婚約破棄で終わるはずでしたのに、気づけば全部あなた方が崩れておりました

しおしお

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第十二話 王太子は、まだ自分が選ぶ側だと思っていました

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第十二話 王太子は、まだ自分が選ぶ側だと思っていました

王宮では、その日の夕刻になっても空気が重いままだった。

王太子付きの執務室には、朝から持ち込まれた書類がまだ山のように積まれている。会計係は何度も出入りし、侍従は顔色を悪くしながら伝言を運び、女官たちは必要最低限の言葉しか発さない。

誰もが忙しい。

そして誰もが、忙しい原因が誰にあるかを知っている。

それでも正面からは言えない。

相手が王太子だからだ。

その苛立ちと諦めが、部屋の空気を重くしていた。

その中心で、カイルは不機嫌そうに窓辺へ立っていた。

昼過ぎに王妃と口論になって以来、ずっとこの調子だった。苛立っているのは分かる。だが、苛立つ資格があると思っている顔なのが、周囲には余計に腹立たしかった。

「殿下」

侍従長補佐が、慎重に声をかける。

「何だ」

「本日中にご確認いただきたい文書が、まだ三件ほど」

「後で見る」

「ですが――」

「後でと言った」

ぴしゃりと返され、補佐官は黙る。

どうせ後で見ないだろう、と誰もが思っていた。

カイルは今、自分が書類を見るべき立場に追い込まれていること自体が気に入らないのだ。本来ならこんなものは、周囲がうまく回して、自分の目の前には整った形だけが来るべきだと思っている。

