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第三話 奪われた部屋で、義妹は笑っていた
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第三話 奪われた部屋で、義妹は笑っていた
翌朝、本邸へ戻る馬車の中で、リディアナは一度も口を開かなかった。
窓の外には、朝の光を受けた王都の石畳が続いている。夜のうちに降ったのか、わずかに湿った路面が白く光っていた。街はまだ静かで、商人たちも荷車を引き始めたばかりだ。
その穏やかな景色とは裏腹に、胸の内はひどく冷えていた。
昨夜は、ほとんど眠らなかった。
泣けなかったのではない。泣く必要がなくなったのだ。
王太子に捨てられたからではない。
あの男が、自分がどれほど愚かなものを失ったのかすら理解していないことが、すべてを終わらせた。
傷はあった。屈辱もあった。だが未練は、きれいに消えていた。
代わりに残ったのは、静かな怒りだけだった。
向かいに座るグラントが、視線を上げる。
「本邸に入られるおつもりでよろしいのですね」
「ええ」
「危険はございませんが、不快なものはご覧になるかと」
「不快なのは、もう慣れているわ」
「慣れるべきものではありません」
珍しく、やや硬い口調だった。
リディアナはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「怒ってくれているのね」
「当然にございます」
「ありがとう」
グラントはそれ以上何も言わなかったが、その沈黙はどこか頑なだった。
本邸の門が見えてくる。
エヴェルシェイド公爵家の紋章を掲げた壮麗な屋敷。重厚な石造りの外壁も、整えられた庭園も、長くこの家が王都の中心に君臨してきた証だ。
本来ならば、この屋敷の主となるのはリディアナだった。
いや、いずれではない。
もうすでに、その権威と信用の中心は彼女であるべきだった。
だが現実には、ここ数年で屋敷の空気は大きく変わっていた。表向きは公爵家の格式を保ちながら、その内側ではヘレナとミレイユが好き放題に私物化し、父はそれを見て見ぬふりをしてきた。
門番が馬車を認め、慌てて門を開く。
馬車が正面玄関へ止まると、扉が開き、使用人たちがずらりと並んでいた。
だがその顔ぶれを見た瞬間、リディアナの口元から笑みが消えた。
本来なら先頭にいるはずの家令がいない。
代わりに前へ出てきたのは、ヘレナ付きの侍女頭エルザだった。
「お帰りなさいませ、リディアナ様」
「家令はどうしたの」
「本日は少々、手が離せないとのことで」
嘘だ。
声色ひとつ変えず、彼女はそう確信した。
家令のような男が、嫡女の帰邸を無視するはずがない。つまり、出て来られない事情があるのだ。
あるいは、出て来させなかったか。
「そう」
リディアナはそれ以上追及せず、玄関をくぐった。
広間の空気は、明らかにおかしかった。
使用人たちは皆、目を伏せている。怯えているというより、様子を見ている顔だった。誰が上に立つかを、今もまだ測っているのだ。
情けない、とリディアナは思った。
家の秩序より、目先の空気に流される。
それがこの屋敷をここまで腐らせた。
二階へ上がると、廊下の先から笑い声が聞こえてきた。
甲高く、甘ったるい、聞き慣れた声。
ミレイユだ。
しかもその声は、リディアナの私室の方向から聞こえていた。
足が止まる。
胸の奥で、何かがひどく冷たい音を立てた。
「……まさか」
グラントもそれに気づいたらしい。
わずかに眉を寄せる。
リディアナは無言のまま、廊下を進んだ。
扉は半開きだった。
中からは、侍女たちの媚びた笑い声も混じっている。
リディアナはノックもせず、その扉を開けた。
部屋の中にいた者たちが、いっせいに振り向く。
そしてリディアナは、ほんの数秒、何も言えなかった。
そこは確かに、彼女の部屋だった。
