4 / 30
第四話 継母は、私を追い出したつもりでいた
しおりを挟む
第四話 継母は、私を追い出したつもりでいた
階段を下りる前から、甲高い声は聞こえていた。
怒りを押し殺したつもりで、結局は押し殺し切れていない声だ。
ヘレナだった。
広間へ降りると、案の定、継母は中央に立っていた。朝から完璧に髪を結い上げ、真珠を連ねた淡い藤色のドレスをまとっている。その姿だけ見れば公爵夫人らしい品位もあった。少なくとも、遠目には。
だが顔は美しくなかった。
苛立ちと焦りが隠し切れていないからだ。
そのすぐ後ろには、青ざめた侍女たちと、所在なげに立つ執事見習いがいる。さらに少し離れて、公爵――リディアナの父であるアルベルト・エヴェルシェイドが立っていた。
父は、娘が階段を下りてきたのを見ると、ほっとしたような、困ったような、何とも情けない顔をした。
その表情だけで、もう察せられる。
この人は昨夜から今に至るまで、何一つ事態を動かせていない。
「リディアナ」
最初に口を開いたのは父だった。
弱々しい呼びかけだった。
叱るでもなく、庇うでもなく、ただ面倒ごとを穏便に収めたいだけの声。
リディアナは広間の中央まで進み、そこで足を止めた。
「おはようございます、お父様」
「……ああ」
「ずいぶん騒がしい朝ですこと」
その言葉に、ヘレナがすかさず前へ出る。
「騒がしくもなりますわ」
「あなたが、ミレイユを泣かせたのですもの」
リディアナは継母を見た。
綺麗に塗られた唇が、わずかに引きつっている。
おそらく先ほど、ミレイユから泣きつかれたのだろう。泣きながら、自分は何も悪くない、お姉様が急にひどいことを言った、とでも訴えたに違いない。
実に想像しやすかった。
「泣かせた?」
「ええ」
「可哀想なミレイユは、あなたにあんな言い方をされて、部屋にもいられないほど傷ついているのよ」
「そう」
「ずいぶん冷たい返事ね」
「泣いているからといって、あの子が正しいとは限りませんもの」
ヘレナの眉がぴくりと動く。
こういう言い方が一番嫌いなのだ、この女は。
正面から怒鳴り返されるより、静かに理を示される方が、自分の浅さを突きつけられるから。
「理屈は結構ですわ」
「昨夜のことといい、今朝のことといい、あなたは少し感情的になりすぎています」
「感情的?」
リディアナは首をかしげた。
「私が?」
「そうよ」
「殿下に婚約破棄をされたからといって、家の中で当たり散らされては困ります」
広間の空気が、わずかに揺れた。
使用人たちも、その言葉の薄汚さに気づいたのだろう。
婚約破棄されたばかりの娘に向かって、慰めるでもなく、まず「当たり散らすな」と言う。
継母として以前に、人としてどうかしている。
だがヘレナにとっては、今が好機なのだ。
王太子の婚約者でなくなったリディアナは、もはや押さえ込める。そう思っている顔だった。
「昨夜の件については、まだ正式な整理がついておりません」
グラントが一歩進み出て言う。
「にもかかわらず、リディアナ様の私室へ無断で立ち入り、私物を移動させたことこそ、問題かと存じますが」
「グラント」
ヘレナの声が鋭くなる。
「使用人の立場で、誰に口を利いているのかしら」
「公爵家嫡女に仕える執事として、公爵家の秩序を守ろうとしております」
「あなたの主人は、この家の当主でしょう」
「ええ」
グラントは一切動じなかった。
「そして、その当主の唯一の嫡女が、リディアナ様にございます」
ヘレナの頬がわずかにひきつる。
父が、いたたまれないように視線を逸らした。
リディアナはその様子を見て、ほとんど失望すら覚えなかった。もう期待していないからだろう。
ヘレナはすぐに矛先を変えた。
「アルベルト様」
甘くすがるような声になる。
「ご覧になってくださいませ。グラントまでが、こんなにリディアナを甘やかして」
「ミレイユは、ただ新しい生活の準備をしていただけなのです」
「殿下に選ばれた娘を、この家として立てるのは当然ではありませんか」
その言葉を聞いて、リディアナはようやく笑った。
本当に、浅い。
「新しい生活、ですって?」
「何がおかしいの」
「おかしいことしかありませんわ」
リディアナは父を見た。
「お父様」
「……なんだ」
「お聞きしたいのですが」
「私の私室をミレイユに与えると、正式にお決めになったのですか」
父は口を開き、閉じた。
答えに詰まる。
