婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第五話 王太子は、失ったものをまだ知らない

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第五話 王太子は、失ったものをまだ知らない

王宮からの急使は、丁重ではあったが、明らかに急いていた。

使者の若い騎士は本邸の広間で待たされている間、何度も視線を泳がせていた。昨夜の舞踏会に居合わせていたのかもしれない。あるいは、登城の理由をある程度は聞かされているのだろう。

どちらにせよ、気まずい役目には違いなかった。

リディアナは自室ではなく、来客用の小さな応接間で身支度を整えた。

さすがにさきほどの部屋へ戻る気にはなれなかったし、戻る必要もない。

鏡の前に立つと、侍女がひとり、恐る恐る髪に触れた。

本来なら、幼い頃から世話をしてきた専属侍女がいるはずだった。だが、ここ数年で人員はじわじわと入れ替えられ、気づけばヘレナ寄りの者ばかりが残されている。

目の前の侍女も、その一人だった。

ただし、露骨に敵意を見せるほど愚かではない。

むしろ今は、どちらにつくべきか分からず怯えている顔だった。

「手が震えているわ」

リディアナが言うと、侍女はびくりと肩を揺らした。

「も、申し訳ございません」

「叱っているのではないの」

「……はい」

「ただ、震えた手で髪を結われるのは困るわ」

侍女は顔を真っ青にして、さらに手をこわばらせた。

少し気の毒になり、リディアナは鏡越しに彼女を見た。

「落ち着きなさい」

「あなたが今、何かを選べと言われているわけではないわ」

「今日のところは、髪を乱さず結うことだけ考えればいいの」

侍女は目を丸くした。

叱責を待っていたのだろう。

だがリディアナは、こういう者にまで怒りを向けるつもりはなかった。怯えて流されるだけの者など、取るに足らない。問題は、流れを作っている側だ。

「……かしこまりました」

ようやく侍女の手が少しだけ落ち着いた。

部屋の隅では、グラントが登城用の外套を整えていた。

「馬車の用意は?」

「できております」

「王宮の使者は?」

「先ほどから落ち着きなく待っております」

「そう」

「お急ぎになる必要はございませんが」

「ええ。分かっているわ」

リディアナは鏡の中の自分を見た。

顔色は悪くない。

目元に疲れはあるが、泣き腫らした様子はない。

それで十分だった。

王宮へ向かうのに必要なのは、美しさでも可憐さでもない。

弱っていないと見せることだ。

やがて身支度が整うと、リディアナはゆっくり立ち上がった。

応接間を出ると、廊下の先にヘレナとミレイユの姿が見えた。

ミレイユはすでに泣き腫らした目をしていたが、母の隣に立つことでどうにか平静を装っている。もっとも、その視線にはあからさまな苛立ちと不安が浮かんでいた。

リディアナが登城する。

それが単なる呼び出しで済まないことくらい、さすがに察したのだろう。

ヘレナが先に口を開く。

「リディアナ」

「何でしょう」

「王宮では、余計なことを言わないように」

リディアナは足を止めた。

「余計なこと、とは」

「決まっているでしょう」

「昨夜のことを、必要以上に騒ぎ立てないことです」

「殿下もお若いのですから、一時の感情で行き過ぎることはあります」

「そこを賢く収めるのが、あなたの役目でしょう」

あまりにも厚かましくて、一瞬、言葉を選ぶ気すら失せた。

昨夜、大勢の前で婚約破棄された娘に向かって、その場を“賢く収めろ”と言う。

しかも、すでに婚約を奪ったつもりの娘と並んで。

リディアナは、ミレイユへ視線を移した。