そして、その“整った形”を作っていたのが誰だったのかも、まだ完全には理解していない。

「リディアナは、今日は何をしていた」

突然そう問われ、侍従長補佐が目を瞬く。

「……は?」

「だから、リディアナだ」

カイルは苛立ったように振り向いた。

「別邸に引っ込んでいるのは知っている。だが、それで何をしているんだと聞いている」

補佐官は一瞬、返答に迷った。

何をしているか。

そんなこと、王太子自身が一番よく考えるべきことではないのか。

婚約破棄した相手が、その翌日から何をしているか。

それが自分に無関係だと思える方が異常だ。

だが本音など言えない。

「詳細までは把握しておりません」

「ただ、商会や学園関係者と文書のやり取りが増えていると」

「文書のやり取り?」

「はい」

「なぜそんなことをする必要がある」

その問いに、補佐官はほとんど返答を諦めたくなった。

必要があるからだ。

殿下が切ったからだ。

その一言に尽きる。

だが言えない。

「各方面の整理ではないかと存じます」

「整理、整理と……」

カイルは舌打ちした。

「まるで私が何か壊したみたいではないか」

その場にいた三人ほどが、同時に顔を上げそうになった。

いや、壊したのだ。

思いきり。

しかも人前で。

だが彼らは視線を落としたまま沈黙する。

するとカイルは、それを同意と受け取ったのか、少しだけ気を大きくしたように言った。

「そもそも、あれは私の婚約だ」

「私が続けるも終わらせるも、私が決めることだろう」

その言葉を聞いたとき、部屋の空気がわずかに冷えた。

誰も反論しない。

だが、沈黙の中にあるものは服従ではなく、呆れだった。

この人は本当に分かっていないのだと。

婚約を結ぶのも解くのも、自分ひとりの気分で決められると思っている。

王太子である以前に、子どもだった。

その頃、別邸では静かな夕食が始まろうとしていた。

母の別邸の食堂は、本邸ほど広くはない。けれど無駄な装飾がなく、灯りも柔らかく、食器の音がやけにきれいに響く。人が少ないからだろうか。

リディアナは席に着き、マリアベルが選んだ温かなスープを口にした。

昨夜からまともに休めていない身には、その優しい塩気が思いのほか沁みた。

「少しはお召し上がりになってくださいませ」

マリアベルが言う。

「今日は、昼もお取りになっていません」

「そうだったかしら」

「そうです」

ぴしゃりと返され、リディアナは少しだけ苦笑した。

こういうところが、マリアベルは亡き母に似ている。

「お話は、どうでしたか」

食堂の隅に控えていたグラントが問う。

「思った以上に、王妃陛下は現実を見始めていたわ」

「よい兆しでございますか」

「よいかどうかは、まだ分からない」

リディアナはスプーンを置いた。

「でも少なくとも、王太子殿下だけが夢を見ている状況ではなくなってきたわね」

「殿下は、まだ夢の中でしょうな」

「ええ」

「しかも、自分が選ぶ側だと思っている」

その言葉に、グラントがわずかに目を細めた。

「選ぶ側、でございますか」

「そうよ」

リディアナは静かに言った。

「婚約を壊したのは自分だから、必要なら戻すと言えば戻せる」

「義妹を気に入ったのも自分だから、皆がそれを受け入れるべき」

「まだそんな顔をしていたもの」

マリアベルが、珍しく露骨にため息をついた。

「救いようがございませんね」

「救う気はないわ」

「それもそうでございます」

食堂に一瞬だけ、乾いた笑いが落ちる。

それは穏やかな笑いではなかったが、本邸のような醜い音でもなかった。

現実を見ている者同士の、短く薄い共感のようなものだった。

夕食のあと、リディアナは再び執務室へ向かった。

今日だけでも届いた文書は多い。

王妃側近との会談を受けてか、今まで様子見だった家々が、少しずつこちらへ手を伸ばし始めているのが分かった。

「これもですか」

マリアベルが新たに運んできた封書の山を見て言う。

「ええ。今夜のうちに目を通すわ」

「明朝でも」

「駄目」

リディアナは即答した。

「こういう時は、遅い方が負けるの」

それは今の彼女の実感でもあった。

感情で騒ぐ者は、遅い。

現実を計る者は、早い。

だからこそ、社交界の夫人たちは早々に距離を取り、王妃の側近はもう接触してきた。

その一方で、ヘレナとミレイユはまだ“王宮がそのうち受け入れるはず”という願望にしがみついている。

「本邸の方はどう?」

「夕方にまた一騒ぎあったようでございます」

グラントが答える。

「ヘレナ様が、王宮へ再度お手紙を出すべきか迷っていたとか」

「迷っているうちは、まだ元気ね」

「そしてミレイユ様は、殿下が直接迎えに来てくださればすべて解決すると」

リディアナの手が止まる。

数秒の沈黙のあと、彼女はゆっくり顔を上げた。

「……本気で?」

「どうやら」

マリアベルがさすがに眉を寄せた。

「夢見がちにもほどがございます」

「いえ」

リディアナはかすかに首を振った。

「ある意味では、よく分かっているのかもしれないわ」

「どういうことでしょう」

「だって今のあの子には、他に打開策がないもの」

社交界は冷たい。

王宮は招かない。

継母は大丈夫と言うだけで、何も決められない。

なら最後に頼る先は、原因を作った張本人しかない。

王太子が自分で来て、堂々と認めてくれればすべてひっくり返る。

たしかに、そう思いたくもなるだろう。

「けれど」

リディアナは文書の封を切りながら言った。

「それをあの方がなさるなら、まず私のところへ来るはずよ」

「……なるほど」

グラントが低く応じる。

それはそうだ。

王太子が本当に事態を収めようとするなら、義妹を迎えに行く前に、まず切り捨てた婚約者との整理をつけなければならない。

だが今のカイルには、その順番が分かっていない。

だから何も進まない。

その夜更け、本邸ではミレイユが窓辺に立っていた。

泣き疲れた顔のまま、けれど少しだけ期待の残る目をしている。

「きっと殿下は、お忙しいだけよね」

隣に座るヘレナへ向かって言う。

「そうよ」

ヘレナもまた、自分に言い聞かせるように頷いた。

「王宮が落ち着けば、きっと動いてくださるわ」

けれどその言葉には、昨日までの勢いがなかった。

二人とも少しずつ気づき始めているのだ。

王太子が選んだからといって、世界が自動的に整うわけではないと。

それでも、まだ認めきれない。

認めた瞬間、昨夜の勝利がまるごと幻になるからだ。

同じ頃、王宮ではカイルが苛立ちのまま酒杯を傾けていた。

書類は見ない。

会計係は追い返した。

王妃とは顔を合わせたくない。

そうして一人で機嫌を悪くしている。

それでも心のどこかで、まだ自分は選ぶ側だと思っていた。

リディアナを捨てたのは自分。

ミレイユを選んだのも自分。

だから、どちらをどう扱うかも、最後は自分が決めるのだと。

あまりに幼く、あまりに愚かな思い上がりだった。

だが、その思い上がりこそが、彼をもっと深く沈めていく。

別邸では、リディアナが最後の封書を読み終えていた。

窓の外はすっかり夜になっている。

灯りに照らされた紙の上で、文字だけが静かに並んでいた。

彼女はそれをたたみ、ゆっくりと息を吐く。

「殿下はまだ、自分が選ぶ側だと思っている」

誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

けれどその声には怒りより、冷えた確信があった。

「なら、思い知らせて差し上げましょう」

「選ぶのは、もうあの方ではないと」

その言葉は小さかった。

だが、静かな夜の中で、それは判決のように澄んで響いた。
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