窓辺に置かれた読書椅子も、母の形見の書棚も、白い刺繍の入ったカーテンも、そのままだ。
けれど中央に立っているのは、部屋の主ではない。
ミレイユだった。
しかも彼女は、リディアナの寝台の前に立ち、鏡に向かって髪を整えていた。
侍女たちが広げているのは、昨夜リディアナが舞踏会で身につけていた宝飾品の箱。
一番上には、王家から婚約記念として贈られた首飾りまで置かれていた。
空気が、ぴんと張りつめる。
それでも最初に口を開いたのはミレイユの方だった。
「あら、お姉様」
まるで、少し遅れて来た客でも迎えるような調子だった。
「お戻りになったのですね」
リディアナは、ミレイユではなく部屋全体を見回した。
化粧台の上には、自分の香水瓶が移動されている。
机の引き出しは開けられた跡がある。
衣装棚の扉も半開きだ。
侍女たちの手元には、明らかに彼女の私物がある。
「……何をしているの」
声は驚くほど静かだった。
怒鳴らなかった。
怒鳴る価値すらないと、体のどこかが判断したのかもしれない。
だが、その静けさが逆に部屋の空気を冷やした。
ミレイユは一瞬だけ目を泳がせたが、すぐにかわいらしい微笑を作った。
「お母様が仰ったのです」
「もうこのお部屋は、わたくしが使うことになるから、早めに整えなさいって」
侍女の一人が、びくりと肩を揺らした。
誰もがその言葉の異常さを理解したのだろう。
けれどミレイユだけは、何もおかしくない顔をしている。
「整える?」
「ええ」
「だって、お姉様はもう……」
言いかけて、彼女はわざとらしく口元を押さえた。
「あ……ごめんなさい」
「こんな言い方、失礼でしたわね」
「でも、お姉様はもう殿下の婚約者ではないのですもの」
「このお部屋をお使いになる理由も、ないでしょう?」
侍女たちの視線が床へ落ちる。
あまりに浅薄で、あまりに分かりやすい理屈だった。
家の部屋を誰が使うかは、婚約の有無だけで決まるものではない。
ここは公爵家の嫡女たるリディアナの私室だ。
王太子との関係以前に、この家の中で最も正統な立場にあるのは彼女のはずだった。
だがミレイユは、そんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、首をかしげた。
「それとも、お姉様」
「まだご自分が、ここにいられるとお思いでしたの?」
リディアナは数秒、黙っていた。
それからゆっくりと部屋の中へ入り、宝飾品の箱の前で足を止めた。
金細工の蓋を開く。
中には、婚約記念の首飾りだけではなく、母が残した真珠の耳飾りまで入っていた。
さすがにそこまで持ち出されるとは思っていなかったのか、グラントの目が鋭くなる。
「ミレイユ様」
その声は低かった。
「こちらの真珠の耳飾りは、先代公爵夫人のご遺品にございます」
「お触れになる資格はございません」
ミレイユは露骨に顔をしかめた。
「資格、ですって?」
「嫌ですわ、グラント」
「お姉様のお部屋にあるものなのだから、いずれ家のものではありませんか」
「家のものを、家の娘が使って何が悪いの?」
「家の娘、とは」
グラントの声が、さらに一段低くなる。
その先を言わせる前に、リディアナが口を開いた。
「グラント」
「……失礼いたしました」
老執事は一歩下がったが、怒りは隠していなかった。
リディアナは真珠の耳飾りをそっと箱へ戻した。
その動作だけは、ひどく丁寧だった。
母のものだからだ。
そして顔を上げる。
「ミレイユ」
「はい、お姉様」
「その寝台から離れなさい」
笑っていたミレイユの口元が、わずかに固まる。
「……どうしてですの?」
「私が嫌だからよ」
単純な言葉だった。
けれど、あまりにも率直で、部屋の全員が息を呑んだ。
リディアナがこういう物言いをするのを、彼女たちはほとんど見たことがない。
「そこは私の寝台よ」
「あなたが座っていい場所ではないわ」
ミレイユの頬がひきつる。
