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第六話 止まったのは金だけではありませんでした
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第六話 止まったのは金だけではありませんでした
王宮を出たあと、リディアナはそのまま本邸へは戻らなかった。
馬車が石畳を離れ、貴族街の広い通りへ出たところで、彼女は窓の外を見たまま言った。
「別邸へ向かって」
「かしこまりました」
御者へ指示を伝えたグラントが、向かいの席へ戻る。
馬車の中には、しばらく静かな揺れだけがあった。
王宮でのやり取りを思い返しても、腹立たしさより先に、奇妙な空しさが残っていた。
王太子は本当に分かっていなかった。
昨夜の婚約破棄が、恋愛のもつれではなく、契約と信用を切る行為だと。
いや、それ以前に、自分が何によって支えられていたのかすら知らなかった。
そこまで何も知らずに、あれほど得意げに人を捨てられるものなのか。
ある意味では、才能ですらある。
「お疲れでございますか」
グラントが問う。
「少しだけ」
「殿下の愚かしさに、でしょうか」
「ええ」
リディアナは小さく息を吐いた。
「少しは焦っているようだったけれど、それでもまだ、困ったから元に戻せばいいと思っている顔だったわ」
「ご自身が婚約を破棄なさったのに」
「そう」
「……浅いですこと」
「浅い、というより、空っぽね」
グラントは何も言わなかったが、その沈黙には同意がにじんでいた。
別邸へ戻ると、マリアベルがすぐに出迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
「お顔色は悪くございませんね」
「ええ。怒鳴り合いにはならなかったもの」
「それは何よりです」
「ただし、王家の中は、思ったより早くざわつき始めていたわ」
マリアベルの目がわずかに細くなる。
「では、もう表に出始めたのですね」
「ええ。支払いが止まった程度で、あの騒ぎよ」
「まだ序の口でございますのに」
その言い方が少しおかしくて、リディアナはかすかに笑った。
本邸の連中と違って、ここには余計な同情がない。代わりに、静かな現実認識がある。
それが今の彼女には心地よかった。
執務室へ入ると、机の上にはすでに何通か封書が置かれていた。
王都の商会、学園関係者、王宮下級官吏の名が見える。
思ったより早い。
「届いたの?」
「今朝から急に増えました」
マリアベルが答える。
「内容は確認済みでございます」
「ざっと分けると三種類です」
「支払い確認」
「契約継続の意思確認」
「それから、様子見でございます」
「様子見?」
「どちらにつくべきか、伺っているのです」
なるほど、とリディアナは思った。
動きの早い者たちは、もう気づいているのだ。
昨夜の婚約破棄は、華やかな恋愛劇などではなく、どちらの信用でこの国の一部が動いていたのかを明るみに出す事件だったのだと。
グラントが封書を三つに分けて差し出す。
「こちらは、王太子殿下名義の慈善事業に食糧を卸していた商会からです」
「本日の納品分をどうするか、確認を求めております」
「こちらは王立学園の事務方から」
「追加拠出の確認期限が、本来なら本日だったようです」
「そしてこちらが、街道整備に関わる石材商」
「王宮からの保証書の再確認を求めています」
リディアナはひとつひとつ受け取り、ざっと目を通した。
どの文面も、丁寧に取り繕ってはいる。
けれど中身は同じだ。
――今まで通りでよいのか。
それを聞いている。
「返答は?」
「まだしておりません」
「よかったわ」
彼女は最初の封書を机へ置いた。
「慈善事業の納品は、保留」
「今後は、王太子個人ではなく王宮会計を通して正式な支払い保証が出るまで停止と返しなさい」
「かしこまりました」
「学園への追加拠出は?」
「元はお嬢様のご判断で、学費の払えない下級貴族子女向けに予定されていたものです」
