婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十話 祝福どころか、招待状すら届きませんでした

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第十話 祝福どころか、招待状すら届きませんでした

ミレイユが王宮へ“ご挨拶”に上がるつもりだという話は、その日のうちに本邸の使用人たちの間を駆け巡った。

しかも噂だけでは終わらない。

ヘレナは本気だった。

王妃宛てに丁重な文面を整え、娘を今後のために一度登城させたいと申し入れる。名目はあくまで非公式のご挨拶。けれど、その実態が“王太子に選ばれた娘を王宮へ既成事実としてねじ込みたい”という意図であることは、少しでも頭の回る者なら誰でも分かった。

だが、分かっていない者が二人だけいた。

ヘレナとミレイユである。

本邸の朝食室では、珍しく明るい空気が流れていた。

もっとも、それは母娘の周囲だけの話で、給仕する使用人たちは誰も目を上げなかった。明るいというより、危うい高揚といった方が正しい。

「王妃様も、きっとお分かりくださるわ」

ヘレナはカップを傾けながら言った。

「王家にとって大切なのは、見目と愛嬌と、殿下のお心を安らげることですもの」

ミレイユはその言葉に、少しだけ頬を染めた。

昨夜の茶会で冷たくされた傷は、まだ消えていない。だが“王宮が認めれば全部ひっくり返せる”という母の言葉は、彼女の心にとても都合がよかった。

「でも……王妃様って、少し厳しそうよね」

「だからこそよ」

ヘレナはすぐに返した。

「厳しい方ほど、殿下のお心を軽くする娘の価値がお分かりになるもの」

この女は、本気でそう思っているのだろうかと、給仕の侍女たちは心の中で思った。

王妃が重んじるのは、そんな曖昧な“癒やし”ではない。少なくとも、今の王宮がそれどころでないことくらい、少し耳を澄ませば分かる。

支払いが乱れ始めた。

商会がざわついている。

王太子の婚約破棄が、ただの恋愛話では済まなかった。

そういう噂は、もう下働きの耳にすら届いていた。

だがこの母娘は、そこから先を考えない。

自分たちに都合のよい部分だけをつまんで、あとの現実は見ない。

「お母様」

ミレイユが期待に満ちた目で問う。

「王宮からお返事は、いつ頃来るかしら」

「早ければ今日にも」

ヘレナは余裕ありげに答える。

「王宮だって、いつまでも宙ぶらりんにはしておけないわ」

その言い方はもっともらしかった。

だが実際には、宙ぶらりんにしているのではなく、優先順位の一番下に置かれているだけだ。

その頃、王宮では王妃付きの女官たちが、ヘレナから届いた打診文を前にひどく冷えた顔をしていた。

「……よくもまあ」

年長の女官が、ため息とともに紙を置く。

「この状況でございますのに」

若い女官が控えめに言う。

「どう返されますか」

「どうもこうもありません」

年長の女官は即答した。

「王妃殿下へお目通しの前に、却下です」

「却下、でございますか」

「当然でしょう」

彼女は文面を指先で軽く叩いた。

「正式な婚約整理も終わっていない」

「王太子殿下に関わる支払いと実務が乱れ始めている」

「王妃殿下は朝からその処理に追われていらっしゃる」

「その最中に、“娘にお顔を覚えていただきたいので一度登城を”ですって?」

若い女官が口をつぐむ。

あまりに場違いで、あまりに自分本位だ。

正直、返事をするのも腹立たしい。

「せめて空気を読む知恵くらいあればよいものを」

「それがあれば、そもそも昨夜の舞踏会であんな騒ぎにはなっておりません」

別の女官が皮肉を落とす。

皆、言葉は丁寧でも、内心ではかなり怒っていた。

王宮は今、余計な仕事が増えることに神経を尖らせている。なのにその元凶の一端である女が、のこのこと“ご挨拶”に上がりたいと言ってくるのだ。

歓迎されるわけがない。

「返答文は簡潔に」

年長の女官が決める。

「現在、王宮では多忙につき、非公式のご挨拶は差し控える」

「以上」

「ずいぶんとあっさりしておりますね」

「十分です」

それ以上の温情をかける義理はない。

むしろ、余計な含みを持たせれば、また勘違いして食い下がってくる。

そう判断されたのだった。

昼過ぎ、本邸にその返書が届いた。

王宮の封蝋を認めた瞬間、ヘレナとミレイユの顔が明るくなる。

客間へ運ばれた封書を、ヘレナはわずかに震える指で開いた。

ミレイユは隣で、今にも身を乗り出しそうになっている。

そして、文面を読んだ瞬間。

ヘレナの笑みが固まった。

「お母様?」

ミレイユが覗き込む。

次の瞬間、彼女の顔色も変わった。

文面は短かった。

丁寧ではある。

だが、余地がないほど冷たい。

現在、王宮では諸事多忙につき、非公式のご挨拶は差し控える。

ただ、それだけ。

慰めもなければ、今後を見越した一文もない。

時期を改めて、ですらない。