「あなたも同じ考えなの?」

ミレイユは一瞬ためらったが、すぐに小さくうなずいた。

「……殿下は、少し感情的になっていらしただけです」

「お姉様が大ごとにしなければ、皆が傷つかずに済みますわ」

皆。

便利な言葉だった。

大抵の場合、その“皆”の中に、自分は含まれていない。

「そう」

リディアナはそれだけ言った。

怒りはもう湧かなかった。

ここまでくると、ただの確認だ。

この母娘は、本当に、自分たち以外を人だと思っていない。

「安心なさい」

「私は大ごとになど、いたしませんわ」

ミレイユの顔に、わずかに安堵がよぎる。

だがリディアナは、そのまま続けた。

「昨夜、大ごとになさったのはカイル殿下ですもの」

ヘレナの表情が凍る。

「あなた……」

「それに私は、事実を申し上げるだけです」

「事実は時に残酷ですけれど、嘘よりはましでしょう?」

ミレイユの唇が悔しそうに歪んだ。

リディアナはもう二人を見なかった。

そのまま広間へ向かう。

玄関では、王宮からの使者がかしこまって待っていた。若い騎士は彼女の姿を見るなり、ほっとしたように一礼する。

「お待たせいたしました」

「い、いえ。恐れ入ります」

「参りましょう」

馬車に乗り込むと、王宮の紋章をつけた先導がすぐに動き出した。

石畳を刻む車輪の音が、やけに乾いて響く。

向かいに座ったグラントが、小さく口を開く。

「王宮は、もう困り始めております」

「何か動きがあったの?」

「今朝早く、王太子殿下付きの会計係から、昨月分の支払いについて確認が入っております」

「えらく早いわね」

「昨夜のうちに、いくつかの支払いが止まったようです」

リディアナは少し目を細めた。

「昨夜のうちに?」

「はい。殿下が舞踏会の後でお使いになった宝飾商、仕立屋、それから花の商会に対する決済に、すでに不備が出ております」

「……あの方、本当に何もご存じなかったのね」

「ご自分の懐から出ていると思っておられたのかもしれません」

「まさか」

リディアナは小さく笑った。

「自分の懐に、あれほど入っていると思える方がよほどすごいわ」

その乾いた笑いに、グラントもかすかに目元を和らげた。

だがすぐに真顔へ戻る。

「本日の呼び出しは、おそらくその第一弾にございます」

「王太子殿下は、何かがいつもと違うと気づいた」

「ですが、それが何を意味するかまでは、まだ分かっておられない」

「ええ」

「分かっていたら、あの場であんな真似はしないもの」

馬車は王都の中心へ近づいていく。

朝の街はもう目覚めていた。市場では商人たちが声を張り上げ、貴族街では仕立て屋や御者が忙しく立ち回っている。

そんな日常の中で、王宮だけがどこか緊張を帯びて見えた。

門をくぐると、近衛たちの動きが妙に慌ただしい。

王太子の婚約破棄ひとつでここまで空気が変わるのかと、普通なら思うかもしれない。

だが実際には、婚約破棄そのものではない。

その裏で、金と信用の流れが急に狂い始めているのだ。

王宮の中は、そういう変化に敏感だった。

馬車を降りると、迎えに出てきた侍従の顔色も良くない。

「リディアナ様、お待ちしておりました」

「そう」

「こちらへ」

案内されたのは、正式な謁見の間ではなかった。

王太子が私的によく使う中広間のひとつだ。

その時点で、リディアナには大体の見当がついた。

公的な場で正面から向き合う覚悟はないのだろう。

まずは私的に呼びつけ、どうにか穏便に収めたい。

いかにもカイルらしい。

扉が開く。

部屋の中央には、カイルが立っていた。

昨夜の華やかな装いはなく、さすがに今日は王太子らしい濃紺の礼装を着ている。だが顔つきは険しかった。眠れていないのか、目の下にはうっすらと影がある。

