婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第八話 祝福の席は、義妹のために用意されていませんでした

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第八話 祝福の席は、義妹のために用意されていませんでした

翌日の午後、王都でも名高いレヴァンティーヌ侯爵夫人の茶会が開かれた。

春を先取りしたような薄桃色の薔薇が庭園の東屋を飾り、白いクロスのかかった円卓には、金縁の磁器と宝石のような菓子が並べられている。招かれたのは、上級貴族の夫人や令嬢たちばかり。表向きは穏やかな社交の場だが、その実、王都でもっとも情報が行き交う場所の一つだった。

そして本来なら、その席に呼ばれていてもおかしくなかったのは、リディアナの方である。

だが侯爵夫人は、あえて彼女を招かなかった。

いや、正確には、先にミレイユへ返事を返さなかったのだ。

それがどういう意味を持つか分からないほど、社交界は甘くない。

「ミレイユ様、本当にお出になるのですか」

部屋の中で、侍女リナが青い顔で問いかけた。

目の前ではミレイユが、いつも以上に念入りに鏡を見つめている。白に近い淡桃のドレス。細い首元に揺れる真珠。いかにも“か弱く可憐”に見える装いだ。

昨夜なら、それで十分だっただろう。

だが今日は違う。

「当然でしょう」

ミレイユは鏡越しに答えた。

「お返事がないくらいで、遠慮していては駄目なの」

「でも……ご招待が正式に届いていないのに」

「そんなもの、後からいくらでも整うわ」

ミレイユは言い切った。

「昨日までならともかく、今のわたくしは殿下に選ばれた女なのよ」

「向こうだって、本当はお祝いを言いたいはずだわ」

そう信じている顔だった。

いや、信じようとしていると言うべきか。

返事が来ない。

祝福の花も届かない。

昨日まで笑って近づいてきた令嬢たちが、急に沈黙している。

その異常さに、さすがのミレイユも気づいてはいるのだろう。

けれど認めたくないのだ。

認めた瞬間、自分が昨夜手に入れたと思ったものが、実は砂の城だったと分かってしまうから。

「お母様も仰っていたわ」

ミレイユは立ち上がり、侍女に手袋を持たせた。

「社交界は早い者勝ちなの」

「ぐずぐずしていたら、リディアナお姉様が何かしたと思われるわ」

リナは口をつぐんだ。

違う。

皆が返事をしないのは、リディアナが何かしたからではない。

何もしていないからこそ、余計に分かりやすいのだ。

それでも侍女は何も言わなかった。

言えるはずがない。

主人が崖へ向かって歩いていると分かっていても、止められないのが使用人というものだった。

侯爵家の庭園では、すでに何人もの夫人と令嬢が席についていた。

高位貴族の女たちは、皆、微笑みながら会話を交わしている。だがその目は、扇の影から周囲をよく見ていた。

「リディアナ様は、今日はお見えにならないのね」

伯爵夫人の一人が、何気ないふうに言った。

レヴァンティーヌ侯爵夫人は上品に紅茶を傾ける。

「ええ。今日は少し、静かなお話がしたかったものですから」

その言い方に、何人かが小さく目を合わせた。

静かなお話。

つまり、余計な人間を入れたくなかったということだ。

「それにしても、昨夜は驚きましたわ」

若い侯爵令嬢が、目を伏せて言う。

「殿下が、あのようなことをなさるなんて」

「驚いた、では済まないでしょう」

別の老夫人が涼しい顔で返した。

「婚約破棄だけならまだしも、あの場で公爵令嬢の顔を潰したのです」

「自分の立場も、王家の体面も、何もお分かりでない」

「本当に」

伯爵夫人がため息をつく。

「しかも今朝には、もう王宮の支払いが乱れ始めているそうですわ」

それを聞いて、若い令嬢たちが息を呑んだ。

早い者はもう知っている。

王宮御用達の仕立屋に話を聞いた者。

宝飾商の奥方と親しい者。

あるいは夫から、朝食の席でぽろりと漏らされた者。

噂は、もう十分に回っていた。

「では、本当に……」

「ええ」

老夫人が紅茶皿を置いた。

「王太子殿下は、何を切ったのか分からぬまま、切ってしまわれたのでしょう」

その言葉に、テーブルの空気が少しだけ重くなる。

そこへ、庭園の入口がざわついた。

控えていた侍女が明らかに動揺している。

次いで現れた姿に、席についていた女たちの視線がいっせいに集まった。

ミレイユだった。

誰の正式な案内も受けず、しかも笑顔を作って現れたのだ。

一瞬だけ、場が完全に止まる。

その沈黙の意味に、ミレイユは気づかなかった。

あるいは、気づかないふりをした。

「ごきげんよう、皆様」

甘く柔らかな声が庭園に落ちる。

「急に伺ってしまってごめんなさい」

「でも、昨夜のこともありましたから、きっと皆様に直接ご挨拶した方がよいと思って」

侯爵夫人の口元が、わずかに固まった。

ほんの一瞬だけだったが、それで十分だった。

この場にいる誰もが理解する。

招かれていない者が、自分から“昨夜のこと”を祝いに来たのだと。

なんと無作法で、なんと浅はかで、なんと救いのない行動だろう。

「……ミレイユ様」

侯爵夫人がようやく立ち上がる。

だがその声は、歓迎の温度を一切持っていなかった。

「本日は、内輪の茶会でしてよ」

やんわりとした拒絶だった。

けれど十分に冷たい。

ミレイユの笑みが、一瞬だけ揺らぐ。

それでも彼女は引かなかった。

「存じておりますわ」

「でも、皆様も昨夜のことをお聞きになっていらっしゃるでしょう?」

「だからこそ、きちんとご挨拶をと思いましたの」

「ご挨拶、とは」

老夫人の一人が、あえて問い返した。

その声には、年長者らしい静かな厳しさがあった。

ミレイユはそこではじめて、少しだけ頬を染めた。

恥じらったように見せたのだろう。

だが、その演技はもう昨夜ほど効かなかった。

「その……殿下が、わたくしをお選びくださったことについて」

一瞬、風が止まったように感じた。

誰も言葉を返さない。

祝福の声も、感嘆も、笑みすらない。

あるのは、ただ冷えた沈黙だけだった。

ミレイユは、それでもまだ続けようとした。

「突然のことで、皆様も驚かれたと思いますけれど」

「わたくし、これから殿下のおそばで精一杯――」

「ミレイユ様」

侯爵夫人がその言葉を切った。

もう笑っていなかった。

「まず確認いたしますけれど、昨夜の件は、まだ正式に王家より公表されたわけではございませんわね」

ミレイユが目を瞬く。

「え……」

「婚約破棄も、新たな婚約も、正式な手続きと発表があって初めて社交界では意味を持ちます」

「少なくとも、わたくしどもはそのように教わってまいりました」

伯爵夫人が静かに続ける。

「ですから、現時点でお祝いを申し上げるのは差し控えるのが礼儀かと存じます」

ミレイユの顔から血の気が引いていく。

ようやく、少しだけ分かったのだろう。

この場は自分を祝福するための席ではないと。

けれど、まだ完全には理解できていない。

「でも……殿下は、皆様の前で……」

「ええ」

老夫人が頷く。

「皆の前で、ひどく軽率なお振る舞いをなさいましたわね」

その言葉は、刃のようだった。

ミレイユが息を詰まらせる。

「軽率……?」

「違いまして?」

老夫人は容赦しなかった。

「王太子殿下ともあろうお方が、正式な整理もなく、公衆の面前で公爵令嬢との婚約破棄を宣言なさる」

「それを、美談として受け取れと?」

「……」

「わたくしどもは、そこまで無邪気ではございませんの」

若い令嬢たちの何人かが、そっと目を伏せた。

ミレイユは唇を震わせる。

昨夜までなら、彼女はここで涙を武器にできたかもしれない。

だが今日の相手は、若い男ではない。

家を守り、社交を回し、何十年も人を値踏みしてきた女たちだ。

涙で押し切れる相手ではなかった。

「わたくしは、ただ……」

ミレイユはどうにか声を絞り出した。

「皆様に、嫌われているわけではないと……そう思って……」

侯爵夫人が扇を閉じる。

「嫌う嫌わないの話ではございません」

「立場をわきまえるお話です」

それは、あまりに明確な拒絶だった。

