婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十一話 王妃は、誰を失ったのかを計り始めていました

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第十一話 王妃は、誰を失ったのかを計り始めていました

王妃付きの伯爵夫人から届いた手紙は、短かった。

だが、その短さの中に余計な感情は一切なく、必要な含みだけがきちんと残されていた。

――明日、午後。

――ご都合がつくなら、私の屋敷へお越しくださいませ。

――他意はございません。ただ、現状について少し伺いたく存じます。

他意はない。

そんなわけがない。

だが、露骨な探りや媚びた慰めではなく、あくまで落ち着いた文面で“伺いたい”と書いてくるあたり、いかにも王妃の側に長く仕えてきた女らしかった。

リディアナは読み終えると、その便箋を静かにたたんだ。

「ずいぶん率直ね」

「はい」

グラントが答える。

「王妃側も、表立っては動けぬのでしょう」

「ええ。でも、何も知らないままではいられない」

マリアベルがすぐに返書用の紙を用意した。

「お受けになりますか」

「もちろん」

リディアナは椅子へ座り直した。

「こちらも知りたいことがあるもの」

羽根ペンを取り、簡潔に返事を書く。

行きます。

明日、午後。

余計な感情も、恨みも、未練も乗せない。

今、必要なのはそういう文ではなかった。

返書を封じ終えた頃には、空はすっかり夕色へ変わっていた。

別邸の窓から見える庭は静かで、本邸のように誰かが泣き喚いたり、怒鳴り散らしたりする気配はない。その静けさが、今のリディアナには何よりありがたかった。

「今夜は早めにお休みになりますか」

マリアベルが尋ねた。

「そうしたいところだけれど」

リディアナは机の上の書類へ目を落とす。

「まだ半分も終わっていないわ」

「明日でもよろしいのでは」

「明日までに済ませておきたいの」

グラントが新たな帳簿を差し出した。

「こちらは王宮側へ流れていた細かな便宜の一覧です」

「細かい、とは言うけれど、積もれば馬鹿にならないわね」

「ええ。仕立屋への優先発注、庭園管理職人の臨時手配、学園関係者への紹介状、上級貴族夫人方への贈答の調整までございます」

リディアナは一枚ずつ確認していく。

こういうものは表から見えにくい。

だが実際には、こうした細かな調整こそが王家の“滞りない体面”を支えてきた。

そして今、その流れが止まりつつある。

止まった瞬間には気づかれなくても、数日後には必ず歪みが出る。

王妃はそのことを分かっているのだろう。

だから側近筋から探りが入る。

王太子はまだ、自分の宝飾品代や遊興費しか見えていない。

だが王妃は違う。

もっと広い範囲で、何がどこまで失われたのかを測ろうとしている。

「王妃陛下は、ようやく計り始めたのね」

リディアナがぽつりと言うと、グラントが視線を上げた。

「何を、でございますか」

「誰を失ったのかを、よ」

その言葉に、部屋の空気が少しだけ沈んだ。

傲慢な響きになっていないかと、自分でも一瞬思った。

けれど、事実だった。

婚約者としての自分。

公爵家の嫡女としての自分。

それだけではない。

王家の足りないところを黙って埋め、表に出ないまま支えてきた実務者としての自分。

王妃は今、それを一つずつ確かめようとしている。

遅い。

けれど、気づかないよりはましだった。

翌日。

伯爵夫人の屋敷は、王都の中でもひときわ静かな一角にあった。

派手な大邸宅ではない。だが手入れの行き届いた石造りの屋敷で、庭の枝ぶりや玄関先の花一つ見ても、家主の趣味と神経の細やかさが分かる。

馬車を降りたリディアナは、案内されるままに応接間へ通された。

部屋は落ち着いた薄青の壁紙に、濃い木目の家具が映えていた。香の匂いも控えめで、相手を緊張させすぎないよう整えられている。

伯爵夫人は、すでに席について待っていた。

年の頃は四十代後半。派手な美貌ではないが、目元の知性と背筋の通った座り方に、この女がただの社交好きではないと分かる。

「ようこそおいでくださいました、リディアナ様」

「お招きありがとうございます」

礼を交わし、向かいに座る。

侍女が紅茶を置き、音もなく下がっていった。

しばしの沈黙。

だが居心地の悪い沈黙ではない。

互いに、どこから切り込むべきか測っている沈黙だ。

先に口を開いたのは伯爵夫人の方だった。

「まずは、昨夜までの一連の件について、軽々しい慰めを申し上げるつもりはありません」

「ありがとうございます」

「その代わりに、率直に伺います」

「はい」

伯爵夫人はカップへ指を添えたまま言った。

「王宮は、どこまであなたに依存していたのですか」

やはりそこから来たか、とリディアナは思った。

回りくどい言い方をしないところは好ましかった。

「王宮、というより」

彼女は静かに答える。

「王太子殿下の周辺が、ですわ」

「どこまで?」

「表に出るものなら、慈善事業、学園関連、街道整備の一部、衣装や贈答の調整」

「表に出ないものなら、より細かく」

「細かく?」