「ええ。だからこそ、止めるのは惜しいわね」
リディアナは少し考えた。
王太子の体面を支えるための支出と、無関係な子どもたちへの支援は別だ。
だが今ここで従来通りに出せば、結局は王宮側が“まだつながっている”と誤解する。
「一度、名目を切り分けましょう」
「王太子の後援事業としてではなく、エヴェルシェイド家から学園への直接寄付へ変更できるか確認して」
「王宮を通さない形に、でございますね」
「ええ」
マリアベルがすぐにメモを取る。
「街道整備は?」
グラントが問う。
「保証書の再発行が出るまで停止」
「王宮側に確認を投げておきましょう」
「承知いたしました」
指示を出しながら、リディアナは少しずつ実感していた。
止まったのは金だけではない。
彼女がこれまで当然のように繋いでいた手間、判断、信用、そのすべてが、今こうして一斉に空白になり始めている。
その空白を埋める者がいないのだ。
王太子はもちろん、王妃でさえ、まだ全体を把握し切れていないだろう。
「本邸からは?」
「先ほど一通」
マリアベルが別の封書を差し出した。
封蝋はエヴェルシェイド公爵家のものだったが、筆跡は父ではない。
ヘレナだ。
開かずとも分かる。
「読まれますか」
「いいえ」
リディアナは封書を机の端へ置いた。
「どうせ、勝手なことをするなとか、家の体面を考えろとか、その程度でしょう」
「おそらく」
「本当に便利な言葉ね、体面って」
彼女は椅子に腰を下ろした。
体面。
家のため。
皆のため。
そういう言葉はいつだって、誰かに黙って耐えろと言うときに使われる。
けれど昨夜、公衆の面前で体面を踏み潰したのは王太子だ。
今さらそれを、婚約破棄された側へ求めるのは滑稽でしかない。
扉が叩かれる。
入ってきたのは、別邸の若い使用人だった。
「失礼いたします」
「何?」
「東部街道整備を担当するローデン商会の番頭が、直接お目通りを願っております」
「番頭が?」
「はい。どうしても本日中に、お嬢様のお考えを伺いたいと」
グラントが目を細める。
「早いですな」
「ええ」
リディアナは少し考えてから頷いた。
「通して」
やがて通された番頭は、四十代半ばほどの男だった。
礼儀はきちんとしているが、額にはうっすら汗が浮いている。
焦っているのだろう。
「ローデン商会、番頭のハルヴァンにございます」
「お顔を上げて」
「はっ」
「用件は分かっているけれど、聞かせてちょうだい」
ハルヴァンは唾を飲み込んだ。
「街道整備の件にございます」
「本来、本日より次の石材搬入に入る手はずでございました」
「ですが今朝、王宮側の支払い保証に不備があると分かり、職人を動かせぬ状況になっております」
「それで?」
「恐れながら……エヴェルシェイド家として、従前通りお支えいただけるのか、それとも正式に手をお引きになるのか、伺いたく」
まっすぐな言い方だった。
取り繕う余裕もないのだろう。
現場を止めれば損が出る。続ければもっと損が出るかもしれない。その瀬戸際にいる顔だ。
「ローデン商会は、これまで誰の信用で動いていたの?」
「……公には王宮事業にございます」
「公には、でなくて」
ハルヴァンは一瞬だけためらい、そして頭を下げた。
「エヴェルシェイド家の保証にございます」
「では、答えは簡単ね」
リディアナは静かに言った。
「婚約が公に破棄された以上、従前通りではありません」
「今後は、王宮が正式に保証を再構築なさるまで、こちらの後援は停止します」
ハルヴァンの顔から血の気が引く。
だが、驚きよりも、どこか覚悟していた色の方が強かった。
「……左様でございますか」
「ただし」
リディアナは続けた。
「職人の賃金まで巻き込むのは本意ではありません」
「搬入停止に伴う待機費用については、商会が王宮へ請求できるよう、こちらで昨年までの書類整理をして差し上げます」
ハルヴァンが顔を上げる。
「よろしいのですか」
「あなた方は現場を回していただけ」