ミレイユの肩が揺れる。

ようやく涙が浮かんだ。

だが、その涙に駆け寄る者はいない。

慰める声もない。

むしろ皆、見ていた。

この娘が、自分の立場を誤り、招かれぬ席に踏み込み、祝福を求めて拒まれた、その瞬間を。

社交界は残酷だ。

ただし、舞踏会の断罪のように派手ではない。

誰も怒鳴らず、誰も追い払わず、それでいて席を与えない。

その静かな拒絶の方が、よほど深く人を傷つける。

「本日はお帰りになった方がよろしいかと」

伯爵夫人が静かに言った。

それはもはや勧告ではなかった。

退去の宣告だった。

ミレイユは何か言おうとした。

けれど喉が震えて、言葉にならない。

侍女リナが、慌てて一歩前へ出る。

「も、申し訳ございません!」

「ミレイユ様、お戻りになりましょう」

ようやく腕を取られ、ミレイユは一歩後ろへ下がった。

その顔は真っ白だった。

恥と混乱と怒りで、ぐしゃぐしゃに崩れている。

それでも最後に、彼女は一人だけを睨むように見た。

老夫人でも、侯爵夫人でもない。

そこにいないはずのリディアナを、心の中で睨んだのだ。

――きっとお姉様のせいだ。

そう思わなければ立っていられない顔だった。

だが、その勘違いすら滑稽だった。

リディアナはここにいない。

何もしていない。

それでも、ミレイユは祝福されない。

それが現実だった。

ミレイユが去ったあと、庭園にはしばらく沈黙が残った。

やがて侯爵夫人が小さく息を吐く。

「……思っていた以上でしたわ」

「ええ」

老夫人が答える。

「浅いとは思っておりましたが、あそこまでとは」

若い令嬢の一人が、おそるおそる言う。

「でも、少しお可哀想では……」

その言葉に、伯爵夫人がゆっくりと視線を向けた。

「可哀想?」

「は、はい……」

「ならお聞きしますけれど、昨夜、公衆の面前で婚約を破棄され、今朝には部屋を荒らされた側は、誰ですの?」

令嬢が黙る。

もう答えは出ていた。

侯爵夫人が言う。

「可哀想かどうかではありません」

「誰が踏みにじられ、誰がその上に立とうとしているのか」

「皆、それを見ているのです」

老夫人が静かに頷いた。

「しかも、あの娘には待つ知恵すらない」

「正式な発表もないうちから、自分から祝福を受けに来るとは」

「王太子妃の器どころではございませんわね」

そうして、席は再び静かな会話へ戻っていく。

だが先ほどまでとは意味が違った。

もうミレイユは候補ではない。

“あの娘は駄目だ”という共通認識が、この場で固まってしまったのだ。

その頃、別邸ではマリアベルが新たな報告を持って執務室へ入っていた。

「お嬢様」

「何かしら」

「レヴァンティーヌ侯爵夫人の茶会に、ミレイユ様が押しかけたそうです」

リディアナの手がぴたりと止まる。

数秒後、彼女はゆっくり顔を上げた。

「……本当に?」

「はい」

「そして、歓迎はされなかったようで」

グラントが目を閉じた。

「でしょうな」

リディアナはしばらく無言だった。

驚きはした。

だが、あり得ないとも思わなかった。

あの義妹ならやる。

昨夜の熱狂に酔ったまま、今日も同じ温度で迎えられると信じて、平然と踏み込む。

そして静かに拒まれる。

「返事をくれなかった意味も分からなかったのね」

「そのようでございます」

マリアベルは淡々としていたが、その声の奥には呆れがあった。

「お嬢様」

「何?」

「社交界は、もう義妹様を祝福しておりません」

リディアナは小さく頷いた。

「ええ。分かっているわ」

そして、机の上の手紙へ視線を落とす。

今日届いた招待状。

丁寧な文面。

静かな探り。

それらは全部、昨夜の拍手よりもよほど正確に現実を語っていた。

「昨夜の勝者は、今日の敗者でしたのね」

マリアベルがぽつりと言う。

リディアナは少しだけ笑った。

「違うわ」

「昨夜から、もう負けていたのよ」

「ただ、自分で気づいていなかっただけ」
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