それがすべてだった。
ヘレナが横から言い募る。
「わたくしが、公爵夫人として判断したのです」
「なるほど」
「何か問題でも?」
「大ありですわ」
リディアナは一歩、ヘレナへ近づいた。
声は穏やかなままだった。
だが、その静けさがかえって継母を追い詰める。
「公爵夫人であることと、公爵家の継承に口を出せることは別です」
「私の私室は、婚約者として与えられた客室ではありません」
「公爵家嫡女の居室です」
「婚約がどうなろうと、それだけで勝手に動かしていいものではありません」
「あなたは今朝、それをなさいました」
ヘレナの唇が歪む。
理屈で押し返せないと分かると、こういう顔になる。
「面倒な言い方をなさるのね」
「でも現実を見なさいな、リディアナ」
「昨夜、殿下はあなたを捨てたのよ」
「もうあなたに価値は――」
「ヘレナ」
父がそこで、ようやく声を上げた。
かすれていて弱いが、今までよりはまだましだった。
「言いすぎだ」
だが遅い。
あまりにも遅すぎた。
ヘレナははっとしたように口をつぐんだが、もう言葉は戻らない。
広間にいた全員が聞いていた。
継母が、嫡女に向かって「価値はない」と言いかけたのを。
リディアナは父を見た。
この人は、今さら何を止めるつもりなのだろう。
見て見ぬふりを続けて、相手が本音を口にした瞬間だけ「言いすぎだ」と言う。それで父親の役目を果たしたつもりなのか。
胸の中にあった最後の、ほんのわずかなものまで冷えた。
「お父様」
「……ああ」
「昨夜の件を受けて、私は一時的に母の別邸へ移りました」
「そうだな」
「そして今朝、本邸へ戻って確認いたしました」
「何をだ」
「この家の秩序が、想像以上に壊れていることを、です」
父の顔が曇る。
ヘレナは苛立ったように鼻で笑った。
「大げさね」
「大げさではありません」
リディアナは広間を見回した。
使用人たちは皆、息を詰めている。
誰もが分かっているのだ。
今ここで話されているのは、部屋の取り合いなどではない。この屋敷の中で、誰が何を勘違いしてきたのか、その話だと。
「嫡女の私室に無断で入る」
「私物を勝手に移動する」
「遺品に触れる」
「そして、それを公爵夫人の判断だけで押し通せると思っている」
「これを秩序の崩壊と呼ばず、何と呼ぶのですか」
誰も答えない。
答えられる者などいない。
ヘレナが先に耐えきれなくなった。
「あなたこそ、何様のつもりなの!」
「婚約を失っただけで、まだ自分がこの家の中心だとでも思っているの!?」
「ええ」
リディアナは即答した。
そのあまりの迷いのなさに、ヘレナが言葉を失う。
「思っておりますわ」
「少なくとも、あなたやミレイユよりは、よほど」
広間の空気が張る。
父が青ざめた顔で二人を見る。
だが、もう止められない。
止められる段階は、ずっと前に過ぎている。
「ミレイユは殿下に選ばれたのよ!」
「王太子に見初められた娘なの!」
「だから何ですの」
リディアナの声は冷たかった。
「王子の気まぐれ一つで、この家の血筋も秩序も継承も塗り替えられると、本気で思っていらしたの?」
「あなた……!」
「それに、昨夜の宣言がそのまま通ると、誰が保証したのですか」
ヘレナが止まる。
その一瞬を、リディアナは逃さなかった。
「正式な婚約破棄の手続きも、王家との契約整理も、何一つ終わっておりません」
「にもかかわらず、あなた方はもう勝ったつもりで私の部屋を荒らした」
「早計にもほどがありますわ」
ヘレナは何か言い返そうとして、結局できなかった。
分からないのだ。
契約だの整理だの、そういう地味で現実的な話を、この女は嫌う。華やかな結果だけ欲しがって、その裏に何があるか考えたことがないから。
父が、重い声で言った。
「リディアナ」
「はい」
「……少し、落ち着いて話をしないか」
その言葉に、リディアナはとうとう心の底から呆れた。
落ち着いていないのは誰だ。
自分ではない。
昨夜から今日まで、誰より冷静に物を見ているのはむしろ自分だ。
「お父様」
「なんだ」
「私は落ち着いております」
「むしろ、ようやく状況を理解なさろうとしているのが、皆様の方では?」
父の肩がわずかに落ちる。
図星なのだろう。
ヘレナは耐えきれず、声を荒げた。
「アルベルト様!」
「ご覧くださいませ、この娘を!」
「親に向かってなんという口の利き方を!」
「親?」
リディアナはその言葉を、まるで異物でも見るように繰り返した。
「あなたが?」
「……なっ」
「親というなら、まず娘の部屋を守るべきではなくて?」
「娘というなら、まず娘の尊厳を守るべきではなくて?」
「昨夜、私は大勢の前で婚約破棄を受けました」
「その翌朝に、私室を奪わせたのは誰ですか」
ヘレナが言葉をなくす。
父もまた、返せない。
静まり返る広間に、リディアナの声だけが落ちた。
「私を追い出したつもりでいらしたのでしょうね」
「婚約を失った娘は、この家で弱くなると」
「だから今のうちに立場を奪ってしまえばいいと」
そこで、彼女は微笑んだ。
だが、それは温かな笑みではなかった。
ただ相手の勘違いを見届ける者の、冷たい笑みだった。
「残念ですけれど、逆ですわ」
ヘレナが息を呑む。
「私が弱くなるのではありません」
「あなた方が、自分たちの浅はかさをさらけ出したのです」
そのときだった。
正面玄関の方で、慌ただしい足音がした。
若い使用人が血相を変えて広間へ飛び込んでくる。
「旦那様!」
皆の視線がそちらへ向く。
その使用人は息を切らしながら、震える声で言った。
「王宮より急使が参っております!」
父が目を見開く。
ヘレナの顔色も変わった。
リディアナだけが、少しも動じなかった。
もう来たのだ。
昨夜の熱に浮かれた祝福の余韻が、現実に変わる最初の一手が。
「どういった用件だ」
父が問う。
使用人はつばを飲み込んで答えた。
「王太子殿下のご命令で……リディアナ様に、ただちに登城いただきたいとのことです」
広間の空気が、さらに冷えた。
ヘレナが先に口を開く。
「まあ!」
「やはり殿下も、冷静になられたのだわ!」
「きっと昨夜は勢い余って――」
「違いますわ」
リディアナは継母の言葉を静かに切った。
全員が彼女を見る。
その目を、彼女はまっすぐ受け止めた。
「冷静になったのではありません」
「困り始めただけです」
そう言って、リディアナはグラントへ視線を向けた。
「準備を」
「かしこまりました」
老執事は一礼する。
ヘレナが声を尖らせた。
「待ちなさい!」
「呼ばれたからといって、あなたが好き勝手に振る舞っていいと思わないことね!」
リディアナはちらりと継母を見た。
「ご安心なさって」
「好き勝手になど、いたしませんわ」
そして、はっきりと言った。
「これから始めるのは、ただの精算ですもの」
誰も、その意味を正しく理解できなかった。
けれど、それでよかった。
理解するのはこれからだ。
王宮も。
王太子も。
この家で勝ったつもりになっている継母も義妹も。
すべて、自分たちが何を壊したのかを。
その代償がどれほど重いのかを。
階段を下りる前から、甲高い声は聞こえていた。
怒りを押し殺したつもりで、結局は押し殺し切れていない声だ。
ヘレナだった。
広間へ降りると、案の定、継母は中央に立っていた。朝から完璧に髪を結い上げ、真珠を連ねた淡い藤色のドレスをまとっている。その姿だけ見れば公爵夫人らしい品位もあった。少なくとも、遠目には。
だが顔は美しくなかった。
苛立ちと焦りが隠し切れていないからだ。
そのすぐ後ろには、青ざめた侍女たちと、所在なげに立つ執事見習いがいる。さらに少し離れて、公爵――リディアナの父であるアルベルト・エヴェルシェイドが立っていた。
父は、娘が階段を下りてきたのを見ると、ほっとしたような、困ったような、何とも情けない顔をした。
その表情だけで、もう察せられる。
この人は昨夜から今に至るまで、何一つ事態を動かせていない。
「リディアナ」
最初に口を開いたのは父だった。
弱々しい呼びかけだった。
叱るでもなく、庇うでもなく、ただ面倒ごとを穏便に収めたいだけの声。
リディアナは広間の中央まで進み、そこで足を止めた。
「おはようございます、お父様」
「……ああ」
「ずいぶん騒がしい朝ですこと」
その言葉に、ヘレナがすかさず前へ出る。
「騒がしくもなりますわ」
「あなたが、ミレイユを泣かせたのですもの」
リディアナは継母を見た。
綺麗に塗られた唇が、わずかに引きつっている。
おそらく先ほど、ミレイユから泣きつかれたのだろう。泣きながら、自分は何も悪くない、お姉様が急にひどいことを言った、とでも訴えたに違いない。
実に想像しやすかった。
「泣かせた?」
「ええ」
「可哀想なミレイユは、あなたにあんな言い方をされて、部屋にもいられないほど傷ついているのよ」
「そう」
「ずいぶん冷たい返事ね」
「泣いているからといって、あの子が正しいとは限りませんもの」
ヘレナの眉がぴくりと動く。
こういう言い方が一番嫌いなのだ、この女は。
正面から怒鳴り返されるより、静かに理を示される方が、自分の浅さを突きつけられるから。
「理屈は結構ですわ」
「昨夜のことといい、今朝のことといい、あなたは少し感情的になりすぎています」
「感情的?」
リディアナは首をかしげた。
「私が?」
「そうよ」
「殿下に婚約破棄をされたからといって、家の中で当たり散らされては困ります」
広間の空気が、わずかに揺れた。
使用人たちも、その言葉の薄汚さに気づいたのだろう。
婚約破棄されたばかりの娘に向かって、慰めるでもなく、まず「当たり散らすな」と言う。
継母として以前に、人としてどうかしている。
だがヘレナにとっては、今が好機なのだ。
王太子の婚約者でなくなったリディアナは、もはや押さえ込める。そう思っている顔だった。
「昨夜の件については、まだ正式な整理がついておりません」
グラントが一歩進み出て言う。
「にもかかわらず、リディアナ様の私室へ無断で立ち入り、私物を移動させたことこそ、問題かと存じますが」
「グラント」
ヘレナの声が鋭くなる。
「使用人の立場で、誰に口を利いているのかしら」
「公爵家嫡女に仕える執事として、公爵家の秩序を守ろうとしております」
「あなたの主人は、この家の当主でしょう」
「ええ」
グラントは一切動じなかった。
「そして、その当主の唯一の嫡女が、リディアナ様にございます」
ヘレナの頬がわずかにひきつる。
父が、いたたまれないように視線を逸らした。
リディアナはその様子を見て、ほとんど失望すら覚えなかった。もう期待していないからだろう。
ヘレナはすぐに矛先を変えた。
「アルベルト様」
甘くすがるような声になる。
「ご覧になってくださいませ。グラントまでが、こんなにリディアナを甘やかして」
「ミレイユは、ただ新しい生活の準備をしていただけなのです」
「殿下に選ばれた娘を、この家として立てるのは当然ではありませんか」
その言葉を聞いて、リディアナはようやく笑った。
本当に、浅い。
「新しい生活、ですって?」
「何がおかしいの」
「おかしいことしかありませんわ」
リディアナは父を見た。
「お父様」
「……なんだ」
「お聞きしたいのですが」
「私の私室をミレイユに与えると、正式にお決めになったのですか」
父は口を開き、閉じた。
答えに詰まる。
それがすべてだった。
ヘレナが横から言い募る。
「わたくしが、公爵夫人として判断したのです」
「なるほど」
「何か問題でも?」
「大ありですわ」
リディアナは一歩、ヘレナへ近づいた。
声は穏やかなままだった。
だが、その静けさがかえって継母を追い詰める。
「公爵夫人であることと、公爵家の継承に口を出せることは別です」
「私の私室は、婚約者として与えられた客室ではありません」
「公爵家嫡女の居室です」
「婚約がどうなろうと、それだけで勝手に動かしていいものではありません」
「あなたは今朝、それをなさいました」
ヘレナの唇が歪む。
理屈で押し返せないと分かると、こういう顔になる。
「面倒な言い方をなさるのね」
「でも現実を見なさいな、リディアナ」
「昨夜、殿下はあなたを捨てたのよ」
「もうあなたに価値は――」
「ヘレナ」
父がそこで、ようやく声を上げた。
かすれていて弱いが、今までよりはまだましだった。
「言いすぎだ」
だが遅い。
あまりにも遅すぎた。
ヘレナははっとしたように口をつぐんだが、もう言葉は戻らない。
広間にいた全員が聞いていた。
継母が、嫡女に向かって「価値はない」と言いかけたのを。
リディアナは父を見た。
この人は、今さら何を止めるつもりなのだろう。
見て見ぬふりを続けて、相手が本音を口にした瞬間だけ「言いすぎだ」と言う。それで父親の役目を果たしたつもりなのか。
胸の中にあった最後の、ほんのわずかなものまで冷えた。
「お父様」
「……ああ」
「昨夜の件を受けて、私は一時的に母の別邸へ移りました」
「そうだな」
「そして今朝、本邸へ戻って確認いたしました」
「何をだ」
「この家の秩序が、想像以上に壊れていることを、です」
父の顔が曇る。
ヘレナは苛立ったように鼻で笑った。
「大げさね」
「大げさではありません」
リディアナは広間を見回した。
使用人たちは皆、息を詰めている。
誰もが分かっているのだ。
今ここで話されているのは、部屋の取り合いなどではない。この屋敷の中で、誰が何を勘違いしてきたのか、その話だと。
「嫡女の私室に無断で入る」
「私物を勝手に移動する」
「遺品に触れる」
「そして、それを公爵夫人の判断だけで押し通せると思っている」
「これを秩序の崩壊と呼ばず、何と呼ぶのですか」
誰も答えない。
答えられる者などいない。
ヘレナが先に耐えきれなくなった。
「あなたこそ、何様のつもりなの!」
「婚約を失っただけで、まだ自分がこの家の中心だとでも思っているの!?」
「ええ」
リディアナは即答した。
そのあまりの迷いのなさに、ヘレナが言葉を失う。
「思っておりますわ」
「少なくとも、あなたやミレイユよりは、よほど」
広間の空気が張る。
父が青ざめた顔で二人を見る。
だが、もう止められない。
止められる段階は、ずっと前に過ぎている。
「ミレイユは殿下に選ばれたのよ!」
「王太子に見初められた娘なの!」
「だから何ですの」
リディアナの声は冷たかった。
「王子の気まぐれ一つで、この家の血筋も秩序も継承も塗り替えられると、本気で思っていらしたの?」
「あなた……!」
「それに、昨夜の宣言がそのまま通ると、誰が保証したのですか」
ヘレナが止まる。
その一瞬を、リディアナは逃さなかった。
「正式な婚約破棄の手続きも、王家との契約整理も、何一つ終わっておりません」
「にもかかわらず、あなた方はもう勝ったつもりで私の部屋を荒らした」
「早計にもほどがありますわ」
ヘレナは何か言い返そうとして、結局できなかった。
分からないのだ。
契約だの整理だの、そういう地味で現実的な話を、この女は嫌う。華やかな結果だけ欲しがって、その裏に何があるか考えたことがないから。
父が、重い声で言った。
「リディアナ」
「はい」
「……少し、落ち着いて話をしないか」
その言葉に、リディアナはとうとう心の底から呆れた。
落ち着いていないのは誰だ。
自分ではない。
昨夜から今日まで、誰より冷静に物を見ているのはむしろ自分だ。
「お父様」
「なんだ」
「私は落ち着いております」
「むしろ、ようやく状況を理解なさろうとしているのが、皆様の方では?」
父の肩がわずかに落ちる。
図星なのだろう。
ヘレナは耐えきれず、声を荒げた。
「アルベルト様!」
「ご覧くださいませ、この娘を!」
「親に向かってなんという口の利き方を!」
「親?」
リディアナはその言葉を、まるで異物でも見るように繰り返した。
「あなたが?」
「……なっ」
「親というなら、まず娘の部屋を守るべきではなくて?」
「娘というなら、まず娘の尊厳を守るべきではなくて?」
「昨夜、私は大勢の前で婚約破棄を受けました」
「その翌朝に、私室を奪わせたのは誰ですか」
ヘレナが言葉をなくす。
父もまた、返せない。
静まり返る広間に、リディアナの声だけが落ちた。
「私を追い出したつもりでいらしたのでしょうね」
「婚約を失った娘は、この家で弱くなると」
「だから今のうちに立場を奪ってしまえばいいと」
そこで、彼女は微笑んだ。
だが、それは温かな笑みではなかった。
ただ相手の勘違いを見届ける者の、冷たい笑みだった。
「残念ですけれど、逆ですわ」
ヘレナが息を呑む。
「私が弱くなるのではありません」
「あなた方が、自分たちの浅はかさをさらけ出したのです」
そのときだった。
正面玄関の方で、慌ただしい足音がした。
若い使用人が血相を変えて広間へ飛び込んでくる。
「旦那様!」
皆の視線がそちらへ向く。
その使用人は息を切らしながら、震える声で言った。
「王宮より急使が参っております!」
父が目を見開く。
ヘレナの顔色も変わった。
リディアナだけが、少しも動じなかった。
もう来たのだ。
昨夜の熱に浮かれた祝福の余韻が、現実に変わる最初の一手が。
「どういった用件だ」
父が問う。
使用人はつばを飲み込んで答えた。
「王太子殿下のご命令で……リディアナ様に、ただちに登城いただきたいとのことです」
広間の空気が、さらに冷えた。
ヘレナが先に口を開く。
「まあ!」
「やはり殿下も、冷静になられたのだわ!」
「きっと昨夜は勢い余って――」
「違いますわ」
リディアナは継母の言葉を静かに切った。
全員が彼女を見る。
その目を、彼女はまっすぐ受け止めた。
「冷静になったのではありません」
「困り始めただけです」
そう言って、リディアナはグラントへ視線を向けた。
「準備を」
「かしこまりました」
老執事は一礼する。
ヘレナが声を尖らせた。
「待ちなさい!」
「呼ばれたからといって、あなたが好き勝手に振る舞っていいと思わないことね!」
リディアナはちらりと継母を見た。
「ご安心なさって」
「好き勝手になど、いたしませんわ」
そして、はっきりと言った。
「これから始めるのは、ただの精算ですもの」
誰も、その意味を正しく理解できなかった。
けれど、それでよかった。
理解するのはこれからだ。
王宮も。
王太子も。
この家で勝ったつもりになっている継母も義妹も。
すべて、自分たちが何を壊したのかを。
その代償がどれほど重いのかを。
2
あなたにおすすめの小説
ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように
柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」
笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。
夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。
幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。
王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。
幸せの賞味期限――妹が奪った夫は、甘く腐る
柴田はつみ
恋愛
幸せには「賞味期限」がある。
守る実力のない女から、甘い果実は腐っていく
甘いだけのダメンズ夫と、計算高い妹。
善意という名の「無能」を捨てたとき、リリアの前に現れたのは
氷の如き冷徹さと圧倒的な財力を持つ、本物の「男」だった――。
「お姉様のその『おっとり』、もう賞味期限切れよ。カイル様も飽き飽きしてるわ」
伯爵家の長女・リリアは、自分が作り上げた平穏な家庭が、音を立てて崩れるのをただ見つめるしかなかった。
信じていた妹・エレナの狡猾な指先が、夫・カイルの心の隙間に滑り込んでいく。
カイルは、優しくて美貌だが、自分の足で立つことのできない「甘い」男。彼はエレナの露骨な賞賛と刺激に溺れ、長年尽くしてきたリリアを「味のないスープ」と切り捨て、家から追い出してしまう
妹を選んで婚約破棄した婚約者は、平民になる現実を理解していなかったようです
藤原遊
恋愛
跡継ぎとして育てられた私には、将来を約束された婚約者がいた。
――けれど彼は、私ではなく「妹」を選んだ。
妹は父の愛人の子。
身分も立場も分かったうえでの選択だと思っていたのに、
彼はどうやら、何も理解していなかったらしい。
婚約を破棄し、妹と結ばれた彼は、
当然のように貴族の立場を失い、平民として生きることになる。
一方で、妹は覚悟を決めて現実に向き合っていく。
だが彼だけが、最後まで「元に戻れる」と信じ続けていた。
これは、誰かが罰した物語ではない。
ただ、選んだ道の先にあった現実の話。
覚悟のなかった婚約者が、
自分の選択と向き合うまでを描いた、静かなざまぁ物語。
そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。
しげむろ ゆうき
恋愛
男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない
そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった
全五話
※ホラー無し
婚約破棄された公爵令嬢は、静かな辺境伯の隣でようやく息をする
ふわふわ
恋愛
卒業舞踏会の夜。
公爵令嬢エルミア・ヴァレンティアは、王太子セオドールから大勢の前で婚約破棄を告げられる。
彼が選んだのは、可憐で儚げな伯爵令嬢ノエリア。
突然“冷酷な悪女”に仕立て上げられたエルミアだったが、泣き崩れることも縋ることもしなかった。
ただ静かに婚約破棄を受け入れ、これまで当然のように与えてきた支援を止める――それだけで、王太子宮と社交界は少しずつ綻び始める。