今は来るな。

それを、礼儀正しく書いただけの返事だった。

「な、何よ、これ……」

ミレイユがかすれた声で言う。

「どうして……」

ヘレナはもう一度文面を見返した。

どこかに好意的な解釈ができる余白はないか。

今は忙しいだけで、本当は歓迎したいのではないか。

そう読み替えられる言葉はないか。

だが、何度読んでも同じだった。

単なる拒絶である。

「おかしいわ」

ヘレナが呟く。

「こんなはず……」

「だって、お母様、王宮が認めればって……」

ミレイユの声には、泣き出す前のひび割れが混じっていた。

「ええ、そのはずよ」

ヘレナは娘にではなく、自分に言い聞かせるように答えた。

「きっと今は本当に立て込んでいるだけなの」

「だから落ち着いたら……」

「でも、招待もないの?」

ミレイユが遮った。

その問いは、意外なほど核心を突いていた。

そうだ。

忙しいだけなら、せめて後日改めて、の一文くらいあってもいい。

なのにそれすらない。

つまり今の王宮は、ミレイユを迎える未来をわざわざ匂わせることすら嫌がっているのだ。

ヘレナの喉が詰まる。

認めたくなかった。

娘が、王太子に選ばれた“だけ”では、王宮の扉は開かないのだと。

そしてその事実は、社交界が冷えたのと同じ根っこにある。

誰も、この娘を正式な王太子妃候補として扱う準備をしていない。

誰も、この娘に賭けるつもりがない。

「……もう一度、お手紙を出しましょう」

ヘレナは無理に声を整えた。

「今度はもっと配慮のある形で」

「そうね……そうすれば……」

「お母様」

ミレイユの目から、とうとう涙がこぼれた。

「もう、やめて」

ヘレナが言葉を失う。

「わたくし、もう嫌」

「茶会でも笑われて、王宮にも来るなって言われて……」

「わたくし、本当に殿下に選ばれたのよね?」

その問いに、ヘレナは即答できなかった。

選ばれた。

たしかにそれは事実だ。

だが、その事実に価値があるかどうかは、もう別の話になり始めている。

王子の気まぐれに選ばれたことと、王宮に迎えられることは違う。

社交界に祝福されることとも違う。

その違いが、今になってようやく母娘へ突きつけられていた。

「もちろんよ」

それでもヘレナは言った。

言うしかなかった。

「あなたは殿下に選ばれたわ」

「だから大丈夫」

ミレイユは泣きながらうなずいた。

だがその涙は、もう勝者のものではなかった。

確信を持って泣く者の涙ではない。

足元が揺らぎ始めた者の涙だった。

その夕方、別邸ではマリアベルが淡々と報告していた。

「王宮から、本邸へ返答が届いたそうです」

「どうだったの?」

リディアナが尋ねる。

「非公式のご挨拶は差し控える、とのこと」

「簡潔ね」

「ええ。招待どころか、時期を改めてとも書かれていないそうです」

グラントがわずかに鼻で笑った。

「完全に門前払いですな」

「そうね」

リディアナは書類から顔を上げた。

驚きはなかった。

むしろ、思ったより優しかったくらいだ。

王宮の女官たちが本気で怒っていれば、もっと刺々しい断り方もできただろう。

「本邸の様子は」

「かなり荒れているようでございます」

「ミレイユ様は泣き崩れ、ヘレナ様は再度打診するべきか迷っているとか」

「迷う余地なんてないのに」

「ええ」

マリアベルも珍しく少しだけ口元をゆるめた。

「それでも迷われるのが、あの方々らしいかと」

リディアナは窓の外へ視線を向けた。

空は少し曇っていた。

春へ向かうはずの光の中に、まだ冬の名残のような冷たさがある。

「祝福どころか、招待状すら届かなかったのね」

「はい」

「可哀想といえば、可哀想かもしれません」

グラントが言う。

だがその声に同情はなかった。

ただの事実確認だ。

リディアナは小さく首を振った。

「いいえ」

「可哀想なのではないわ」

「当然の場所に、当然の結果が返ってきただけよ」

王太子に選ばれた。

その一瞬の甘さに酔って、自分がもう上へ行けると思った。

だが現実は違う。

社交界も王宮も、涙や恋の言葉では動かない。

動くのは、立場と信用と、積み重ねられた実務の上だけだ。

そしてそのどれも、ミレイユは持っていなかった。

「お嬢様」

マリアベルが新たな封書を差し出す。

「こちらは、王妃付きの伯爵夫人からです」

リディアナは受け取った。

封を切る前から、その重みが違うと分かる。

一方では、王宮に断られた義妹が泣いている。

もう一方では、王妃の側近筋から静かに手紙が届く。

その対比は、もはや皮肉ですらなかった。

ただの現実だった。

「返事は、今夜のうちに出すわ」

そう言って、リディアナは封を切る。

夢を見ていた者には招待状すら届かない。

だが現実を知る者には、向こうから席が用意され始めていた。
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