その脇には、王太子付きの会計係と、侍従長の補佐官らしき男。

そして少し離れて、王妃ロザリアが座っていた。

国王はいない。

リディアナはそのことに、少しだけ納得した。

国王が来れば話が重くなりすぎる。

だが王妃なら、体面を整える方向へ持っていけると踏んだのだろう。

「リディアナ」

カイルが、昨夜よりは抑えた声で呼ぶ。

だがそこに謝意はなかった。

苛立ちと焦りが勝っている。

「お呼びと伺いました」

「……ああ」

「なぜ立ったままでいらっしゃるの?」

王妃が言う。

柔らかな口調だったが、その奥には観察する冷たさがあった。

「まずはお座りなさい」

「ありがとうございます、王妃陛下」

リディアナは一礼し、勧められた席に腰を下ろした。

カイルは座らない。

彼は最初から、自分が上から物を言うつもりなのだ。

本当に分かりやすい。

「単刀直入に言う」

カイルが言った。

「昨夜から、私の周囲で妙なことが起きている」

「妙なこと、とは」

「支払いが通らない」

「手配していたものが止められる」

「会計係が、これまでと同じ処理ができないと言うんだ」

なるほど。

やはり、第一声がそこか。

婚約破棄した相手への謝罪でも、昨夜の説明でもない。

自分の金回りが狂ったことへの確認。

実に、この男らしい。

「それで?」

「それで、ではない!」

カイルの声が少し大きくなる。

王妃が眉をひそめた。

彼もそれには気づいたらしく、舌打ちを飲み込み、もう一度言い直す。

「……お前なら、何か知っているはずだ」

リディアナは黙って彼を見た。

見れば見るほど、不思議だった。

昨夜、あれだけ大々的に婚約破棄を宣言しておいて、なぜ翌朝にはこうして原因確認に来るのか。

婚約者を切り捨てたなら、その婚約者が担っていたものも切れる。

少し考えれば分かることだ。

だがこの男は、そこがまるでつながっていない。

「知っているも何も」

リディアナは穏やかに言った。

「殿下が昨夜、私との婚約を破棄なさったのでしょう?」

「それが何だ」

「婚約者の名義と信用を前提に動いていたものが、止まるのは当然ですわ」

部屋が静まる。

会計係が目を伏せた。

補佐官も口を結ぶ。

彼らはすでに理解していたのだろう。

問題は、それを王太子が理解していなかったことだけだ。

「当然だと?」

カイルの顔が歪む。

「ただ婚約を解消しただけだぞ!」

「なぜ私の支払いに影響が出る!」

リディアナは、その一言に少しだけ目を細めた。

ただ婚約を解消しただけ。

本気でそう思っていたのか。

「殿下」

「何だ」

「私との婚約は、贈り物を交わして終わるような軽い約束ではありません」

「王家と公爵家の後援、信用、実務協力を含んだ契約です」

「殿下が昨夜、公の場でそれを一方的に破棄なさった以上、その前提で動いていたものは見直されます」

「そんな話、聞いていない!」

思わず、といったようにカイルが叫んだ。

その瞬間、王妃が扇をわずかに動かした。

軽い仕草だったが、場の空気はぴたりと締まる。

「カイル」

低い声だった。

それだけで、王太子は口をつぐむ。

だが遅い。

今の一言で、この場の全員に示された。

王太子は、自分が何を切ったのか、本当に理解していなかったのだと。

王妃がゆっくりとリディアナを見る。

「その契約について、詳しく聞かせてもらえるかしら」

「もちろんでございます」

リディアナは膝の上で手を組んだ。

「たとえば、殿下が個人的にご利用になっていた仕立屋と宝飾商ですが、あちらは王太子個人の支払い能力ではなく、将来の王太子妃となる私の名を含めた信用で帳簿をつけておりました」

