婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第九話 王宮は、義妹を迎える準備などしていませんでした

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第九話 王宮は、義妹を迎える準備などしていませんでした

レヴァンティーヌ侯爵夫人の茶会で恥をかいたその日の夕暮れ、本邸の空気はひどく悪かった。

玄関広間から二階の私室へ続く廊下に至るまで、使用人たちは皆、息を殺している。誰も大きな声を立てず、足音すら忍ばせていた。こういうとき、この家では決まって誰かが怒鳴る。しかも、それはたいてい理不尽な怒鳴り方だと、皆もう知っているのだ。

そして案の定、その怒声は二階から響いていた。

「どういうことなの!」

甲高い叫び声が、廊下の壁に反響する。

ミレイユだった。

部屋の中では、先ほどから花瓶が割れる音、椅子が倒れる音、侍女の怯えた声が断続的に続いていた。

だが、誰も止めに入れない。

止めても火に油を注ぐだけだと、今の使用人たちは学んでいる。

「どうして、どうしてなのよ!」

「殿下はわたくしをお選びになったのに!」

「どうして誰も祝ってくださらないの!」

化粧台の前で、ミレイユは赤くなった目をさらに歪めていた。

茶会で拒まれた屈辱が、今ごろになって全身を焼き始めているのだろう。

あの場では、あまりの衝撃で涙すらうまく出なかった。けれど屋敷へ戻る馬車の中でじわじわと実感が込み上げ、玄関をくぐった瞬間から怒りへ変わった。

自分は間違っていない。

悪いのは、あの高慢な女たちだ。

いや、違う。

元をたどれば全部、リディアナのせいだ。

そうでも思わなければ、自分が笑いものになった事実に耐えられない。

「リナ!」

「は、はい!」

壁際で震えていた侍女が、慌てて前へ出る。

「あなた、あの場で見たでしょう!?」

「皆、わたくしを見ていたわよね!?」

「それは……」

リナは答えに詰まる。

見ていた。

確かに皆、ミレイユを見ていた。

けれどそれは、注目でも憧れでもない。

招かれてもいない場に押しかけて、祝福を受けるつもりで立っている女を見る視線だった。

あまりにも痛々しく、あまりにも分不相応で、目を逸らせない。

そういう視線だった。

だが、そんなことを言えるはずもない。

「み、皆様、お驚きになっておりました」

どうにか絞り出した言葉に、ミレイユは唇を噛む。

「そうよね」

「そうに決まっているわ」

「急だったもの……皆様、きっとまだ心の準備ができていなかっただけなのよ」

自分で言って、自分でうなずく。

必死な理屈だった。

だが、その理屈をさらに薄っぺらくするように、部屋の扉が叩かれた。

「ミレイユ、入るわよ」

ヘレナだった。

返事も待たずに扉を開けて入ってくる。

その顔色も決してよくない。茶会での一件はすでに耳へ入っているのだろう。あるいは侍女から先に報告を受けていたか。

「お母様……!」

ミレイユは半ば泣きつくように振り向いた。

「ひどいのよ!」

「皆様、わたくしを歓迎もなさらなかったの!」

「お姉様が何かしたに違いないわ!」

ヘレナは娘の手を取った。

その仕草だけ見れば慈母のようだが、目は冷たく計算していた。

「落ち着きなさい」

「まずは順に話してちょうだい」

だが順に話を聞いたところで、内容は単純だった。

正式な招待がないのに押しかけた。

挨拶という名目で“選ばれた女”としての祝福を求めた。

そして、礼儀と立場を理由にやんわり追い返された。

それだけだ。

ヘレナは途中から、娘を慰める顔のまま、内心では頭痛を覚えていた。

愚かだとは思っていたが、ここまで待てないとは。

せめて王家から正式な発表があり、王宮側の態度が固まってから動けばよかったものを。

だが、今さら怒鳴ったところで遅い。

娘を叱るのは得策ではない。

今はまだ、自分たちが勝者だと信じさせておく必要がある。

「分かったわ」

ヘレナは柔らかく言った。