かわいらしい妹の仮面に、初めて亀裂が入った。
「そんな……ひどい」
「昨夜、殿下は皆様の前で婚約破棄を宣言なさいましたのよ?」
「もうお姉様は……」
「だから何?」
その一言で、ミレイユは言葉を失った。
リディアナは目を逸らさなかった。
「婚約が破棄されたから、この家での立場まで変わると、誰が決めたの」
「お母様が」
「ヘレナ様は、公爵夫人ではあっても、この家の血を継ぐ方ではないわ」
「なら、お父様が」
「お父様が、この部屋をあなたに与えると正式に仰ったの?」
ミレイユが黙る。
図星だった。
命じたのはヘレナであって、公爵本人ではないのだろう。
あの父は流されるばかりで、自分で決めたがらない。だからこそ、こうして後妻に都合よく使われる。
「答えられないのね」
「……そんな細かいこと」
「細かくありません」
リディアナは宝飾品の箱を閉じた。
その音は静かだったが、まるで区切りを打つようにはっきりしていた。
「あなたは、私の不在中に私室へ入り、私物を勝手に動かし、母の遺品にまで触れた」
「それだけで十分に無礼よ」
「無礼って……」
ミレイユの目に涙がにじみ始める。
けれどリディアナは、もうその涙に何も感じなかった。
昨夜の舞踏会で、見飽きたからだ。
「侍女たち」
名を呼ばれ、部屋の隅にいた三人がびくりとした。
「今すぐ、そこにあるものをすべて元に戻しなさい」
「ひとつでも不足があれば、管理不行き届きとして責任を問います」
侍女たちは顔を見合わせる。
ミレイユに従うべきか、リディアナに従うべきか、まだ迷っているのだ。
愚かだ、とまた思う。
ここまで状況が見えないのかと。
「できません!」
先に叫んだのはミレイユだった。
「この部屋は、もうわたくしのものです!」
「お母様がそうお決めになりました!」
「お姉様こそ、もう出ていくべきです!」
その声は少し裏返っていた。
かわいらしい妹の仮面をかなぐり捨てた、むき出しの苛立ちだった。
リディアナはようやく、ほんのわずかに笑った。
「そう」
「では、その言葉、あとでヘレナ様にも確認しましょう」
ミレイユの顔色が変わる。
言った勢いのまま押し切れると思っていたのだろう。
だが、リディアナはそこで終わらせなかった。
「その前に、もう一つだけ聞くわ」
「……何ですの」
「その首飾り」
リディアナは、婚約記念の首飾りを視線で示した。
昨夜、ミレイユが触れていたものだ。
「誰の許可で出したの」
「それは……殿下が、わたくしに似合うと仰って」
「質問に答えなさい」
ぴしゃりと遮られ、ミレイユは息を詰まらせた。
リディアナは一歩だけ近づく。
「誰の許可で、私の箱を開けたの」
「……わ、わたくしは」
「答えられないなら、無断で触れたということね」
「違います!」
「では、誰が命じたの?」
「お母様が……」
とうとう言った。
侍女たちの顔がさらに青ざめる。
リディアナは頷いた。
「よく分かったわ」
それだけ言うと、彼女は振り返った。
「グラント」
「はい」
「本日のうちに、私室の鍵を交換なさい」
「かしこまりました」
「それから、この部屋にある品の目録をすべて取り直して」
「母の遺品は別管理にします」
「承知いたしました」
ミレイユが目を見開く。
「なっ……待ってください!」
「そんなことをしたら、わたくしが困ります!」
「困る?」
リディアナは振り返った。
その瞳には、もう怒りすらほとんどなかった。
冷え切った軽蔑だけがあった。
「困るのはあなたでしょうね」
「でも、それは私の知ったことではないわ」
「お姉様!」
「その呼び方はやめなさい」
部屋の空気が凍る。
ミレイユの唇が震えた。
「あなたに姉と呼ばれるたび、吐き気がするの」
初めてだった。
リディアナがここまで露骨に拒絶を口にしたのは。
ミレイユは何か言い返そうとしたが、声にならなかった。
涙が大きく瞳に溜まる。
だがその涙に、もう味方する空気はなかった。
