婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第二話 追放されたのは、私ではありませんでした

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第二話 追放されたのは、私ではありませんでした

母の別邸は、王都の喧騒から少し離れた丘の上にあった。

エヴェルシェイド公爵家の本邸ほど広くはない。けれど、無駄に豪奢でもなく、静けさと品のある屋敷だった。幼い頃、リディアナが亡き母に連れられて何度も訪れた場所でもある。

馬車を降りた瞬間、夜気の冷たさの奥に、微かに懐かしい花の香りが混じっているのを感じた。

本邸では感じることのなくなっていた匂いだった。

玄関扉が開く。

出迎えたのは、年配の女官長マリアベルだった。母の時代からこの別邸を預かっている、厳格で無駄口の少ない女だ。

だが今夜ばかりは、その瞳に驚きと怒りがはっきり浮かんでいた。

「お嬢様」

「ただいま、マリアベル」

「……お帰りなさいませ」

それだけ言うと、マリアベルは深く頭を下げた。

余計なことは聞かない。

だが、すでに何かを察しているのは明らかだった。

リディアナは手袋を外しながら、静かに歩を進めた。

「夜分にごめんなさい」

「とんでもございません。ここは、奥様が遺されたお嬢様のお屋敷にございます」

その一言が、思いがけず胸に沁みた。

本邸では、もうそんなふうに言う者はいなくなっていた。

父は後妻のヘレナを迎えてから変わった。もともと強い人ではなかったが、妻を亡くしてからは目に見えて弱くなり、やがて面倒ごとから目を背けるようになった。そして気づけば、屋敷の空気はヘレナとミレイユのものになっていた。