カイルの顔色が変わる。

「そんなはずはない」

「ございます」

「現に、止まっておりますでしょう」

言われて、彼は言い返せない。

リディアナは続けた。

「慈善事業も同じです。表向きは殿下の善意ですが、実務はエヴェルシェイド家が引き受けておりました」

「街道整備の資材も、冬季装備の一部も、王立学園の追加拠出も、婚約関係を前提に調整されております」

「殿下が昨夜なさったのは、単なる恋愛沙汰ではございません」

「複数の契約を、公衆の面前で、感情のまま切断した行為です」

そこまで言うと、部屋は完全に静まり返った。

王妃は何も言わなかったが、その横顔は硬い。

会計係など、もう土気色だった。

おそらく朝から胃が痛いのだろう。

カイルだけが、まだ現実を受け止めきれていない顔で立っている。

「……なら」

ようやく絞り出すように言う。

「なら、それを元に戻せばいいだけだろう」

リディアナは、そこで初めて本当に冷えた笑みを浮かべた。

「元に戻す?」

「そうだ」

「昨夜の件は……その、少しやり方がまずかったのかもしれない」

「だが、大事なのはこれからだ」

「お前が協力すれば、今まで通り――」

「殿下」

リディアナは、その言葉を静かに断った。

「私は昨夜、大勢の前で婚約破棄を承りました」

「殿下も、そのつもりで宣言なさったのでしょう?」

「それとも、違ったのですか」

カイルの喉がつまる。

違うとは言えない。

あの場であれだけ高らかに宣言しておいて、翌朝にはなかったことにしたいなど、通るわけがない。

しかも理由は愛でも後悔でもなく、支払いが困るからだ。

そんなもの、あまりに醜悪だった。

「私は」

カイルが何か言おうとする。

だが続かない。

王妃がそこで口を開いた。

「リディアナ」

「はい」

「昨夜の件が軽率だったことは、王家としても認めます」

カイルが顔を上げる。

おそらく“認める”程度で済ませるつもりらしい。

だが王妃の次の言葉は、彼にとって甘くはなかった。

「けれど今は、責任の所在を明らかにしなければならないわ」

「どこまでが婚約前提で動いていたのか、書面を揃えなさい」

王妃の視線は、会計係と補佐官へ向いていた。

二人が青ざめながら頭を下げる。

「かしこまりました」

「至急、確認いたします」

リディアナは、そのやり取りを見ながら理解した。

王妃はすでに切り替えている。

息子の感情より、王家の損失を最小化する方向へ。

さすがに王宮で生きてきた女だ。

甘いだけではない。

だが、それでも遅い。

もう始まっているのだから。

「では、私はこれで失礼いたします」

立ち上がろうとしたそのとき、カイルが一歩前へ出た。

「待て!」

部屋の空気がぴりつく。

「まだ話は終わっていない!」

「終わっておりますわ」

「終わっていない!」

彼は昨夜と同じだった。

自分が望むところで話が終わると思っている。

相手にも都合があり、誇りがあり、限界があることを理解していない。

「お前は私の婚約者だったんだぞ!」

「だった、のでしょう?」

リディアナはまっすぐに言った。

「昨夜までは」

その一言は、短いのに痛烈だった。

カイルの顔から血の気が引く。

彼はこの瞬間まで、まだどこかで“完全には失っていない”と思っていたのかもしれない。

婚約破棄を宣言しても、相手は戻る。

困れば支える。

怒っても最後は従う。

そういう相手だと思っていたのだろう。

「殿下は、失ったものをまだご存じないのです」

リディアナは静かに言った。

「ですから、これから知ることになります」

そう告げると、彼女は一礼した。

王妃は止めなかった。

止める言葉を持たなかったのだろう。

あるいは、もう止まらないと分かったのかもしれない。

扉へ向かう。

その背に、カイルの声が飛ぶ。

「リディアナ!」

振り返らない。

もう振り返る価値がないからだ。

扉が閉まる直前、王太子の荒い声と、王妃の低い叱責が重なるのが聞こえた。

だがそれも、すぐに遠ざかった。

廊下へ出ると、グラントが一礼する。

「いかがでしたか」

「想像以上だったわ」

「殿下は、やはり」

「ええ」

リディアナは前を向いた。

「自分が何を失ったのか、まだ分かっていない」

王宮の窓から差し込む朝の光は明るい。

それなのに、どこか冷たく感じた。

「でも、もうすぐ分かるわ」

彼女は静かに歩き出す。

その歩みには迷いがない。

婚約破棄の夜は終わった。

そして今日から始まるのは、ただの後悔では済まない現実だった。
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