嬢”の異名を持つダニエラ。そんな彼女に、上司のガリウスがひとつの縁談を持ってくる。
相手は名門オウネル侯爵家の当主、キーレン・オウネル。
大変ふくよかな体形の彼は、自分と同じように食を楽しんでくれる相手を探していた。
一方のダニエラも、自分と同じくらいの食欲のある伴侶を求めていたため、お茶会を通じて二人は晴れて婚約者となる。
ゆっくりと距離を縮め、穏やかに愛を育んでいく二人だが、
結婚式の半年前、キーレンが交易交渉のため国外へ赴くことになり――
※なろうにも掲載しています
婚約破棄されたはずなのに、溺愛が止まりません!~断罪された令嬢は第二の人生で真実の愛を手に入れる~
sika
恋愛
社交界で名高い公爵令嬢・アイリスは、婚約者である王太子に冤罪をでっち上げられ、婚約破棄と同時にすべてを失った。
誰も信じられず国外に逃れた彼女は、名を偽り辺境の地で静かに生きるはずだった――が、そこで出会った青年将軍が、彼女に異常なまでの執着と愛を向け始める。
やがて明らかになる陰謀の真相、そして王都から彼女を探す“元婚約者”の焦燥。
過去を乗り越え、愛を選ぶ彼女の物語は、痛快な逆転劇と甘く濃密な溺愛とともに幕を開ける。
完結 愚王の側妃として嫁ぐはずの姉が逃げました
らむ
恋愛
とある国に食欲に色欲に娯楽に遊び呆け果てには金にもがめついと噂の、見た目も醜い王がいる。
そんな愚王の側妃として嫁ぐのは姉のはずだったのに、失踪したために代わりに嫁ぐことになった妹の私。
しかしいざ対面してみると、なんだか噂とは違うような…
完結決定済み
冷酷侯爵と政略結婚したら、実家がざまぁされました
鍛高譚
恋愛
「この結婚は、家のため。ただの政略結婚よ」
そう言い聞かせ、愛のない結婚を受け入れた公爵令嬢リゼット。
しかし、挙式後すぐに父が「婚約破棄しろ」と命じてきた!?
だが、夫であるアレクシス・フォン・シュヴァルツ侯爵は冷たく言い放つ。
「彼女を渡すつもりはない」
冷酷無慈悲と噂される侯爵が、なぜかリゼットを溺愛し始める!?
毎日甘やかされ、守られ、気づけば逃げ場なし!
さらに、父の不正が明るみに出て、公爵家は失墜――
リゼットを道具として利用しようとした者たちに、ざまぁの鉄槌が下される!
政略結婚から始まる、甘々溺愛ラブストーリー!
「愛なんてないはずなのに……どうしてこんなに大切にされるの?」
好きすぎます!※殿下ではなく、殿下の騎獣が
和島逆
恋愛
「ずっと……お慕い申し上げておりました」
エヴェリーナは伯爵令嬢でありながら、飛空騎士団の騎獣世話係を目指す。たとえ思いが叶わずとも、大好きな相手の側にいるために。
けれど騎士団長であり王弟でもあるジェラルドは、自他ともに認める女嫌い。エヴェリーナの告白を冷たく切り捨てる。
「エヴェリーナ嬢。あいにくだが」
「心よりお慕いしております。大好きなのです。殿下の騎獣──……ライオネル様のことが!」
──エヴェリーナのお目当ては、ジェラルドではなく獅子の騎獣ライオネルだったのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる