婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第四話 継母は、私を追い出したつもりでいた

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第四話 継母は、私を追い出したつもりでいた

階段を下りる前から、甲高い声は聞こえていた。

怒りを押し殺したつもりで、結局は押し殺し切れていない声だ。

ヘレナだった。

広間へ降りると、案の定、継母は中央に立っていた。朝から完璧に髪を結い上げ、真珠を連ねた淡い藤色のドレスをまとっている。その姿だけ見れば公爵夫人らしい品位もあった。少なくとも、遠目には。

だが顔は美しくなかった。

苛立ちと焦りが隠し切れていないからだ。

そのすぐ後ろには、青ざめた侍女たちと、所在なげに立つ執事見習いがいる。さらに少し離れて、公爵――リディアナの父であるアルベルト・エヴェルシェイドが立っていた。

父は、娘が階段を下りてきたのを見ると、ほっとしたような、困ったような、何とも情けない顔をした。

その表情だけで、もう察せられる。

この人は昨夜から今に至るまで、何一つ事態を動かせていない。

「リディアナ」

最初に口を開いたのは父だった。

弱々しい呼びかけだった。

叱るでもなく、庇うでもなく、ただ面倒ごとを穏便に収めたいだけの声。

リディアナは広間の中央まで進み、そこで足を止めた。

「おはようございます、お父様」

「……ああ」

「ずいぶん騒がしい朝ですこと」

その言葉に、ヘレナがすかさず前へ出る。

「騒がしくもなりますわ」

「あなたが、ミレイユを泣かせたのですもの」

リディアナは継母を見た。

綺麗に塗られた唇が、わずかに引きつっている。

おそらく先ほど、ミレイユから泣きつかれたのだろう。泣きながら、自分は何も悪くない、お姉様が急にひどいことを言った、とでも訴えたに違いない。

実に想像しやすかった。

「泣かせた?」

「ええ」

「可哀想なミレイユは、あなたにあんな言い方をされて、部屋にもいられないほど傷ついているのよ」

「そう」

「ずいぶん冷たい返事ね」

「泣いているからといって、あの子が正しいとは限りませんもの」

ヘレナの眉がぴくりと動く。

こういう言い方が一番嫌いなのだ、この女は。

正面から怒鳴り返されるより、静かに理を示される方が、自分の浅さを突きつけられるから。

「理屈は結構ですわ」

「昨夜のことといい、今朝のことといい、あなたは少し感情的になりすぎています」

「感情的?」

リディアナは首をかしげた。

「私が?」

「そうよ」

「殿下に婚約破棄をされたからといって、家の中で当たり散らされては困ります」

広間の空気が、わずかに揺れた。

使用人たちも、その言葉の薄汚さに気づいたのだろう。

婚約破棄されたばかりの娘に向かって、慰めるでもなく、まず「当たり散らすな」と言う。

継母として以前に、人としてどうかしている。

だがヘレナにとっては、今が好機なのだ。

王太子の婚約者でなくなったリディアナは、もはや押さえ込める。そう思っている顔だった。

「昨夜の件については、まだ正式な整理がついておりません」

グラントが一歩進み出て言う。

「にもかかわらず、リディアナ様の私室へ無断で立ち入り、私物を移動させたことこそ、問題かと存じますが」

「グラント」

ヘレナの声が鋭くなる。

「使用人の立場で、誰に口を利いているのかしら」

「公爵家嫡女に仕える執事として、公爵家の秩序を守ろうとしております」

「あなたの主人は、この家の当主でしょう」

「ええ」

グラントは一切動じなかった。

「そして、その当主の唯一の嫡女が、リディアナ様にございます」

ヘレナの頬がわずかにひきつる。

父が、いたたまれないように視線を逸らした。

リディアナはその様子を見て、ほとんど失望すら覚えなかった。もう期待していないからだろう。

ヘレナはすぐに矛先を変えた。

「アルベルト様」

甘くすがるような声になる。