「でも、これはあなたが悪いのではありません」

ミレイユの目が潤む。

「本当に?」

「もちろんよ」

「社交界の女たちはね、最初だけ妙に慎重ぶるものなの」

「正式発表がないうちは、誰も責任を取りたがらないだけ」

それは半分は本当で、半分は嘘だった。

慎重なのは確かだ。

だが今の沈黙は、単に様子見ではない。

祝福する価値がある相手かどうか、もう測られている。

そして結果は、あまり芳しくない。

「じゃあ、待てばいいのね?」

「ええ」

ヘレナは娘の頬を撫でた。

「そのためにも、次はもっと確実な場へ出るの」

「もっと確実な場?」

「王宮よ」

ミレイユの瞳がぱっと明るくなる。

やはり単純だ、とヘレナは思った。

だが、その単純さに助けられてきたのも事実だった。

「王宮へ……?」

「そう」

「社交界の女たちが口をつぐむなら、先に王宮であなたの立場を固めてしまえばいいの」

「王宮が認めれば、皆も黙るわ」

その発想自体は間違っていない。

問題は、王宮がそう簡単に認める状況にないことだ。

ヘレナもそこは分かっている。

だが今は、娘を落ち着かせる方が先だった。

そして何より、自分自身もまだ信じたいのだ。

王太子が大勢の前で婚約破棄を宣言し、自分の娘を選んだ。

ならば、少々の混乱はあっても、いずれ王宮は受け入れるだろう、と。

そうでなければ困るのだ。

ここまで踏み込んでおいて、今さら引き返せないのだから。

翌朝、王宮ではまったく別の空気が流れていた。

王太子の私室に隣接する執務室では、侍従長補佐、会計係、衣装係、そして王妃付きの女官が、朝からひどい顔で立ち尽くしていた。

机の上には帳簿、請求書、先送りにできない確認事項が山のように積まれている。

その中央で、カイルが不機嫌そのものの顔で立っていた。

「だから、なぜできないと申す!」

「殿下」

会計係が青ざめながら頭を下げる。

「王太子妃候補として新たにお迎えする方の衣装、宝飾、侍女の配置、居室の整備、どれも本来は段階的な承認が必要にございます」

「それを急ぎで進めろと言っているのだ!」

「ですが、承認印が……」

「私がいるではないか!」

「恐れながら、王太子殿下のお印だけでは足りません」

横から女官が低く言った。

「王妃殿下のご裁可、ならびに王宮内での正式な身分整理が必要です」

「身分整理?」

カイルが眉をひそめる。

「ミレイユを私の婚約者として迎えるだけの話だぞ!」

「その“だけ”では済みません」

女官の顔は冷えきっていた。

彼女にとって、これは恋愛ではなく王宮実務だ。

しかも一番面倒な部類の。

「公爵令嬢リディアナ様との婚約が正式にどう整理されるかも定まっておりません」

「新たな婚約発表もございません」

「その状態で、別のご令嬢を王太子妃候補として王宮に出入りさせるのは、外聞以前に規則違反です」

「規則、規則とうるさい!」

カイルが机を叩く。

書類が跳ね、女官の表情がさらに冷えた。

「規則があるから王宮は回っております」

「皆が殿下のご気分一つで動けるわけではございません」

一瞬、部屋が凍った。

誰もが思っていることを、この女官は言ってしまったのだ。

だが、言われても仕方のない状況だった。

「……つまり、ミレイユはまだ王宮へ入れられぬと?」

「正式には」

「では非公式でよい!」

「なおさら不可能です」

今度は侍従長補佐が言った。

「昨夜の件で、すでに王宮内は大変敏感になっております」

「今そのような形でお迎えすれば、余計な憶測と反発を招きます」

要するに、歓迎されていないのだ。

少なくとも実務を回している側には。

だがカイルは、その現実をうまく飲み込めない。

ミレイユを選んだのは自分だ。

ならば、皆が道を開けるべきだと思っている。

そこに手続きがあり、体面があり、過去の婚約者との整理があり、王妃の思惑があることを、理解していない。

理解しようともしていない。

そこへ、扉が開いた。

王妃ロザリアだった。

全員が一斉に頭を下げる。

「母上」

カイルが振り向く。

助け舟が来たと思った顔だった。

だが王妃の顔に甘さはなかった。

「聞こえていましたよ」

それだけで、部屋の空気がさらに張る。

「カイル」

「何です」

「あなたは今、自分が何を優先すべきか、本当に分かっているのですか」

「もちろんです」

「昨夜の件を整え、ミレイユを――」

「違います」

王妃は息子の言葉を切った。

「優先すべきは、王家の損失と混乱の収拾です」

「新しい娘を迎えて夢を見ている場合ではありません」

カイルの顔が強張る。

「夢ではありません」

「私は本気で――」

「本気ならなお悪いわ」

その一言は冷酷だった。

王妃は歩み寄り、机の上の請求書を一枚持ち上げる。

「王宮の支払いが乱れ始めている」

「商会がざわついている」

「街道整備も学園への拠出も、慈善事業も止まりかけている」

「その最中にあなたが考えるのが、あの娘の衣装と部屋の整備だというのなら」

「あなたは王太子に向いていない」

誰も息をしなかった。

カイルも一瞬、言葉を失う。

王妃がここまで直截に言うのは珍しい。

だが、それだけ事態が悪いのだろう。

「……母上は、私の味方ではないのですか」

ようやく出た言葉が、それだった。

幼い、とその場の全員が思った。

王妃の表情が、ほんのわずかに疲れる。

「味方かどうかの話ではありません」

「あなたが、自分で崩したものを見なさいと言っているのです」

「今の王宮は、あの娘を迎える準備などしていません」

「それどころではないの」

その頃、本邸ではヘレナが上機嫌で王宮への打診文を整えていた。

娘を“ご挨拶のために”登城させたい。

正式なお披露目ではない。

ただ、今後を見据えて王妃や女官たちに顔を覚えていただくため。

そういう体裁の、実に厚かましい文面だった。

「これでいいわ」

羽根ペンを置き、ヘレナは満足そうにうなずく。

「王宮で一度でも受け入れられれば、あとは早いもの」

向かいのソファでは、ミレイユがようやく機嫌を直し始めていた。

「そうよね、お母様」

「社交界の方々だって、王宮が認めれば手のひらを返すわ」

「ええ、その通りよ」

二人とも、まだ知らない。

王宮が、そんな準備などまるでしていないことを。

歓迎どころか、面倒の種としか見ていないことを。

リディアナのいない王宮が、思ったよりずっと不安定で、そんな余計な飾りを受け入れる余裕などないことを。

別邸では、ちょうどその報告が届いたところだった。

グラントが簡潔に伝える。

「王宮では、義妹様を迎えるための準備どころではないようです」

リディアナは書類から目を上げた。

「そう」

「ええ。衣装係も女官も、正式手続きがない以上動けぬと」

「当然ね」

「ですが、本邸では、近々登城の打診をするつもりのようで」

その言葉に、マリアベルがさすがに目を閉じた。

「……よくまあ、そこまで」

リディアナは少しだけ考え、それから静かに言った。

「好きになさい」

「好きに?」

「ええ」

彼女は再びペンを取る。

「止める必要はないわ」

「王宮が迎える準備もないのに、自分から行きたがるのなら」

「恥をかくのは、私ではないもの」

グラントが低くうなずく。

「たしかに」

リディアナの声はどこまでも静かだった。

だが、その静けさがかえって残酷だった。

「昨夜の拍手が、まだ耳に残っているのでしょうね」

「だから、どこへ行っても同じように迎えられると思っている」

窓の外では、夕方の光が庭を淡く染めていた。

熱に浮かされた夢が冷めるには、まだ少し時間がかかるのだろう。

だが、その時間すら、相手をもっと惨めにするための熟成にしかならない。

「王宮は、義妹を迎える準備などしていませんでした」

リディアナはまるで事実を読み上げるように呟いた。

そして、ほんのわずかに笑った。

「夢から覚めたとき、あの子はどんな顔をするのかしら」
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