侍女たちですら、さっきまでのように彼女を慰めようとはしない。
誰もが気づいたのだ。
ここで笑っていた義妹は、あまりにも浅ましく、あまりにも分不相応だったと。
「品を戻しなさい」
リディアナはもう一度だけ侍女たちに言った。
今度は迷いはなかった。
三人は慌てて頭を下げ、宝飾品の箱を閉じ、布を整え、開けられた引き出しへ手を伸ばす。
ミレイユが叫ぶ。
「やめなさい!」
「わたくしの命令よ!」
だが侍女たちの手は止まらない。
それが何より残酷だった。
つい昨日までなら、ミレイユの涙と甘え声に従っていた者たちが、今は彼女よりリディアナの静かな一言を選ぶ。
ミレイユの顔がみるみる赤くなる。
恥と怒りで歪んでいく。
「こんなの、おかしいわ……!」
「殿下は、わたくしを選んだのに……!」
「どうして、どうしてお姉様ばかり……!」
リディアナは扉の前で足を止めた。
振り返らないまま、ただ言う。
「選ばれたから何だというの」
「王子の気まぐれ一つで、自分が何者かになれたと勘違いしたのなら」
「それが、あなたの愚かさよ」
言い終えると、彼女は部屋を出た。
背後で、ミレイユが泣き喚く声が上がる。
だが足は止まらなかった。
廊下を歩きながら、グラントが低く言う。
「よろしかったのですか」
「何が」
「もう少し、柔らかくなさる道もございました」
リディアナは前を向いたまま答えた。
「昨夜まではね」
「ですが、もう終わったわ」
しばしの沈黙のあと、グラントが言う。
「お強くなられましたな」
「違うわ」
リディアナは小さく首を振った。
「ようやく、無駄な遠慮をやめただけ」
階段の踊り場に差しかかると、下の広間で気配が動いた。
おそらく騒ぎを聞きつけて、ヘレナか、あるいは父が出てきたのだろう。
ちょうどいい、とリディアナは思った。
今度は部屋ではなく、この家そのものに、誰が何を勘違いしているのかを教える番だった。
彼女は立ち止まらない。
昨夜、婚約は壊れた。
ならば今日は、その先にあるものを壊していく日だ。
奪われた部屋で笑っていた義妹は、まだ知らない。
昨夜の勝利が、自分たちの終わりの始まりだったことを。
翌朝、本邸へ戻る馬車の中で、リディアナは一度も口を開かなかった。
窓の外には、朝の光を受けた王都の石畳が続いている。夜のうちに降ったのか、わずかに湿った路面が白く光っていた。街はまだ静かで、商人たちも荷車を引き始めたばかりだ。
その穏やかな景色とは裏腹に、胸の内はひどく冷えていた。
昨夜は、ほとんど眠らなかった。
泣けなかったのではない。泣く必要がなくなったのだ。
王太子に捨てられたからではない。
あの男が、自分がどれほど愚かなものを失ったのかすら理解していないことが、すべてを終わらせた。
傷はあった。屈辱もあった。だが未練は、きれいに消えていた。
代わりに残ったのは、静かな怒りだけだった。
向かいに座るグラントが、視線を上げる。
「本邸に入られるおつもりでよろしいのですね」
「ええ」
「危険はございませんが、不快なものはご覧になるかと」
「不快なのは、もう慣れているわ」
「慣れるべきものではありません」
珍しく、やや硬い口調だった。
リディアナはその言葉に、少しだけ目を細めた。
「怒ってくれているのね」
「当然にございます」
「ありがとう」
グラントはそれ以上何も言わなかったが、その沈黙はどこか頑なだった。
本邸の門が見えてくる。
エヴェルシェイド公爵家の紋章を掲げた壮麗な屋敷。重厚な石造りの外壁も、整えられた庭園も、長くこの家が王都の中心に君臨してきた証だ。
本来ならば、この屋敷の主となるのはリディアナだった。
いや、いずれではない。
もうすでに、その権威と信用の中心は彼女であるべきだった。
だが現実には、ここ数年で屋敷の空気は大きく変わっていた。表向きは公爵家の格式を保ちながら、その内側ではヘレナとミレイユが好き放題に私物化し、父はそれを見て見ぬふりをしてきた。
門番が馬車を認め、慌てて門を開く。
馬車が正面玄関へ止まると、扉が開き、使用人たちがずらりと並んでいた。
だがその顔ぶれを見た瞬間、リディアナの口元から笑みが消えた。
本来なら先頭にいるはずの家令がいない。
代わりに前へ出てきたのは、ヘレナ付きの侍女頭エルザだった。
「お帰りなさいませ、リディアナ様」
「家令はどうしたの」
「本日は少々、手が離せないとのことで」
嘘だ。
声色ひとつ変えず、彼女はそう確信した。
家令のような男が、嫡女の帰邸を無視するはずがない。つまり、出て来られない事情があるのだ。
あるいは、出て来させなかったか。
「そう」
リディアナはそれ以上追及せず、玄関をくぐった。
広間の空気は、明らかにおかしかった。
使用人たちは皆、目を伏せている。怯えているというより、様子を見ている顔だった。誰が上に立つかを、今もまだ測っているのだ。
情けない、とリディアナは思った。
家の秩序より、目先の空気に流される。
それがこの屋敷をここまで腐らせた。
二階へ上がると、廊下の先から笑い声が聞こえてきた。
甲高く、甘ったるい、聞き慣れた声。
ミレイユだ。
しかもその声は、リディアナの私室の方向から聞こえていた。
足が止まる。
胸の奥で、何かがひどく冷たい音を立てた。
「……まさか」
グラントもそれに気づいたらしい。
わずかに眉を寄せる。
リディアナは無言のまま、廊下を進んだ。
扉は半開きだった。
中からは、侍女たちの媚びた笑い声も混じっている。
リディアナはノックもせず、その扉を開けた。
部屋の中にいた者たちが、いっせいに振り向く。
そしてリディアナは、ほんの数秒、何も言えなかった。
そこは確かに、彼女の部屋だった。
窓辺に置かれた読書椅子も、母の形見の書棚も、白い刺繍の入ったカーテンも、そのままだ。
けれど中央に立っているのは、部屋の主ではない。
ミレイユだった。
しかも彼女は、リディアナの寝台の前に立ち、鏡に向かって髪を整えていた。
侍女たちが広げているのは、昨夜リディアナが舞踏会で身につけていた宝飾品の箱。
一番上には、王家から婚約記念として贈られた首飾りまで置かれていた。
空気が、ぴんと張りつめる。
それでも最初に口を開いたのはミレイユの方だった。
「あら、お姉様」
まるで、少し遅れて来た客でも迎えるような調子だった。
「お戻りになったのですね」
リディアナは、ミレイユではなく部屋全体を見回した。
化粧台の上には、自分の香水瓶が移動されている。
机の引き出しは開けられた跡がある。
衣装棚の扉も半開きだ。
侍女たちの手元には、明らかに彼女の私物がある。
「……何をしているの」
声は驚くほど静かだった。
怒鳴らなかった。
怒鳴る価値すらないと、体のどこかが判断したのかもしれない。
だが、その静けさが逆に部屋の空気を冷やした。
ミレイユは一瞬だけ目を泳がせたが、すぐにかわいらしい微笑を作った。
「お母様が仰ったのです」
「もうこのお部屋は、わたくしが使うことになるから、早めに整えなさいって」
侍女の一人が、びくりと肩を揺らした。
誰もがその言葉の異常さを理解したのだろう。
けれどミレイユだけは、何もおかしくない顔をしている。
「整える?」
「ええ」
「だって、お姉様はもう……」
言いかけて、彼女はわざとらしく口元を押さえた。
「あ……ごめんなさい」
「こんな言い方、失礼でしたわね」
「でも、お姉様はもう殿下の婚約者ではないのですもの」
「このお部屋をお使いになる理由も、ないでしょう?」
侍女たちの視線が床へ落ちる。
あまりに浅薄で、あまりに分かりやすい理屈だった。
家の部屋を誰が使うかは、婚約の有無だけで決まるものではない。
ここは公爵家の嫡女たるリディアナの私室だ。
王太子との関係以前に、この家の中で最も正統な立場にあるのは彼女のはずだった。
だがミレイユは、そんなことなどどうでもいいと言わんばかりに、首をかしげた。
「それとも、お姉様」
「まだご自分が、ここにいられるとお思いでしたの?」
リディアナは数秒、黙っていた。
それからゆっくりと部屋の中へ入り、宝飾品の箱の前で足を止めた。
金細工の蓋を開く。
中には、婚約記念の首飾りだけではなく、母が残した真珠の耳飾りまで入っていた。
さすがにそこまで持ち出されるとは思っていなかったのか、グラントの目が鋭くなる。
「ミレイユ様」
その声は低かった。
「こちらの真珠の耳飾りは、先代公爵夫人のご遺品にございます」
「お触れになる資格はございません」
ミレイユは露骨に顔をしかめた。
「資格、ですって?」
「嫌ですわ、グラント」
「お姉様のお部屋にあるものなのだから、いずれ家のものではありませんか」
「家のものを、家の娘が使って何が悪いの?」
「家の娘、とは」
グラントの声が、さらに一段低くなる。
その先を言わせる前に、リディアナが口を開いた。
「グラント」
「……失礼いたしました」
老執事は一歩下がったが、怒りは隠していなかった。
リディアナは真珠の耳飾りをそっと箱へ戻した。
その動作だけは、ひどく丁寧だった。
母のものだからだ。
そして顔を上げる。
「ミレイユ」
「はい、お姉様」
「その寝台から離れなさい」
笑っていたミレイユの口元が、わずかに固まる。
「……どうしてですの?」
「私が嫌だからよ」
単純な言葉だった。
けれど、あまりにも率直で、部屋の全員が息を呑んだ。
リディアナがこういう物言いをするのを、彼女たちはほとんど見たことがない。
「そこは私の寝台よ」
「あなたが座っていい場所ではないわ」
ミレイユの頬がひきつる。
かわいらしい妹の仮面に、初めて亀裂が入った。
「そんな……ひどい」
「昨夜、殿下は皆様の前で婚約破棄を宣言なさいましたのよ?」
「もうお姉様は……」
「だから何?」
その一言で、ミレイユは言葉を失った。
リディアナは目を逸らさなかった。
「婚約が破棄されたから、この家での立場まで変わると、誰が決めたの」
「お母様が」
「ヘレナ様は、公爵夫人ではあっても、この家の血を継ぐ方ではないわ」
「なら、お父様が」
「お父様が、この部屋をあなたに与えると正式に仰ったの?」
ミレイユが黙る。
図星だった。
命じたのはヘレナであって、公爵本人ではないのだろう。
あの父は流されるばかりで、自分で決めたがらない。だからこそ、こうして後妻に都合よく使われる。
「答えられないのね」
「……そんな細かいこと」
「細かくありません」
リディアナは宝飾品の箱を閉じた。
その音は静かだったが、まるで区切りを打つようにはっきりしていた。
「あなたは、私の不在中に私室へ入り、私物を勝手に動かし、母の遺品にまで触れた」
「それだけで十分に無礼よ」
「無礼って……」
ミレイユの目に涙がにじみ始める。
けれどリディアナは、もうその涙に何も感じなかった。
昨夜の舞踏会で、見飽きたからだ。
「侍女たち」
名を呼ばれ、部屋の隅にいた三人がびくりとした。
「今すぐ、そこにあるものをすべて元に戻しなさい」
「ひとつでも不足があれば、管理不行き届きとして責任を問います」
侍女たちは顔を見合わせる。
ミレイユに従うべきか、リディアナに従うべきか、まだ迷っているのだ。
愚かだ、とまた思う。
ここまで状況が見えないのかと。
「できません!」
先に叫んだのはミレイユだった。
「この部屋は、もうわたくしのものです!」
「お母様がそうお決めになりました!」
「お姉様こそ、もう出ていくべきです!」
その声は少し裏返っていた。
かわいらしい妹の仮面をかなぐり捨てた、むき出しの苛立ちだった。
リディアナはようやく、ほんのわずかに笑った。
「そう」
「では、その言葉、あとでヘレナ様にも確認しましょう」
ミレイユの顔色が変わる。
言った勢いのまま押し切れると思っていたのだろう。
だが、リディアナはそこで終わらせなかった。
「その前に、もう一つだけ聞くわ」