「私が止めたいのは、責任の所在を曖昧にしたまま、全部こちらに被せるやり方よ」
男は、しばらく何も言えなかった。
やがて深く頭を下げる。
「……助かります」
「お嬢様には、かねてより公正に取り計らっていただいておりました」
「本来なら、あのようなことの翌朝にお願いするべきではないと分かっておりますが……」
そこで言葉を切る。
昨夜の件に触れかけて、飲み込んだのだろう。
その分別はあった。
「構いません」
「むしろ、聞きに来たのは賢明だったわ」
「曖昧なまま動けば、あなた方の首が締まるもの」
ハルヴァンが退出したあと、執務室には少しだけ長い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはマリアベルだった。
「現場の者は、よく見ておりますね」
「ええ」
「誰が話になる相手か、きちんと分かっている」
グラントが低く言う。
「止まったのは金だけではございませんな」
リディアナは彼を見た。
「ええ」
「判断も止まったわ」
王太子は金を使うことは知っていても、金を動かすための判断はしてこなかった。
王妃は帳簿を見ることはできても、現場にどんな順番で話を通してきたかまでは知らない。
だから皆、困るのだ。
どこに確認し、誰の言葉を信じてよかったのか、その当たり前が消えてしまったから。
「お嬢様」
マリアベルが言う。
「このままでは、王宮から直接ではなく、周囲の商会や役人たちから問い合わせが雪崩れ込みます」
「そうでしょうね」
「どうなさいますか」
リディアナは少しだけ考え、そして決めた。
「窓口を一本化するわ」
「グラント、今後の問い合わせはすべて別邸で受けなさい」
「本邸を通す必要はありません」
「かしこまりました」
「マリアベル、記録係を二人増やして」
「誰が何を聞きに来て、どう返したか、全部残すの」
「承知いたしました」
「それから」
リディアナは机の上に置かれたヘレナの封書へ目をやった。
「本邸へは一通だけ返しておいて」
「どのように」
「当面、私は別邸にて公爵家関連の整理を行います」
「急ぎの用件があるなら、事前に文書で要件を示すように、と」
マリアベルの口元がわずかに動く。
笑ったのだろう。
あまりに当然の文面で、あまりに冷たいから。
「かしこまりました」
午後の光が、机の上の書類を白く照らしていた。
まだ昼を少し回っただけだというのに、今日一日で世界がずいぶん変わった気がする。
けれど、これはまだ始まりにすぎない。
支払いが止まる。
現場が止まる。
問い合わせが集まる。
そしてそのたびに、王宮も王太子も、この国の一部が誰によって無言で支えられていたのかを思い知ることになる。
リディアナは新しい封書を手に取った。
封蝋には、見覚えのある辺境伯家の紋章が刻まれている。
ディルクス辺境伯家。
アシュレイからだ。
彼女は封を切り、中の紙を広げた。
文面は短かった。
――王都の空気が、ようやく現実を思い出し始めたようですね。
その一文に、思わず小さく笑いが漏れた。
嫌味なのに、妙に的確だった。
続く行には、さらに短くこうあった。
――必要なら、人も馬も出します。
それだけだった。
けれど、十分だった。
助ける、ではない。
守る、でもない。
必要なら貸す、とだけ書いてある。
その距離感が、今の彼女にはありがたかった。
「辺境伯様からですか」
グラントが問う。
「ええ」
「何と」
「とても親切な現実確認よ」
リディアナは手紙をたたんだ。
止まったのは金だけではない。
誰が信じられるかも、誰に頼れるかも、こういう時にはっきりする。
そしてその答えは、昨夜まで彼女のすぐそばにいた者たちではなかった。
王宮を出たあと、リディアナはそのまま本邸へは戻らなかった。
馬車が石畳を離れ、貴族街の広い通りへ出たところで、彼女は窓の外を見たまま言った。
「別邸へ向かって」
「かしこまりました」
御者へ指示を伝えたグラントが、向かいの席へ戻る。
馬車の中には、しばらく静かな揺れだけがあった。
王宮でのやり取りを思い返しても、腹立たしさより先に、奇妙な空しさが残っていた。
王太子は本当に分かっていなかった。
昨夜の婚約破棄が、恋愛のもつれではなく、契約と信用を切る行為だと。
いや、それ以前に、自分が何によって支えられていたのかすら知らなかった。
そこまで何も知らずに、あれほど得意げに人を捨てられるものなのか。
ある意味では、才能ですらある。
「お疲れでございますか」
グラントが問う。
「少しだけ」
「殿下の愚かしさに、でしょうか」
「ええ」
リディアナは小さく息を吐いた。
「少しは焦っているようだったけれど、それでもまだ、困ったから元に戻せばいいと思っている顔だったわ」
「ご自身が婚約を破棄なさったのに」
「そう」
「……浅いですこと」
「浅い、というより、空っぽね」
グラントは何も言わなかったが、その沈黙には同意がにじんでいた。
別邸へ戻ると、マリアベルがすぐに出迎えた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま」
「お顔色は悪くございませんね」
「ええ。怒鳴り合いにはならなかったもの」
「それは何よりです」
「ただし、王家の中は、思ったより早くざわつき始めていたわ」
マリアベルの目がわずかに細くなる。
「では、もう表に出始めたのですね」
「ええ。支払いが止まった程度で、あの騒ぎよ」
「まだ序の口でございますのに」
その言い方が少しおかしくて、リディアナはかすかに笑った。
本邸の連中と違って、ここには余計な同情がない。代わりに、静かな現実認識がある。
それが今の彼女には心地よかった。
執務室へ入ると、机の上にはすでに何通か封書が置かれていた。
王都の商会、学園関係者、王宮下級官吏の名が見える。
思ったより早い。
「届いたの?」
「今朝から急に増えました」
マリアベルが答える。
「内容は確認済みでございます」
「ざっと分けると三種類です」
「支払い確認」
「契約継続の意思確認」
「それから、様子見でございます」
「様子見?」
「どちらにつくべきか、伺っているのです」
なるほど、とリディアナは思った。
動きの早い者たちは、もう気づいているのだ。
昨夜の婚約破棄は、華やかな恋愛劇などではなく、どちらの信用でこの国の一部が動いていたのかを明るみに出す事件だったのだと。
グラントが封書を三つに分けて差し出す。
「こちらは、王太子殿下名義の慈善事業に食糧を卸していた商会からです」
「本日の納品分をどうするか、確認を求めております」
「こちらは王立学園の事務方から」
「追加拠出の確認期限が、本来なら本日だったようです」
「そしてこちらが、街道整備に関わる石材商」
「王宮からの保証書の再確認を求めています」
リディアナはひとつひとつ受け取り、ざっと目を通した。
どの文面も、丁寧に取り繕ってはいる。
けれど中身は同じだ。
――今まで通りでよいのか。
それを聞いている。
「返答は?」
「まだしておりません」
「よかったわ」
彼女は最初の封書を机へ置いた。
「慈善事業の納品は、保留」
「今後は、王太子個人ではなく王宮会計を通して正式な支払い保証が出るまで停止と返しなさい」
「かしこまりました」
「学園への追加拠出は?」
「元はお嬢様のご判断で、学費の払えない下級貴族子女向けに予定されていたものです」
「ええ。だからこそ、止めるのは惜しいわね」
リディアナは少し考えた。
王太子の体面を支えるための支出と、無関係な子どもたちへの支援は別だ。
だが今ここで従来通りに出せば、結局は王宮側が“まだつながっている”と誤解する。
「一度、名目を切り分けましょう」
「王太子の後援事業としてではなく、エヴェルシェイド家から学園への直接寄付へ変更できるか確認して」
「王宮を通さない形に、でございますね」
「ええ」
マリアベルがすぐにメモを取る。
「街道整備は?」
グラントが問う。
「保証書の再発行が出るまで停止」
「王宮側に確認を投げておきましょう」