「殿下が気分よく過ごすための、小さな滞りを消すことです」

伯爵夫人の眉がわずかに動く。

「たとえば」

「仕立ての遅れを先回りで埋める」

「無礼にならない範囲で請求を先送りさせる」

「贈り物の相手と順番を整える」

「殿下が忘れていらっしゃる約束を、それとなく補う」

「そういうものです」

伯爵夫人は、しばらく何も言わなかった。

その沈黙は、驚きより確認に近かった。

つまり彼女も薄々は気づいていたのだろう。

王太子があまりにも何も知らず、何も困らずに振る舞えていたこと自体がおかしいと。

そしてその“おかしさ”の裏に誰がいたのか、今ようやく輪郭が見えてきた。

「……なるほど」

伯爵夫人がようやく息を吐く。

「王妃殿下が、今朝からずっと顔を曇らせていらした理由が分かりました」

「王妃陛下は、お気づきになって?」

「まだ全部ではありません」

伯爵夫人は首を横に振った。

「けれど、損失の広がり方を見て、ようやく“あれは金だけの話ではない”と理解し始めておられます」

リディアナは紅茶へ口をつけた。

少し冷めていたが、味はよかった。

「王妃陛下は、何を一番気になさっているのかしら」

「三つございます」

伯爵夫人は即答した。

「一つは、王宮の実務の空白」

「一つは、社交界での信用の揺らぎ」

「そして最後が、王太子殿下ご自身の軽率さが想像以上だったこと」

最後の一つに、リディアナは小さく笑った。

「それは今さらですわね」

「まったくです」

伯爵夫人も同意した。

この女は、王太子を恐れて遠回しに言葉を濁すタイプではないらしい。

そこは話しやすかった。

「王妃陛下は」

伯爵夫人が続ける。

「リディアナ様ご自身が、どこまで王家との関係を切るおつもりなのかを知りたいご様子です」

「どこまで、ね」

「ええ」

「では、率直にお答えします」

リディアナはカップを置いた。

音は小さかったが、伯爵夫人の視線がさらに真っ直ぐになる。

「私は、婚約を公に破棄された女です」

「それをなかったことにして、今まで通り黙って支えるつもりはありません」

「当然です」

「けれど、王家そのものを道連れにして国を傾けたいわけでもない」

伯爵夫人の目が細くなる。

そこが知りたかったのだろう。

私怨で暴れる女か。

それとも線引きができる女か。

「私は、責任の所在を明らかにしたいだけです」

リディアナは静かに言った。

「殿下が切ったものは、殿下ご自身にきちんと見せたい」

「王家が受ける損失と、殿下個人が受けるべき損失は、本来分けて考えるべきでしょう」

「……それを、あなたは分けられるのですね」

「ええ」

「ならば王妃陛下も、少しは安堵なさるでしょう」

伯爵夫人はそう言ったが、その声に軽さはなかった。

むしろ、だからこそ重かった。

王妃は今、息子がやらかしたことの後始末をしながら、その息子に婚約者として最もふさわしかった女を失ったのだと気づき始めている。

しかも、その女はただ有能なだけではない。

怒りの中でも線を引ける。

王家にとって、本来なら絶対に手放してはいけなかった相手だ。

「王妃陛下は、お会いになるおつもりはあるのかしら」

リディアナが尋ねると、伯爵夫人は少し考えてから答えた。

「今すぐには、ないでしょう」

「ですが、必要になれば必ず」

「必要に、ね」

「ええ」

伯爵夫人はまっすぐに言った。

「今の王宮は、認めたくないことをいくつも認め始めています」

「その一つが、リディアナ様を失った痛手です」

その言葉は、奇妙に静かに胸へ落ちた。

嬉しいわけではない。

溜飲が下がるわけでもない。

ただ、ようやく現実が現実として扱われ始めたのだと感じた。

昨夜の舞踏会では、自分は悪女にされた。

泣く義妹をいじめる冷たい婚約者だと。

だが一夜、二夜と明けるうちに、周囲は少しずつ別のものを見始める。

誰が本当に王家を支えていたのか。

誰がただ泣いていただけで、誰が黙って埋めていたのか。

それが分かり始めている。

「今日は、来てよかったですわ」

リディアナが言うと、伯爵夫人はわずかに笑った。

「こちらこそ」

「おかげで、王妃殿下へどのように申し上げるべきか見えました」

その帰りの馬車の中で、グラントが静かに問うた。

「いかがでしたか」

「王妃陛下は、ようやく計り始めているようよ」

「何を、でございますか」

リディアナは窓の外を見た。

王都の街並みは変わらない。

人々はいつも通りに歩き、店は開き、荷車が行き交っている。

けれどその水面下で、確かに何かが変わり始めていた。

「誰を失ったのかを、よ」

グラントは何も言わなかった。

ただ、深くうなずいた。

その夜、本邸ではミレイユがまだ泣いていた。

王宮からは何の招待もなく、社交界からも祝福はなく、母は大丈夫だと繰り返すばかり。

大丈夫なわけがないのに。

一方で別邸には、王妃の側近から静かな会談の場が用意される。

同じ時間、同じ王都にいても、向けられるまなざしはもうまるで違っていた。

そしてその差は、これからもっと残酷な形で広がっていく。
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