「ご覧になってくださいませ。グラントまでが、こんなにリディアナを甘やかして」

「ミレイユは、ただ新しい生活の準備をしていただけなのです」

「殿下に選ばれた娘を、この家として立てるのは当然ではありませんか」

その言葉を聞いて、リディアナはようやく笑った。

本当に、浅い。

「新しい生活、ですって?」

「何がおかしいの」

「おかしいことしかありませんわ」

リディアナは父を見た。

「お父様」

「……なんだ」

「お聞きしたいのですが」

「私の私室をミレイユに与えると、正式にお決めになったのですか」

父は口を開き、閉じた。

答えに詰まる。

それがすべてだった。

ヘレナが横から言い募る。

「わたくしが、公爵夫人として判断したのです」

「なるほど」

「何か問題でも?」

「大ありですわ」

リディアナは一歩、ヘレナへ近づいた。

声は穏やかなままだった。

だが、その静けさがかえって継母を追い詰める。

「公爵夫人であることと、公爵家の継承に口を出せることは別です」

「私の私室は、婚約者として与えられた客室ではありません」

「公爵家嫡女の居室です」

「婚約がどうなろうと、それだけで勝手に動かしていいものではありません」

「あなたは今朝、それをなさいました」

ヘレナの唇が歪む。

理屈で押し返せないと分かると、こういう顔になる。

「面倒な言い方をなさるのね」

「でも現実を見なさいな、リディアナ」

「昨夜、殿下はあなたを捨てたのよ」

「もうあなたに価値は――」

「ヘレナ」

父がそこで、ようやく声を上げた。

かすれていて弱いが、今までよりはまだましだった。

「言いすぎだ」

だが遅い。

あまりにも遅すぎた。

ヘレナははっとしたように口をつぐんだが、もう言葉は戻らない。

広間にいた全員が聞いていた。

継母が、嫡女に向かって「価値はない」と言いかけたのを。

リディアナは父を見た。

この人は、今さら何を止めるつもりなのだろう。

見て見ぬふりを続けて、相手が本音を口にした瞬間だけ「言いすぎだ」と言う。それで父親の役目を果たしたつもりなのか。

胸の中にあった最後の、ほんのわずかなものまで冷えた。

「お父様」

「……ああ」

「昨夜の件を受けて、私は一時的に母の別邸へ移りました」

「そうだな」

「そして今朝、本邸へ戻って確認いたしました」

「何をだ」

「この家の秩序が、想像以上に壊れていることを、です」

父の顔が曇る。

ヘレナは苛立ったように鼻で笑った。

「大げさね」

「大げさではありません」

リディアナは広間を見回した。

使用人たちは皆、息を詰めている。

誰もが分かっているのだ。

今ここで話されているのは、部屋の取り合いなどではない。この屋敷の中で、誰が何を勘違いしてきたのか、その話だと。

「嫡女の私室に無断で入る」

「私物を勝手に移動する」

「遺品に触れる」

「そして、それを公爵夫人の判断だけで押し通せると思っている」

「これを秩序の崩壊と呼ばず、何と呼ぶのですか」

誰も答えない。

答えられる者などいない。

ヘレナが先に耐えきれなくなった。

「あなたこそ、何様のつもりなの!」

「婚約を失っただけで、まだ自分がこの家の中心だとでも思っているの!?」

「ええ」

リディアナは即答した。

そのあまりの迷いのなさに、ヘレナが言葉を失う。

「思っておりますわ」

「少なくとも、あなたやミレイユよりは、よほど」

広間の空気が張る。

父が青ざめた顔で二人を見る。

だが、もう止められない。

止められる段階は、ずっと前に過ぎている。

「ミレイユは殿下に選ばれたのよ!」

「王太子に見初められた娘なの!」

「だから何ですの」

リディアナの声は冷たかった。

「王子の気まぐれ一つで、この家の血筋も秩序も継承も塗り替えられると、本気で思っていらしたの?」

「あなた……!」

「それに、昨夜の宣言がそのまま通ると、誰が保証したのですか」

ヘレナが止まる。

その一瞬を、リディアナは逃さなかった。