「……何ですの」
「その首飾り」
リディアナは、婚約記念の首飾りを視線で示した。
昨夜、ミレイユが触れていたものだ。
「誰の許可で出したの」
「それは……殿下が、わたくしに似合うと仰って」
「質問に答えなさい」
ぴしゃりと遮られ、ミレイユは息を詰まらせた。
リディアナは一歩だけ近づく。
「誰の許可で、私の箱を開けたの」
「……わ、わたくしは」
「答えられないなら、無断で触れたということね」
「違います!」
「では、誰が命じたの?」
「お母様が……」
とうとう言った。
侍女たちの顔がさらに青ざめる。
リディアナは頷いた。
「よく分かったわ」
それだけ言うと、彼女は振り返った。
「グラント」
「はい」
「本日のうちに、私室の鍵を交換なさい」
「かしこまりました」
「それから、この部屋にある品の目録をすべて取り直して」
「母の遺品は別管理にします」
「承知いたしました」
ミレイユが目を見開く。
「なっ……待ってください!」
「そんなことをしたら、わたくしが困ります!」
「困る?」
リディアナは振り返った。
その瞳には、もう怒りすらほとんどなかった。
冷え切った軽蔑だけがあった。
「困るのはあなたでしょうね」
「でも、それは私の知ったことではないわ」
「お姉様!」
「その呼び方はやめなさい」
部屋の空気が凍る。
ミレイユの唇が震えた。
「あなたに姉と呼ばれるたび、吐き気がするの」
初めてだった。
リディアナがここまで露骨に拒絶を口にしたのは。
ミレイユは何か言い返そうとしたが、声にならなかった。
涙が大きく瞳に溜まる。
だがその涙に、もう味方する空気はなかった。
侍女たちですら、さっきまでのように彼女を慰めようとはしない。
誰もが気づいたのだ。
ここで笑っていた義妹は、あまりにも浅ましく、あまりにも分不相応だったと。
「品を戻しなさい」
リディアナはもう一度だけ侍女たちに言った。
今度は迷いはなかった。
三人は慌てて頭を下げ、宝飾品の箱を閉じ、布を整え、開けられた引き出しへ手を伸ばす。
ミレイユが叫ぶ。
「やめなさい!」
「わたくしの命令よ!」
だが侍女たちの手は止まらない。
それが何より残酷だった。
つい昨日までなら、ミレイユの涙と甘え声に従っていた者たちが、今は彼女よりリディアナの静かな一言を選ぶ。
ミレイユの顔がみるみる赤くなる。
恥と怒りで歪んでいく。
「こんなの、おかしいわ……!」
「殿下は、わたくしを選んだのに……!」
「どうして、どうしてお姉様ばかり……!」
リディアナは扉の前で足を止めた。
振り返らないまま、ただ言う。
「選ばれたから何だというの」
「王子の気まぐれ一つで、自分が何者かになれたと勘違いしたのなら」
「それが、あなたの愚かさよ」
言い終えると、彼女は部屋を出た。
背後で、ミレイユが泣き喚く声が上がる。
だが足は止まらなかった。
廊下を歩きながら、グラントが低く言う。
「よろしかったのですか」
「何が」
「もう少し、柔らかくなさる道もございました」
リディアナは前を向いたまま答えた。
「昨夜まではね」
「ですが、もう終わったわ」
しばしの沈黙のあと、グラントが言う。
「お強くなられましたな」
「違うわ」
リディアナは小さく首を振った。
「ようやく、無駄な遠慮をやめただけ」
階段の踊り場に差しかかると、下の広間で気配が動いた。
おそらく騒ぎを聞きつけて、ヘレナか、あるいは父が出てきたのだろう。
ちょうどいい、とリディアナは思った。
今度は部屋ではなく、この家そのものに、誰が何を勘違いしているのかを教える番だった。
彼女は立ち止まらない。
昨夜、婚約は壊れた。
ならば今日は、その先にあるものを壊していく日だ。
奪われた部屋で笑っていた義妹は、まだ知らない。
昨夜の勝利が、自分たちの終わりの始まりだったことを。
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