「承知いたしました」
指示を出しながら、リディアナは少しずつ実感していた。
止まったのは金だけではない。
彼女がこれまで当然のように繋いでいた手間、判断、信用、そのすべてが、今こうして一斉に空白になり始めている。
その空白を埋める者がいないのだ。
王太子はもちろん、王妃でさえ、まだ全体を把握し切れていないだろう。
「本邸からは?」
「先ほど一通」
マリアベルが別の封書を差し出した。
封蝋はエヴェルシェイド公爵家のものだったが、筆跡は父ではない。
ヘレナだ。
開かずとも分かる。
「読まれますか」
「いいえ」
リディアナは封書を机の端へ置いた。
「どうせ、勝手なことをするなとか、家の体面を考えろとか、その程度でしょう」
「おそらく」
「本当に便利な言葉ね、体面って」
彼女は椅子に腰を下ろした。
体面。
家のため。
皆のため。
そういう言葉はいつだって、誰かに黙って耐えろと言うときに使われる。
けれど昨夜、公衆の面前で体面を踏み潰したのは王太子だ。
今さらそれを、婚約破棄された側へ求めるのは滑稽でしかない。
扉が叩かれる。
入ってきたのは、別邸の若い使用人だった。
「失礼いたします」
「何?」
「東部街道整備を担当するローデン商会の番頭が、直接お目通りを願っております」
「番頭が?」
「はい。どうしても本日中に、お嬢様のお考えを伺いたいと」
グラントが目を細める。
「早いですな」
「ええ」
リディアナは少し考えてから頷いた。
「通して」
やがて通された番頭は、四十代半ばほどの男だった。
礼儀はきちんとしているが、額にはうっすら汗が浮いている。
焦っているのだろう。
「ローデン商会、番頭のハルヴァンにございます」
「お顔を上げて」
「はっ」
「用件は分かっているけれど、聞かせてちょうだい」
ハルヴァンは唾を飲み込んだ。
「街道整備の件にございます」
「本来、本日より次の石材搬入に入る手はずでございました」
「ですが今朝、王宮側の支払い保証に不備があると分かり、職人を動かせぬ状況になっております」
「それで?」
「恐れながら……エヴェルシェイド家として、従前通りお支えいただけるのか、それとも正式に手をお引きになるのか、伺いたく」
まっすぐな言い方だった。
取り繕う余裕もないのだろう。
現場を止めれば損が出る。続ければもっと損が出るかもしれない。その瀬戸際にいる顔だ。
「ローデン商会は、これまで誰の信用で動いていたの?」
「……公には王宮事業にございます」
「公には、でなくて」
ハルヴァンは一瞬だけためらい、そして頭を下げた。
「エヴェルシェイド家の保証にございます」
「では、答えは簡単ね」
リディアナは静かに言った。
「婚約が公に破棄された以上、従前通りではありません」
「今後は、王宮が正式に保証を再構築なさるまで、こちらの後援は停止します」
ハルヴァンの顔から血の気が引く。
だが、驚きよりも、どこか覚悟していた色の方が強かった。
「……左様でございますか」
「ただし」
リディアナは続けた。
「職人の賃金まで巻き込むのは本意ではありません」
「搬入停止に伴う待機費用については、商会が王宮へ請求できるよう、こちらで昨年までの書類整理をして差し上げます」
ハルヴァンが顔を上げる。
「よろしいのですか」
「あなた方は現場を回していただけ」
「私が止めたいのは、責任の所在を曖昧にしたまま、全部こちらに被せるやり方よ」
男は、しばらく何も言えなかった。
やがて深く頭を下げる。
「……助かります」
「お嬢様には、かねてより公正に取り計らっていただいておりました」
「本来なら、あのようなことの翌朝にお願いするべきではないと分かっておりますが……」
そこで言葉を切る。
昨夜の件に触れかけて、飲み込んだのだろう。
その分別はあった。
「構いません」
「むしろ、聞きに来たのは賢明だったわ」
「曖昧なまま動けば、あなた方の首が締まるもの」
ハルヴァンが退出したあと、執務室には少しだけ長い沈黙が落ちた。
最初に口を開いたのはマリアベルだった。
「現場の者は、よく見ておりますね」
「ええ」
「誰が話になる相手か、きちんと分かっている」
グラントが低く言う。
「止まったのは金だけではございませんな」
リディアナは彼を見た。
「ええ」
「判断も止まったわ」
王太子は金を使うことは知っていても、金を動かすための判断はしてこなかった。
王妃は帳簿を見ることはできても、現場にどんな順番で話を通してきたかまでは知らない。
だから皆、困るのだ。
どこに確認し、誰の言葉を信じてよかったのか、その当たり前が消えてしまったから。
「お嬢様」
マリアベルが言う。
「このままでは、王宮から直接ではなく、周囲の商会や役人たちから問い合わせが雪崩れ込みます」
「そうでしょうね」
「どうなさいますか」
リディアナは少しだけ考え、そして決めた。
「窓口を一本化するわ」
「グラント、今後の問い合わせはすべて別邸で受けなさい」
「本邸を通す必要はありません」
「かしこまりました」
「マリアベル、記録係を二人増やして」
「誰が何を聞きに来て、どう返したか、全部残すの」
「承知いたしました」
「それから」
リディアナは机の上に置かれたヘレナの封書へ目をやった。
「本邸へは一通だけ返しておいて」
「どのように」
「当面、私は別邸にて公爵家関連の整理を行います」
「急ぎの用件があるなら、事前に文書で要件を示すように、と」
マリアベルの口元がわずかに動く。
笑ったのだろう。
あまりに当然の文面で、あまりに冷たいから。
「かしこまりました」
午後の光が、机の上の書類を白く照らしていた。
まだ昼を少し回っただけだというのに、今日一日で世界がずいぶん変わった気がする。
けれど、これはまだ始まりにすぎない。
支払いが止まる。
現場が止まる。
問い合わせが集まる。
そしてそのたびに、王宮も王太子も、この国の一部が誰によって無言で支えられていたのかを思い知ることになる。
リディアナは新しい封書を手に取った。
封蝋には、見覚えのある辺境伯家の紋章が刻まれている。
ディルクス辺境伯家。
アシュレイからだ。
彼女は封を切り、中の紙を広げた。
文面は短かった。
――王都の空気が、ようやく現実を思い出し始めたようですね。
その一文に、思わず小さく笑いが漏れた。
嫌味なのに、妙に的確だった。
続く行には、さらに短くこうあった。
――必要なら、人も馬も出します。
それだけだった。
けれど、十分だった。
助ける、ではない。
守る、でもない。
必要なら貸す、とだけ書いてある。
その距離感が、今の彼女にはありがたかった。
「辺境伯様からですか」
グラントが問う。
「ええ」
「何と」
「とても親切な現実確認よ」
リディアナは手紙をたたんだ。
止まったのは金だけではない。
誰が信じられるかも、誰に頼れるかも、こういう時にはっきりする。
そしてその答えは、昨夜まで彼女のすぐそばにいた者たちではなかった。
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サディアスの両親エヴァンズ伯爵夫妻は激怒し、息子を勘当、追放する。
それもそのはずで、フェルネは王家の血を引く名門貴族パートランド伯爵家の一人娘だった。
サディアスからの一方的な婚約解消は決して許されない裏切りだったのだ。
一ヶ月後、愛を信じないフェルネに新たな求婚者が現れる。
若きバラクロフ侯爵レジナルド。
「あら、あなたも真実の愛を実らせようって仰いますの?」
フェルネの曾祖母シャーリンとレジナルドの祖父アルフォンス卿には悲恋の歴史がある。
「子孫の我々が結婚しようと関係ない。聡明な妻が欲しいだけだ」
互いに塩対応だったはずが、気づくとクーデレ夫婦になっていたフェルネとレジナルド。
その頃、真実の愛を貫いたはずのサディアスは……
(予定より長くなってしまった為、完結に伴い短編→長編に変更しました)
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