そのなかでリディアナだけが、公爵家の嫡女として立っていた。

立ち続けていた。

けれど今夜、王太子が公衆の面前で婚約破棄を宣言したことで、すべてが表に出た。

もう見て見ぬふりは通らない。

「湯をお持ちします」

「いいえ、その前に執務室を使うわ」

マリアベルがわずかに目を見開く。

舞踏会から戻ったばかりの令嬢が、涙を流すでも部屋に閉じこもるでもなく、先に執務室へ向かう。普通なら考えにくい行動だろう。

けれど彼女は何も言わなかった。

「かしこまりました」

執務室は二階の東側にある。

小ぶりな部屋だが、母が使っていた机や書棚がそのまま残されていた。几帳面に整えられた空間は、今も主を待っているようだった。

リディアナは机の前に立ち、そっと指先で木の表面をなぞった。

冷たい。

けれど心地よかった。

感傷に浸る時間はない。

椅子に腰を下ろすと、ほどなくしてグラントが分厚い革鞄を抱えて入ってきた。

「必要なものを持参いたしました」

「相変わらず抜け目がないわね」

「お嬢様が今夜、泣いてお休みになるとは思えませんでしたので」

「期待を裏切らなくてよかったわ」

グラントは机の上に書類を並べていく。

王家との融資台帳。

王太子名義の予算補填記録。

公爵家が後援していた慈善事業の実務一覧。

そして、婚約に伴って締結された複数の契約書の写し。

リディアナはその一つを手に取った。

紙の重みが、妙に現実的だった。

「改めて見ると、ずいぶん多いわね」

「王家は思っている以上に、お嬢様の名とエヴェルシェイド家の信用に依存しております」

「ええ。……カイル殿下は、何一つ分かっていなかったようだけれど」

「ご理解なさっていれば、あのような真似はできませんでしょう」

淡々とした口調だった。

だが、その奥に老執事なりの怒りが滲んでいるのを、リディアナは聞き逃さなかった。

グラントは感情を露わにしない。

それでも長く仕えてきた者だ。彼が怒るときは、たいてい主人が侮辱されたときだった。

「まず確認したいのだけれど」

「はい」

「今夜の時点で、王家と王太子個人に対して、わたくしの婚約者という立場を前提に動いている案件は、どこまであるのかしら」

グラントは一枚の一覧を差し出した。

「大きく分けて六件にございます」

「王宮内装改修の後援」

「王太子主導の慈善事業」

「東部街道整備の資材調達保証」

「王立学園の奨学基金追加拠出」

「近衛の冬季装備一部納入」

「そして、王太子殿下ご自身の……使途不明金の穴埋めにございます」

最後の一行に、リディアナの視線が止まった。

「使途不明金?」

「正確には、記録上ぼかされております。ですが実態としては、宝飾品、贈答品、私的な遊興費でございます」

「……ずいぶんと、丁寧に尻拭いをして差し上げていたのね、わたくし」

自分で言って、少しだけ乾いた笑いが出た。

恋だの愛だの以前の話だった。

王太子は婚約者を捨てたつもりでいる。だが実際には、自分の失態を黙って支えていた土台を蹴り飛ばしただけだ。

しかも大勢の前で。

「止めれば、どうなります」

「明日すぐに王宮が崩れるわけではないわ」

リディアナは書類をめくりながら言った。

「でも、困るでしょうね」

「かなり」

「なら、困っていただきましょう」

そのとき、扉が二度叩かれた。

マリアベルが入室し、銀盆に載せた茶器を置く。

湯気の立つ紅茶の香りが、張りつめた空気をわずかに和らげた。

だが彼女が下がる気配はなかった。

「何かあるの?」

「恐れながら、お嬢様」

マリアベルは目を伏せたまま言った。

「本邸より使いが参っております」

リディアナは眉を上げた。

思ったより早い。

「誰から」

「奥様より」

奥様。

つまりヘレナだ。

「内容は?」

「お嬢様に、ただちに本邸へ戻るようにと」

「理由は」

「今夜の失態について、家族として話し合う必要がある、と」

家族。

その言葉に、リディアナは冷たく笑った。

都合のいいときだけ家族面をする。

自分の娘が王太子に見初められた夜に、正妻の娘へ向けて使うには、あまりに浅ましい言葉だった。

「使いは待たせているの?」

「はい」

「なら、伝えてちょうだい」

リディアナはティーカップを持ち上げ、ひとくち口をつけた。

温かいはずなのに、妙に味が澄んで感じられる。

もう迷いがないからだろう。

「今夜、わたくしは戻りません」

「そして今後、本邸へ入る際には、必ず事前に許可を取るよう継母にお伝えなさい」

マリアベルの目がわずかに見開かれた。

グラントも沈黙したまま、けれど何も驚かなかった。

「……よろしいのですか」

「ええ」

リディアナはゆっくりとカップを置いた。

その音は、小さく、それでいてはっきりと部屋に響いた。

「追い出されたのは、私ではないもの」

二人の視線が集まる。

リディアナは静かに続けた。

「今夜、あの方々は勘違いなさったのよ」

「婚約を壊したのは自分たちで、壊されたのは私だと」

「でも違うわ」

机の上に広げられた書類へ視線を落とす。

どれもこれも、彼女が公爵令嬢として、王太子の婚約者として、黙って支えてきた証だった。

「王家も、カイル殿下も、ヘレナ様も、ミレイユも」

「自分たちが切り捨てた相手が、誰だったのか分かっていない」

その声には怒鳴りも震えもなかった。

ただ、静かな確信だけがあった。

「なら、教えて差し上げましょう」

グラントが一礼する。

「どこから止めますか」

「まずは、王太子殿下のお遊びから」

「使途不明金の補填、すべて凍結なさい」

「承知いたしました」

「慈善事業への実務協力も打ち切るわ」

「代わりの人員がいない以上、数日で表に出ます」

「ええ。それでいいの」

リディアナは窓の外を見た。

夜の王都は静かだった。

けれど明日になれば、少しずつ狂い始める。

小さなほころびは、やがて大きな裂け目になる。

そしてそのとき初めて、彼らは理解するのだ。

婚約破棄された令嬢が泣いて終わる物語ではなかったのだと。

「マリアベル」

「はい」

「明日からこの別邸の人員を増やします」

「信頼できる者だけを集めて」

「かしこまりました」

「グラント」

「はい」

「今夜の記録は、誰が見ても言い逃れできない形で残して」

「もちろんにございます」

リディアナは椅子にもたれず、まっすぐ背筋を伸ばしたまま言った。

「今夜は、あの方々にとって祝福の夜だったのでしょうね」

「王太子と義妹が結ばれた、幸福な夜」

そう言ってから、彼女は冷たく微笑んだ。

「その代償がどれほど高くつくのか、まだご存じないだけで」

暖炉の火が小さく揺れる。

母の執務室に、沈黙が落ちた。

その沈黙は敗北のものではなかった。

始まりの静けさだった。

リディアナは机の上の契約書に手を置く。

そして、まるで判決を下すように言った。

「明日から、取り立てを始めるわ」

「容赦はいりません」

「かしこまりました」

老執事の声は、深く低く、どこまでも静かだった。

だがその響きは、王都の誰よりも確かな忠誠に満ちていた。
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