「正式な婚約破棄の手続きも、王家との契約整理も、何一つ終わっておりません」

「にもかかわらず、あなた方はもう勝ったつもりで私の部屋を荒らした」

「早計にもほどがありますわ」

ヘレナは何か言い返そうとして、結局できなかった。

分からないのだ。

契約だの整理だの、そういう地味で現実的な話を、この女は嫌う。華やかな結果だけ欲しがって、その裏に何があるか考えたことがないから。

父が、重い声で言った。

「リディアナ」

「はい」

「……少し、落ち着いて話をしないか」

その言葉に、リディアナはとうとう心の底から呆れた。

落ち着いていないのは誰だ。

自分ではない。

昨夜から今日まで、誰より冷静に物を見ているのはむしろ自分だ。

「お父様」

「なんだ」

「私は落ち着いております」

「むしろ、ようやく状況を理解なさろうとしているのが、皆様の方では?」

父の肩がわずかに落ちる。

図星なのだろう。

ヘレナは耐えきれず、声を荒げた。

「アルベルト様!」

「ご覧くださいませ、この娘を!」

「親に向かってなんという口の利き方を!」

「親?」

リディアナはその言葉を、まるで異物でも見るように繰り返した。

「あなたが?」

「……なっ」

「親というなら、まず娘の部屋を守るべきではなくて?」

「娘というなら、まず娘の尊厳を守るべきではなくて?」

「昨夜、私は大勢の前で婚約破棄を受けました」

「その翌朝に、私室を奪わせたのは誰ですか」

ヘレナが言葉をなくす。

父もまた、返せない。

静まり返る広間に、リディアナの声だけが落ちた。

「私を追い出したつもりでいらしたのでしょうね」

「婚約を失った娘は、この家で弱くなると」

「だから今のうちに立場を奪ってしまえばいいと」

そこで、彼女は微笑んだ。

だが、それは温かな笑みではなかった。

ただ相手の勘違いを見届ける者の、冷たい笑みだった。

「残念ですけれど、逆ですわ」

ヘレナが息を呑む。

「私が弱くなるのではありません」

「あなた方が、自分たちの浅はかさをさらけ出したのです」

そのときだった。

正面玄関の方で、慌ただしい足音がした。

若い使用人が血相を変えて広間へ飛び込んでくる。

「旦那様!」

皆の視線がそちらへ向く。

その使用人は息を切らしながら、震える声で言った。

「王宮より急使が参っております!」

父が目を見開く。

ヘレナの顔色も変わった。

リディアナだけが、少しも動じなかった。

もう来たのだ。

昨夜の熱に浮かれた祝福の余韻が、現実に変わる最初の一手が。

「どういった用件だ」

父が問う。

使用人はつばを飲み込んで答えた。

「王太子殿下のご命令で……リディアナ様に、ただちに登城いただきたいとのことです」

広間の空気が、さらに冷えた。

ヘレナが先に口を開く。

「まあ!」

「やはり殿下も、冷静になられたのだわ!」

「きっと昨夜は勢い余って――」

「違いますわ」

リディアナは継母の言葉を静かに切った。

全員が彼女を見る。

その目を、彼女はまっすぐ受け止めた。

「冷静になったのではありません」

「困り始めただけです」

そう言って、リディアナはグラントへ視線を向けた。

「準備を」

「かしこまりました」

老執事は一礼する。

ヘレナが声を尖らせた。

「待ちなさい!」

「呼ばれたからといって、あなたが好き勝手に振る舞っていいと思わないことね!」

リディアナはちらりと継母を見た。

「ご安心なさって」

「好き勝手になど、いたしませんわ」

そして、はっきりと言った。

「これから始めるのは、ただの精算ですもの」

誰も、その意味を正しく理解できなかった。

けれど、それでよかった。

理解するのはこれからだ。

王宮も。

王太子も。

この家で勝ったつもりになっている継母も義妹も。

すべて、自分たちが何を壊したのかを。

その代償がどれほど重いのかを。
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