一方、実家へ戻ったエルミアは、これまで誰かのために張りつめていた人生を見つめ直していく。
そんな彼女の前に現れたのは、寡黙で冷徹と噂される辺境伯カイゼル・ルヴァンシュ。
多くを語らず、けれど必要な時に必要な言葉だけを差し出してくれる彼の存在に、エルミアは少しずつ救われていく。
失ってから気づく元婚約者。
“選ばれたはず”なのに満たされない新しい婚約相手。
そして、ようやく自分の足で立ち、自分にふさわしい場所を見つけていく公爵令嬢。
これは、婚約破棄のあとで本当の居場所を取り戻した令嬢が、静かな愛を知る物語。
報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜
矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』
彼はいつだって誠実な婚約者だった。
嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。
『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』
『……分かりました、ロイド様』
私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。
結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。
なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。
※この作品の設定は架空のものです。
※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。
婚約者の私を見捨てたあなた、もう二度と関わらないので安心して下さい
神崎 ルナ
恋愛
第三王女ロクサーヌには婚約者がいた。騎士団でも有望株のナイシス・ガラット侯爵令息。その美貌もあって人気がある彼との婚約が決められたのは幼いとき。彼には他に優先する幼なじみがいたが、政略結婚だからある程度は仕方ない、と思っていた。だが、王宮が魔導師に襲われ、魔術により天井の一部がロクサーヌへ落ちてきたとき、彼が真っ先に助けに行ったのは幼馴染だという女性だった。その後もロクサーヌのことは見えていないのか、完全にスルーして彼女を抱きかかえて去って行くナイシス。
嘘でしょう。
その後ロクサーヌは一月、目が覚めなかった。
そして目覚めたとき、おとなしやかと言われていたロクサーヌの姿はどこにもなかった。
「ガラット侯爵令息とは婚約破棄? 当然でしょう。それとね私、力が欲しいの」
もう誰かが護ってくれるなんて思わない。
ロクサーヌは力をつけてひとりで生きていこうと誓った。
だがそこへクスコ辺境伯がロクサーヌへ求婚する。
「ぜひ辺境へ来て欲しい」
※時代考証がゆるゆるですm(__)m ご注意くださいm(__)m
総合・恋愛ランキング1位(2025.8.4)hotランキング1位(2025.8.5)になりましたΣ(・ω・ノ)ノ ありがとうございます<(_ _)>
真実の愛がどうなろうと関係ありません。
希猫 ゆうみ
恋愛
伯爵令息サディアスはメイドのリディと恋に落ちた。
婚約者であった伯爵令嬢フェルネは無残にも婚約を解消されてしまう。
「僕はリディと真実の愛を貫く。誰にも邪魔はさせない!」
サディアスの両親エヴァンズ伯爵夫妻は激怒し、息子を勘当、追放する。
それもそのはずで、フェルネは王家の血を引く名門貴族パートランド伯爵家の一人娘だった。
サディアスからの一方的な婚約解消は決して許されない裏切りだったのだ。
一ヶ月後、愛を信じないフェルネに新たな求婚者が現れる。
若きバラクロフ侯爵レジナルド。
「あら、あなたも真実の愛を実らせようって仰いますの?」
フェルネの曾祖母シャーリンとレジナルドの祖父アルフォンス卿には悲恋の歴史がある。
「子孫の我々が結婚しようと関係ない。聡明な妻が欲しいだけだ」
互いに塩対応だったはずが、気づくとクーデレ夫婦になっていたフェルネとレジナルド。
その頃、真実の愛を貫いたはずのサディアスは……
(予定より長くなってしまった為、完結に伴い短編→長編に変更しました)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる